2016年12月11日日曜日

12/11こども説教「救い主イエスに従う道」ルカ9:18-27

 12/11 こども説教 ルカ9:18-27
 『救い主イエスに従う道』

+上田駅前アピール(12/9『押しつけ人殺し、絶対反対。』
                      +駅前マイク活動無期限休止のお詫び


9:20 彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「神のキリストです」。21 イエスは彼らを戒め、この事をだれにも言うなと命じ、そして言われた、22 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」。23 それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。25 人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。  (ルカ福音書 9:20-25

  あの弟子たちと同じく、主イエスの弟子とされた私たちも、主イエスというお方がどういうかたで、何をしてくださるのかを、ちゃんと知っていなければなりません。そして私たち自身が、どんなふうに主イエスに従って生きてゆくのかということを。20節。主イエスから問われて、ペテロが答えました。「あなたこそ神のキリスト、救い主です」と。父なる神から遣わされた、神ご自身である救い主イエス。その救い主としての働きは、22節。主イエスはご自分のことを「人の子」とおっしゃっています。「人の子(=つまり私イエス)は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」。これが、救い主としてやり遂げなければならない主イエスの働きです。エルサレムの都に登ってゆく途中、主イエスは、何度も何度も繰り返して弟子たちにこのことを知らせつづけました。「私は、必ず多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえる」と。ご自分の死とよみがえりについての、最初の知らせです。23節以下。「それから、みんなの者に言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう』」。27節。少し分かりにくいですが、「神の国を見るまでは死を味わわない者がいる」とは、主イエスを信じ、救われて、復活の生命の約束を受け取っている者がいるということです。誰でも必ず死にますが、死んでそれで終わりではなく、主イエスを信じる者たちには幸いな命がそこからつづいていきます。
  救い主イエスは十字架につけられ、死んで葬られ、三日目によみがえり、そのようにして救いの御業を成し遂げます。救い主イエスに率いられて、弟子とされた私たちも同じ道筋をとおって新しい生命に生きる者たちとされます。つまり、古い罪の自分を十字架につけて殺していただき、葬り去っていただき、それと引換えのようにして、新しい生命に生きる者とされるのです(ローマ手紙6:1-18参照)24節は、少し分かりにくいですね。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう」。その前の23節でも、「自分を捨てて、わたしに従いなさい」と命じられています。捨てなければならない「自分。自分の命」と言われているのは、『自分の腹の虫。腹の思い』です。「これをしたい。したくない。気が向く。向かない」などと好き嫌いを言い立てつづけて、自分の思いどおりに生きていこうとするわがまま勝手な在り方です。それを聖書は、『古い罪の自分』『自分の腹の思い』(ローマ手紙6:6,16:18と言いました。素敵そうに見えていたそれらは、よくよく見るとつまらないゴミ屑のようなものでした。もし、それらの言いなりにされて毎日毎日を生きるなら、ちっとも主イエスに従っていることになりません。主イエスに従うことをそっちのけにして、自分が主人になりボスになり、ただただ自分の思いのままに生きているじゃないですか。それでは、神さまから受け取るはずの『新しい自分。新しい生命』をいつまでも受け取り損ねてしまう。どうしましょうか? したくてもしたくなくても、気が向いても向かなくても好きでも嫌いでも、なにしろ主イエスから『しなさい』と命じられることをし、『してはいけません』と禁じられていることをしないでおく。主イエスに従うとは、そういうことです。そのように生きて、この私たちも、自分自身の生命を得し、生命の大儲けをすることになると、はっきりと約束されています。








 上田駅前アピール(12/9
『押しつけ人殺し、絶対反対。』

 大手町1丁目の日本キリスト教会、上田教会の牧師、金田です。
 来週12日(月)から始まるそうです。ほんのひと握りの政治家や資本家たちのせいばかりではなく、この私たち自身に大きな責任があります。350人の陸上自衛隊員たちが、南スーダンへもどこへも出かけていって無駄に人を殺したり殺されたりし始める前に、とても悪い戦争法をなんとかして廃止しなければなりません。政治家と資本家たちと私たち国民一人一人は、はっきいりと目を覚まして、この自分たちが、とんでもない悪事の片棒を担いでおり、共犯者であることに、なんとしても気づかなければなりません。駆けつけ警護? いいえ、押し付け人殺しです。押し売り人殺しです。「殺したり殺されたりする職務に、自衛隊員が安心して打ち込めるように」と見舞金を6000万円から9000万円に引き上げると防衛省は判断したそうです。へえ、そうだったのかあ。殺したり殺されたりする職務中、死亡したり、重い障害を負ったり心が壊れてしまった場合に9000万円の見舞金をもらっても、1回24000円ずつの危険手当を受け取っても、それでいったい誰が安心して死んでいけるんですか。それで晴れ晴れして、気軽に人殺しができるんですか。9000万円の見舞金をもらって、それで妻や子供たちが「これで生活が楽になった。わあ嬉しい」と喜ぶんでしょうか。国会議員も私たち国民も、大喜びで拍手喝采したり万歳三唱したりするんですか。自衛隊員も一億国民も総活躍ですか、いいえ ただの大安売りじゃないですか。71年前とまったく同じです。大東亜共栄圏だのアジアの同胞のためだのが嘘っ八のデタラメだったように、これも平和貢献でもなんでもありません。放っておいていいんですか。知らんぷりしてていいんですか。いいわけないでしょ。言い訳たたないでしょ。無駄に使い捨てられようとする彼ら350人の自衛隊員一人一人に、私たちと同じくかけがえのない家族と人生があるからです。その犬死してゆく350人の中に、たまたま自分たちの息子や娘や孫たちが入っていなければ、この私たちは、それで安心して高みの見物をしてていいんですか。家族も親戚も友達も南スーダンに送り込まれなければそれでいいんですか。薄情者め~ この薄情者オ~。自分たちとは関係ない他人事ですか。なんて薄情で無責任なんですか、この私たちは。
しかも南スーダン方式の『人間をないがしろにし、粗末に扱い、踏みつけつづける』このやり方は、日本中あちこちでまかり通っています。日本中が人の住めない荒れ果てた不毛の土地になってしまう前に、手遅れになってしまう前に、とても危ないすべての原子力発電所を今すぐ止めましょう。米軍基地を押し付けられ、ないがしろにされつづける沖縄の同胞たちの怒りと苦しみに、私たちも目と心を向けましょう。日本で暮らす外国人労働者とその家族の生活と権利が十分に守られ、尊ばれる社会に、この国をならせましょう。もうすっかり忘れちゃったんでしょうけど、5年前の震災からの被害はまだまだ続いています。福島原発の事故はほんの少しも収束していません。毎日毎日、放射能の汚染水を海にジャブジャブ垂れ流しつづけ、とても危険な放射線危険区域に父さんも母さんも小学生も小さな子供たちも無理矢理に連れ戻されようとしています。それなのに政府も私たちも、まるで何もなかったかのように自分たちだけの満足と、自分たちだけの豊かさと、自分たちだけの自由をむさぼりつづけています。その片隅で貧しく暮らし、身を屈めさせられている多くの人々がいます。350人の自衛隊員たちにも、沖縄の人たちにも、とても危ない原子力発電所のすぐ傍らで生活する人々にも、外国人労働者たち一人一人にも、この私たちと同じくかけがえのない家族と、たった一回しかないつかの間の人生があるんですヨオ。それでも私たちは痛くも痒くもない。ほんの少しも心が痛まない。薄情者め~。この薄情者オ~。
  ♪自衛隊員たちを犬死させるな 自衛隊員と家族を泣かせるな戦争法制、絶対反対 押しつけ人殺し、絶対反対 押し売り人殺し絶対反対。反対反対、絶対反対   反対反対、絶対反対




     【補足】(インターネット)自衛隊「海外派遣」、私たちが刷り込まれてきた二つのウソゼロからわかるPKOの真実20年以上ずっと憲法違反』2016,2,13)伊勢崎 賢治(東京外国語大学教授)
 1. PKOに対する日本人の体感のズレ
刷り込み、というのは恐ろしい。連日、メディアの取材を受けているが、ほとんどの記者が、何のためらいもない。「自衛隊が送られるのはPKO(国連平和維持"活動")で、PKF(国連平和維持"")ではないんですから…云々」と。保守系メディアではなく、リベラル系のが、である。PKO(国連平和維持"活動")は、例えばある国で内戦がおこり、このまま放っておけない、国連としてみんなで何とかしなきゃ、ということで、安保理が全国連加盟国に参加を呼びかけ、その内戦に介入する活動の総称である。国連というのはUnited Nations "連合国")。第二次大戦の戦勝5大国(米露中英仏)が安保理常任理事国になり、日独伊のような不埒な侵略者を二度と出さないように、加盟国全ての「武力の行使」を統制しようとするシステムである。一加盟国の国民を脅かす侵略者が現れたら安保理の号令の下、そいつを全員で叩きのめす。これが「集団安全保障」という考え方だ。でも、「内戦」は一加盟国内の内輪揉めである。つまり、国民の安全を脅かすのは侵略者じゃなくて、その国内の反乱勢力。でも、放っておけない。どうするか? ここで編み出されたのがPKOである。国連憲章で軍事介入を規定するのは第七章の「強制措置」しかない。これは当事者の同意なくできる措置。つまり国連としての最終手段である。「内輪揉め」にこれを使うのは、ちょっと無理がある。なぜなら、内政不干渉の原則があるからだ。もし、国連に加盟したら干渉するもんね、ということだったら、国連創生期に加盟国を増やすことは困難だったろうし、そもそもチベット問題のように安保理常任理事国だって脛(すね)に傷をもっている。だから、内戦には、強制措置としての軍事介入ではなく、その内戦当事者の同意の上での軍事介入しかない。というわけで、PKOは、同意をベースとする平和的介入手段を謳う第六章との間をとって、苦し紛れに"六章半"と言われる。同意があろうがなかろうがPKOは軍事介入である。だから、Peace-Keeping Operation’。「作戦」なんである。もし国連として一加盟国の内輪揉めに入り込んで(それも武装して)、もし、その武力を使う羽目になったら、それも、使う相手がその政府だったら……。つまり、国連が、侵略者でもない一加盟国と戦争する羽目になったら……。でも、介入しなければならない。そのギリギリの選択がPKOという軍事作戦である。でも、日本ではこれを"活動"と訳した。なぜか。9条の国の自衛隊が参加するのが軍事作戦じゃ、困るからである。PKOに対する、歴代政府によって恣意的に作られた日本人の体感のズレは、まず、ここから始まる。
2.自衛隊はまぎれもなく「PKFの工兵部隊」として活動してきた
次にPKF(国連平和維持"")である。一つのPKOを、現場の人間は「ミッション」と呼ぶ。「ミッション・インポシブル」のミッションの感覚である。PKOミッションは、軍事部門であるPKFを中心に、大きく言って4つの部門からなる。
PKF(国連平和維持軍)
②国連軍事監視団
③国連文民警察
④民生部門
PKFは、文字通り「部隊」である。主体は戦闘を任務とする歩兵部隊。装甲車や戦車の機甲部隊がつくこともある。くわえて、どんなPKOミッションにも必ずある工兵部隊。こちらは軍事作戦に必須の戦略道路網、通信等のインフラの構築、維持が任務になる。PKOは軍事作戦であるから、PKFは、他の部門と比しても、人数的に突出して多い。1万人を超え、派遣国も20を超えるものもあり、安保理が任命する最高司令官の下、一つの統合司令部の”指揮下”に置かれるが、まあ、寄り合い所帯の多国籍軍である。はっきり言おう。歴代の自衛隊の施設部隊は、PKFの工兵部隊であり、現場では、ずっとその扱いであった。じゃなかったら、①~④のどこに入れ込むのか。自衛隊だけ、単独行動の特殊ゲリラ部隊か。同じPKOミッションの中でも、①のPKFと②③④には決定的な違いがある。PKFの単位は「国」。それ以外の部門は「個人」。当時の筆者のような④民生部門は当たり前だが、現役の軍人、警察官で構成される②国連軍事監視団、③国連文民警察は、「国連職員」として扱われる。つまり、個人として国連のペイロール(給与簿)に載り、給料が支払われる。これに対して①PKFは、単なる部隊の「数」として、国連が、各派遣国に、償還金を支払う。発展途上国にとっては、PKFは重要な外貨稼ぎの機会を提供してきた。発展途上国ではないが、日本政府にも、この国連償還金が支払われてきた。

3.自衛隊は「武力の行使」と一体化しない、という大ウソ
過日、数あるPKOミッションの中で、最も過酷な現場と言われるコンゴ民主共和国に行ってきた。南スーダンの隣である。PKFの最高司令官はブラジル陸軍のサントスクルズ中将。PKFトップを務めるのは2回目。ここの前の任地はハイチ。そう。自衛隊が派遣されていた。最前線の部隊を訪問する道中の立ち話で、「ハイチでは本当によくやってくれた」と自衛隊の勤勉さを称賛するサントスクルズに、「将軍。知ってる? 日本じゃ、自衛隊の指揮権は、東京にあるって言っていたんだよ」と言うと、「ざけんな」と即座の反応。本当に、ふざけるな、である。自衛隊はPKFであるだけでなく、PKFという多国籍軍としての「武力の行使」に"一体化"して活動する。当たり前である、一体化しなかったら、多国籍軍としてのPKFは成り立たない。しかし、歴代の政府は、自衛隊の活動は「武力の行使」と"一体化"しないという"いわゆる"一体化論(政府は外向けに英訳でthe theory of so-called "Ittaika with the use of force"とする)を編み出し、9条と抵触しないという言い訳としてきた。この一体化論の基礎となるのが、これもまたso-calledが付く「後方支援」「非戦闘地域」という、日本の法議論のためにつくられた、戦場における全く弾が飛んでこない仮想空間である。自衛隊派遣に反対するリベラル勢力も、特段の検証もなく無批判にこれを受け入れ、右・左の自衛隊論争の"土俵"を築いてきた。
厳密に見てみよう。PKFのような多国籍軍と、一国の軍隊の行動には、決定的な違いがある。言うまでもなく、軍隊とは、殺傷行為の如何が、人権・刑事の立場からではなく、軍規の立場から統制される職能集団である。通常、軍規・命令違反は、厳罰に処される。軍規、そして、その軍法会議の管轄権は、その軍だけに限られる。国連は、いまだ地球政府になりえていないから、国連軍法会議なるものは存在しない。多国籍軍の活動で起こる軍事的な過失を、ある一派遣国の軍法会議で裁いたら、それは重大な内政干渉になってしまう。(軍事法典を持たない自衛隊が、もしPKFの現場で軍事的な過失を犯したら? これは、日本に別の深刻な問題を投げかけるが、詳しくは拙著新国防論 9条もアメリカも日本を守れな』を参照願いたい。)かりにPKFを構成するある一派遣国の政府が、なんらかの理由で撤退を決定した時、PKF統合司令部に、それを覆す政治力があるか? その撤退を「敵前逃亡」だと謗(そし)っても、統合司令部に、それを止める力はない。多国籍軍とは、基本的に有志連合。自分勝手な撤退を律するのは、せいぜい外交的な信用の失墜、ぐらいである。この意味で、自衛隊は、多国籍軍として一体化"しない"。でも、"しない"のは、9条を戴く自衛隊だけでなく、すべての派遣国の部隊も、なのである。"しない"のは、この一点だけ。あとは、すべて一体化"する"

 4.自衛隊は敵からどう見えるか
PKOミッションにあたって国連は、それが活動を行う当該受け入れ国と、一括して「地位協定」を結ぶ。基本的に、PKFの公務中に発生する軍事的な過失の裁判権を、派遣国の軍法に与える、つまり、受け入れ国の司法による訴追免除の特権を、派遣国の部隊に与える。戦後の日本が、朝鮮半島動乱を機に"受け入れ国"として昭和29年に署名した「日本国における国際連合の軍隊の地位に関する協定 (略称)国連軍地位協定」と同様である。つまり、PKFの統合司令部は、自らが受け入れ国と一括して締結した地位協定を担保に、各派遣国部隊に対して「特権をやるから言うことを訊け」と、指揮権を行使するのである。自衛隊も例外ではなく、この意味で、一体化"する"極め付けは、戦時国際法・国際人道法である。同法は、国連が出来る前からある慣習法の積み重ねである。国連憲章は、地球上で起こる「武力の行使」を3つの言い訳(個別的自衛権、集団的自衛権、それとPKFがそうである集団安全保障)に制限するが、それがいったん行使されれば、戦時国際法・国際人道法が統制する世界になる。戦時国際法・人道法とは、交戦主体、つまり敵・味方の間で人道的に殺し合えという、いわば「戦争の流儀」である。そのなかで一番やっちゃいけないのが民間人の殺傷。だから、敵から"どう見えるか"が、重要になる。例えば、自衛隊が施設部隊として参加するPKF多国籍軍のうちのブラジル歩兵部隊が敵と交戦したとしよう。その場合、敵から見た交戦主体は、そのブラジル部隊だけか、それともPKF全体か。戦時国際法・人道法は、後者の考えをとる。当たり前だ。自衛隊員だけ、ヘルメットに「9」と描いておくか。描いたとしても、敵に、その意味をどう理解させるのか。その意味で、国際法上の違反行為となるのは、赤十字マークだけである。
つまり、施設部隊として送られた自衛隊が、基地に閉じこもり、まったく何もしなくても、他のPKFの部隊が交戦すれば、自衛隊も自動的に交戦主体として見なされる。国際法から見れば、自衛隊は、じっとしていても、PKO参加の政治決定の時点で、静的に、「武力の行使」と一体化"する"。以上、「自衛隊が送られるのはPKOであり、PKFでない」がウソだけでなく、"いわゆる"一体化論もウソである。

 5.ウソで固められた土俵の上で
つまり、自衛隊の派遣は、「武力の行使」と「交戦権」を禁じる9条に、20年以上前に自衛隊がカンボジアPKOに送られてた時から、ずぅーと、違反しているのだ。こんな、現場に行けば(行っても自衛隊の追っかけばかりやっていなければ)簡単にわかることを、メディアが、それも派遣反対のメディアが、世論が、リベラル政治勢力が、検証を怠ってきた。本当に、ふざけるな、なのである。日本国民の、自衛隊へのアレルギーを取るために、PKOという"崇高"な目的を使い続けてきた歴代自民党政権の戦略にブレは無い。9条と抵触させないための見え透いた刷り込みは、着実に成果を上げ、自衛隊への好感度は国民にしっかり定着した。安倍政権の今、野党/与党の対立の政局は、依然として、その刷り込まれたウソで固められた土俵の上に、繰り広げられている。安倍政権打倒を叫ぶ野党結集にも、その土俵を土台からひっくり返すことを結集の結節点にする声は、皆無だ。ただ、ABEの悪魔化と憎悪があるのみ。いつまで、これを続けるのか。




駅前マイク活動無期限休止のお詫び


この国で、政治・社会状況が危うい局面にさしかかってもおり、2015年春から市民活動に参加して毎週金曜日に街角でマイクをもって語りはじめた。半年つづけ、その後、半年あまりマイクで語ることを休止し、この秋から月一回のテンポで再び語ってみた。街角で一般の人々に向けて社会状況を語ることと、礼拝堂で神を信じる人々に向けて神の福音を語ること。両者は深く関連して、とてもよく似ている。「本当のことを本気で語るように」と、牧師養成所の最初のころ一人の先輩に助言され、18年間ずっと、そのように自分を訓練しつづけてもきた。結果、ぼくの礼拝メッセージは街角のアジ演説にどんどん引き寄せられ、ややトゲトゲしい攻撃的な口調にだんだんと傾いていった。健全なバランスを保って2つの活動を両立させることは僕にとっては困難で、心もたびたび貧しくなって壊れかけ、本業が危機的状況に立ち至った。確かに、それらを健全に両立させている伝道者もいる。けれど僕にはとても難しい。熟慮しましたが、街角でマイクをもって語ることを無期限で休止します。ただ、そうであっても、政治・社会状況に関わることは続けねばなりません。クリスチャンとして、一人の人間として。「私たちは学び、働き、食べて寝て、そしてまた路上で声をあげる」とあの若者たちは言いました。これからは僕は黙って街角に立ち、プラカードを掲げ、ビラを配り、仲間たちの声に共に耳を傾けつづけます。御父と主イエスからの恵み、憐れみ、平和がありますように。皆さまにも、あの彼らにも、ぼく自身と家族にも。        2016,12,末 金田聖治)