2018年1月9日火曜日

1/7「家の主人が帰ってくる」マタイ24:44-51

                     みことば/2018,1,7(主日礼拝)  144
◎礼拝説教 マタイ福音書 24:44-51           日本キリスト教会 上田教会
『家の主人が帰ってくる』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
24:44 だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。45 主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。46 主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。47 よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。48 もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、49 その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、50 その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、51 彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。     (マタイ福音書 24:44-51)
                                               


  大きな大きな、とっても大きな一軒の家があり、大勢の召し使いたちが一緒に暮らしています。その家には、小さな小部屋がたくさんあって細々区切られていたりする。それでも、なんと地球1個を丸ごと包み込むほどの1つの大きな大きな家です。また、さまざまな生き物たちがその1つの家に住んでいます。彼らは皆、その家のただお独りの主人に仕える召し使い同士である。しかも44節で「思いがけないときに人の子が来る」と言われたので、救い主イエス・キリストこそがその家の主人であるとはっきり分かります。これがこの世界全体と私たち全員を包む『神の真実・神の現実』である、と聖書は語りだします(創世記1:26,28「支配せよ。従わせよ」,コリント手紙(1)4:1-5「管理人」,コロサイ手紙4:1「天に主人」,マタイ福音書11:28-「わたしの軛を負え、学べ」,20:25-28「しもべになり、仕えよ」,そして本箇所)。しかもこの家の主人は思いがけないときに帰ってくるから、ちゃんと準備をしていなさい。主人がいつ帰ってきても困らないように、いいえ、むしろ「お待ちしていましたよ~っ。ああ嬉しい」と大喜びでお迎えできるように、あなたは暮らしていなさい。――ここまでは単純素朴で、とても分かりやすい。
  45-51節をもう一度読みましょう;「主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう」。いかがでしょう。この自分も主人の召し使いの1人であることを思い出しましたか。――それなら、よかった。恥ずかしく、またとても申し訳ないことですが、実は、僕もたびたび忘れていました。それでずいぶん的外れなことをしたり、他の召し使いたちを困らせたり、いじめたり、苦しめたりしてしまいました。その家に住む皆が、ただお独りの主人に仕える召し使いです。召し使いたちの中に、また彼らの上に、多くの責任を任せられた管理人が立てられていました。管理人でもある召し使いです。思い起こしてみてください。それぞれの小さなグループの中で、ちょっとした役割や責任や権限を与えられている小さなリーダーたちがいますね。幼稚園、保育園の小さな園児たちの中にも、小中学校、高校にも、地域にも、職場にもキリスト教会にも、それぞれの組織の中程に小さなリーダー、中くらいのリーダー、やや大き目のリーダーなどが立てられ、上の方に取締役員会や社長や会長などがいるかも知れません。国家にも総理大臣や幹事長などもいるでしょう。そして、それぞれの家にお父さん、お母さんがいます。その彼らもやっぱりただお独りの主人に仕える召し使いであり、召使たちの中で、彼らの上に立てられた管理人です(ローマ手紙13:1,コリント手紙(1)4:1-2注意しておきますけど、教会のことは教会のこと、世の中のことは世の中のこと、自分の家の中のことは家の中だけのことなどと、ここに区別や分け隔てを持ち込んではいけません。そうでないと、すっかり分からなくなってしまいます。キリスト教会の中でも、一件の家の中でも、また社会の様々な組織の中でも、いつも同じただお独りの絶対的な唯一の主人がおられます。主なる神さまが。私たちは皆、その主人に仕えているしもべ同士です。なぜ? なぜなら私どもは、どこで何をしていてもクリスチャンだからです。いつでも、どこで何をしているときにも、天におられますご主人さまにお仕えしながら、そうやって一日一日を暮らしているからです(コロサイ手紙3:22-4:1参照)
  「あなたがたにも主が天にいますことが分かっているのだから。そうでしたね?」と釘を刺されました。また、「どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである」(コロサイ手紙4:1,ルカ福音書16:13)と。天におられます主人に仕えるか、あるいは別の主人に仕えるかどちらかだ、とはっきり告げられています。もし、あの主人に仕えるのでないなら、「自分の腹の思い」を主人とし、罪を主人とする他ないと告げられています(ローマ手紙6:15-18参照)。どの主人を選ぶのか、どの主人に仕えるのか、このことをよくよく心に留めつづけねばなりません。どうしてかというと、せっかく天の主人に仕えはじめたはずだったのに、気がつくと、別の主人の言いなりにされてしまうことが度々起こったからです。「だって、○○さんがこう仰るので、だから私は」などと。「虫が好く好かない。なんとなく気が進まないとか、進むとか。シャクに障る、障らない。だからついつい」などと。それは、目の前の誰かさんや自分自身の腹の虫やシャクという、腹の中の腹の思いを自分のご主人さまとしてしまっている(ローマ手紙16:18,ピリピ手紙3:19参照)。だからこそ天の主人に対して誠実に仕えて生きているはずのクリスチャンに向かってわざわざ釘を刺されました。「あなたがたにも主が天にいますことが分かっているのだから。そうでしたね? どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるのだから」と。生活のために、いくつかの職場で掛け持ちのアルバイトをしている人もいます。何時から何時まではこの会社で働いてこの主人に仕えて、その後、何時から何時までは別の職場で別の主人に仕えて。それは結構ですが、信仰をもって生きることに関して、あの主人とこの主人と、それからまた別の主人ってわけにはいきません。どこの誰にとっても主人はただ1人。もう1度読みましょう。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。例外はない。
  私たちも、また他の誰も彼もが召し使いである。天の主人に仕えて働いていることを知っている者もいれば、知らない者もおり、またいつの間にかすっかり忘れてしまっている召し使いもいるけれど。じゃあこの自分自身はこの物語の中でどういう役割を与えられているのか、自分自身は、この家の中でいったい誰なのか。もうお分かりですね。私たち一人一人はそれぞれ仲間の召し使いたちの中に、また彼らの上に、果たすべき責任と役割を与えられて立てられています。主人の莫大な財産を委ねられてもいます。主人がどんな主人なのか、その主人の願いや思いをよくよく知らされてもいます。多くのものを与えられた召し使い。管理人でもある召し使い。それが私たちです。なぜ? クリスチャンだからというだけではなく。ずいぶん長く生きてきたからです。具体的な責任や役割も委ねられているからです。例えば夫婦であることの互への責任や役割があり、父親、母親であることの責任と役割が私共にはあり、それぞれの職場でも、地域社会でも、この国に対しても、周囲に住む人々に対しても、私たちは大きな責任と役割をゆだねられた管理人たちです。連れ合いと接するときも、子供たちや年老いた親の世話をするときにも、地域社会でもいつもの職場でも、どこで何をしているときにも天の主人に対する忠実こそが私たちには求められています(コロサイ手紙4:1,コリント手紙(1)4:3-5)

              ◇

  私たちの役割を確認しておきましょう。ぜひともすべきことがあり、また、してはいけないこともある。45-50節;「主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、もしそうなら」。管理人として立てられていることの第一の役割は食べ物を皆に公平に配ることでした。主イエスが教えてくださった主の祈りの第4の願い、『我らの日用の糧を今日も与えたまえ』を心に刻んでいる私共です。生きるために必要な糧を神さまが与えてくださる。だからこそ何の不足もなく、安らかに満たされて生きている。感謝し、信頼し、期待を寄せて神さまから1日分ずついただく。そのとき、『わたしの日用の糧』ではなくて、『わたしたちの日用の糧』をと願い求めさせられたのでした。願い求めるべき、また互いに配慮すべき兄弟や隣人たちが私たちの傍らにいます。けれどなお、私たちは度々ワガママ勝手になりました。「自分さえ良ければそれでいい」と小さく閉じこもって、心を狭く貧しくしてしまいました。父親母親として、あなたもわが子に真剣な顔をして厳しい口調で語りかけたことが2回や3回はあるでしょう。親のような神さまです。自分の子供である私たちをきびしく戒めなければならない場合は度々ありました。若い頃や子供だった頃に私たちは、親の戒めをしばしば軽んじました。たびたび、軽々しく聞き流してしまいまいました。そのおかげで仲間の召し使いたちが殴られたり蹴られたり、踏みつけにされたり、粗末な扱いを受けて片隅で惨めな思いを噛み締めるようであれば、親であり主人である神さまの憐れみの心が台無しです。あなたを大事に思って憐れむ神さまは、同じく変わらず、あなたの兄弟姉妹や家族や隣人たちをも慈しみ、あなたの見知らぬ人々をさえ深く憐れむからです。
  この箇所全体を振り返ってみますと、神さまからの律法こそが改めて差し出されていることに気づかされます。『神さまを愛すること』と『仲間たちを愛し、互いに尊び合って、その世話を誠実に行うこと』とは一組のこととして命じられます(マタイ22:34-40。仲間たちに時間どうりに食事を与えること。そのために、家の主人の全財産の管理という大きな重い責任さえも委ねられました。けれど、あるしもべたちは愚かになり、悪いものに成り下がってしまいました。よくよく考えめぐらせてみるべきなのは、この管理人でもある召し使いはクリスチャンであり、またすべての18歳以上の大人たちであるということです。多くのものを与えられ、仲間の召し使いたちの間に、彼らの上に立てられた管理人。私たちは主人に対して忠実に賢く生きることもでき、あるいは逆に、不忠実に愚かに生きることもできます。――考えてみましょう。なぜ、あの彼は自分勝手になり、不忠実になり、愚かに成り下がってしまったのでしょうか。なぜ、仲間の大切な下男や女中を殴ったり、蹴ったりし、彼らが腹を空かせているのを横目で見ながら、自分たちだけ食べたり飲んだりできたのでしょう。そういう仲間の管理人を黙って見ているだけで、「悪いことだから止めなさい。ご主人様に申し訳ないしね」と、なぜ忠告できなかったでしょうか。もし自分で何一つ手出しをしなくたって、黙って眺めるだけで見過ごしにしてしまったならば、目の前の悪者たちと同じだけ私たちもとても悪い。子供たちや大人の職場でのいじめの場面も同じです。管理人として立てられ、主人から「よろしく頼むよ」と任された最初の数日は、数ヶ月、2、3年くらいは、まあまあ忠実に働いたかも知れません。時間どおりに公平に食べ物を分配し、心配りもし、互いに助けたり助けられたり、支えたり支えられたりし合って暮らしていたかも知れません。そのうちに、天に主人がいることをうっかり忘れてしまいました。その主人がきっと必ず帰ってくることも忘れてしまいました。まるで自分や他の誰彼が主人や殿様であるかのように勘違いしました。『天に主人がおられる。その主人はきっと必ずこの家に帰ってくる。もしかしたら明日か明後日にでも』;これだけは、二度と決して忘れてはなりません。もし万一忘れてしまうならば、ここに書いてある通りに私たちも振る舞いはじめるでしょう。よくよく覚えていさえすれば、良い働きをすることができるでしょう。家の者たちに食べ物を配ることが、この私たちにもできるでしょう。時間どおりに公平に、区別も分け隔てもせず、天の主人への感謝と忠実をもって1日また1日と嬉しく働くこともできるでしょう。その食べ物は、『天からの憐れみの食べ物』です。皆で食べたり飲んだりし、備えのない者には分けてあげることができ、いっしょになって主を喜び祝うこともできるでしょう。それを、こんな私たちが配らせていただけるなんて。なんて素敵なことでしょう。「主われを愛す」というあの子供の歌が歌う通りに、「わたしの主人でありボスであるイエスよ、私の心も行いも、口から出る何気ない言葉もすっかり清くしてください。自分勝手でワガママで臆病でナマズルイ私ですけれど、こんな私にも良い働きをなさせてください」(♪主われを愛す,461)。この私にも、良い働きをなさせてください。なぜそう願っているのか。必ずさせてくださると知っているし、信じてもいるからです。よい働きをぜひしたいからです。『善かつ忠なるしもべよ、よくやった。私も嬉しいよ』(マタイ福音書25:23参照)と、この天の主人に私自身のためにも、ぜひ大喜びに喜んでいただきたいからです。