2015年8月17日月曜日

8/16こども説教「飼う者のいない羊のように弱り果てて」マタイ9:35-10:4

/16こども説教 マタイ福音書9:35-10:4            2015,8,16

 『飼う者のいない
羊のように弱り果てて』  牧師 かねだせいじ


9:35 イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。36 また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。37 そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。38 だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。   (マタイ福音書 9:35-38


 主イエスはたくさんの弟子たちの中から12人の弟子たちを特別に選び出し、その彼らを使徒として、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒す権威をお授けになりました。ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモンとイスカリオテのユダという12人です。やがてその彼らを町々村々へとお遣わしになります。
  さて、その前に、主イエスは町や村を巡り歩き、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、病気と患いを癒しました。そこで、飼う者のいない羊のように弱り果てて倒れている多くの人々をご覧になりました。その彼らを深く憐れまれました。とても可哀想で可哀想で、心が張り裂けそうにお感じになったのです。これが、神さまが私たち人間に手を差し伸べて救おうとなさることの出発点です。もう忘れてしまったかも知れませんが、ここにいるこの私たち一人一人もこの群衆のようでした。弱り果て、倒れていました。飼う者のいない羊そのものでした。私たちのその姿を神さまはご覧になりました。その私たちを憐れみ、神さまはとても可哀想に思いました。手を差し伸べ、助け起こしてくださいました。37-38節をご覧下さい。主イエスは弟子たちに言われました、「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。今でも、世界中あちこちに、弱り果て、倒れている多くの人々がいます。それは困った事態ですし、心痛む悲しむべき有様です。けれどその弱り果て、途方に暮れて、倒れている人々が、その一人一人が、神さまご自身の目にはよく熟れて実がすっかり熟した、今か今かと取り入れを待つ果物のように見えています。どうしてでしょう。憐れんでくださる救い主イエスがすでにその人々に目を留め、彼らを憐れみ、すでにその彼らに向かって手を差し伸べておられるからです。働き人を求めよと命じられましたが、そうすると、どんな働き人でもよいわけではなく、どういう働き方でもいいわけではありません。私たちの勝手ではないのです。「神さまの憐れみを伝え、差し出し、その人々に手渡し、受け取らせる働き人をこそ送り出してください」(38節参照)と収穫の主に願いなさいと主イエスはおっしゃいます。願い求めるなら、主はその願いをかなえてくださいます。あるいは、「この自分自身をその神さまの憐れみを差し出し、受け取らせる働き人にならせてください」と願い求めることもできるでしょう。弱り果て、バッタリと倒れている人たちや、今にも倒れそうになっている沢山の人々がいます。私たち自身も、度々そうなりました。どうして? どんなふうに弱り果てたり、倒れそうになったでしょうか。良い羊飼いからはぐれてしまうからです。自分自身が、主に養われる羊の群れの一匹一匹であることをうっかり忘れてしまうからです。迷子になって、羊飼いからも羊の群れからも度々遠く離れてしまったからです。そのとき、とうとう神の国はその人に近づきました。弱り果て、すっかり疲れ果てて、けれどその人は良い羊飼いのことをついにようやく思い出し、その声を聞き分け、差し出されつづけていたその憐れみを受け取って、大切にギュッと掴み取って、羊飼いのもとへと帰ってくることができるかも知れません。この自分自身が主に養われて生きる羊であることを、その人も私たち自身も、はっきりと思い起こすことができるかも知れません。そのとき、ついにあなたのためにも 天に大きな喜びがあるでしょう。しかも良い羊飼いである救い主イエス・キリストが、その迷子の弱り果てた羊を憐れんで、そのあなたを憐れに思って、探し回りつづけておられます。
(☆☆『羊飼いである神,その羊飼いに養われる羊である私たち』,23:1-4,100:1-3,イザヤ53:6,エゼキエル34:1-31,ルカ15:1-7,ヨハネ10:10-18,ペテロ手紙(1)2:21-25参照)




                                            
◎とりなしの祈り

 イエス・キリストの父なる神さま。神さまの御心によくよく信頼を寄せ、素直に聴き従って生きる私たちにならせてください。自分自身ではとても難しいですが、あなたには私たちにもさせることができます。そのことを、私たちにも今日こそ信じさせてください。
  御父よ、どうか平和を願い求め、平和を造り出し、建てあげてゆく私たちとならせてください。「平和のため」「平和貢献」などとただ美しいだけの言葉を並べ立てながら戦争を仕掛けていこうとする人々に、「それは間違っている。してはいけない」と立ち向かい、立ち塞がる勇気をこの私たちに、どうか今日こそ与えてください。なぜなら主イエスが、「私の平和をあなたがたに与える」「その平和があなたがたにあるように」と仰ったからです。罪の責任を問うことなく、私たちをゆるし、私たちを主イエスの平和の使者としてくださったからです。「神さまと和解させていただきなさい」と、この私たちのためにも何度も何度も仰ったからです。ですからまず私たち自身に、神さまとの平和を取り戻させてください。それから、私たちと身近な隣人たち、家族の一人一人と、友人たちと、学校や職場の仲間たちとの間に平和を造り出させてください。相性の悪い、付き合いづらいと内心苦手に思っている隣人たちとも、心安らかに付き合うこともできるようにさせてください。ほんのささいなことにも一つ一つ目くじらを立て、頑として言い張ったり、ついついトゲトゲしく振舞ってしまう私たちの貧しさと心の狭さを、どうか憐れんでください。主イエスからの平和を、私たちの頑固さや臆病さにこそ十分に注ぎかけてください。そのためにぜひ、へりくだった、低くてやわらかい心と聞き分ける耳を、この私たちにもぜひ贈り与えてください。そのあとで、広い世界にも私たちの目を向けさせてください。なぜなら主よ、おびただしい数の人々が置き去りにされ、片隅に押しのけられ、排除されつづけているからです。70年前とそっくり同じに。とても恥かしいことです。困りました。ですからまず私たちこそが ただ自分自身と家族のことばかりではなく、他の国や民族の隣人を、自分たちとは違う信仰や主義主張の隣人たちの在り方を尊ぶ者とならせてください。どうか今日こそ、自分の国や民族や自分自身を愛する以上に、その千倍も万倍も、他の国と他の民族を尊び、隣人を尊び、神さまの御心をこそ心を尽くし、力を尽くし、精神を尽くして愛し尊ぶ者たちとならせてください。神さまの十分なご支配(=国)とその正しいお働きに信頼し、それをこそ願い求め、あなたの慈しみの御心に従って生きる私たちであらせてください。手を差し伸べて、心細く暮らす隣人たちを助け、支え、その1人1人の幸いな暮らしを願い求めて生きる私たちにならせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン






8/16「心の貧しさ」~幸いである理由1~マタイ5:1-10

                                       みことば/2015,8,16(主日礼拝) № 20
◎礼拝説教 マタイ福音書 5:1-10                   日本キリスト教会 上田教会
『心の貧しさ』 ~幸いである理由.1~
   牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)
                        (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


  5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。                                 (マタイ福音書 5:1-4)


 この5章から7章の終わりまでは、『山上の説教』と呼ばれ慣れ親しまれてきた長い長いひと続きの、救い主イエスご自身による説教です。少しずつ区切りながら味わいっていきます。主イエスの教えの具体的な中身はここから始まりますが、その出発点は、417節です。「イエスは教えを宣べはじめて言われた『悔い改めよ、天国は近づいた』」。悔い改めは、腹の思いと在り方・考え方の大転換であり、グルリと180度、神さまへと向き直ることです。自分や周りの人間たちのことばかりああでもないこうでもないと思い煩いつづけ、「私は私は。今までこうやってきた」などと古い自分にしがみつき続けることを止め、その頑固さを投げ捨てることです。また、神ご自身のお働きと御心がどのような心なのかが、ここからいよいよ明らかにされていきます。
  主イエスは山に登り、座りました。弟子たちがそば近くに近寄り、主イエスと彼らを取り囲んで、おびただしい数の群衆も耳を傾け、目を凝らしています。弟子たちと、そして大勢の群衆に向かって、主イエスは教えはじめます。特に冒頭の、この3-10節はなんだか謎めいていて、分かりにくい。読んでスラスラ分かりましたか? なぜ、彼らは幸いなのか。どこがどう幸いなのか。「天国は彼らのもの」「慰められる」「地を受け継ぐ」「飽き足りる」「憐れみを受ける」「神を見る」「神の子と呼ばれる」とは何なのか。また、どうしてそうなのか。神さまから良い贈り物を受け取る善良で高潔な人々が列挙されている、かのように見えます。が、ただし最初の二つのグループ;「心の貧しい人たち」「悲しんでいる人たち」(3-4)だけが灰色です。それが果たして良い性質なのか悪い在り方なのか、どっちでもないのか。何か価値があるのかどうかも分かりません。けれど、その後に並べられる「柔和な人たち」「義に飢え乾いている人たち」「憐れみ深い人たち」「心の清い人たち」「平和を造り出す人たち」「義のために迫害されてきた人たち」はまるでいかにも皆、清らかで心優しく、正義と平和を求める善人たちである、かのように見える。すると、もし仮に、その方向性で全体を読み取ろうとするならば、すっかり辻褄があって都合がいい。だから、「心の貧しい人たち」は何か素直な謙遜さをもつ、へりくだった人たちだろう。「悲しんでいる人たち」も、理不尽な扱いを受けて悲しむ高潔で心優しく思いやり深い人々に違いない。すると1-12節の全体としても、『清らかで心優しく正義と平和を求める善人たちが、憐れみ深く正しい神さまから良い贈り物を受け取る』ことになる。とても分かりやすくて、道理にもかなっていて、都合がいいじゃないかと。
  5-10節に列挙されている高潔で素敵そうに見える人々の姿が本当にキリスト教会であり、私たちクリスチャンの実態でしょうか。それらの善人に幸いを贈り与えることが、神さまの、この世界と私たちに対する取り扱いでしょうか。ところで、この私たち自身は柔和でしょうか? 私たちはかなり憐れみ深いほうですか。……いいえ、違いますね。「まったく違う」;ここから始めるのでなければ、すっかり読み間違えてしまいます。だって誰でも、自分自身を振り返ってみればすぐに分かります。この私たちは決して柔和ではなかった。心がとても頑固で、了見が狭く、意固地でした。今でもそうです。私たちは憐れみ深いでしょうか。この私たちは、他人の二倍も三倍も格別に心が清いでしょうか。平和を精一杯に造り出そうとして、日夜奮闘しつづけてきたでしょうか。神さまご自身の義に飢え乾いて、そのために迫害されてきましたのか。むしろ、正しさや正義や公平を求める小さな人々を迫害したり、押しのけたりして来なかったでしょうか。むしろ切に願い求めたのは、もっぱら自分自身の正しさであり、世間様や人々から「この人は正しい。立派だ」と認められ、評価されることでした。それは多くの場合、隣人の正しさや神ご自身の正しさを押しのけようとする自己中心とエゴと偽善に過ぎませんでした(ローマ手紙10:1-4参照)では、どういうことになるでしょう。それらの良い行いのおかげで、私たち自身の心の清さと正しさのおかげで、神さまから良い贈り物を受け取りつづけてきたのでしょうか。当然の報酬や分け前のようにして。いいえ違います。しかも、聖書自身から教えられ、私たちが信じてきた神さまはどういう神さまでしたか? どういう救いの道筋でしたか。 罪人を憐れんで救う神さまだったはずです。救いは、正しい者たちへの当然の支払いなどではなく、罪のゆるしであり、ただただ恵みだったはずです。救われるに値しない、愚かで頑固で、我が強すぎる者たちが、にもかかわらず憐れみを受け、救われました。だからこそ、それはただ恵みの出来事であり、ただただ憐れみでした。聞き間違いのないようにクドクドと念入りに、聖書自身がこれをはっきりと断言してきました。ダニエルは祈りました、「われわれがあなたの前に祈りをささげるのは、われわれの義によるのではなく、ただあなたの大いなる憐れみによるのです。主よ、聞いてください。主よ、ゆるしてください。主よ、み心に留めて、おこなってください」。また主の弟子パウロも証言しました、「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」(ダニエル書9:18-19,ローマ手紙3:22-24)。差別も分け隔てもなく、ただ憐れみによって、価なしに、ただ神さまの恵みによってイエス・キリストを信じる信仰によってである。これが、聖書を読むときの「イロハのイ」であり、いつもの出発点です。

  では、頭のスイッチをすっかり切り替えましょう。3-10節まで全部、心が清らかで高潔で心優しい善人たちのことを言っているわけではない、かも知れない。さて今日の課題は、「心の貧しい人たち」と「悲しんでいる人たち」。この「悲しんでいる人たち」の悲しみの中身や原因・理由について、何一つ明かされていません。なにしろ、ただ悲しんでいると。『自分の側に何一つ落ち度も原因も責任もなく、ただ理不尽な仕方で不当な扱いを受け、不当に苦しみを与えられた。それで悲しんでいる』とは書いてありません。そうかもしれないし、そうではなかったかも知れない。善良な人たちだったかもしれないし、あるいは逆に、かなり身勝手で自己中心で他者を虐待したり押しのけたりする悪者だったかも知れません。どちらの場合に対しても、善人にも悪人に対しても、神さまはその人たちに慰めを差し出しつづけておられる。私たち人間のいつものモノの見方からすれば 理不尽な神さまであり、私たちの理屈や道理に合わない神さまです。だって私たちなら、そんな慰め方はしません。私たちの考え方ややり方とはずいぶん違う神さまです。「心の貧しい人たち」こそ、ピカイチに難しい言い方です。どういう人々のことを言っているのでしょう。月一回の佐久集会では、林勵三牧師の小説教集『マタイ福音書』(一麦社)を読み味わってきました。その中で林牧師は、「貧しい心を邦訳のあるものは『乞食』と訳している。乞食といえば仕事を失って明日の食べ物にも事欠く人のこと。そういう人は物乞いをします。乞食は施しを求めてもいい」(前掲書。p90-91)。自分自身のどうしようもない貧しさを隠さず、取り繕うこともせず、その貧しく低い場所から憐れみを求め、「罪人の私を憐れんでください。憐れんでください、憐れんでください」(ルカ18:13,マルコ10:47と神さまからの施しを請い求めている。それこそがクリスチャンの姿であると。
  さて、この1-10節がなぜ、このように謎めいているのか。どうして、人間中心の道徳のようにも受け取られやすいのか。ここで中心的で決定的な役割を担うはずの神ご自身の姿になかなか光が投げかけられないからです。まるで、わざと私たちの目を眩ませているかのように。けれど、神さまへと私たちの目も心も向けさせようとしています。3節と10節で、「天国は彼らのものである」。天国、神の国、共々に遠まわしな遠慮深い言い方で、神ご自身のお働きとご支配のことです。また8,9節でも、「神を見るであろう」「神の子と呼ばれるであろう」と。神ご自身がそれをさせ、神ご自身がそれをなさる。これこそが、1-12節を貫く唯一の答えです。乞食のように物乞いのように神さまに施しを求める者たちは、神ご自身のお働きの只中に招き入れられ、その恵みのご支配の中を生きる者とされる。また、その同じ憐れみ深い神さまこそが私たちに地を受け継がせ、正義と憐れみに飽き足りるほど満たす。憐れみ深い神こそが私たちに憐れみを与え、ご自身の姿を現して下さり、神の子たる身分を贈り与えてくださる。これが答えです。
 しかも兄弟たち。私たち自身について、先程質問いたしました。私たちは柔和でしょうか? 神さまご自身の義に飢え乾いて、そのために迫害されてきましたか。この私たちは憐れみ深いですか。この私たちは、人の二倍も三倍も格別に心が清いですか。平和を造り出してきましたかと。また、自分自身のどうしようもない貧しさを隠さず、取り繕うこともせず、その貧しく低い場所から憐れみを求め、「罪人の私を憐れんでください。憐れんでください、憐れんでください」(ルカ18:13,マルコ10:47と神さまからの施しを請い求めたのかどうか。いいえ、そういう人々も中には何人か混じっていたかも知れません。けれど私たちの大多数は、必ずしもそうでもありませんでした。それでもなお、私たちは憐れみを受け、神ご自身のお働きの只中に招き入れられ、その恵みのご支配の中を生きる者とされました。なんということでしょう。悲しむことは、それぞれにしてきました。けれど、悲しみを味わったおかげで慰めの神さまの御もとへと私たちが招き入れられたのかというと、どうでしょうか。そういう人もいたでしょう。そうではなかった多くの人々もいました。悲しみは二種類ある、と聖書は証言します。私たちを神さまへと向かわせる悲しみと、そうではない悲しみと。「たとい、あの手紙であなたがたを悲しませたとしても、わたしはそれを悔いていない。あの手紙がしばらくの間ではあるが、あなたがたを悲しませたのを見て悔いたとしても、今は喜んでいる。それは、あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めるに至ったからである。あなたがたがそのように悲しんだのは、神のみこころに添うたことであって、わたしたちからはなんの損害も受けなかったのである。神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる」(コリント手紙(2)7:8-10)。悲しみや嘆き、失望、落胆、苦しみ、それらのものがその人を神さまへと向かわせる場合がありました。けれど逆に、神さまからいっそう離れ去らせ、背を向けさせることもあったのです。それでもなお、どうしたわけか、この私たちはここにいます。驚くべきことが、神さまご自身の手で成し遂げられました。私たちは、心の貧しい幸いな人とは正反対でした。貧しさを隠し、見栄と虚勢を張り、自惚れて体裁を取り繕っていました。思い上がって、ずいぶん傲慢でもありました。どこに真実があるのかも知りませんでした。立ち帰るべきところがどこにあるのかも知らず、さまよっていました。心はしばしば頑固になりました。了見が狭く、意固地でした。今でも、まだまだそうです。神さまご自身の義に飢え乾いて、そのために迫害されてきたのか。いいえむしろ、正しさや正義や公平を求める小さな人々を迫害したり、押しのけていました。私たちは憐れみ深いでしょうか。この私たちは、他人の二倍も三倍も格別に心が清いでしょうか。平和を造り出そうとしてきたでしょうか。そうではありませんでした。まったく違いました。にもかかわらず、そうでありますのに、どうしたわけか私たちは神さまを見、神さまご自身からの親しい語りかけを聞きつづけました。神の子としていただきました。「信仰のない、あまりに不信仰な私を憐れんでください」と、神さまからの施しを請い求めることも、あまりしませんでした。それなのに、神ご自身のお働きの只中に招き入れられ、その恵みのご支配の中を生きる者とされました。もともと怒りの子らであった私たちに、憐れみ深い神こそが憐れみを与え、ご自身の姿を現して下さり、神の子たる身分を贈り与えてくださいました(エペソ2:3,ガラテヤ4:5,ローマ8:15)。私たちの側に恵みを受け取る準備が整っていたのではなかった。にもかかわらず神さまの側で、恵みを施し与える準備が整っていました。憐れみ深い神さまは、あなたのためにもこの私のためにも救いを施そうとして準備万端でありつづけました。        

本当に、なんという恵み、なんという驚きでしょう。

2015年8月11日火曜日

8/9こども説教「私も権威のもとにある!」マタイ8:5-13

  ◎こども説教  マタイ8:5-13                          2015,8,10
 『私も権威のもとにある 牧師 かねだせいじ

8:5 さて、イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、6 「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。7 イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。8 そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。9 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。10 イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。11 なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、12 この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。13 それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。
(マタイ福音書 8:5-13)

  そのころ、ユダヤの国はローマ帝国の植民地にされていました。徴税人が人々から憎まれていたのもバカにされていたのも、その集めた税金がローマ帝国のために使われるからだったし、嫌々渋々に税金を収めさせられていたユダヤ人たちは、本当はローマ帝国やその皇帝を憎んだりバカにしたかった。それができなかったので、その代わりに徴税人を憎んだり、バカにしたり除け者にしたりしました。八つ当たりですね。で、人々から嫌われ見下された徴税人たちや、ローマ帝国の、外国人である軍人の中からも主イエスを信じる人々が一人また一人と起こされていきます。そもそもの最初から、主イエスは、ユダヤ人のためだけの救い主ではなく、この世界のすべての生き物たちのための救い主なのです。主イエスのもとにやってきた「百卒長」は大きな責任を持たせられた、まあまあ偉いほうの軍人です。どれくらい偉いかというと、この名前のとおりに、100人の兵隊に指図する隊長です。その上に、1000人の兵隊に指図する隊長や10000人、100000人の兵隊を指図する隊長などもいますけどね。
  そんなことよりも、この百卒長の願いを聞いてその手下の一人の兵隊の病気を主イエスは治してあげました。そのとき、10節、「これほどの信仰を見たことがない」と主イエスは仰いました。ですから、何がどれほどなのか、どういうところが百卒長の信仰の良いところなのかと目を凝らしましょう。9節です。「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕(しもべ=手下、部下)に『これをせよ』と言えば、してくれる」。百卒長とこの部下の兵隊たちとの間柄は、神さまと私たちクリスチャンとの間柄とよく似たところがあります。兵隊が隊長に信頼して、「はい分かりました」と聴き従うように、私たちクリスチャンも神さまに信頼して、「はい分かりました」と聴き従うのです。それが神さまを信じて生きることの祝福だし、幸いの中身である(=神さまへの従順と信頼。ローマ手紙1:5,5:9,16:26,ピリピ手紙2:8)さて、この箇所全体で最も大切なことは、主イエスが百卒長の信仰を喜びながら、同時に、この私たちを見つめていること。私たちの、いつもの信仰の有様に目を留めておられますことです。10-12節で、主イエスが百卒長のこの信仰の姿を、「これほどの信仰は見たことがない」とまで仰って非常に喜んだこと。多くの人が東から西から来て天国で救われた者たちのお祝いの席に着くが、この国の子らは闇に追い出され、がっかりしたり泣いたりするだろうと。神さまの心が分かりますか? 神さまに信頼して生きるはずのクリスチャンが、「はい分かりました」と神さまに聴き従う。ごく普通の、当たり前のはずのことなのに、このごろ滅多にそういう姿をみたことがない。ぜひ見たいのになあ、と。一人の外国人にあるべき信仰の姿を見て喜びながら、同時に主イエスは、そうではない、信仰のあるべき喜ばしい姿から遠く離れてしまったクリスチャンたちのために、この私たちのためにも悲しみ嘆いています。あの彼のように、この私たちも、神さまに十分に信頼し、また「はい分かりましたア」と神さまに聴き従う者たちにならせていただきたいものです。                             





8/2こども説教「求めよ!捜せ!門を叩け!」マタイ7:7-12

 ◎こども説教 マタイ7:7-12                             2015,8,2
  『求めよ 捜せ 門を叩け   牧師 かねだせいじ

7:7 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。8 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。9 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。10 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。12 だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。              (マタイ福音書7:7-12)

  「ちょうだい」と手を差し出して求めなさい。そうすれば貰える。「どこにあるかなあ」と捜しなさい。そうしたら、あなたは自分が捜しているものをきっと見つける。「開けてちょうだい。コンコンコンコン」とドアをノックしなさい。そうしたら、ちゃんと開けてもらえる。求める者は、それを貰って受け取る。捜す者は、自分が捜しているものをきっと見つける。「開けてちょうだい。コンコンコンコン」とドアをノックする者は、ちゃんと開けてもらえる。だれでも必ずそうしてもらえる。聖書に書いてあるとおりですし、とても分かりやすい。子供には、「ああ本当、本当」とすぐに分かります。けれど、大きな大人や708090歳くらいのお年寄りには、ほんの少~し難しいかも知れません。ですから、ていねいに説明しましょう――
    一番大切なことは、「ちょうだい」と手を差し出している相手は天におられる父なる神さまだということです。あなたが捜しているものを持っているのは神さまだ、ということです。「開けてちょうだい。コンコンコンコン」とドアをノックしている、そのドアの向こう側でニコニコしながら待ち構えているのは、天におられる私たちの父なる神さまだということです。
 2  どういう神さまだったのかを、あなたはよ~く知っていましたね、ってことです。その神さまは親切で、心優しくて、あなたにも私にも良いものをぜひ贈り与えてあげたいとニコニコして、ワクワクしながら待ち構えていてくださるってことです。
 3  それでも、神さまがいくら親切で心優しくて、ぜひ良いものを贈り与えてあげたいと願ってくださっているとしても、ちっとも欲しいと思っていない人にはあげられない。もしあげても、「わあ嬉しいなあ」と受け取れないし、喜ぶこともできないからです。「なんだ。こんなもの」と、迷惑そうにポイとゴミ箱に投げ捨ててしまうかも知れません。だから、欲しいなあと思って手を差し出した人しか貰えません。たとえすぐ目の前に置いてあっても、「欲しいなあ」と捜した人しか目に入りません。ドアに鍵なんかかけてありませんでしたよ。それでも、中に入れてもらいたくて楽しみにして、「開けてちょうだい。コンコン」とドアをノックしてみる人だけが、「いらっしゃい。待ってましたよ」とドアを開けてもらって、中に入ることができます。本当です。
 4  その証拠に、「必死に求めなさい」とか、「しつこく一ヶ月でも半年でも何年も何年も、本気になって全力投球で捜しつづけなさい」とか、「そんなノックの仕方じゃダメ。生ぬるい。血がにじむまで、指の骨が折れて整形外科に通院したり、痛み止めの薬を朝昼晩と飲まなけりゃならないほど、ガンガンガンガンとドアをノックしなさい」などとはほんの一言も書いてありません。ね。「書いてあることを書いてあるままに素直に読む」とは、そういうことです。しかも私たちは、『どんな神さまなのか』をよく知っています。
 5  9-11節。子供の父さん母さんたちも、だいたいは同じようにしていたでしょと思い出させています。自分の子供を愛して、欲しがっている良いものをなんとかして与えてくれようとしたはずです。ときどき薄情な気持ちや意地悪な気持ちになって、あるいは何となくイライラして、冷たくしてしまうこともありました。ごめんなさいね。でも、だいたいは、良いものをあげようと精一杯に努力してくれたはずです。私たちの天の父なる神さまは、それより千倍も万倍も良いお父さんなので、私たちに良いものをくださらないはずがない。
   最後、12節のところは、少しだけ分かりにくい。「律法であり預言者だ」とは旧約聖書を呼ぶときのあだ名です。つまり聖書のことだし、神さまの御心はそういうことですよと言っています。あなたがしてほしいことは何? 親切にしてもらったり、悪いことをしてもゆるしてもらったり、助けてもらったり良いものを貰ったり。あなたも、神さまからたっぷりと良いものを貰ってきたでしょ。そしたら、同じように良いものをあげることができます。「ああ嬉しい。この人も、親切な心温かい人間に少しずつなってきた。ずいぶん優しくしてあげてきたけど、その甲斐があったなあ」と神さまも喜んでくださいます。では、あなた自身は、神さまに喜んでもらえることが好きですか? あなたに対して、神さまが心を痛めてガッカリなさるとき、どんな気持ちがしますか?悲しくなる? それとも別に何とも感じない?

(* 説明項目「」「」が同意しづらいかも。読み手の側に、それぞれ先入観があるからです。同じたとえ話を報告するルカ福音書11:9-13も同じ心ですが、その5-8節で「諦めず執拗に。しきりに」とあるため、9節以下も同じかと誤解しやすい。けれど違う 鍵は、「親心」)

7/26こども説教「まず!神の国と神の義を」マタイ6:25-31

 ◎こどものための短い説教 マタイ6:25-31              2015,7,26
 『まず 神の国と神の義を』 牧師 かねだせいじ

6:25 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。26 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。27 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。28 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。29 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。30 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。34 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。   (マタイ福音書 6:25-31)

  この聖書箇所を大人の人たちも大好きで、「自分の葬式のとき、ここでやっていただきたい」などとよく言われます。でも内容は案外むずかしくて、ずいぶん勘違いして受け止めている人も多いようです。それで、まず勘違いしやすいところを3点、説明しておきましょう――
  「空の鳥」や「野の花」に比べて、まるでいかにも、私たち人間のほうがはるかに優れていて上等で、彼らよりもっとご贔屓(=ひいき。自分が好意をもつ相手に特別に親切に、よくしてあげて、格別に手助けしたり応援したりすること)にあずかっている、その価値もある、かのように書いてあります(2630節「はるかに優れた者」「それ以上よくして」)。分かりやすく伝えようとしてこう書かれていますけど、違うんですよ。鳥も草花も、カエルもバッタもミミズも、神さまにとっては私たちと同じに大切で、大事にしていただいています。人間様だけが偉くて大事だと自惚れて わがまま勝手に、彼らに対して乱暴なヒドイことをしてはいけません(創世記1:31-2:3,9:8-17,12:1-3,レビ記25:1-28,マタイ24:45-51,コリント手紙(1)4:1-5,ローマ手紙8:19-22)。よくよく覚えていてください。
   最後のところ、「明日のことは明日自身が思い煩うであろう」。これも分かりやすく分かってもらおうとして、「今日。明日。明後日」という時間を、まるで生き物のように言い表しています。思い煩うのは誰? あなたや私、人それぞれに、ミミズはミミズなりに思い煩う? それもある。けれど実際には、あなたのためにも世界のためにも鳥やカエルやバッタやミミズのためにも、神さまこそが第一によくよく考えて、十分に手配をし、ちゃんとやってくださる。だから神さまにこそお任せしなさい、という意味です。
  全体的に、じゃあ、何を言われているか分かりますか? 「何を食べようか、何を飲もうか何を着ようかと、自分の命や毎日毎日の暮らしのことで思い煩うな」というんですね。「鳥や草花は全然働かなかったり、たとえ働いてるとしても、せいぜいほんのチョビットなのに、神さまがちゃんと面倒を見て、世話してくださっている」(26,28節「蒔くことも刈ることも」「働きもせず」)というんですね。じゃあ、どういうこと? 私たちは、どうやって暮らしていったらいいんですか? 何にも働かなくていい、というわけではありません。好き放題に気楽~にしてたら安心、ということでもないんです。もちろん子供も大人もお爺さんお婆さんも病人も、自分のできることを精一杯にし、それぞれに良く働きます。年老いて体が不自由になってベッドに寝たきりになっても、指一本動かせなくなったとしても、それでもなお、その人なりの良い働きをしつづけることができます。本当ですよ。

 さて皆さん。よ~く考えてみてください。2種類の働き方。「思い煩って、クヨクヨクヨクヨ心配しながら、ブツブツブツブツ文句を言いながら、自惚れたりひがんだり、他人を見下したり、『チェッ』とうらやんだり、嫌な気持ちで働く」より、「安心して、ワクワクしながら、感謝し喜びながら働く」ほうがいい。神さまに信頼し、神さまに願い求めて、『はい、分かりました。喜んでエ』と神さまに聴き従いながら働く」ほうが、千倍も万倍も素敵だということ。『まず 神の国と神の義を』と教えられているのは、そのことです。なにしろ神さまこそが、ちゃんと働いていてくださる。だから安心。だから嬉しい。「神さまに信頼し、神さまに願い求めて、『はい、分かりましたア』と神さまに聴き従いながら働けたら、あなたもきっと幸せになれます。だから、あなたもぜひそうしなさいね」と、主イエスから勧めていただいています。

◎とりなしの祈り

 イエス・キリストの父なる神さま。神さまの御心によくよく信頼を寄せ、素直に聴き従って生きる私たちになれますように。へりくだった、低くてやわらかい心と聞き分ける耳を、この私たちにもぜひ贈り与えてください。あなたに聴き従うより他人に聴き従ってしまう臆病さとズルさを、私たちから取り除いてください。自分の考えややり方に相手を無理矢理にも従わせようとするとき、その自分勝手さを、自分で恥ずかしく思えますように。
 なぜなら神さま。闇が世界を覆い、死の陰の土地に私たちは住んでいるからです。この国はわがままで無責任な、とても悪い国になろうとしています。自分たちさえよければ、力づくて他の人たちを押しのけていいと思い込もうとしています。70年前とそっくり同じです。政治家や資本家たちだけではなくて、お金持ちや電力会社だけではなく、ごく普通の大人たちも子供も私たちの多くが。とても恥かしいことです。困りました。ですからまず私たちこそが ただ自分自身と家族のことばかりではなく、隣人を心から愛し、尊ぶ者とならせてください。どうか今日こそ、自分を愛する以上に、その千倍も万倍も、神さまの御心をこそ尊ぶ者たちとならせてください。この上田教会や日本キリスト教会のことばかりではなく、ただ日本人のことばかりではなく、日本に暮らす出稼ぎの外国人労働者とその家族を大切に思わせてください。たとえ自分の家の子供でなくても、自分と同じ国の同じ民族の子供でなくたって、どの一人の子供も若者たちも、必要で十分な愛情と保護をたっぷりと受け、将来への希望と喜びをもって毎日を安心して暮らせるようにさせてください。彼らのためにも私たち自身のためにも、神さまの十分なご支配(=国)とその正しいお働きをこそ願い求め、あなたの慈しみの御心にこそ従って生きる私たちであらせてください。手を差し伸べて、心細く暮らす隣人たちを助け、支え、その1人1人の幸いな暮らしを願い求めて生きる私たちにならせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン


7/19こども説教「わたしたちは地の塩、世の光」マタイ5:13-16

◎こどものための短い説教 マタイ福音書5:13-16
  『わたしたちは地の塩、世の光』        牧師 かねだせいじ

5:13 あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。14 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。15 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
(マタイ福音書 5:13-16)

2:9「光の中にいる」と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。10 兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。11 兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである。12 子たちよ。あなたがたにこれを書きおくるのは、御名のゆえに、あなたがたの多くの罪がゆるされたからである。
(ヨハネ手紙(1)2:9-12)

 まず塩のことを話します。甘いものは好きですか? 大福餅とかしることか団子とか、食べたことがある? ふうん。じゃあ塩大福とか、塩しることか塩団子、塩まんじゅう。それじゃあ、塩大福餅は甘いか塩っぱいか? 塩っぱい? 皆さんは知らないでしょうけど、しるこやアンコを作ったり、あずきを炊くとき、少し塩を入れます。すると、どうしたわけか、かえって甘く美味しくなります。この間、ものすごくおいしい漬物を食べさせてもらったことがあります。なすびと、かぶと、瓜と菜っ葉の。おいしかった。お母さんかおばあちゃんが漬物をつけるところを見たことがありますか。漬物に塩をふりかけて重い大きな石を載せておきます。知らんぷりをして、放っておきます。しばらくすると、しんなり柔らかくなって、おいしい漬物になります。塩をかけるとおいしくなるだけでなく、その食べ物は、塩のおかげで腐らないで長持ちします。塩辛とか、塩魚とか。聖書は勧めます「いつも、塩で味付けられた、やさしい言葉を使いなさい」(コロサイ手紙4:6)私たちは漬物のようです。聖書の言葉を自分の体にふりかけられて、頭の上に重い石を乗っけられて、しばら~くするとおいしい漬物になります。しんなり柔らかくなるし、ワガママ勝手で頑固なトゲトゲしいところがだんだんと少なくなっていって、やさしく親切な、思いやり深い人間にされていきます。
 地の塩だし、世のための光だと言われています。それはなにしろ、救い主イエス・キリストこそが、この世界を照らす、明るく輝く光だからです(ヨハネ1:9,8:12,テサロニケ(1)5:5,イザヤ60:1)主イエスから教えていただいて、主イエスに聴き従って生きているので、それで私たちも、主イエスの光を鏡のように反射して、その明るい光で自分自身や周りを明るく照らすようになります。これが神さまからの約束です。主イエスからの明るい光に照らされて、するとまず、自分自身がどうやって毎日毎日暮らしているか、何をしているのか、どんな態度で人と付き合っているかがよく分かるようになります。自分がしている良いことも、悪いことも。聖書はこう言っていました;「『光の中にいる』と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである」(ヨハネ手紙(1)2:9-11)ああ、そうだったのか。強情を張って、わがまま勝手で頑固になっていたとき、神さまの光は私たちにあまり届いていませんでした。かえって、自分だけの薄暗い闇の中に小さ~くなって閉じこもっていました。心の中も、真っ暗でした。「私が私が」と強情を張るのを止めて、やさしい素直な心を取り戻したとき、親切な思いやり深い気持ちを取り戻したとき、やっと、神さまのもとに戻ってきていたのです。すると自分自身も、まわりの家族も友だち皆も、嬉しい気持ちになりました。
主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます

(使徒16:31)

7/12 こども説教「網と船と父を」マタイ4:18-22

◎こどものための短い説教 
マタイふくいんしょ 4:18-22  
           『網と舟と父をおいて、
主イエスに従う』 牧師 かねだせいじ

 4:18 さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。19 イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。20 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。21 そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、22 すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。              (マタイ福音書 4:18-22)

  先週やっと大人の説教が追いついたんですが、子供のための説教がまた駆け足になって、大人の説教を後に残して、どんどん進んでいきます。大人の説教はゆっくり進んでいきます)。

  救い主イエスは、洗礼を受け、荒野で悪魔から三つの誘惑を受け、そして12人の弟子たちを招きます。まず最初には、田舎の湖で魚をとって暮らす貧しい4人の漁師たち。シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ。シモンは「ペテロと呼ばれたシモン」と、わざわざ書いてあります。「ペテロ」はあだ名で、岩という意味です。岩のように堅くて重くてがっちりしていて、風が吹いても波がザブ~ンと打ち寄せてもびくともしないって意味です。ここには詳しく書いてありませんが、しかも主イエスご自身がシモンにこの「岩」というあだ名をつけてくださいました(ヨハネ1:42,マタイ16:18)。何があってもビクともしない、しっかりした堅くて頑丈な人間なんて、どこにも、ただの一人もいません。教会で、ちゃんとそういうふうに習い覚えてきました(ローマ手紙3:9-,創世記8:21-,テモテ手紙(1)1:15-)。そういうことをよくよく分かった上で、主イエスがシモンさんに「あなたを今日から岩と呼ぶ。堅くて重くてがっちりしていて、風が吹いても波がザブ~ンと打ち寄せてもびくともしないものに、この私が、あなたを、しっかりした堅い岩にならせてあげる」と約束なさったのです。ペテロだけじゃなく、クリスチャンは皆、岩にならせてえもらえます。どんなふうに岩のようになるのか、これからよくよく眺めていきましょう。
  主イエスはこの4人に、「私についてきなさい。あなたがたを人間を獲る漁師にしてあげよう」と招きました。今まで彼らは小舟で湖の中に漕ぎ出して網を打って、魚をつかまえていました。これからはこの広い世界の中に漕ぎ出していって、「神さまの網」を投げて、「人間たちを神さまの恵みの中へと捕まえ入れてあげる」、「神さまに仕える漁師」の仕事をさせるというのです。
  「すぐに従った」「すぐに従った」(20,22)と書いてありますね。聖書の中には、主イエスを信じる人たちが「すぐに従った」場合と、「かなりしばら~くして従った」場合と両方が書いてあります。私たちの場合も「すぐに従う」場合と、「かなりしばら~くして」という場合と両方があります。さて、弟子たちは網と舟と父を後において、手ぶらで、主イエスに従いました。どうしてだか分かりますか? 網も舟も父親も、とても頼りになるからです。網と舟があるので、困らずに食べて生活していくことができます。頼りになる父親がそばに付いていてくれるので安心して暮らしていけるし、困ったことやどうしていいか分からないことが起こると「お父さん、困りました。助けてください。どうしたらいいでしょうか」と相談したり、助けてもらうこともできます。それらは頼みの綱であり、支えであり、困ったときの心強い味方だったし、「これがあるから生きていける」という格別な安心材料でした。じゃあ網も舟も父親も後に残してきたら、どうしたらいいんでしょう。困ったとき、どうしていいか分からないとき、心細くて心配で、とてもとてもオッカナイとき そのとき、主イエスに従って生きていく私たちクリスチャンは、これからは誰に相談したり、誰に助けてもらえばいいでしょう。誰を支えにして、いったい誰の教えや指図に従って生きていけばいいでしょう?

(○○くん、どう思う? ……じゃあ、おかあさんに聞いてもいいし、ねえさんたちに聞いても、おしえてもらえるよ。うしろに座っているおじいさん、おばあさんたちの誰に聞いても、ちゃんと誰でも教えてくれる。だって、クリスチャンみんなが、よくよく分かっていることなんでね。本当のことですよ)