2017年6月20日火曜日

6/18「誰がいちばん偉いか病」マタイ18:1-5

                            みことば/2017,6,18(主日礼拝)  116
◎礼拝説教 マタイ福音書 18:1-5                        日本キリスト教会 上田教会
『誰がいちばん偉いか病』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

18:1 そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。2 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、3 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。4 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。5 また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。  (マタイ福音書 18:1-5)
                                               

 
「天国では」と弟子たちが問いかけています。天国、あるいは神の国とも言います。神が王さまとして力を発揮し、そこに住む者たち皆が安心して嬉しく暮らしていけるようによくよく心を配って、ちゃんと働いて治めておられる領域であり、領土です。救い主イエスがお働きをはじめたとき、「時は満ちた、神の国は近づいた」と仰り、また弟子たちに「神の国はあなたがたの只中にある」(マルコ1:15,ルカ11:20,17:21と宣言なさったのはこのことです。天と地のすべて一切の権威を御父から委ねられた王の中の王として、救い主がこの地上に降りて来られ、力を発揮し、働きはじめた。だから神の国は近づき、すでに私たちの只中にある。するとすでに、世界中のあらゆる場所が天国であり、神の国であるはずです。それでもなお、3節で告げられたとおり、天国(=神の国)に入ることがゆるされる者と、入り損なってしまう者がある。どういうことでしょう? それは、聖晩餐のパンと杯の秘密とよく似ています。神を信じる目と心でなければ、パンと杯を『主イエスの体と血』として受け取ることも味わうこともできない。同じように、神が私たちの只中ですでに力を十分に発揮し、世界中を治めておられるとしてもなお、その働きを知ることも触れて確かめることも、恵みと平和をそこから受け取って喜びと感謝にあふれることも、神を信じる目と心でなければ誰にも出来ません。ここも、またどこもかしこもすでに天国だとしてもなお、そこに入り損ねつづける者たちもいるのです。
  さて、「誰が一番偉いだろう。素晴らしい立派だと人から誉められたい。皆から認められたい。賢く立派な大きな私になりたい」。それがこの世の多くの人々が望んだことでした。あなたにとっても、やっぱりそれが望みでしょうか? どうでしょう。私たちは洗礼を受け、キリスト者とされました。それはとても幸いなことでした。神の子供たちの一人とされ、一回一回の礼拝に連なることをゆるされ、祈ることを教えられ、聖書の言葉に聞き従って生きることができ、信仰の兄弟姉妹たちを贈り与えられ、様々な恵みの手段をもって養われ、生かされてきました。「すべての人々の中で最も祝福されたものたちの中の一人だ、もちろんこの私もそうだ」と私たちはかみしめることが出来ます。けれどここで改めて、主イエスご自身から問われています。「ところで、あなたは心を入れ替えて子供のようになったのか? 自分を低くすることを、ついに習い覚えたのか」(3-4節,ピリピ2:3-5,ローマ12:10)と。『だれが一番えらいか病症候群』。聖書の中にも外にも、この上田界隈にも佐久や小諸や丸子、真田町や長野市あたりにも、この病気にかかった人々は大勢います(創世記4:1-16,4:19-24,9:18-28,11:1-9,12:10-,20:1-,26:1-,37:1-11,出エジプト3:11-4:13,32:1-6,列王記上12:25-33,マタイ福音書20:1-16,ルカ福音書10:38-,15:25-32,マルコ9:30-,コリント(1)1:11-13, 26-31, 3:3-9, 4:6-。例えば、白雪姫の義理の母親のことをご存知でしょうか。そうそう、この病気にかかった人は誰でも不思議な鏡を持っています。もちろん、そのお妃も鏡を持っていました。で、鏡の前に立って、そこに写る自分の姿を眺めながら、こう質問します。この病気にかかった人たちが誰でも尋ねてみるように、です。「壁にかかった鏡や鏡。国一番の美人は誰じゃ?」。「ああ、お妃さま。あなたこそ国一番のご器量よし」。朝も昼も晩も、お妃は鏡に問いかけ、ぜひ聞きたかった答えを聞いて満足します。けれどついに、鏡は聞きたくなかった答えを言い始めます。「お妃さま、実は。まことに申し上げにくいことなんですけれども、……それより白雪姫は千倍も万倍も美しい」。これを聞いたお妃はたいへん驚き、妬ましさのあまり、黄色くなったり青くなったりしました。それからというもの、おきさきは白雪姫を見るたびに、憎らしくて憎らしくて、はらわたが煮えくり返るような気がしました。そして、この妬ましさや悔しさは、雑草がはびこるように心の中で伸び広がり、お妃は、昼も夜も、心の休まる時がなくなりました(「子どもに語るグリムの昔話2」こぐま社)例の病気にかかったお妃は、間違った治療法を選んでしまいました。たとえ白雪姫を毒殺し、うまく葬り去っても、やがてきっと第二第三の白雪姫たちが現れることでしょう。それどころか、もっともっと美しく器量のよい眩いばかりの人々が100200人と、誇らしげに大挙してやってくる日が来ます。しかもあの彼女もこの私たちも年を取って、誰でもおじいさんおばあさんになります。得意なことや自慢に思っていたことが一つ、また一つと出来なくなります。誰かに何かをしてあげることよりも、してもらうことの方がだんだんと多くなります。聖書は、一つの治療法を提案しつづけます。《神の憐みを受け取る。そして喜び、感謝する》という提案です。神さまがどんなに気前の良い神さまであり、あの救い主が私たちのために何を成し遂げてくださったのかを、思い起こすことです。兄弟たち。自分が神さまの恵みのもとへと招かれたときのことを思い起こしてみなさい。それから、どんなに慈しみ深い御計らいを受け取りつづけてきたのかを。
 「へりくだった心をもって互に人を自分より優れた者としなさい」(ローマ12:10, ピリピ2:3)と聖書は私たちを戒めます。一方が他方を尊敬し、重んじ、ということではなく。互いに相手を、あの人もこの人も互いに相手を。つまりは誰に対しても自分よりも優れた者とみなし、そのように扱えと。兄弟たち。一人の子供の手を取って、私たちの真ん中に立たせ、主イエスは仰いました。「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」(マルコ9:37)。そして勿論、知恵や賢さの少ない小さな一人の人を主イエスの名のために受け入れる者は。無学で無力で無に等しいと思われている一人の者を、なお主イエスの名のために受け入れる者は。身分の卑しい者や見下げられている者を、けれどなお主イエスの名のために受け入れる者は。なるほど。他者をこのように尊び、このように受け入れる人は、それだけではなく、貧しく小さな自分自身をもそのように受け入れる者とされるでしょう。たとえ私たちに知恵や賢さが少ないとしても。たとえ私たちが他の誰彼から「無学で無力で、無に等しい。つまらない」と思われるときにも。たとえ私たちが「貧しい。いたらない。当てにならない」などと見下げられるときにも、「主イエスがこんな私をさえ受け入れ、迎え入れてくださっている」と思い返し、そこで心を鎮め、晴れ晴れとして胸を張るならば。そのとき、ついに主の恵みは私たちのために十分となります(コリント(2)12:9)。その時ついに、「誇る者は主を誇れ」と書いてあることが私たちの只中に実現しています。

            ◇

  兄弟たち。神が人となられました。しかも、理想的で上等な人間にではなく、生身の、ごく普通の人間にです。あがめられ、もてはやされる、ご立派な偉い人間にではなく、軽蔑され、見捨てられ、身をかがめる低く小さな人間に(ピリピ手紙2:5-11,ヘブル手紙2:17-18,4:15-16。それは、とんでもないことです。あるはずのない、あってはならないはずのことが起りました。私たちの主、救い主イエス・キリストは固執なさらなかったのです。自分で自分を無になさったのです。無にされたのではなく、自分から進んで「ぜひそうしたい」と、しもべの身分を選び取ってくださいました。無理矢理に嫌々渋々されたのではなく、「はい。喜んで」と自分で自分の身を屈めました。しかも徹底して身を屈めつくし、十字架の死に至るまで、御父への従順を貫き通してくださいました。なぜ神の独り子は、その低さと貧しさを自ら選び取ってくださったのか。何のために、人間であることの弱さと惨めさを味わいつくしてくださったのでしょう。ここにいる私たちは、知らされています。よくよく知らされています。兄弟たち。それは、「罪人を救うため」(テモテ(1)1:15)でした。善良な人や高潔で清らかな人々を救うことなら簡単でした。罪人を救うとしても、ほどほどの罪人やそこそこの罪人を救うことなら、まだたやすいことでした。けれども、極めつけの罪人をさえ救う必要があったのです。罪人の中の罪人を、その飛びっきりの頭であり最たる極悪人をさえ、ぜひとも救い出したいと神は願ったのです。極めつけの罪人。それがこの私であり、あなたです。
  子供たちは、必ずしも素直だとか純粋で無垢だというわけではありません。それは、弱く小さく、とても危うい存在です。わが身を守る手立てもなく、もし独りぼっちで捨て置かれるならば、すぐにも死んでしまうほかない、はかなく脆い生命です。そうか、それならば小さな子供ばかりではなく私たち大人も一緒です。おじいさんやおばあさんも皆同じです。それぞれに弱さと危うさを抱えて生きていたのでした。背伸びをしてみせても空威張りをして虚勢を張っても、それでも、誰でも本当はとても心細いのです。自分を守ってくれるものを必要とし、しっかりした支えを必要としています。だからこそ愛情と慈しみをたっぷりと注がれ、心強く支えられて、そこでようやくすくすくと育っていくはずの生命です。
 神の国とは、神さまご自身の憐れみと恵みの王国です。もし、その国に入り、そこで幸いに暮らしたいと願うなら、その者たちは自分自身の力や才覚や賢さを頼りとし、それらを誇ろうとすることを止めて、身勝手さを手放さねばなりません。身を低く屈め、神の憐れみを受けて御国に入れていただくことを願い求めねばなりません。「幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない」;するとそれは、ただ小さくて無力で弱くて危うい存在であるだけではなく、精一杯に十分に愛情を注がれ受け取り、養い育てられてきた、そのことを覚えている幼な子である必要があります。ほどほどの力や才覚や賢さなどよりも、注がれ受け取ってきた愛情こそが千倍も万倍も私の宝物だと。そうでなければ、物寂しいその幼な子は臆病で生ズルくて僻みっぽくてイジケた、ただただ生臭いことばかりを思い煩いつづける幼子でありつづけてしまうかも知れないからです。「幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない」、その最も大きな秘密は、注がれつづけ受け取ってきた愛情をよく覚えている幼な子です。わが子を愛して止まない親の心を覚えている幼な子です。それならば、たとえ708090歳になった後でさえ、『幸いな幼な子である自分』をついにとうとう思い出して、晴れ晴れワクワクしながら、天国に入れていただくことができるかもしれません。しかも、それが主イエスの弟子であることの中心的な中身でありつづけます。なぜなら主イエスの弟子たちよ。自分自身の罪深さをゆるしていただいて神の国に入るには、ただただ神の憐れみによる他なかったからです(ローマ手紙3:21-27参照)。救い主イエス・キリスト。ほかの誰によっても、救いはない。私たちを救うことができる名は、天下に、この名のほか人間には与えられていない(使徒4:12)。そして、このお独りの方、救い主イエスがちゃんと与えられております。もちろんこの私にも、あなたにも。主なる神さまを心から愛し、敬い、尊ぶこと。これこそ最も重要な第一の掟です。第二の掟は、隣人を自分自身のように愛し、尊ぶこと(マタイ22:34-参照)。なにしろ第一の掟。その後で、それに続いて、第二の掟。この優先順位こそ大事です。けれどその区別や順序がいつの間にか紛れて、あやふやにされました。「主よ主よ」と口では言いながら、主ではない他様々なモノを取っかえ引っ変え主人としている私たちです。信仰も何もかも、あまりに人間中心なものにスリ替えられていきました。心が鈍くなると、その証拠に、「誰が一番偉いだろうか。二番目は、三番目は。だれが一番働きが少なくて、役立たずだろうか。二番目は、三番目は」と眺め渡したくなります。神さまのことを忘れ、神さまこそが一番偉くて、よくよく働いてくださることも、分からなくなったからです。心細くなったり、惨めな恐ろしい気持ちになるときも同じです。思い煩うあまりにすっかり心が鈍くされてしまいました。天に主人がおられることをすっかり忘れ、多分、ほとんどもう信じてさえいない。それなら心細いのも惨めなのも恐ろしくて仕方がないもの当たり前です。目を覚ましましょう。心淋しい兄弟たち。よくよく知るべきことは、神ご自身が身を低く屈めてくださったことです。救い主イエスこそが自分に固執しようとなさらず、低く下り、かえって自分を無にし、しもべの身分をとり、十字架の死に至るまで天の御父への従順を貫きとおしてくださった(ピリピ手紙2:6-)ことを。そのへりくだりの神こそが私たちの唯一の主人であることを。

 私たちの救い主は、「仕えられるためではなく、仕えるために、また多くの人のあがないとして自分の命を与えるために」(マタイ福音書20:28)来てくださったのです。聖書66巻は「仕えなさい」「身を低く屈めて、へりくだりなさい」「慎みなさい」と戒めつづけてきただけではありません。何よりまず私たちがよくよく知るべきことは、神ご自身が身を低く屈めてくださったことです。救い主こそが自分に固執しようとなさらず、低く下り、かえって自分を無にし、しもべの身分をとり、十字架の死に至るまでご自分を献げてくださった(ピリピ手紙2:6-)ことを。あなたや私を、この『だれが一番えらいか』病から救い出して、ついにとうとう自由にするために。いったいなぜ《後ろの、下っ端の、仕えるしもべの場所》に身を置きなさいと命じられるのか? いったいなぜ、自分を賢いとか、案外に物の道理が分かっているとか、優れているなどとうぬぼれてはならないと戒められるのか。なぜ、低い場所と、へりくだった低い心へと誘われつづけるのか。へりくだってくださった、低い心の神さまを信じているからです。柔和で謙遜な救い主とすでに出会っているからです(マタイ福音書11:25-30)。そこが、福音を福音として受け止め、慈しみの神と出会うための、いつもの待ち合わせ場所だからです。