2016年8月23日火曜日

8/21こども説教「その実によって分かる」ルカ6:43-45

 8/21 こども説教 ルカ6:43-45
 『その実によって分かる』

6:44 木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。45 善人は良い心の倉から良い物を取り出し。悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである。      (ルカ福音書 6:44-45)

  良い木から良い実がなる。悪い木から悪い実がなる。その通りですね、とても分かりやすいです。人間もそれとそっくり同じで、心の中にそれぞれ倉をもっていて、このわたしたちは良い心の倉から良い物を取り出し、悪い心の倉からは悪い物を取り出す。自分自身の心の倉から出てきたものによって、その人が良い人間なのか悪い人間なのかが分かると主イエスはおっしゃいます。45節の終わりを見てください。「心からあふれ出ることを、口が語るものである」。こういうことを折々に語られるから、それで、「ああ、そうだったのか」と私たちは神さまへと心を向け返して生きることができます。ぼくの口からも ついつい悪口や陰口が出てきます。ついつい意地悪な、思いやりのない、冷たい言葉が出てきて、「思ってもいないことを、うっかり言ってしまった」などと言い訳をしています。思ってもいないことを、うっかり言った? 嘘ですね。もしも本当に思ってもいなかったことならば、その口から出てくるはずがない。思っていたからこそ、その悪い言葉と思いが出てきました。意地悪でトゲトゲしい態度や仕草や、バカにしたような表情や、怒った恐い顔つきや、思いやりのない声。悪い心の倉から悪いものがどんどん出てこようとします。すると私たちは、かなりの悪者たちですね。別のとき、主イエスはこうおっしゃいました。「口に入るものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである。口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである」(マタイ14:11-20を参照)
  さて、それぞれ心の中の倉に悪いものをドッサリ溜め込んだ悪者である私たちが、けれど神さまからの憐れみを受け、その罪をゆるされました。しかも ただその憐れみによって、私たちの心の倉はだんだんと少しずつ少しずつ清くされてゆきます。悪いものをドッサリ溜め込んでいたはずだったのに、今ではその倉から、良いものがときどき、ほんの少しずつは出てくるようにされました。びっくりです。元々とても悪い木だった私たちは、良い木である主イエスの幹に接木されて、主イエスの木の枝々とされたからです(ヨハネ福音書15:1-8,ローマ手紙11:16-24。神さまのおかげです。口からも態度からもいつもの暮らしぶりからも良いものが出てくると嬉しいでしょう。悪いものが心の倉からだんだんと少なくなってゆくと晴れ晴れしてきます。さきほどご一緒に歌いましたこども讃美歌の「主われを愛す」(讃美歌461,賛美歌21-484の4節目。「♪わが君イエスよ、われを清めて、良き働きをなさしめたまえ」。わたしのボスである主イエス。どうか、この私の心の倉を清くしてくださって、こんな私にも良い働きをさせてください。主イエスなら、きっとしてくださるとちゃんと分かっているし、信じているので、それで願い求めています。もちろん、願いはかないます。神さまが、この私たちのためにも、きっとかなえてくださるからです。

    【補足説明/木と枝と根と土と】
     (*)ローマ手紙11:17-24ヨハネ福音書15:1-この2箇所が、聖書の中に積み重ねられてきた『木と枝と根と耕す人のイメージ』の総まとめの役割をはたします。長い歳月をかけて育っていく一本のとても大きな木を思い浮かべてください。大きな大きなオリーブの木を。数千年かけて育ってきた大きな一本のオリーブの木、それが神の民イスラエルです。太い幹の根本から梢の先の先まで、たくさんの枝々が伸びています。一本一本の枝は、それぞれの時代時代のイスラエル民族であり、キリストの教会であり、一人一人の私たちキリスト者です。ごく早い時期に根元のあたりから伸びた枝があり、数千年後になってから、梢近くで芽を出して伸びてきた若い枝々もあります。私たちのこの上田教会は、また私たち自身はどのあたりに、どんなふうに枝を伸ばしているのでしょう。またその大きな木は、木を守る『耕す人・農夫』によって手入れを受けています。忍耐深く骨惜しみしない働き者であり、木をとても愛している農夫は、野生のオリーブの木から枝を切り取って、この豊かな木に接ぎ木しつづけます。手入れをする農夫。太い幹。そして、多くの枝々。それは父なる神、神の独り子、そして多くの信仰者たちです。あのヨハネ福音書15章でも、「つながっていなさい。あなたは留まっていなさい」(9)と。主イエスにつながっているなら、誰でもきっと必ず、豊かに実を結ぶ。それこそが、神さまから私たちへの断固たる約束です。


8/21「主のもとから送り出されて」マタイ10:1-15

見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。
                       (イザヤ書 43:19)


 ◎とりなしの祈り
  主なる神。オリンピックの美しく眩しい光の陰に隠されながら、日本の多くの人々がその美しさと感動に魅せられ、自分たちの国の選手たちが勝ち取った金メダルと銀メダルと銅メダルの数を数えつづけている間にも、神によって造られた被造物全体が呻きつづけています。今日にいたるまで、共に産みの苦しみをつづけています。多くの人々が熱狂して素敵な感動を味わい、ただただ自分の国の選手たちの活躍にだけ目を凝らし、自分たちの国の選手を応援し、自分の国の代表者たちの栄光を自分のことのように喜び祝っている間にも、けれども同時に、片隅に押しのけられ、薄暗がりの中に取り残された人々の苦しみと心細さに、私たちの目を留めさせてください。熊本大震災と東日本震災の被災者たちの毎日の暮らしをお支えください。仮設住宅や駐車場の狭い車の中で寝泊りしつづける人々を。福島第一原発事故の汚染区域で暮らす人々を、原発施設の奥深くで許される限度をはるかに超えた放射線被曝にさらされつづけ、体を壊されながら危険な作業に当たる、下請けの下請けの下請けの作業員たちの生活と生命の安全を、どうぞ神さま、とても危険で有毒な水と空気からこの人々を守ってください。危険で有毒な場所から自分と家族が遠ざけられていることを喜ぶだけでなく、この人たち全員を、そこにいてはいけない危険で有毒な場所から遠ざけてください。とくに子供を育てている父親たち母親たちに、そこから離れて新しく生きる勇気を与えてください。自分たちの意思に反して力づくで米軍基地を押し付けられ、ないがしろにされつづける沖縄の人々を。貧しく暮らすおびただしい数の人々を。「農業研修生。職業訓練生」という名目で、けれどまるで人げはないもののようにただただ安く便利に働かされつづける、ないがしろにされつづける外国からの出稼ぎ労働者たちを。
  主なる神さま。どうか私たちを憐れんでください。その隣人たちを自分自身のように愛し、尊び、その人たちの心細さや痛みを自分自身の心細さや痛みとして知りつづける私たちとならせてください。神さまが憐れみ深くあってくださいましたように、この私たちも、あなたの憐れみと慈しみとを証して生きる者とならせてください。あなたの御心になかって生きることを、どうか今日こそ私たちにも願い求めさせてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン

                                          みことば/2016,8,21(主日礼拝)  73
◎礼拝説教 マタイ福音書 10:1-15                       日本キリスト教会 上田教会
『主のもとから送り出されて』~指図と心得.(1)

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  10:1 そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。・・・・・・7 行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。8 病人をいやし、死人をよみがえらせ、重い皮膚病の人(*)をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。9 財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。10 旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である。11 どの町、どの村にはいっても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまっておれ。12 その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。13 もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。14 もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。 (マタイ福音書 10:1-14)


(*)1996年4月の「らい予防法」廃止に伴い、該当箇所の訳語変更要請が諸教会から寄せられ、それを受けて日本聖書教会は表記をすべて訳語変更し、「重い皮膚病」「皮膚病」「かび」その他に訳し分けています。新共同訳聖書、新改訳聖書などもほぼ同様です。
 
  


  主イエスによって選び出され、またその同じ主によって町々村々へとこの私たちも送り出されてゆきます。選び出された12人の中には、やがて主イエスを裏切るイスカリオテのユダが混じっていました。しかもユダだけではなく、弟子たち皆が主イエスを裏切って、主イエスを置き去りにして逃げ出してしまった。このことが大切です。「主イエスを裏切る者。まさか、それは私のことでは」と私たちも恐れなければなりません(マタイ26:20-22参照)。その恐れこそが、私たちにへりくだった心の低さと慎みとを与えつづけるからです。逆に、「いいや、この私こそが主に対して忠実であり、よく働いている」という思い上がりこそが、私たちを主に背かせようとする罪と邪悪さの根でありつづけるからです。5節「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町に入るな。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け」。これは、大きな謎を含む、かなり難しい発言です。まるでいかにもユダヤ人のためだけの救い主であり、他の外国人たちを排除しようとする神の祝福であるかのようにも聞こえるからです。けれどもちろん、全世界の、すべての諸民族のための、また人間様ばかりでなく神によって造られたすべての生き物たちのための救い主であり、祝福です。そもそもの初めからそうだったのですから。やがて主とその弟子たちは異邦人の道に行き、サマリヤ人の町に入り、それどころか やがて世の果てへまでも、やがてなんとアジアの端っこの端っこの端っこへまでも出かけていって主イエスの弟子たちを生み出してゆくことになるのですから(創世記9:1-17,12:1-3,マタイ28:18-
  8節で、「病人を癒し、死人をよみがえらせ、重い皮膚病にかかった人を清め、悪霊を追い出せ」と命じられました。他の福音書でも同様のことが命じられる場合もあります。神の国を宣べ伝えることと病人を癒し、死人をよみがえらせる奇跡と、その両方が命じられた場合があり、また、もっぱら神の国を宣べ伝えることだけが命じられた場合もありました。これについては、よく分かりません。今日でも、「病気が治る」と言い、そのとおりに治してあげるキリスト教会の働きもあるらしいです。申し訳ありませんが、この上田教会では病気を治したり死人をよみがえらせたりはできないように思えます。重い病人や死にそうな人の傍らでいっしょに時を過ごし、「主よ、もしあなたの御心でしたら、病いから回復させてください」と心を合わせて祈ることもします。辛く苦しい病いを抱えて、なお忍耐しなければならない場合もあるからです。そして共々に、私たちは主なる神さまにこそお委ねいたします。

  8節後半-10節。「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である」。マタイ、マルコ、ルカ、三つの福音書でほぼ同じ指図がなされています。ここを読むと、なんだかとても晴れ晴れ清々した気持ちになります。しかも今日でも、これこそが、キリスト教会と働き人たちの営みを正しく規定しています。財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。その通り。なぜならば、主なる神さまからただで受けたのだし、受けつづけるのだから、その良いものを、私たちもただで贈り与えつづけるのです。「私たちの日毎の糧を今日も贈り与えてください」と願い求め、そのようにしてくださると期待し、確信し、「そのようにしていただいている」と喜び感謝しつづけながら。人はパンのみで生きるのではない。その通り。しかも主の口から出る一つ一つの言葉とともに、天からのパンもまた神さまから日毎に贈り与えられて、その両方の支えと養いを神さまの憐れみによって差し出されながら、晴れ晴れと私共は生きるのです。
 主イエスの弟子、主からの使者としてなすべき私たちの本務がいよいよ告げられます。7節と12-13節。「天国が近づいたと宣べ伝えよ」。そしてどの町、どの村にはいっても、その中でふさわしい人と場所をたずね出して、そこに留まり、その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい」。例えば山奥の小さな農村地帯に主のもとから送り出され、そこに留まったなら、その小さな村に住む農家の人々のためにも平安を祈り求め、それだけではなく『農業研修生。職業訓練生』という名目で馬車馬のようにこき使われ、「本当は神さまを礼拝したいんだけど」と溜息をつき、半ば諦めかけているアジアからの労働者たちのためにも、「ただただ便利で重宝する家畜ではなく、自分たちと同じ生身の人間なんだと気づいてもらえて、やがてとうとう自分たちと同じ一人の人間として取り扱われますように。神を拝む休みが彼らのためにも与えられますように」と平安を祈り求めます。やがて、祈り求めるその私たち自身が平和の使者とされて、精一杯に具体的に働きはじめるために。これこそが、キリストの教会とわたしたちすべてのクリスチャンがなすべき努めです。生涯それを精一杯に心を尽くしてしつづけ、やがて立ち去るべきときが来たら、去っていきます。天国、あるいは神の国とは、神さまが生きて働いてくださり、その所に確かに力を発揮し、神ご自身こそが力と支配を及ぼしてくださるということです。救い主イエス・キリストがこの地上に降りてこられ、その方ご自身によって福音が告げ知らされ、主イエスの福音を信じて生きるものが一人また一人と起こされました。しかも、主イエスの福音の使者である私たちがこの町に来たのは、またそのそれぞれの家族の只中へと送り出されてきたのは、そのパートタイムのいつもの職場へと主のもとから送り出されてきたのは、やがて主イエスご自身がその町へ、その一軒の家へ、そのいつもの職場へも来てくださるというしるしであり、先触れです。救い主がやがてご自分で行こうとしている所へ、ご自身に先立って、私たちは送り出されたのです。『天国は近づいた』という告知と『この家に平安があるように』という祈りとは一組です。主イエスの弟子である私たちは、その一軒の家に、その一つの職場に、その町やその土地に平和があるためにこそ、主のもとから送り出されました。神さまからの平和の使者として。しかも、その家にもその町にも誰一人も平和を受け取ろうとする人が見当たらない場合もありえます。それでもほんの少しも困らない、というのです。神からの平和に誰もふさわしくなく、誰一人も受け取ろうとしない場合、そのとき祈り求めた平和はあなた自身のところに戻ってくる。戻ってきて、あなた自身の魂の内に一つ、また一つと蓄えられ、積み重ねられてゆくと。
 しばらく前に付属幼稚園の子供たちに語り聞かせてきたことも、このことです。「友だちと、どうやって仲良しでいられるだろう。何でも言うことを聞いて、顔色やご機嫌をうかがってハイハイと言いなりになっても、それは仲良しじゃありません。自分の思い通りに従わせても、それは仲良しじゃありません。大きくて強そうに見える友達にもビビってはいけません。小さく弱々しそうに見える友だちも、軽んじてはいけません。付き合いにくいお友だちを、でも仲間外れにしちゃいけません。この人はこういう人だからと、簡単に決めつけてはいけません。苦しいときも、あきらめないで。あなたを助けてくれる人がきっといるから」と。これで十分かも知れませんが、大人の人たちにはもう少し語りましょう。あるとき、そこに、軽々しく他者を裁いてしまっているあなたがいます。あるとき、そこに、自分の思い通りに相手を従わせようとして、「どうしてそうなのか」と責め立てているあなたがいます。あるとき、そこに、惨めに身をかがめて言いなりにされてゆくあなたがいます。「許せない」と怒りつづけるあなたがいます。「どうして分かってくれないのか」と、すっかり失望してしまっているあなたがいます。「わたしは。わたしは」と我を張って私を主とすることを止め、「だって、あの人がこう言う。この人がこうしろと言うから」と言いなりにされつづけて周りの人やモノを主とすることを止めにしたいのです。主をこそ主とし、右にも左にもそれることなく心強く生き抜いてゆく私たちとなりたい。兄弟たち。あなたの家にあるべき平和は、主イエスによる平和であり、主が勝ち取ってくださった平和です。レタス畑のあるあなたの小さな村や、あなたの職場にあるべき平和は、主による平和であり、主が勝ち取ってくださった平和です。その一人の人とあなたとの間にぜひとも回復されるべき平和は、建て上げられてゆくべき平和は、もちろん主による平和であり、主イエスご自身が勝ち取ってくださった平和です。この私たちが『平和と和解の使者』とされるとして、どういうふうにそれを成し遂げてゆけるでしょう。そのやり方は、コリント手紙(2)5:18-21。これは、よくよく覚えて身につけなければなりません。「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである」。神さまがキリストを通して私たちをご自分と和解させてくださった。罪の責任を私たちに負わせることなく、それを確かに成し遂げてくださった。これが、平和と和解の流儀です。していただいたとおりに、私たちもその同じやり方と流儀で働きます。
 町や村へとそれぞれに遣わされながら、あの弟子たちは、いったい何をしているのでしょう。主イエスの福音を伝え、イエスの弟子とする。神の国を宣べ伝える。あるいは、いつも私たちが言っているように、『伝道している』と言い換えてもよいでしょう。初めに、救い主イエスご自身が仰っていました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と。また、「1人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人の、自分は正しいと思い込んでいる人たちに対してよりも、はるかに大きな喜びが天にある」と。罪深い、あまりに自己中心の身勝手な者であっても、なおその1人の人が神へと立ち返って生きるなら、それを大喜びに喜んでくださる神さまであったのです(マルコ1:15,ルカ15:7,10,24,32,エゼキエル18:23,31-32。悔い改め。それは向きを変えることです。目の前の楽しいことや嫌なこと、嬉しいことや辛いこと、自分がしてほしいこと、ほしくないことなど心を奪われ、一喜一憂して生きてきた者たちが、自分自身の腹の思いばかりに目を奪われていた者たちが、180度グルリと向きを変え、神さまへと思いを向け返して生きること。そのために、この私たちも主イエスの弟子とされました。
  14節にも目を向けましょう。「もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい」。私たちの祈り願った平和が私たち自身のところへと戻ってくる13節)ことと同様に、私たちはまったく迎え入れられず、見向きもされず、語りかける言葉に耳を傾けてももらえない場合もありうる。それでも、ちっとも構わないし、何の不都合もない。そのとき、足のちりを払い落として、晴れ晴れとしてその家や町を出てきなさいと。しかも、約束された言葉を私たちははっきりと覚えています。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らに洗礼を施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:18-。主イエスの弟子たちは町や村へと遣わされつづけていきます。神の御前で、神さまに向かって生きる者たちが、その活動の中で一人また一人と生み出されていきます。悔い改めて、福音を信じる。神さまに背を向けて生きていた者たちがグルリと180度向きを変えて、神さまに向かって、神さまの御前に据え置かれて、そこで精一杯に生きはじめる。その、まったく新しい『方向転換』は、いつどこで、誰から始まるでしょう。私たちのための救いの時は、いつ満たされるでしょう。あなたの夫や息子たち娘たち、孫たち、大切な友人たちは、あなた自身は、いつ、どこで、どんなふうに180度グルリと向きを変え始め、神さまからの祝福と幸いを受け取りはじめるでしょうか。――主なる神さまへと思いを向け返すあなたを、まざまざと目の前に見たときに。悩みや辛さの只中で、「けれど私の願い通りではなく、私や他の誰彼の気分や好き嫌いや腹の虫に従ってではなく、そんなことにはお構いなしに、ただただ、あなたの御心のままになさってください」と願い求める1人のクリスチャンの生き様にふれたときに。そこで、そのようにして、神さまへと向かうあなた自身やこの私を見たときに。



2016年8月17日水曜日

8/14こども説教「自分の目の中の大きな柱を」ルカ6:37-42

8/14 こども説教 ルカ6:37-42
  『自分の目の中の大きな柱を』

42 自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう。   (ルカ福音書 6:42)

 「人を裁いてはならない」と主イエスはおっしゃいます。国語辞典を開くと、裁くことは『良い悪いを区別して、決まりをつけること』と説明しています。言っていいことと悪いことがあり、して良いことと、してはいけないことがある。そのことを腹に収めて1日づつを生きること。すると、それは私たちが普段の生活の中で、ごく日常的にしていることです。5~6歳の小さな子供たちもしますし、父さん母さんたちは自分の子供に、なんとかして『良い悪いを区別して、決まりをつけること』を習い覚えさせたいと努力します。そういうことのできる大人になってもらいたいと願って。して良いこととしてはいけないこと。言って良いことといけないこと。大人でも子供でも年配の方々でも、それぞれ誠実に精一杯に善悪を判断し、区別し、弁え知りながら生きる私たちでありたいのです。心の奥底でこっそり弁えているだけではなく、「あなたはそんなことを言ってはいけない。してはいけない。それは悪いことだ」と口に出し、態度にも示すべき時もあります。さて聖書自身は、2種類の裁きについて語りつづけます。人間が人間を裁くこと。そして、神ご自身が、この私たち人間をお裁きになること。
  「人を裁いてはならない」と主はおっしゃいます。それはもちろん、「別にィ。どっちでもいいんじゃないの。私には関係のないことだし」と知らんぷりしていなさいと勧めているわけでありません。そうではなくて、ほんのちょっと聞きかじっただけのことで軽々しく人を判断し、決めつけて、うかつな間違ったやり方で善悪や物事を区別しては困ります。それでもなお私たちの人生は、朝も昼も晩も、家にいても道端を歩いていても、自分自身で良い悪いを判断し、区別し、裁かねばならない事柄の連続です。37節の「ゆるしてやれ」も同じ。何でもかんでもゆるしていいわけではありません。大目に見てゆるしてあげてもいいことはゆるしてあげましょう。けれど、ゆるしてはいけないこともあります。例えば、良い戦争や正しい戦争などどこにもないことを本当は誰でも分かっていながら、自分たちの損得や都合で力にものを言わせて相手を無理矢理にねじふせていこうとする戦争は悪いことです。この国の総理大臣は、そういう悪い国の仲間入りをぜひしたいと言い張り続けています。「戦争をしたい。したい。自衛隊員をどこにでも送り出して、家族がどんなに悲しんでも困っても彼らに戦場で無駄に誰かを殺したり殺されたりさせたい。いいじゃないか、いいじゃないか」と大勢の人々が言い出すとき、どうしましょう。ゆるしてあげたほうがいいでしょうか。例えば原子力発電所はどうですか(*)。民主党の最後の総理大臣、野田佳彦(のだ・よしひこ)さんは、福島第一原発事故から9ヶ月後の201112月に「今回の原発事故は収束(=困った事態や混乱や被害がおさまって、すっかり解決すること)しました。皆さん安心してください」とTVで喋りました。嘘っぱちでした。あの原発事故はいまだに収束していません。今後共、収束する見込みもメドもまったく立っていませんから、決して安心しないでください。とても危ないし、政府も電力会社も原子力規制委員会も誰一人も責任を負おうとしない無責任でいい加減で自分勝手な原子力発電所を、次々と再稼働させ、小さな子供や大勢の家族をそのまま危ない場所で暮らさせつづけることはどうですか。「いいよいいよ。どうでもいいよ」とゆるしてあげましょうか。神さまを信じて生きてゆくって、どういうことでしょうか。ただ心の中でだけ、こっそりと神さまを信じたり祈ったりし、けれど人様の前ではお利口さんに口をピタリと閉じて、目も耳も閉じて知らんぷりしていましょうか。そうすると人様や家族や隣近所や職場では波風立たずに都合がいいです。けれど、それははたして神さまの御心にかなっていて、神さまに喜んでいただけることでしょうか? ――いいえ、決してそうではありません。どうして? 人の心の片隅に住んでいるだけの小さな小さな神さまではなく、全世界をお造りになった、全世界の王として責任を負ってくださる神さまだからです。人の心の中だけの小っぽけな安っぽい平和ではなく、全世界のすべての生き物たちに祝福と平和を及ぼそうとなさる神だからです。だからです もし国民の大多数が賛成しても、政府も総理大臣も「ぜひそうしたい」と強く訴えても、してはいけない悪いことならば、それはしてはいけない悪いことです。決してゆるしてはいけません。裁かねばならない材料は、それぞれの口から出る何気ない言葉もそうです。1つ1つの行動や態度も、腹の思いもそうです。それらはまず、自分自身の目の中から始まります。曇りなくはっきりと見定めるために、目の中の大きな柱も小さなゴミも取り除きたい。目の中にどんなゴミが溜まっているのか、その点検はまず自分自身の目玉から始められていきます。38節、「あなたの量るその量りで、自分にも測りかえされる」。その通りだけど、それより千倍も万倍も大切なことは、当然きびしく裁かれているはずの悪者の私たちを、神さまが裁かないで、ゆるしてくださったこと。見るべきものが見えない、見ようともしなかった私たちを、神さまが、神さまの憐れみを分かって、感じ取って、受け取ることのできる私たちにしてくださったことです。「あなたがたはこの世と妥協してはならない。心を新たにすることによって造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善で、神に喜ばれることかをわきまえ知るべきである(ローマ手紙12:1-2を参照)」と書いてあります。神さまからの救いの約束です。主イエスを信じて生きる中で、誰でもそういう新しい人間に造りかえていただけます。神さまが、この私たちのためにも、きっと必ずそうしてくださいます。ね、とても素敵なことでしょ、本当のことです。


        【割愛した部分の補足説明】
(*)201112月に当時の内閣総理大臣、野田佳彦が「今回の原発事故は収束した」と公けに宣言し、その1年半後の20133月に安倍晋三総理大臣は「やっぱり収束していない」と収束宣言を撤回した。その通り。溶け出た危ない燃料棒がどこに落ちているかのか捜すことも拾い集めることもできず、収束する見込みもメドもまったく何も立っていない現状です。水をジャブジャブジャブジャブかけて冷やしつづけるしかできません。お手上げです。その結果、大量に生み出される高濃度の放射能汚染水を太平洋の海に垂れ流しつづけています。太平洋の海に してはいけない、申し訳わけないことを、私たちはしつづけています。「除染、除染」と言っていました。あの汚染された膨大な量の土も同じ扱いを受けています。町外れの大きな空き地のあちこちに、黒っぽいシートを被せて積み上げています。それで除染したことになるのかどうか。多分、除染ではなくて偽善です。高濃度の放射性汚染水を海にジャブジャブ垂れ流すことも、除染ではなくただの「垂れ流し」です。目をつぶり耳を塞ぎ口も塞いで知らんぷりすることも、除染ではなく収束でもなく安全でもありません。先日の熊本大地震のとき、大規模な地震がずっと続いて、震源地のすぐ傍らにあった川内原発(せんだい・げんぱつ。鹿児島県薩摩川内市)を「危ないから地震が収まるまででいいから止めてくれ」と大勢で頼んでも、知らんぷりされました。四国の伊方原発(いかた・げんぱつ。愛媛県西宇和郡伊方町)は細~い半島の付け根に設置されていて、その先に住んでいるたくさんの住民は、もし事故が起きたら避難することも逃げ隠れることもできません。「やめてくれ。心配だ、恐ろしい」と住民は必死に抗議をしましたが、涼しい顔で、その伊方原発も再稼働させられました。もちろん事故が起きても、「想定外。想定外」と口ずさみながら、その人々を見殺しにするほかないのに。小さな子供も赤ちゃんも、中学生、高校生も大人も年寄りもたくさん暮らしていますが、彼らの安全も生命もどうでもいいと思っているのです。国家も原子力規制委員会も電力会社も、私たち国民も。しかも政府は東南アジアやアフリカ諸国に原子力発電所をたくさん売りさばいて儲けようとしています。『もし事故が起こったらすべてを保証し、全責任を負いますから』というサービス特典付きで。自国の原発設置地方の住民に責任をまったく負おうとしない政府が、どうやって他国の事故被害に責任を負えましょうか。その腹づもりも責任感も、力量もないくせに。そのとき、政府と私たちはどう言い逃れができるでしょうか。2015810日,「第一義的には稼働の責任は事業者」と菅義偉(すが・よしひで)内閣官房長官の記者会見。 同日、安倍晋三首相、参議委員予算委員会での発言をも参照。
         ()インターネット[You Tube]『小出裕章ジャーナル・シリーズ』;問題は悪化している。「汚染水」「地下水流入を防ぐ手段」「膨大な被爆作業労働者の確保」「高まる再稼働の気運」「核のゴミをどうするか」「使用済み核燃料の取出し」「事故から4年」「石棺で封じ込めるしかない(2015,4,25)」「避難指示解除は妥当か(2015,7,11)」「廃炉工程表見直しについて(2015,7,25)」「川内原発再稼働(2015,8,8)」、参照。

      「礼拝説教では、政治や社会状況のことはいっさい語らない」という牧師にときどき出会います。そのような伝道者や信徒はますます増えてゆくかも知れません。けれど、たしか聖書が唯一の判断基準だったはずですね。聖書の何ページに、それが指図されていましたっけ? どんな神さまをどういうふうに、この私たちは信じているんでしょうか。モルデカイはエステルを諭して語りきかせました、「あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。主イエスご自身も、主を信じる人々を叱って黙らせろと文句を言われて、こう答えました。「あなたがたに言うが、もし、この人たちが黙れば、道端の石が叫ぶであろう」(エステル記4:14,ルカ福音書19:40。もちろん、ぼくも道端の石っころになって 大声で叫びつづけます。

8/14「飼う者のない羊のように弱り果て、倒れている」マタイ9:35-38,エゼキエル34:1-12

わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。(ヨハネ福音書 10:10-11)

 ◎とりなしの祈り
 イエス・キリストの父なる神さま。独り子なる神、救い主イエスのお働きをとおして私たちを新しい生命と救いへと招き入れ、あなたの憐れみを受けた子供たちとしてくださり、現にそのように養いつづけてくださっていますことを、ありがとうございます。ますます、あなたに感謝をし、信頼を寄せ、あなたにこそ必要なだけ十分に聴き従いつづけて生きることができるようにさせてください。
 しかも御父よ、私たちはあなたに対して誓いを立てました。あなたへの従順を主イエスが身をもって示し、差し出してくださいました。ですからこの私どもも喜んで、あなたへのその同じ従順の道を生きることができるようにさせてください。自分自身を愛するように、自分の家族を愛するように、自分と同じ肌の色で同じ言葉を喋る同じ民族を愛するように、それに負けず劣らず隣人を愛し、他の民族や他の主義主張をもつ人々を重んじ、互いに気遣いや労わりを差し出し合うことができるようにさせてください。自分勝手な心やわがままな思いを、どうか今日こそきっぱり捨てさせてください。へりくだった低い心をもって、互いに和み合い、喜びあう私たちとならせてください。あなたに対してするように、あなたに対して語るように、あなたへの畏れと慎みをもって、1つ1つをすることができますように。そのようにして私たちを、自分自身の家族の中にあっても、学校でも職場でも隣近所や町内会でも、道を歩いているときにも誰と一緒のときにも、あなたの慈しみと平和を輝かせるための『世の光』とならせてください。この国には、身を屈めさせられ、片隅に押しのけられ、貧しく心細く暮らす人々がたくさんいます。どうか、私たちを憐れんでください。また、あなたから差し出され、受け取りつづけています憐れみを証しして生きる私たちとならせてください。多く愛され、多くゆるされつづけている私共ですから、それと同じだけ多く愛し、多くゆるし、暖かく隣人を迎え入れ、手を差し伸べる私たちであらせてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン


                                          みことば/2016,8,14(主日礼拝)  72
◎礼拝説教 マタイ福音書 9:35-38,エゼキエル書34:1-12   日本キリスト教会 上田教会
『飼う者のない羊のように弱り果て、倒れている』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  9:36 また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。37 そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。38 だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。                             (マタイ福音書 9:36-38)

34:8 わが牧者はわが羊を尋ねない。牧者は自身を養うが、わが羊を養わない。9 それゆえ牧者らよ、主の言葉を聞け。10 主なる神はこう言われる、見よ、わたしは牧者らの敵となり、わたしの羊を彼らの手に求め、彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ、再び牧者自身を養わせない。またわが羊を彼らの口から救って、彼らの食物にさせない。11 主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。                    (エゼキエル書 34:8-11)
 
  


 主イエスは町々村々を巡り歩き、諸会堂で教え、神の国の福音を宣べ伝え、人々の病気やわずらいを癒して回りました。そして36節、「群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深く憐れまれ」ました。飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れている。ここです。つまり救い主イエスの目には、弱り果てて、倒れているその人々が『羊』だと見えました。また、『本来なら、羊飼いに飼われ、世話をされ、養われているはずの羊なのに、彼らには羊飼いがいない。だからそのせいで弱り果てて、倒れている。なんと憐れな、なんと痛ましいことだろうか』と。神さまの目から見て、私たち人間は誰も彼もが羊です。しかも羊飼いに飼われ、世話をされ、養われて生きるはずの羊たち。もし羊飼いがいないのなら、羊飼いからはぐれ、仲間の群れからも離れてしまうならば、弱り果て、倒れてしまう他ない、あまりに脆く弱々しい生き物であると。
 羊と羊飼いのことをお話いたしましょう。この当時のこの社会では、羊飼いという職業はごく普通のありふれた職業でした。神さまを信じて生きる人々は、羊飼いと羊たちのいつもの暮らしぶりを毎日毎日眺めつづけながら、その姿に重ねて、神さまと自分たち自身とを思い描きました。羊飼いである神であり、その神さまに養われ、世話をされて生きる一匹一匹の羊である私たちだと。さて、羊と私たち。羊飼いと神さま。どこがどう似ているというのでしょう。羊はどういう生き物なのかをご存知ですか? 他の動物と見比べてみると分かってきます。例えば羊には、迫ってくる危険を感じ取るための良い耳や嗅ぎ分けるするどい鼻がありません。逃げ延びるための速い足もありません。戦って相手を打ち負かすほどの鋭い牙も爪も角も、太くて力にあふれた強い腕もありません。ほとんどすべての生き物たちは、なにかしら身を守って生き延びてゆくための武器や道具をもっています。けれど羊には何もないのです。しかも 目がとても悪い。目の前の、今食べている範囲の草しかはっきりとは見えません。おいしい草にありついてムシャムシャ、ムシャムシャ食べている。気がつくと、仲間の群れからも羊飼いからもはぐれて、迷子になっている。戻る方角も道筋もさっぱり分からない。崖から転げ落ちてしまうかもしれません。腹を空かせて飢え死にしてしまうかも知れません。強い獣たちに襲われて食べられてしまうかもしれません。羊ドロボウに捕まってしまうかも。あまりに無力で無防備な羊が生き延びてゆくためには身を守るための何の道具も武器もなく、その代わりに羊飼いがいてくれます。自分のための良い羊飼いが目を留めていてくれて、世話をし、養ってくれるならば、それなら羊は一日一日と安らかに生きのびることができます。そうではないなら、羊は弱り果て、倒れて、ついにとうとう死んでしまうほかありません。
  けれど、それならなぜ、その神を信じて生きるはずの彼らがまるで飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのか。本来なら、羊飼いに飼われ、ちゃんと十二分に世話をされ、何の不足も危うさもなく養われているはずの羊なのに。彼らのための羊飼いは、いったいどこで何をしているのか。さきほど読みましたエゼキエル書34章です。『羊飼いである神さま。その神さまに世話をされ、養われる羊である私たち』。さて神さまが羊飼いであるとして、私たち人間の世話をしたり助けたり守ってあげるその羊飼いの役割を人間にもさせました。王や祭司や預言者や役人たち、民の中の長老たちなどがその係です。つまり、神さまこそが私たち人間の世話をしたり助けたり守ってくれる羊飼いなんですが、私たち人間にもその羊飼いの役割をさせました。けれど、困ったことになりました。羊飼いの仕事を任せてあった人間たちが、その仕事をちゃんとしないのです。それで、たくさんの人たちがいじめられたり、乱暴されたり、除け者にされたり、追い払われてあちこちに散り散りになってしまったりしました。そのあまりにかわいそうな姿を見て神さまは怒ったり、悲しんだりしました。神さまは預言者に語りかけました。節から、ゆっくり読んでみましょう;「主の言葉がわたしに臨んだ、『人の子よ、イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して彼ら牧者に言え、主なる神はこう言われる、わざわいなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者。牧者は群れを養うべき者ではないか。ところが、あなたがたは・・・・・・。8節)主なる神は言われる、わたしは生きている。わが牧者はわが羊を尋ねない。牧者は自身を養うが、わが羊を養わない。それゆえ牧者らよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる、見よ、わたしは牧者らの敵となり、わたしの羊を彼らの手に求め、彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ、再び牧者自身を養わせない。またわが羊を彼らの口から救って、彼らの食物にさせない。主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す』」(エゼキエル34:1-11)。羊飼いの仕事を任せてあった人間たちに向かって神さまは言います。「王も祭司も預言者も役人たちも、全員クビ。だってお前たちは自分のことしか考えていないじゃないか。ただ自分が楽しんだり、いい思いをしたり、食べたり飲んだりするばかりで、他の羊たちの世話をしようともしない。見てみなさい。あの迷子になったり、病気になったり怪我をしているかわいそうな羊たちを。おそろしい獣に食べられそうになっている羊たちを。傷ついてすっかり弱り果ててしまった小さな羊たちを。なんとも思わない。分かった。もう、お前たちに任せてはおけない。私が自分で羊たちを探し出し、自分で彼らの世話をし、自分で彼らを養い、守っていく」と。
  やがて来る救い主は、この羊飼いである救い主である23-24節)。人々は神さまのこの約束を信じて待っていました。ある日、ナザレ村から来たイエスという人が、人々を集めて、おかしなことを語り始めました。「ある人が100匹の羊を飼っていてその1匹が迷子になりました。その羊飼いはどうすると思う。もちろん大慌てで探しに出かけて、どこまでも探し、とうとう見つけて大喜びでその羊を連れ帰りますよ。『皆さん、いっしょに喜んでください。いなくなっていた羊を1匹、とうとう見つけたんですヨオ』って」。このイエスさまは、人々がまるで世話してくれる羊飼いを持たない迷子の羊のように弱り果て、がっかりして暮らしている姿を見て、ああかわいそうになあと心をひどく痛めておられました。また、こんなことも語り出しました。「私は良い羊飼いです。だって、羊のことをちゃんと心にかけていますから。その羊たちを連れ戻して救うためには、自分の生命さえ喜んで投げ出しますから」(ルカ福音書15:3-7,マタイ福音書9:36,ヨハネ福音書10:11-18参照)。そんな話を聞いてもなんとも思わない人もいましたけれど、聖書をよくよく読んで教えられてきた人たちはピンときました。「あ、あのことだア。エゼキエル34:1-24。じゃあ、この人が、あの約束されていた羊飼いだったのか。神さまが約束してくださったことが、とうとう本当の出来事になるのか」。
  神さまご自身である救い主イエスがとうとうやって来ました。格別に良い羊飼いとして。十字架にかかって殺され、葬られ、三日目に復活し、その姿をみんなに見せてくださり、天に昇って今も私たちのために働きつづけ、やがてもう一度この世界に来てくださる。そのようにして、救いの御業を成し遂げてくださる。弱いものを強めるためにです。病気のものを元気にし、傷ついたものの手当をし、やさしく包んであげるためにです。除け者にされて追い払われたわれたものを連れ戻すためにです。迷子になって失われたものを探し求めるためにです。あの遠い昔、「見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す」と仰った主なる神さまこそが、救い主イエスでした。その救い主を信じて、私たちもとても弱かったのに強くしていただきました。病気だったのに元気を取り戻しました。傷の手当をしてもらい、追い払われていたのに連れ戻してもらいました。迷子になっていたのに、探し出していただきました。世話をされつづけています。だから、それで私たちはここにいます。
  あのとき確か、「全員クビ」って羊飼いの仕事を皆が取り上げられてしまったんでしたね。生身の人間である羊飼い(=牧者)は、あのときから、1人もいなくなったはずだった。けれどいないはずなのにいます、それも大勢。キリスト教会の牧師は、この『羊飼い』という意味です。復活の主イエスは、挫折し逃げ去ったペトロともう一度出会って、こうおっしゃいます。「私を愛するか。愛するか。愛するか」「じゃあ、あなたも、私の子羊たちの世話をしなさい。そうやって、私に従いなさい」(ヨハネ福音書21:15-17参照)と。いいえ 勘違いしてはいけません。ただ『牧師』だけが羊飼いではありません。洗礼を受けたすべてのクリスチャン、イエスを信じて生きるクリスチャンたち全員が、神さまから直々に、この羊飼いの仕事を任せられました。私の子羊たちの世話をしなさい、養いなさい。もし私を愛したいと願うなら、私の子羊同士で互いに世話をし、面倒を見合いなさい。よろしく頼みますと。
  最後の37-38節は、少し分かりにくいと思えます。「そして弟子たちに言われた、『収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい』」。収穫と聞いて私たちはごく普通に思い浮かべる『収穫』と、ここで語られている中身はずいぶん違うと思えます。よく晴れた秋の日に、たわわに実った豊かな水田風景とか、畑の収穫物とか。よく実って熟したぶどう畑、りんご畑、とうもろこしとか大根とか、なす、トマト、カボチャとか。「収穫は多いが」と語りかけながら、救い主イエスはどういう光景を見つめているでしょうか。傷つき倒れて、息も絶え絶えの、今にも死んでしまいそうな弱り果てた羊たちの一匹一匹です。失われた、あてもなく野山をさまよい歩く惨めな羊たちです。飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れている、神の羊たちです。それこそが、収穫されるべき羊たちであり、主イエスの群れの囲いの中へと無地に迎え入れられ、世話をされ、養われるべき羊です。「働き人が少ない」とはどういうことでしょうか。すでに主の囲いの中へと迎え入れられ、世話をされ、養われている羊たちの数は十分に多いはずなのに。・・・・・・もしかしたら私たちは、その『働き人』の中にこの自分自身も含まれ、頭数に数えられていると気づいていなかったのかも知れません。傷つき倒れて、息も絶え絶えの、今にも死んでしまいそうな弱り果てた羊たちの一匹一匹。失われた、あてもなく野山をさまよい歩く惨めな羊たち。飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れている、神の羊たち。それこそが、ぜひ何としても収穫されるべき羊たちであるとするならば、この私たちの働き方もずいぶん変わったものとなるでしょう。他のどんな優れた働きや業績でもなく、ただただ憐れみの実をこそ結ぶ働きであるほかありません。こう証言されています、「彼は貧しい人たちに散らして与えた。その義は永遠に続くであろう」と書いてあるとおりである。種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである」(コリント手紙(2)9:9-14を参照)。憐れみの実だと言われながら、けれど、「あなたがたの義の実を」と書いてありましたね。え? と首を傾げましたか。「おかしいなあ、どういうことだろうか」と考え込みましたか。いいえ。正しくともなんともなかった私共が けれど神さまから『正しい』と見なしていただきました。救い主イエスが成し遂げてくださった御父への従順を私たち自身の従順、神への正しさとして、ただ恵みによって贈り与えられました。つまり私たちの正しさとは、それは直ちに、神さまから贈り与え合えられた憐れみです。「あなたがたの義の実」、それは直ちに、『贈り与えられた憐れみの実そのもの』です。しかも主イエスを信じる信仰によってこのお独りの方の中へと植え込まれた私たちが、憐れみと感謝の実を結ばないなどということはありえないのですから(ハイデルベルグ信仰問答,問60-641562年)。なんという恵み、なんという喜びでしょうか。


2016年8月10日水曜日

日曜学校夏期学校「神のみこころ(1)」

《朝のおはなし》               
 エゼキエルしょ34:5-12       
  『羊飼いたちを、みんなクビにする』
                                    はなし/かねだせいじ牧師

34:5 彼らは牧者がないために散り、野のもろもろの獣のえじきになる。6 わが羊は散らされている。彼らはもろもろの山と、もろもろの高き丘にさまよい、わが羊は地の全面に散らされているが、これを捜す者もなく、尋ねる者もない。7 それゆえ、牧者よ、主の言葉を聞け。8 主なる神は言われる、わたしは生きている。わが羊はかすめられ、わが羊は野のもろもろの獣のえじきとなっているが、その牧者はいない。わが牧者はわが羊を尋ねない。牧者は自身を養うが、わが羊を養わない。9 それゆえ牧者らよ、主の言葉を聞け。10 主なる神はこう言われる、見よ、わたしは牧者らの敵となり、わたしの羊を彼らの手に求め、彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ、再び牧者自身を養わせない。またわが羊を彼らの口から救って、彼らの食物にさせない。11 主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。12 牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。 
                      (エゼキエル書 34:5-12

  そのころには、羊飼いも羊も、あちこちにたくさんいました。親戚のおじさんおばさんや、となりのおじさんや自分の家の兄さんが羊飼いだったりして、羊飼いはどこにでもあるふつうの仕事でした。いろんな羊がいます。勝手にフラフラ出歩いて、すぐに迷子になる羊。いたずらっ子の羊。いつも「腹減った。腹減った」って言っている食いしん坊の羊。甘えん坊の羊。「あー、みてごらん。あのプンプン怒ったり、いじけてすねている羊。○△君にそっくりだあ」。いつもの暮らしの中で、羊飼いたちが羊の世話をするようすを見ながら、人々は神さまを思い、神さまに守られ、養われて生きる自分たちを思いました。「ああ。こういう神さまだ。こういう私たちだ」と神さまを信じる人々はおもいました。羊飼いである神さま。その羊飼いに世話をされ、やしなわれて生きる羊である私たちだと。その神さまが、人間たちの中に『羊飼いの仕事をする者たち』を立てて他の人間たちの世話をさせました。人間でもある羊飼いたち。つまり、王さまや祭司や預言者たちなどです。けれど人間である羊飼いたちは、羊の世話をちゃんとしませんでした。それで羊である人間たちは仲間のむれから追いだされたり、迷子になって獣のえじきになったり、病気になって具合が悪くなったり、ケガをしてもそのまま放っておかれたりしました。もちろん神さまはとてもとても怒りました。「悪い羊飼いたちめ。自分ではおいしいものを食べ、よい服をきているが、ちっとも羊たちの世話をしないじゃないか。弱ったものを強くせず、病気のものを治してやらず、傷ついたものの手当てをしてやらず、いなくなったり迷子になった羊を捜そうともせず、かえって羊たちを乱暴に、いじわるにあつかっているじゃないか。自分のことばかり大事にして、羊たちを放ったらかしにしている。なんて悪い羊飼いたちだ。神などいないとでも思っているのか。いいや、私は目をひからせてきたし、ちゃんと生きて働いている。だからもう、おまえたちに羊の世話をさせてはおかない。全員クビだあ!!」と。そのかわりに、神である私が自分で羊たちの世話をし、自分で羊たちをやしなう。追いだされたり、迷子になって獣のえじきになりそうな羊を私が自分で捜しだし、病気になって具合が悪くなった羊やケガをした羊を、私の羊たちを、この私が自分で元気にしてやろう。この私が自分で捜しだし、自分で世話をして養ってやろう。
  神さまを信じる人たちは、この救いの約束をききました。そして、信じて待ちつづけました。「やがて、神さまが救い主として、私たちのところに来てくださる。ほんとうに良い羊飼いとして来てくださって、約束どおりに、神である救い主が自分で羊たちの世話をし、自分で羊たちをやしなってくださる23節を参照)。追いだされたり、迷子になって獣のえじきになりそうな羊を、神である救い主が自分で捜しだし、病気になって具合が悪くなった羊やケガをした羊を、神さまの羊たちを、救い主である神さまごじしんが自分で元気にしてくださる。自分で捜しだし、自分で世話をして養ってくださる。やがて、良い羊飼いである救い主が、きっとかならず私たちのところに来てくださる」と。




  《主題のおはなし/神のみこころ①》
 ルカふくいんしょ15:1-10       
  『一匹の羊、一枚の銀貨』
                はなし/かねだせいじ牧師

15:1 さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして 近寄ってきた。2 するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。3 そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、4 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。5 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、6 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。7 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。
8 また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくし  たとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。9 そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。10 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。
                        (ルカ福音書 15:1-10)

  いつものように主イエスは、ほかの人たちからバカにされたり仲間はずれにされている人たちや取税人たちとたのしく食事をしていました。食べたり飲んだりしながら、神の国について教えてくださっていました。すると、そのたのしい様子を見て、いつものように文句や悪口をいう人たちがいました「罪人たちを迎えて、おしゃべりしたり、食事までいっしょにしている。ああ、ひどい。イヤだイヤだ」2節,ルカ5:29を参照)と。この文句や悪口をぶつぶつ言っている人たちのために、主イエスはたとえ話で教えはじめます。神さまが、どういう人たちを、どんなふうに恵みと祝福のもとへと招いてくださるのかを。
  4-6節。「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼びあつめ、『わたしといっしょに喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう」。さあ、本気になって考えてみましょう。もし、あなたが羊飼いで、飼っている羊の一匹が迷子になったら、九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまでどこまででも何日も何ヶ月、何十年かかっても、見つけだすまで捜しまわるでしょ。見つけたら、肩に担いで、大喜びで帰ってきますね。ね、あなたもきっとそうするでしょう。本当? (手をあげさせる)「私もきっとそうします」って人は。「いいや。私はそんなことはしない」って人は? 野原に残した九十九匹の羊は、あっという間にどこかにいなくなってしまうでしょう。そうしたら大損害です。羊会社の雇い主からきびしく叱られて、クビにされてしまうかも。そんなことをする羊飼いは滅多にいません。捜しに行くとしても、99匹をまず囲いに戻して柵に鍵をかけて、留守を守るアルバイトを雇って細々と指示を与え、それから捜しに行くでしょう。せいぜい30分か1時間くらい捜して見つからなかったら、諦めて帰ってくるでしょう。「何ヶ月、何十年かかっても、見つけだすまで」などという捜し方はしませんね。私たちのいつもの考えややり方とは、ずいぶん違います。だから、ここでハッと気づかねばなりません。この羊飼いは、私たち人間のことではありません。私たちとは違って、もし神さまなら きっと必ずそうしてくださるということです。なぜ、いなくなったたった一匹を見つけるまでどこまででも何日も何ヶ月、何十年かかっても、見つけだすまで捜しまわるのでしょうか。かわいそうだからです。迷子になった羊は、放っておいたらどこまででも行ってしまいます。太郎山のてっぺんにまで登ってしまうかもしれません。崖の小道の先の先まで、どんどん登って、崖から転げおちてしまうかもしれません。おそろしいけものやクマに、ムシャムシャ食べられてしまうかもしれません。こわくてさびしくて、心細くて、どうしていいかわからなくてメソメソシクシク、エンエンエンエンないているでしょう。その恐ろしさや心細さが手にとるようにわかるので、かわいそうでかわいそうで、だから、あとさき考えず、いなくなったと分かったらすぐに捜しにでて、見つけるまでどこまででも何日も何ヶ月、何十年かかっても、見つけだすまで捜しまわります。そういう神さまだからです。あやうく死んでしまうところを見つけて助けてあげたら、うれしくてうれしくて、大喜びで連れてかえります。「みなさん。いっしょに喜んでください。いなくなった羊を見つけましたよお。ああ、うれしい、うれしい」。
  7節。「よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」。迷子になって、神さまの恵みの場所からはぐれてしまった羊。戻りたくても戻れず、こわくてさびしくて、心細くて、どうしていいかわからなくてエンエンエンエンないているかわいそうな羊。それが、『罪人』の中身です。なぜ見つけるまで捜すのか。なぜ、捜しだして大喜びで連れて戻るのか。放っておいたら死んでしまうからです。かわいそうでかわいそうで、しかたがないからです。こういう神さまです。この羊がどうして、どんなふうに迷子になってしまったのかは書いてありませんね。意地悪なほかの羊に追いだされてしまった場合もあるし、自分勝手でうっかりしていた場合もあるでしょう。羊飼いといっしょに暮らしているのがイヤになって、自分から出ていった羊もいましたよ。このルカ福音書15章には、迷子になった一匹の羊、なくなった一枚の銀貨、自分から家を出ていった息子と三つのたとえ話が次々に語られます15:4-6,8-9,11-24,25-32。この15章は、『聖書全体の心。神さまの心』と呼ばれて、大切に読み親しまれてきました。これらはみな、『罪人』の中身です。なくなった銀貨なんて、自分が持ち主の手から転げおちてしまったことにさえ気づかずに、恐ろしいとも心細くて淋しいとも、なんとも思っていません。いろんな迷子のなりかたがあって、けれどみな、とてもかわいそうです。かわいそうでかわいそうで、それで大慌てで必死に捜しまわり、連れて戻って、神さまは大喜びします。そういう、とてもやさしい心の神さまです。
                  2016,8,7-8 信州バイブルキャンプにて)

       (図表 『羊飼いである神。その神に養われる羊である私たち』)


【補足説明/およその全体像】
神と私たち人間との関係はいくつかの大きなイメージで語られつづけてきました。例えば、親と子、夫婦や恋人同士、医者と病人、木と枝、農夫と畑、また『羊飼いと羊』というように。羊と羊飼いの普段の暮らしぶりを眺めながら、『ああ、羊飼いである神。その神に養われる羊である私たちだ』と(エゼキエル書34:1-31,23,100:1-3,イザヤ書40:10-11,53:6,サムエル記上17:34-37)。神ご自身が羊飼いであり、しかも同士に羊である人間の中に『羊飼いの役割』を担う者たちを神が立てました。王、祭司、預言者。また様々なリーダーたち。けれどそのリーダーたちは身勝手で不誠実で、羊たちの世話をしません。エゼキエル書34章では、「その不届きなリーダーたちを全員解雇する」と神が宣言し、彼らに代わって神ご自身が『良い羊飼い』としてご自分の民の世話をすると約束なさいました。長い歳月をへて、その約束が救い主イエスによっていよいよ果たされます(ルカ15:1-7,ヨハネ10:11-18,21:15-19,マタイ9:36。特にヨハネ福音書21:15-19では「私を愛するか。私の子羊の世話をし、養いなさい」と『羊飼いの役割』を担う人間たちが改めて再雇用されます。プロテスタントの牧師は、ペテロとともに、この再雇用された羊飼いたちです。ですから、「全員クビ」と厳しく叱られて解雇されたことと、憐れみを受けて再雇用されたいきさつを、すべての牧師たちは朝も昼も晩もよくよく覚えて、魂に刻んでおかねばなりません。やがてペテロは何年も働いたあとで、しみじみと仲間の羊たちに語りかけます、「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである」(ペテロ手紙(1)2:21-25)。ああ本当に、私たちはただお独りの良い羊飼い=救い主イエスのもとへと連れ戻していただきました。なんと幸いなことでしょう。
 「羊は、私たちクリスチャンだけのことですか?」と、良い質問を受けました。もちろん、クリスチャンだけではなく、人間様だけでもなく、神によって造られたすべての生き物たちです。救われるべき対象、憐れみの及ぶ範囲を思い巡らせてみてください。世界創造の7日目に神は、ご自身によって造られたすべてのものを自分のものとし、祝福なさったのです。ノアの大洪水後には、「すべての生き物と救いの契約を立てる」と神は断言なさり、神の民の出発に際して、「あなたによって地のすべてのやからは祝福に入る」と約束されたからです(創世記2:1-3,9:10-17,12:1-3,ローマ手紙8:18-22。「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう(ヨハネ福音書10:16と救い主イエスご自身もおっしゃいました。天と地のすべて一切を造った神であり、その当然の帰結です。自分が失われた羊の一匹であることをまだ知らない、おびただしい数の羊たちが残されていることを、飼い主がいないかのように弱り果て、倒れている憐れな羊たちのことを、この私たちは覚えておきましょう。私たちクリスチャン全員もまた、今では『羊飼いの役割』を託されてもいるからです。