2017年6月12日月曜日

6/11「彼らをつまずかせないために」マタイ17:24-27,コリントⅠ6:12-20

みことば/2017,6,11(主日礼拝)   日本キリスト教会 上田教会   115
◎礼拝説教 マタイ福音書 17:24-27,コリント手紙(1) 6:12-20  
『彼らをつまずかせないために』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
17:24 彼らがカペナウムにきたとき、宮の納入金を集める人たちがペテロのところにきて言った、「あなたがたの先生は宮の納入金を納めないのか」。25 ペテロは「納めておられます」と言った。そして彼が家にはいると、イエスから先に話しかけて言われた、「シモン、あなたはどう思うか。この世の王たちは税や貢をだれから取るのか。自分の子からか、それとも、ほかの人たちからか」。26 ペテロが「ほかの人たちからです」と答えると、イエスは言われた、「それでは、子は納めなくてもよいわけである。27 しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」。    (マタイ福音書 13:24-30,36-43)
                                               
6:12 すべてのことは、わたしに許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは、わたしに許されている。しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。13 食物は腹のため、腹は食物のためである。しかし神は、それもこれも滅ぼすであろう。からだは不品行のためではなく、主のためであり、主はからだのためである。14 そして、神は主をよみがえらせたが、その力で、わたしたちをもよみがえらせて下さるであろう。15 あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。16 それとも、遊女につく者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。17 しかし主につく者は、主と一つの霊になるのである。18 不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。19 あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。20 あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。        (コリント手紙(1) 6:12-20)



  24-26節、そして27節。二つの、互いに相反するかのように見える道理が並べて語られています。まず24-26節。救い主イエスのがどういうお方なのか、そのご本質について。神殿の納入金を救い主イエスは収める義務はない、とご自身が主張しています。なぜなら、神殿は父なる神の家であり、神ご自身の所有物であり、だから天の御父の独り子である救い主イエスには、納入金を収める義務はない。そのとおり。
  次に27節。「納入金を収める義務はまったくないけれど、収める」と救い主イエスは仰います。税金を集める人たちが困るだろうし、弟子たちも「師匠が収めないなら、その弟子である私たちももちろん収めなくていいはずだ」などと勘違いしてしまうかもしれません。「住民税も固定資産税も消費税も電気代水道代も何もかも払わない、クリスチャンは何者にも膝を屈めない自由な存在なのだから」などと乱暴な屁理屈を振り回すようになるかもしれません。それでは多くの者たちが福音と救いの中身をすっかり誤解してしまうかも知れないからです。税金を集める者たちと、主イエスの弟子たち皆のために、主イエスは「収める義務も責任も自分にはまったくないが、収めよう」と。今日は、クリスチャンの自由について考え巡らせましょう――

  救い主イエスが十字架について殺され、葬られ、よみがえったことは、私たちの信仰と毎日毎日の生活とにどんな良いことや祝福や恵みをもたらすのでしょう。神殿での祭儀儀式と犠牲の献げものは、救い主イエスご自身が十字架の上で我が身を献げたことによってすっかり完全に成し遂げられ、それによって主イエスの弟子である私たちは罪の奴隷状態から解放されました。主イエスがご自身の犠牲の死によって私たちの罪の代価を私たちの代わりに支払ってくださった。それはいったいどういうことだったのか、なんのためだったのか。そのようにして罪の奴隷状態から神の恵みのもとへと買い戻していただいた私たちは、では、どう生きることができるのか。そのことを、私たちはすっかり知らされてしまいました。
  びっくり仰天です。「自分がしたいことをし、したくないことをしない、思いのままに好き勝手に生きてゆく、それが自由だ」と思い込んでいました。もちろん、それも自由です。けれど、つまらない自由ですし、自分自身をも他の誰をも幸せにしてくれない虚しい自由です。むしろそれは、死と滅びへと向かう、罪に縛り付けられた、ただただ惨めなだけの奴隷状態でした。自分中心の、神の御心に逆らいつづける、罪の奴隷でした。けれど、それは虚しいだけだと教えられ、その奴隷状態から自由にしてくださるために主イエスは死んでよみがってくださったのだと知らされました。聖書は証言します;「それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、罪から解放され、義の僕となった」(ローマ手紙 6:15-18と。正しいことや良いことを、他の人々のために有益なことを、他の人々を助けたり支えたりすることを、ほんの少し前までは、私たちはすることができませんでした。けれど今は、できるのです。神さまが、こんな私たちにも、良いことや正しいことをさせてくださるからです。
  キリスト教会の中にもクリスチャンの中にも、「自由だ。自由だ。何をしてもいいし、何もしなくてもいい。思いのままに自由気ままに生きてゆくし、自分こそが自分のご主人さまなのだから」と言い張る者たちがありつづけます。これまでもそうでした。これからもそうでしょう。それで、コリント手紙(1)6:12-20をご一緒に読みました。この12節、「すべてのことは、わたしに許されている。すべてのことは、わたしに許されている」。実際に、当時のコリント教会に、そういうことを言い張りつづける人々がいて、兄弟たちを惑わしつづけていました。その無責任で不届きな、ただただわがまま勝手なだけの人々の口ぶりを思い起こしながら、主の弟子は、その不届き者たちとの語り合いを自分の頭の中で再現してみせています。「そうだろうか。いいや、違うんじゃないか」と。
「すべてのことは、わたしに許されている」と不届き者たちは言い張ります。
「しかし、すべてのことが益になるわけではない」と、主の弟子は反論します。
「すべてのことは、わたしに許されている」また、不届き者たちは言い張りつづけます。主の弟子はなお反論します、
「しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。食物は腹のため、腹は食物のためである。しかし神は、それもこれも滅ぼすであろう。からだは不品行のためではなく、主のためであり、主はからだのためである。そして、神は主をよみがえらせたが、その力で、わたしたちをもよみがえらせて下さるであろう。あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない」と。
 同じコリント手紙(1)10:23-24でも、まったく同じです。「すべてのことは許されている」と不届き者たちは言い張ります。
「しかし、すべてのことが益になるわけではない」と、主の弟子は反論します。
「すべてのことは許されている」また、不届き者たちは言い張りつづけます。主の弟子はなお反論します、
「しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである」と。
  福音の教えを自分勝手に誤解して、屁理屈を並べ立てる者たちがコリント教会にいました。自己中心の、思いのままに好き勝手にふるまい続けようとする、偽りの自由主義者たちです。「私たちすべてのクリスチャンは神の恵みのもとへと解放された。だから今ではもう何をしてもいい。好き放題で思いのままだ。パウロ先生からそう教わった」と彼らは言い張ります。たぶらかされて、「そうかも知れない。ああ、そうだったのかあ」とフラフラしはじめる者たちも出てきました。困りました。それで、こういう手紙を書きました。
  生半可に中途半端に聞きかじって、『クリスチャンは自由だ。何をしても許されるし、誰に強制されることもない。したいことをすればいいし、したくないことはしなくていい』などと真面目な顔をして言う人々もいます。悪い先生に習ったのかも知れません。都合の良いところだけ聞きかじっているから、こういうことを言います。聖書の中に、よく似たことが確かに書いてあります。心を鎮めてよく読むと、全然違う正反対のことが。本当は、『罪と腹の思いに対しては自由で、その言いなりにされないで良い』と書いてあります。それは裏返せば、神の御心にだけ服従し、神さまにだけ仕え、神さまにだけ聞き従って生きることができる、という意味です(ローマ手紙 6:1-23,8:1-17,ガラテヤ手紙5:1-26。神さまにだけ聞き従って生きることができるので、それ以外の何者の言いなりにもされない。神さま以外の何に対しても、すっかり自由だ、という意味です。もし、そうではないなら、神の御心に従って生きることがいつまでたっても始まらないなら、ただただ自分自身の気分や、好き嫌いや、自分の脳みそと自分自身の腹の虫に従って生きてゆくなら、その人は神とは何の関係もない人でしょう。
 もう何年も前に、クリスチャンの友だちとこのことでお喋りしたことがありました。「ええっ。自分の気持ちや考えをすっかり引っ込めなくちゃならないなら、投げ捨ててしまわなければならないのなら、それじゃあ、私にはとてもとてもクリスチャンなど務まりませんよ。無理です。もう止めちゃおうかな」「いやいや、そうじゃなくてもいいですよ。すっかり引っ込めたり、全部丸ごと投げ捨てたりでなくたって、大丈夫です」「どういうこと? 自分の気分や好き嫌いや腹の虫があまりにも前に出すぎて、いつもいつも先頭に立っているんじゃ困ります。ほんの一歩二歩、少~しだけ後ろに回すことはできますか」「ほんの一歩二歩、少~しだけ?」「はい」「そうねえ。それじゃあ、なんとかなるかも」。「サタンよ引き下がれ。後ろへ回れ」(マタイ16:23と主イエスから指導を受けています。サタンと日頃からあまりに慣れ親しんできた私たちですから、いきなり自分の気持ちや考えをすっかり引っ込め、まるごと全部を投げ捨てるのは難しいかも。まず、ほんの一歩二歩、ほんの少~しだけ腹の虫を後ろに回すことくらいなら、し始めることができるかも知れません。どうでしょう? その人々の益になるかどうか、と主の弟子は問いただしています。その人と周囲の人々が神の御心にかなって幸いに生きることにつながるのかどうか。その人と自分たちの徳を建てあげてゆくことになるのかどうかと。これが、虚しい自由主義者たちに対する第一の歯止めです。第二には、「わたしは何ものにも支配されない」という歯止めです。「自由だ。自由だ」と言い張りながら、自分の腹の思い、自分の腹の虫の奴隷にされているじゃないか。罪に支配され、虚しい自己主張の思いにがんじがらめに縛りつけられているじゃないかと。
ただただ自由な人間など一人もいません。もし仮にいたとしても、その人はあまりに悲惨で、ただただ虚しく惨めです。しかも、何かに支配され、何かの奴隷にされて言いなりに従わせられてしまいやすい私たちです。糸の切れた凧のような、根無し草のような、どこにも行くあてのない、ただただ虚しいだけの、無責任で物寂しい独りぼっちの自由を、あなたは望んでいたのですか? 『クリスチャンは自由だ』と聖書が高らかに歌っているのは、神さまという唯一無二の、とてもよい主人を見つけて、その主人にこそ仕えて生きると腹を据えているからです。だから、その主人以外の何者にも支配されない。屈服しない。言いなりにされない。好き放題に引き回され、虚しく利用されることもない。「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった」と聖書は証言します。「すべての人の奴隷である以前に、何にも増して、もっぱら神ご自身の奴隷。神の御心にこそ従って生きる、とても幸いな晴れ晴れした奴隷になった」のです。また、それは、「自分自身も福音と救いにあずかるため」であり、「そうでなければ、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になり、福音からも救いからもこぼれ落ちてしまいかねない」(コリント手紙(1)9:19-27参照)からでもあります。あなたにも、それは大いに有りうるでしょう。ぼくもそうです。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になり、福音からも救いからもこぼれ落ちてしまいかねない。それで自分に、朝も昼も晩も、「危ない。危ない」と言い聞かせ言い聞かせしつづけています。それらのことを受け止めて、およそ500年前の一人の宗教改革者はこう説き明かしました。「クリスチャンとはいったい何者なのか。救い主イエス・キリストが獲得して、これに贈り与えてくださった自由とはどのようなものだろうか。これを土台のところからはっきりと分かるように、私は二つの命題をかかげてみたい。一つ、クリスチャンはすべての者の上に立つ自由な主人、王さまであって、誰にも屈服しないし、言いなりにもされない。一つ、クリスチャンはすべての者に仕えるしもべであって、誰にでも服従する」(『キリスト者の自由』Mルター,1520年)と。なぜでしょうか? どういうふうにでしょうか? なぜなら、「わたしたちがよくよく知らされ、習い覚えているとおりに、天に唯一の主人がおられるのだから。その主人にこそ仕え、聞き従い、朝も昼も晩も服従している私たちなのだから」(コロサイ手紙4:1参照)