2018年4月11日水曜日

4/8こども説教「神のものは神に返しなさい」ルカ20:19-26


 4/8 こども説教 ルカ20:19-26
 『神のものは神に返しなさい』

20:19 このとき、律法学者たちや 祭司長たちはイエスに手をかけようと思ったが、民衆を恐れた。いまの譬が自分たちに当てて語られたのだと、悟ったからである。20 そこで、彼らは機会をうかがい、義人を装うまわし者どもを送って、イエスを総督の支配と権威とに引き渡すため、その言葉じりを捕えさせようとした。21 彼らは尋ねて言った、「先生、わたしたちは、あなたの語り教えられることが正しく、また、あなたは分け隔てをなさらず、真理に基いて神の道を教えておられることを、承知しています。22 ところで、カイザルに貢を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。23 イエスは彼らの悪巧みを見破って言われた、24 「デナリを見せなさい。それにあるのは、だれの肖像、だれの記号なのか」。「カイザルのです」と、彼らが答えた。25 するとイエスは彼らに言われた、「それなら、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。26 そこで彼らは、民衆の前でイエスの言葉じりを捕えることができず、その答えに驚嘆して、黙ってしまった。
(ルカ福音書 20:19-26

主イエスを困らせようとして質問する者たちが来ました。それは、とても大切な良い質問で、私たちも自分自身のこととしてよくよく考えてみるに値します。「カイザル」とは、ユダヤを支配しているローマ帝国の王様です。力づくで言いなりにされ、踏みつけにされつづけるのはユダヤ人たちは大嫌いでした。私たちも、誰でもそうですね。だからローマ帝国の王様になんか税金を支払いたくなかった。けれど、「税金を払わなくていい」と答えれば、ローマ帝国に逆らうことになって捕まえられてしまう。「いや、支払うべきだ」と答えれば、他のユダヤ人から憎まれる。どっちを答えても、イエスを困らせることができるのです。彼らのもっているお金を確かめてみました。それはローマ帝国が発行したローマ帝国のお金でした。「ローマ帝国のお金ならローマに返せば良い。神のものなら神に返したらいい」と主イエスは答えました。
 それなら、私たちそれぞれがもっているお金や財産や宝物はいったい誰のものでしょうか? 主イエスが教えてくださった主の祈りの中の4番目の祈りは、「私たちが生きるために必要な一日ずつの糧をどうか今日も与えてください」です。神さまから必要なもの全部を贈り与えられて生きている私たちです。つまり、私たちが持っているお金や財産や宝物は、何から何まですっかり全部、神さまのものです。その贈り物をひととき預かって、生きるために使わせていただいています。安心して使っていていいですよ。ただし、『やがて時が来て、私たちの財産も生命も、すっかり全部を神さまにお返しする私たちだ』と、よくよく覚えておきましょう。裸で生まれてきた私たちですから、やがて裸で何も持たずに、神さまのもとへと帰る私たちです。


4/8「剣や棒をもって」マタイ26:47-56


            みことば/2018,4,8(復活節第2主日の礼拝)  157
◎礼拝説教 マタイ福音書 26:47-56               日本キリスト教会 上田教会
『剣や棒をもって』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

26:47 そして、イエスがまだ話しておられるうちに、そこに、十二弟子のひとりのユダがきた。また祭司長、民の長老たちから送られた大ぜいの群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。48 イエスを裏切った者が、あらかじめ彼らに、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と合図をしておいた。49 彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。50 しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。このとき、人々は進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。51 すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した。52 そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。53 それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。54 しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。55 そのとき、イエスは群衆に言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。56 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。 (マタイ福音書 26:47-56)


救い主イエスが十字架におかかりになるその前の晩のことです。弟子たちと最後の大事な食事をし、ゲッセマネの園で祈りの格闘をし、その直後に同じ場所で、主イエスと弟子たちは敵対者たちに取り囲まれます。しかもその人々は剣と棒によって武装した者たちです。主イエスは、あらかじめご自身の十字架の死と復活を御父との間で決めて、よくよく知っておられました。自分で知っておられただけじゃなく、「あなたがたもちゃんと知って、分かっているように」と弟子たちに繰り返し繰り返し予告なさいました(マタイ福音書16:21-,17:22-,20:17-19。主イエスは、剣や棒をもって大勢で迫ってくる者たちに、力で対抗しようとはなさいませんでした。主イエスの弟子たち。ここで救い主は、あまりに無力で無防備な姿をさらしています。救い主イエスが準備しておられた《神の国》は、剣や棒や、強く大きく賢くあろうとする者たちの願いや欲求とはずいぶんかけ離れたものでした。まるっきり違うのです。彼は、ただ捕えられ、ただ引き渡されていきます。ほふり場に引かれてゆく小羊のように。毛を切る者の前で物言わない羊のように、彼は、ただ捕えられ、ただ裁きを受け、ただただ命を投げ出そうとしています。この方のこの無力さ、この無防備さに、私たちは以前にも出会ったことがあります。最初のクリスマスの夜の出来事です。泊まる宿もなく、村の片隅の、家畜小屋のエサ箱の中に、この方はご自身の小さく無防備な赤ちゃんの身を横たえました。裸んぼうで、ただ布切れ一枚にくるまって。およそ500年ほど前のこと、宗教改革を戦った1人の伝道者は、「この赤ちゃんを見なさい」と指さしました。「この赤ちゃんのものではないものはこの世界に一つとしてないのです。これは、あなたがたの良心が彼を恐れることなく、彼のうちに慰めを見出すためなのです。神さまは、あなたがたが彼のうちに避け所を見出すようにと、あなたの前にこの赤ちゃんを置かれるのです。誰にも、彼を恐れはばかることはできません。……神さまの慈悲は何よりもまず、あなたが絶望しないことを望まれます。彼を信じなさい。彼を信じなさい」(M.ルター『クリスマスブック』,新教出版社,p61)。クリスマスの夜ばかりではなく、一年中、私たちはこの特別な赤ちゃんの姿を思い起こしたいのです。家畜小屋のエサ箱の中に置かれた救い主イエスの姿を。


  55節;「あなたがたは強盗に向かうように、剣や棒をもって私を捕らえにきたのか」。祭司長や民の長老たちから送られてきた大勢の群衆に向かって、主イエスは仰っています。そして裏切ったユダに対しても。いいえ それだけではなく、弟子たちを振り返って、またここにいるこの私たちを振り返って、主は同じことを仰います。「その手に後生大事に握っているものは何だ? どういうつもりか。ずいぶん長く私に従ってきたはずなのに、そのあなたまでもが剣や棒を持つのか。手持無沙汰なように、心細そうに、何か身を守る道具はないかといかにも物欲しげにキョロキョロ見回しているのか。まさか剣や棒によって、私やあなたがた自身を守ろうとでも考えているのか」。私たちは何ほどの者でしょうか? ゆるされた罪人たちよ。ゆるされてなお罪深くありつづける小さな小さな者たちよ。この世界は、実は《剣や棒を握るものたちの王国》でありつづけます。互いに押したり引いたり、見栄や虚勢を張り合ったりしあう。強さや由緒正しい格調の高さや多数であることや、自慢できる得意な何かをもっていることが、その王国で勝ち抜いていくためのルールでありつづけます。教会の中でも外でも()、強さと数の多さがその勢力を決定づけるのであり、優れていなければ、にぎやかに繁盛していなければ、せめて人並みでなければ、ひどく肩身が狭い。そこで、いつも私たちは選択を迫られます――
  ①剣や棒をもつ。丈夫で役に立つ道具を、1つでも多く手に入れる。 ②怖気づいて、散り散りに逃げ去ってしまう。あるいは、③人間からのものではないまったく新しい別の、つまり神ご自身の《強さ,権威》のもとに立つか。
あのお独りの方は、剣でもなく棒でもなく、人間たちの力の強さや数の多さでもない《権威》を携えて来られました。主イエスは律法学者や他のどんな大臣や先生たちともまったく違って、本当に権威ある者として、神ご自身からの権威を担って教えられたので、だから人々はひどく驚きました。驚きつづけます(マタイ7:28-28。だからこそ剣や棒など持たなくても、手ぶらでも、自慢できるような才能や得意なものを何一つ見出せなくても、この方のもとに立つことがゆるされます。いいえ、むしろ、剣や棒や強さや数の多さに目が眩んだままでは、この方の《強さ,権威》に気づくことができません。この後ごいっしょに歌います讃美歌3331954年版)は、不思議な安らかさを歌っていました。あまりに逆説。アベコベで裏腹な真実です。333番の1節、「主よ、どうか私をがっちりと捕まえていてください。そうすれば、私の心は解き放たれて、自由になることができます。私が握っているこの剣を、今にも相手に向かって振り降ろそうとしているこの刃を、どうか粉々に打ち砕いてください。そうすれば、こんな私であっても、私を苦しめ悩ませている敵に打ち勝つことができるでしょうから」。え? 剣や棒を握るのでなしに、どうやって打ち勝てるというのか。だから、52節です。「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者は皆、剣で滅びる」。他の人々に対してではなく、主イエスは特にご自分の弟子である私たちに向かってこう仰り、このように警告なさいました。人間的な力や権威や世間様からの良い評判、見栄を張り、体裁を取り繕おうとする心、由緒正しい伝統、格式の高さなどによってではなく、ただただ主イエスの権威によってだけ立つようにと。そうでなければ、キリストの教会と私たちクリスチャンは滅びると。人間からの、人間たちの間での権威か、それとも神ご自身からの権威のもとに立つのか? 両方はなく、どちらか一方しか選ぶことができません。もしかして、私の敵、私を苦しめ悩ませている敵の正体は、この私だったのか。私自身の心の中にこそ、私を苦しめる手強い敵が巣くっていたのか。

  わが心は定かならず、
  吹く風のごとく絶えず変わる(2節)
    わが力は弱く乏し、
  暗きにさまよい道に悩む   3節)

 2節、「私の心は定かではありません。吹く風のようにコロコロコロコロと移り変わってゆきます。ほんの小さな風が吹き、さざ波が立ちます。すると安心したり、心配になったり、満足して喜んだかと思えば、ほんのささいなことでもう悲しみ嘆いている。ですから主よ、あなたご自身の手で私の手をしっかりと掴んで引っ張っていくように、連れていってください。そうすれば、こんな危うい気もそぞろな私であっても、まっすぐな晴々した道を歩いてゆくことができるでしょうから」。2節、3節は共に、やはり自分自身の不確かさや危うさや弱さを振り返っています。そこから、神に願い求めることをしはじめていますね。むしろ、その心細げな低い場所からでなければ、誰1人も神さまに本気で願い求めることなど出来なかったのです。私たちの信仰の出発点がここにあります。4節の末尾;「そうすれば、永遠の平安を受け取るでしょう」。「永遠の」に含まれる意味は、「ずっといつまでも続く」ことと共に、「いつでもどこでも、どんな場合にも誰と一緒のときでも」という広がりと確かさを含みもちます。その広がりと確かさを自分自身のこととして知っているし、信じているので、それで「どうか主よ」と願っています。この333番のことを1人の友だちに打ち明けたことがあります。「教会に立ち戻ってきて、神さまを信じて生きるようになったその初めの頃から、この333番が自分にとってとてもとても大切なんだ。困り果てたときのお守りみたいなものだし、神さまと自分のことを教えてくれる特別な家庭教師みたいで、心を支えてくれる用心棒みたいで、歌うたびに、ああこういうことだったと教えてもらえる。それで100回でも200回でも、朝も昼も晩も、この歌を口ずさみつづけている」。するとその友だちは、「え、そうですか。嬉しいなあ。実は私も、この歌なんです。学生時代に心を捕らえられて以来ずっと長い間、大事な讃美歌の一つなんですよ」と。主よ、どうか私をがっちりと捕まえていてください。そうすれば、私の心は解き放たれて自由になることができます。私が握っているこの剣を、今にも相手に向かって振り降ろそうとしているこの刃を、どうか粉々に打ち砕いてください。そうすれば、こんな私であっても私を苦しめ悩ませている敵に打ち勝つことができるでしょうから。

             ◇

  主イエスは捕らえられ、引き渡されてゆきました。このことをあらかじめ預言して、イザヤ書53:6ではとても厳しいことが語られていました。「われわれはみな羊のように道に迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上に置かれた」と。そのわたしたちの不義、罪。たとえ私たちが《羊の群れ》のようであって、その眼差しの低さと了見の狭さ、自分勝手さによって、またその弱さや臆病さのせいで道を誤ってしまったとしても、たとえそうだとしても、それらは私たち自身の不義であり、罪だったのです。どこから来て、どこへと向かっているのかを見失い、そのためにこそ神さまからも、いっしょに生きるはずの人々からも、あるべき自分自身からもはぐれて、迷いだし、おのおのの道に向かって行き、そこで誰かを傷つけたり、誰かから傷つけられたり、誰かを苦しめたり、あるいは苦しめられたとしても、たとえそうだとしても、それらは償われるべき不義の結果でした。私たちの主イエスは、刺し貫かれ、打ち砕かれました。それは私たちのすべての背きと不義を担ってくださるためでした。それは私たちが安らかに平和に暮らすためであり、この私たちもまた癒されて、神の憐れみのもとへと立ち返って生きるためでした。主イエスは軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みと恥と苦しみを背負い、病いを知ってくださいました。あなたの痛み、私たちの病いが、主の体に深々と刻まれました。
  主イエスを見捨てて、弟子たち皆が逃げ出しました。けれども主イエスご自身は、決して彼らを見捨てませんでした。あの弟子たちも私たちも、主を愛したり尊んだりすることに失敗しつづけましたが、主ご自身はなお私たちを愛することをお止めになりませんでした。やがてこの主のもとに私たちは再び呼び集められます。そのとき、主を見捨ててしまったことも、手ぶらで逃げたことも、手ぶらのままで再び主のもとに呼び集められたことも、新しい意味を帯びて、まったく別の驚きをもって、私たちの魂に、キリスト教会の歴史に深々と刻まれたのです。主の弟子たちは裸で手ぶらでしたが、もう恥ずかしがりはしません。恐れもしません。物欲しそうに、心細そうに、周囲の誰彼を見比べることもしません。主ご自身のものであるキリスト教会は、神さまの御前に、またこの世界に対しても、裸であり手ぶらであって、けれどそれを恥とはしません。主のものである私たちは、1人の伝道者も、1人のクリスチャンとしても、なお裸であり、何をもってしても着飾ることもできず、取り繕うこともできないと知らされ、身を隠すべき木立もなく、腰を覆い隠すべき小さな葉っぱも虚しいと告げられ、「そんなものは下らん。つまらない。直ちに投げ捨ててしまえ」と叱られ、けれどなお恥じることなく、ほんのわずかも恐れることもなく、ビクビクして身を隠す必要もありません。なぜなら、慈しみ深い神さまは「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る。あなたは土から取られたのだから。あなたは塵だから塵に帰る」とアダムとエバに語りかけたあと、二人に皮の着物を造ってを着せかけてくださいました(創世記3:19-21。それだけでなく私たちにも、特別仕立ての着物を作り、私たちのこの裸の身体を覆ってくださったからです。他には、この私たちの哀れさや心細さや恥ずかしさを覆うものなど何もありません。隠され、秘められたもので、明るみに出されないものなど何一つもありません。すっかり丸ごと見通しておられる方があります。神さまの眼差しの中に、この私自身の愛の乏しさも、かたくなさも強情も、憎しみも傲慢さも、卑屈さもズルさもあらわにされ、すっかり知り尽くされていました。しかも、そこに《神さまの憐れみとゆるしの衣》が掛けられ、今ではすっかりと覆われてしまっているではありませんか。私たちは今や、その裸の上に、一枚の衣をまとっています。ご自分の衣をすっかり脱いで、つまり自分は裸になって、それを私たちに着せかけてくださったただお独りの方がおられるからです。救い主イエス・キリストが。「さあ、これを着なさい」と。私たちは驚き、目を見張ります。裸になってくださった救い主イエスの義の衣(ローマ手紙3:21-,ハイデルベルグ信仰問答.問60に。「なぜなら」と何度でも何度でも、いつまででも、同じ一つの答えを答えたい。兄弟や家族に向かっても、この私自身の魂に向かっても。
なぜなら、なぜなら。なぜなら、あの丘の上に。あの十字に組み合わされた木の上に、あの独りのお方が命を献げてくださったのだからと。


2018年4月4日水曜日

4/1こども説教「悪い農夫をどうしたか?」ルカ20:9-18


 4/1 こども版 ルカ20:9-18
 『悪い農夫たちをどうしたか?』

20:9 そこでイエスは次の譬を民衆に語り出された、「ある人がぶどう園を造って農夫たちに貸し、長い旅に出た。10 季節になったので、農夫たちのところへ、ひとりの僕を送って、ぶどう園の収穫の分け前を出させようとした。ところが、農夫たちは、その僕を袋だたきにし、から手で帰らせた。11 そこで彼はもうひとりの僕を送った。彼らはその僕も袋だたきにし、侮辱を加えて、から手で帰らせた。12 そこで更に三人目の者を送ったが、彼らはこの者も、傷を負わせて追い出した。13 ぶどう園の主人は言った、『どうしようか。そうだ、わたしの愛子をつかわそう。これなら、たぶん敬ってくれるだろう』。14 ところが、農夫たちは彼を見ると、『あれはあと取りだ。あれを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ』と互に話し合い、15 彼をぶどう園の外に追い出して殺した。そのさい、ぶどう園の主人は、彼らをどうするだろうか。16 彼は出てきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう」。人々はこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。17 そこで、イエスは彼らを見つめて言われた、「それでは、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった』と書いてあるのは、どういうことか。18 すべてその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。       (ルカ福音書 20:9-18

 主イエスの口から、たとえ話によって大切なことが語られました。
ぶどう園の主人は神さまです。ぶどう園はこの世界全部であり、そうではない場所などどこにもありません。すべてのキリスト教会も、この上田教会も、もちろん神のものであるぶどう園です。悪い農夫たちは本当にとても悪くて、ご主人に背いてばかりで、ぶどう園を自分たちのものにしようとしつづけます。主人のもとから遣わされたしもべたちは「収穫もぶどう園も主人にお返しするように」と語りかけましたが、殴ったり蹴ったり袋叩きにされて追い返されつづけました。これが預言者たちです。やがて遣わされてきた主人の一人息子さえ殺されてしまいました。それが救い主イエス・キリストです。15節、「ぶどう園の主人はこの悪い農夫たちをどうするか?」と主イエスご自身から問いかけられました。その答えを、大人も子供も聞かされつづけてきました。主人に逆らってばかりいる悪い農夫のことを『罪人』と言います。私たちクリスチャンも含めて、誰も彼もが神さまに逆らう罪人です。けれど心の優しい神さまはその私たちを可哀想に思って、ぶどう園の外に追い出すことも殺すこともなさいませんでした(注1)。それどころか 悪い農夫たちをそのままぶどう園に住まわせ、彼らにそこで働かせ続け、その世話を彼らに任せつづけています。やがてとても良いぶどう園になってゆくことを、また主人の愛する跡取り息子を心底から敬って生きる農夫たちになってもらいたいと願いながら。
もし誰かが、「その悪い農夫は私のことだ。ああ何てことだ。本当にゴメンなさい。ありがとうございます」と気づくなら、とうとう主イエスの石(ダニエル書2:34,45,17-18節を参照;「捨てた石」「隅のかしら石」「その石」)がその人の上に落ちて、その人の頑固な心がこなごなに打ち砕かれたのです(注2)。それならそのとても悪い農夫もたち、主イエスを信じて生きることをし始められるかも知れません。                  

         【補足/罪人を救う神,
あわれみを受け、ゆるされて救われる罪人】 
(注1)      罪人を救う神であり、あわれみを受け、ゆるされて救われる罪人です。そうではない救われ方はどこにも存在しません。私たちは皆、誰もが例外なく、罪をゆるされ、罪から解放されて救われるべき憐れな罪人です。これが、聖書が語りつづける根源の道理であり、救いの中身と道筋です。しかも、「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」(テモテ手紙(1) 1:15)のです。もし、「自分には罪はない。あってもごく軽微だ」などと言い張るクリスチャンがいるとするなら、その人は、信仰の本質も中身もすっかり分からなくなって、どんな神なのかをすっかり見失っています。
(注2)      18節のすべてその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」は、とても謎めいています。ここを読んですぐに詩篇51:17-19を思い起こしました。「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」。打ち砕かれてくださった救い主が、私たちの頑なで強情な心を打ち砕いてくださいます。古い罪の自分と死に別れさせ、神に向かって新しく生きる者とさせる。神ご自身が私たちに対しても、それをしてくださいます。悪い農夫だった私たちをぶどう園の主人である神は殺しませんでした。その代わりに、悪い私たちの罪と肉の思いを殺し、葬り去ってくださるのです。神の御心に従って生きる新しい農夫とするために(ローマ手紙6:1-19,同8:1-16を参照)。うわおっ。

4/1「よろこびの旅路」使徒行伝8:26-39


             みことば/2018,4,1(イースターの礼拝)  156
◎礼拝説教 使徒行伝 8:26-40                   日本キリスト教会 上田教会
『よろこびの旅路』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

8:26 しかし、主の使がピリポにむかって言った、「立って南方に行き、
エルサレムからガザへ下る道に出なさい」(このガザは、今は荒れはてて
いる)。27 そこで、彼は立って出かけた。すると、ちょうど、エチオピ
ヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財宝全部を管理していた宦官である
エチオピヤ人が、礼拝のためエルサレムに上り、28 その帰途についていた
ところであった。彼は自分の馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
29 御霊がピリポに「進み寄って、あの馬車に並んで行きなさい」と言った。
30 そこでピリポが駆けて行くと、預言者イザヤの書を読んでいるその人の
声が聞えたので、「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」と尋ね
た。31 彼は「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりま
しょう」と答えた。そして、馬車に乗って一緒にすわるようにと、ピリポに
すすめた。32 彼が読んでいた聖書の箇所は、これであった、
「彼は、ほふり場に引かれて行く羊のように、また、黙々として、
毛を刈る者の前に立つ小羊のように、口を開かない。
33 彼は、いやしめられて、そのさばきも行われなかった。
だれが、彼の子孫のことを語ることができようか、
彼の命が地上から取り去られているからには」。
34 宦官はピリポにむかって言った、「お尋ねしますが、ここで預言者はだれの
ことを言っているのですか。自分のことですか、それとも、だれかほかの人の
ことですか」。35 そこでピリポは口を開き、この聖句から説き起して、イエス
のことを宣べ伝えた。36 道を進んで行くうちに、水のある所にきたので、宦官
が言った、「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、なんの
さしつかえがありますか」。37 〔これに対して、ピリポは、「あなたがまごこ
ろから信じるなら、受けてさしつかえはありません」と言った。すると、彼は
「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます」と答えた。〕38 そこで
車をとめさせ、ピリポと宦官と、ふたりとも、水の中に降りて行き、ピリポが
宦官にバプテスマを授けた。39 ふたりが水から上がると、主の霊がピリポを
さらって行ったので、宦官はもう彼を見ることができなかった。宦官はよろこ
びながら旅をつづけた。
                    (使徒行伝 8:26-39)
                                           




































  26-31節。エチオピア人の宦官は、礼拝に出かけて行くときにも帰るときにも、「荒れはてた道。さびしい道」(26)を通っていました。彼が歩いて生きてきた道それ自体が、「荒れはてた道。さびしく心細い道」でした。ところで、「宦官(かんがん)」という職業を知っていますか。その人は国中の全財産の管理をします。大きな権力と特権と財産を一手に握ります。何でも思い通りにできます。女王さまに仕える総理大臣、兼財務大臣、兼国務大臣というわけです。だから、『国をすっかり奪い取って自分のものにしてしまおう』などと悪い考えを抱かないようにと、大事な所をチョン切られて、子供や家族を持つことがしずらいようにされました。それが宦官です。何でも手に入り、何でも思い通りになり、けれども彼は、埋め合わせのできないほどの寂しさや心細さを抱えて生きるのです。何を喜びや支えとして、どうやって生きてゆこうか。何のために生きていけるだろうと。だから、この1人の人も神さまを心底から求めました。遠いエルサレムに礼拝に来て、その帰り道、馬車に乗りながら、聖書を読んでいました。声に出して大きな声で読み上げていたのは、書いてあることが簡単にスラスラ分かったからではありません。つっかかり、引っかかりしました。度々、首をひねり頭を抱えました。なんだかピンと来ないから、だからこそ、そこに書いてあることをぜひ自分も理解したいと願って、それで大きな声で。イザヤ書の53章を彼は読んでいました。馬車の後ろから追いかけてきて、その彼に声をかける者がありました;「もしも~し、ちょっとオ、あなたは読んでいることがお分かりですか?」「誰かが手引きをしてくれなければ、どうして分かりましょう。分かるはずがないじゃないですか」と宦官は答えました。「さあ、私の横に座って、この私に手引きをしてください。頼みますよ。ちゃんと分かるように、腹に収まるように、聖書をはっきり説き明かしてください。さあさあ」。そのようにして、宦官のためのキリスト教入門講座、あるいは洗礼や信仰告白の準備会が始まりました。
  きっかけはイザヤ書53:1-13。それで、この箇所と並べて、今日はごいっしょに読みました。あの日のあの宦官と同じように、私たちも、これまで何度も何度もこの箇所を読んできました。私たちも、あの日のあの宦官と同じく質問します;「お尋ねしますが、ここで預言者は、誰のことを言っているのですか」(34)と。すると、主の弟子は口を開き、聖書のこの箇所から説き起こして、イエスについての福音を、イエスが差し出しておられる福音の全体を彼に告げ知らせました。それじゃあ、私たちも尋ねましょう。小羊のように命を取られた独りの方があった。それは、いったい誰について語られているのか。それでもなお、なかなか自分自身を省みることをせず、自分のことをすっかり棚上げしており、ついつい小さな評論家のような気分でいる私たちです。「誰のことを言っているのですか」。もちろん、救い主イエスのことです。しかもその救いの御業は、こんな私のためでさえあった。もし、それを知るなら、その1回の聖書の説き明かしはその人の役に立ったことになります。その人自身を救い出しつづける信仰が芽生えてスクスクと育ちはじめるかも知れません。誰のことを言っているのか。《救い主イエスのことである》《多くの人々のための主イエスの福音である》;いいえ。それを知るだけでは、まだまだ不十分です。ぜんぜん足りません。《救い主イエスのこと。多くの人々のためであるだけでなく、この私自身をも罪と悲惨から救う福音である》と知るのでなければ、その1回の聖書朗読も、説き明かしも礼拝も、ほとんど何の意味もありません。だから私たちも、聖書のどのページを開き、どの箇所を読むときにも、「誰のことか? まさか、それは私のことでは」と同じく問いかけます。「世間の人々は。一般的に人間という者は。今時の若者たちは」と涼しい顔をして、分かったような顔をして解説している私たちです。あの人やこの人がかなり主に背いており、あの彼は不十分でいたらない、などと思っています。けれどその一方で、この自分自身がとても罪深いとも、神さまにも隣人にも家族にもはなはだしく背いているとも、正直な所あまり思っていません。例えば、あの最後の食事の席で主イエスから「ここに、あなたがたの中に、私を裏切る者がいる」と告げられたとき、初めて心が痛みました。「まさか、それは私のことでは」「私のこと。あなたでしょう」「もしかして私のことですか」。例えば最初の聖霊降臨日に、「はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またキリスト(=救い主)となさった」と告げられて、自分自身の胸を深く突き刺された人々が、「私たちはどうしたらいいのですか」と問いかけました。「まさか、私のことでは」と私たちも折々に自分自身に問いかけ、「どうしたらいいのか」と同じく問いかけます(マルコ14:19,使徒2:36-39。この私のためにも確かにある主イエスの福音をこの手に確かに受け取るまで、私たちは問い続けます。まさかそれは私のことではと。あの方を軽蔑し、無視していたのは、それは私ではないか。彼が打ち砕かれ刺し貫かれたのは、それは、この私のためではなかったか。彼が担ってくださったのは、この私自身の過ちと背きではなかったかと。あの彼を屠り場に引いてゆき、あの彼の毛を刈り、彼をひどくはずかしめつづけている。それは、もしかしたら私のことでは、と。どうしたらいいのかと。
  36-40節を読みましょう。馬車を止めて道端の川で、あの宦官は洗礼を受けました。「ここに水があります。私が洗礼(=バプテスマ)を受けるのに、何の差し支えがありますか」。質問しているわけでもなく、同意を求めているのでもありません。問うまでもなく、もちろん誰もそれを妨げることはできないし、妨げることは誰にも許されません。1人のクリスチャンがこうして誕生しました。誕生しつづけます。洗礼は入口であり、出発点です。まだ洗礼を受けておられない方が、やがて洗礼を受け、この差し出されている格別な恵みにあずかる日が来ることを、私たちは願っています。他の誰より、神さまご自身こそが、そのあなたのためにも心から願っておられます。洗礼を受ける、神さまを信じて生きはじめるということは、難しい試験に合格することとはだいぶん違います。「信仰がほぼ合格点に達した。これくらいなら、いいんじゃないか」という合格証書でもありません。洗礼を受ける、また小児洗礼を授けられていた者がやがて信仰を言い表し、大人のクリスチャンの仲間入りをするということは、「救い主イエス・キリスト。この方を本当に信じて生きていこう。生きていきたい」という願いを明らかにすることです。そこから、主イエスを信じて生きる暮らしが始まっていきます。『主イエスを信じて生き始めよう』という決断を神さまの前でも人々の前でも隠さず表す。パンと杯を受け取る心構えも、これと同じです。私のために十字架を負って、まったくの無条件で、こんな私のためにさえ救いを準備してくださったイエス・キリスト。このお独りの方を信じて、受け止めること。これだけが信仰告白や洗礼に向かってゆく、私たちの側の備えです。
  私たちはあの宦官のように洗礼を受けて、クリスチャンとしていただきました。その前と後とでは、私たちの生活や私たちの歩む道は変ったでしょうか。それとも同じでしょうか。変わったところもあり、変わらないところもある。寂しい、荒れ果てた道から、賑やかな舗装道路に変わったでしょうか。何不自由ない平穏で安楽な、恐れも不安も悩みのない道へと変わったでしょうか。いいえ、そうではありません。同じく、心細さがつきまとい、荒れ果てたものがしばしば道を塞ぎます。「どうしたらいいだろうか」と溜息をつき、頭を抱えることがしばしばある道ですね。「ああ。こんな時にピリポ先生がなお留まっていてくれたら」、と正直なところ思います。それでも、エチオピア人の宦官たち。愛情深く親切なピリポや、力強く責任感あふれるピリポ先生がたとえ10人くらいいて朝も昼も晩も聖書を明快に説き明かしてくれたとしても、それが40年くらい続いたとしても、それでもなお私たちは満ち足りることができません。「夜だ。暗闇だ。真っ暗闇だ」とつぶやき続けるでしょう。だからこそ私たちは、日曜日の度毎に新しく礼拝へと向かいます。水曜日の度毎に祈祷会へと向かいます。声に出して、一言一言を噛みしめるようにして聖書を読みます。読んでいることがスラスラ分かるからではなく、そうではなく、ぜひ分かりたいと願うからこそです。語りかけてくる神さまと親しく出会いたいと願うからこそ、私たちは、ますます一途に祈り求めます。そうした祈りの格闘の只中で、私たちは、ついに手引きしてくれるものの声を聞き分けます。イエスと私たちについての福音を告げ知らせてくれるものの声を、とうとう腹に収めます。1回の礼拝の中で、1回の祈りの中で、あるいは聖晩餐のパンを食べ、杯を飲み干しながら、1人のキリスト者は不意に気づきます。かつて神の民ではなかったこの私が、不思議なことに、今や神の民とされている。神の民の一員としていただいた。かつては、憐れみなど受け取らなかった私たちが、今や、神の憐れみを受け取り(ペトロ手紙(1)2:10、ただ受け取っただけではなく、それを大切に抱え込んでいる。「ありがとうございます。どうぞよろしくお願いします」としみじみ味わい、喜び祝い、深く感謝さえしている。望み得る材料が手元にほんのわずかしかない現状の中で、なお主にこそ望みを置き(ローマ4:18、信頼を寄せています。

             ◇

  エチオピア人の宦官たち。読んでいることがお分かりになりますか? しかも、クリスチャンとされたあなた自身こそが、今では伝道者ピリポの役割を担わされています。え? びっくりしないでください。ほら、あなたの前に心寂しい宦官たちが待ち構えているではありませんか。手引きを求めて。それぞれの現場で、子供たちの前で、あるいはそれぞれの家族を前にして、職場や町内で、この自分が何をどうすべきか分かりますか。もちろん分かりますね。だって、なぜなら、あなた自身のための神さまご自身からの手引きが続いているからです。手引きされ続けている私共だから、私たち自身が誰かを手引きしてあげることもできます。していただいてきたように、誰かにしてあげることもできます。じゃあ試しに、こう言いはじめましょう;「私たちを見なさい。この私のことも、よくよく見てください」と。「私たちには金も銀もない。たいした賢い私ではないし、格別に物知りな私でもない。何か優れた立派なものを持っているというわけでもない。けれど持っているものを、あなたにもあげよう。ナザレのイエスを。この、ピカイチの、飛びっきりに素敵なおかたをあげよう。ぜひあげたい。ナザレの人イエスの名によってあなたも立ち上がり、あなたも歩きなさい」(使徒3:6)。「手引きしてくれる者がいなければどうして分かるでしょう。分かるはずないでしょう」と、あなたの大切な家族が言っています。あなたの愛する夫が、妻が。あなたの愛する息子や娘が心底から訴えています。あなたがとても大切に思っている1人の友達が。倒れた者も、つまずいている者も、疲れて弱り果てている者も立ち上がり、そこから改めて歩き始めなさい。あなたにだって出来ます。なぜなら、この私たちだってそのように、ただただイエスの名によって立ち上がり、そのように歩き始めたからです。立ち上がりつづけ、イエスの名によってこそ歩きつづけています。それで、だからこそ私たちはクリスチャンです。《ナザレの人イエスの名によって》;それは心強い。それは広々している。それは豊かであり、晴々清々している。ナザレの人イエスの名に望みを置き、ナザレの人イエスの名によって歩く私たちです。一足、また一足と歩き続ける私たちです。喜びと希望にあふれた旅路が、またここから始まってゆきます。 


                                       

2018年3月27日火曜日

3/25こども説教「何の権威か?」ルカ20:1-8


 3/25 こども説教 ルカ20:1-8
 『何の権威か?』

     20:1 ある日、イエスが宮で人々に教え、福音を宣べておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと共に近寄ってきて、2 イエスに言った、「何の権威によってこれらの事をするのですか。そうする権威をあなたに与えたのはだれですか、わたしたちに言ってください」。3 そこで、イエスは答えて言われた、「わたしも、ひと言たずねよう。それに答えてほしい。4 ヨハネのバプテスマは、天からであったか、人からであったか」。5 彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。6 しかし、もし人からだと言えば、民衆はみな、ヨハネを預言者だと信じているから、わたしたちを石で打つだろう」。7 それで彼らは「どこからか、知りません」と答えた。8 イエスはこれに対して言われた、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい」。               (ルカ福音書 20:1-8

 小さな子供と大きな大人と、その両方の方々のために話します。
主イエスは神殿で、毎日毎日、神の国の福音を宣べ伝えていました。祭司長や律法学者たちが近寄ってきて、主イエスに質問しました。「何の権威によってしているのか。だれから、そうする権威を与えられたのか」と。とても良い大切な質問ですね。主イエスは、彼らがよく知っている一人の伝道者について、同じことを問い返しました。「洗礼者ヨハネの場合はどうだろう。彼の行ったこと、語ったことは、神から与えられた権威によってだったのか。それとも、ただ人間たちからの権威なのか、どっちだ?」と。どう答えても都合が悪かったので、答えたくありませんでした。あの祭司長と律法学者たちと民の長老たちは、主イエスやその働き人についても自分たち自身についても、神ご自身から遣わされた者なのか、それともただ人間たちの間でだけそこそこの評判と信頼を受けていただけなのかが、いつの間にか、すっかり分からなくなりました。どこから来た、何の権威なのか? それは、とても困ったとき、苦しむときにいったい誰に助けを求めることができるのかという、いつもの根本問題です。「神さまが私の味方だ」(詩27,ローマ手紙8:31-39参照)ということが信じられなくなったので、祭司長と律法学者たちと民の長老たちは、そのおかげで、ただただ人間たちを恐れ、まわりの人間たちの顔色を窺いつづけています。ああ、かわいそうに。もちろん主イエスは父なる神から遣わされ、またご自身が神である救い主です。いいえ、それだけでなく 私たちクリスチャン一人一人もまた、神から遣わされ、神の権威によって立っている、神ご自身に仕えて働く働き人たちです。「天に主人がおられる」とよくよく習い覚え、しかも「天と地の一切の権威を授けられた主イエス」(コロサイ4:1,マタイ28:18から遣わされた私たちです。だから、人間に過ぎないどんな権威を恐れる必要もなく、ただただ神さまの御心に従って生きることを願って、毎日毎日を晴れ晴れと暮らすことができます。