2015年11月9日月曜日

11/8こども説教「どうか、み心が!」マタイ26:36-46


 11/8 こども説教 マタイ26:36-46
  『どうか、み心が
26:39 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。40 それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。41 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。 (マタイ26:39-41)

  大人も子供も、どうぞよく聴いてください。救い主イエスは、十字架につけられて殺される前の晩にも、弟子たちといっしょに、「オリブ山(=ゲッセマネの園)」と呼ばれていたエルサレムの裏山に登りました。エルサレムにいた間、主イエスは毎晩毎晩、このオリブ山で祈りつづけておられました(ルカ21:37参照)。弟子たちを連れてオリブ山に登りました。小石をポイと投げれば届くほどの間を空けて弟子たちから少し離れて、独りだけで祈りつづけました。「私のこのことのために、どうか一緒に祈ってください」などと互いに言います。それも大切ですが、ただ独りになって、必死になって本気で祈らなければならないときもあるのです。しかも弟子たちのことが気がかりで、放っておくわけにもいかず、少し離れたところにいさせて、祈りの最中に何度も何度も彼らの様子を見に戻りました。気がかりで気がかりで、弟子たちのことが心配で仕方がありませんでした。
 何をどんなふうに祈っていたのかが報告されています。まず39節;「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。次に42節;「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。そして44節、「また行って、三度目に同じ言葉で祈った」。「この杯。この杯」って繰り返し仰っています。次の日に迫っている、十字架の上で自分が殺されていくことです。それを、「この杯。この杯」と仰っています。神さまでさえある救い主イエスにとっても、それはものすごく苦しいことでした。苦しくて苦しくて、辛いことでした。だから、「もしできることなら、十字架なしで人々を救ってあげてはどうでしょうか。できたら、ほかのやり方で、世界の救いを成し遂げるわけにはいきませんか。どうでしょうか」。十字架の死と復活をよくよく分かっていましたし、自分がすべき大事な仕事だと思っていました。この仕事をぜひやり遂げたいとも、心から願っておられました(マタイ26:29,ルカ22:15参照)。しかも十字架の上で殺されることが待ち構えているエルサレムの都に向かって旅をしながら、弟子たちに「私は十字架の上で殺され、葬られ、三日目に復活することになっている。きっとそうなるんですよ、分かりますか」と何度も何度も念を押して、彼らに言い聞かせつづけてきました。そうか だから同じことを、ずっと祈りつづけてこられたのです。自分自身のために。エルサレムに入ってオリブ山で毎晩そうしてきただけではなくて、旅路を歩みながら、ず~っと。長く続いた、しがみつくような祈りの中で、主イエスはとうとう辿り着いています。「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。御父の心に逆らいたい思いをねじ伏せていただいて、御父への信頼と従順の内に留まっています。十字架の上でも、まったくそうです。「神に逆らう罪を一度も犯さなかった」(ヘブル手紙4:15,ピリピ手紙2:5-11参照)と聖書が証言してきたのは、そのことです。だからこそ主イエスを信じて、主イエスに従って生きる私たちもまた、「神に逆らうことを止めて、神に素直に従うものとされてゆきます」。神さまからの約束です。神さまがしてくださるならば 誰でも皆だんだんと、そういう人になっていきます――
 (当教会,『こども交読文3』の末尾)☆主イエスは、なんのために神でありながら人間になられたのですか。
人間として、わたしたちのすべての悲しみと苦しみがお分かりになり、 神として、わたしたちをすべての罪から救い出すためです。
☆主イエスは、父なる神に逆らったことはないのですか。
神に逆らう罪を一度も犯しませんでした。主イエスに導かれて、私たちも神に逆らうことを止めて神に素直に従うものとされてゆきます。

        (*)重要点の説き明かしをいくつも割愛した;疲れと重荷と思い煩いのために眠りつづける弟子たちを案じつづけ、主イエスは彼らのために心を砕きつづける。(41)「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。心は熱しているが肉体は弱いのだから」。心配で心配で、すぐそばに彼らを置き、何度も何度も様子を見に戻った理由はここにある。心も肉体も、なにもかもあまりに弱く脆く不確かな弟子であるので、「だから目を覚ましていなさい。そのためにこそ必死に祈れ」と命じる。祈りは、虚弱な者のためにこそある。弱い不確かな者たちを支える命綱であり、彼らを守る神からの武具(エペソ手紙6:10-20)であるからだ。
    (*)「私は悲しみのあまり死ぬほどだ」と打ち明け、悲しみ悩む。しかも同時に、「~しかし私の思いのままにではなく」と御父への従順と信頼を貫く。ここに、『神であられ同時に人となった』救い主イエスの本質がある。人間になった後でもなお神であることを片時も止めない。だから、このお独りの方に全幅の信頼を寄せうるし、この方こそが「試練の中にある者を助けることができる」(ヘブル手紙2:18)。だからこそ、44-45節を凝視せよ。「時が迫った。立て、さあ行こう」と弟子たちを励まし、彼らを引き連れて、十字架の死と復活の道へと主イエスはひるむことなく進み行く。「他人は救ったのに自分を救えないのか」とやがて嘲笑される。いいや、「救えない」のではなく「自分を決して救わない」と決断してくださった。御父と御子イエスが切に願った道(マタイ26:29,ルカ22:15参照)である。