2021年3月21日日曜日

3/21「ある金持ちの願い」ルカ16:19-31

 みことば/2021,3,21(受難節第5主日の礼拝)        311

◎礼拝説教 ルカ福音書 16:19-31                    日本キリスト教会 上田教会

『ある金持ちの願い』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 16:19 ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。20 ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、21 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。22 この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。23 そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。24 そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。25 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。26 そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。27 そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。28 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。29 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。30 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。   (ルカ福音書 16:19-31


 主イエスがたとえ話を用いて、私たちに語りかけます。ある金持ちがいました。あの彼は、豊かな良いものを与えられていましたが、この世界で自分が満たされるために、自分が喜ぶためにだけその豊かな良い物を使いました。後から来るもう一つの世界のことは思いもしなかったし、ほかの人たちが喜んだり悲しんだり、満たされたり飢えたり淋しい思いをすることなど、気にも留めませんでした。やがて死んでしまった後で、自分の苦しみを癒してくれる者もなく、また永遠の住まいに迎え入れてくれるような友達(16:9)1人も持っていないと気づきました。

 かつて外国のある小説家が言いました。「人は、死んでしまうことが恐いのではない。ただ、死ぬことが恐いのだ」と。だから恐いことを忘れて、なるべく考えないようにして、その日その日を生きてゆく。私たちは、やがて自分が年老いて衰えてゆくことや、死んでしまうことを忘れて、なるべく考えないようにして、その日その日を気ままに生きてゆくこともできます。けれど、それはもったいない虚しい生き方です。むしろ今日は、私たち自身がやがて死んでしまうことを想うための日です。死と、その後につづく新しい生命を想うための日です。主イエスは十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだりました。やがて三日目に死者の中から復活しました。だからこそ私たちも、やがて死んで葬られ、新しい生命に復活させていただけます。「やがて」そうであるというだけでなく、あの初めの日、洗礼を受けてキリスト者とされた時から、「すでに」私たちの死と復活は始まり、それは繰り返されつづけます。キリスト・イエスに結ばれるために、そのために私たちは洗礼を受けました(ローマ手紙 6:3-11)。それは同時にまったくキリストが引き受けてくださったその苦しみと死にあずかるためでした。私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者とされました。私たちの中の『罪に支配された古い自分』というものが、キリストと共にはりつけにされたのです。日毎に、古い自分が死に渡されつづけます。生涯かけて、葬られつづけます。それは、罪に支配された体が滅ぼされ、罪に支配された心の思いも滅ぼされ、もはや人間中心の思いの奴隷にならないためでした。私たちはキリストと共に死んだのですし、日毎に死に続けます。それでようやくキリストと共に朝ごとに新しく生きることになります。

 さて、自分が死んでしまった後で、あの金持ちは2つのことを願いました。まず第1に、自分の今の苦しみを和らげてもらいたいと。24節「父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています」。その願いは退けられました。次にあの彼は、自分の家族のために願い求めました。28節「わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです」。彼の願いは、私たちにもよく分かります。この私だって同じく願い求めるでしょう。あなたも、そう願うかも知れません。「私には大切な兄弟がいる。大切に思っている夫があり妻があり、子供たちがいる。大切な友達がいる。その彼らにぜひ」と。その切なる願いに対して、アブラハムの口を用いて主イエスご自身がこう答えます;「彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう」と。モーセと預言者とは、旧約聖書のこと。むしろ、聖書66巻全体です。けれどあの彼は、それだけでは十分ではないと思いました。なにしろあの5人の兄弟たちは、5人が5人ともとても賢くて優秀で、力強く、現代的な感覚を身につけており、しかもそれぞれすごく忙しいのです。だから、あの5人の兄弟たちの心に十分に届き、魂に鳴り響くためには、もっと他の、もっと刺激的で魅力のある、もっと説得力のある感動的な何かが必要だ。胸を打つ力強い話と、目に見える誰からもよく分かるはっきりした証拠が。そうでなければ神に出会うことなど出来ない。神の恵みとあわれみを知らせることもできず、神へと立ち返らせることなど、とてもとても無理だろう。「いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう。神へと心を向け返すでしょう」と。それに対する主イエスからの答えは、刃のように鋭く私たちの胸をえぐります。深く深く刺し貫きます;「もしモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう」(31)

 きびしい言葉です。けれど、やはりこの言葉の中にこそ、あの彼の家族と彼自身のための救いの真相があります。私たちのかけがえのない大切な家族の一人一人と友人たちと、夫と息子と娘と孫と、私たち自身のための救いの真実があります。私たちのためにもモーセと預言者がありました。この私のためにも聖書の言葉があったし、一回一回の礼拝の言葉がありました。聖書に書いてあるとおりに、救い主が死んで復活してくださった(コリント手紙(1)15:3-5)。私たちが、このお独りの方を信じて生きることができるためにです。一日また一日と、この方から格別な生命と真理と歩んでいくに足る確かな道を贈り与えられつづけるために。このお独りの方が私たちに、語りかけつづけます。それなら私たちも、自分の家に帰って、今晩か明日の朝かいつか、あの大切な息子に、夫に妻に、年老いた親に、ぜひとも語っておくべき大切なことを語りかけることが出来るかも知れません。「・・・・・・ある金持ちがいた。やがてもうすぐ私が死に、そのうちお前も死んでしまうように、やがてその金持ちは死んでしまった。そこでようやく我に返り、深く後悔した。大切な家族に、ぜひとも伝えておくべき大事なことを話しておけば良かったのにと。神さまの独り子が地上に降りてきてくださった。罪の奴隷にされている人間たちをあわれに思ったからだ。ぜひとも、そこから救い出してあげたいと願ったからだ。神の独り子イエス・キリストが十字架につけられ、死んで葬られ、死者の中から生き返り、今なお生きて働いておられる」と。そのようにして、互いに失われていた親と子が、互いに失われていた夫と妻が、兄弟同士が、もう一度互いを見つけ出せるかも知れません。御覧なさい。あなたの家の前にもラザロがいます。あるいは家の中の茶の間や台所に、あなたの職場に、あなたのための1人のラザロが横たわっています。あなたの帰りを待ち侘びています。

 少し古い時代の信仰問答は、「信じれば十分であるはずなのに、なぜ洗礼があり、聖晩餐のパンと杯があり、毎週毎週の礼拝があるのですか」と問いかけます。そして、直ちにこう答えています、「弱いわたしたちを助け、支えるためです。救われていることを確信させ、信仰のうちに私たちを守り、養い、成長させつづけるためにです」(「ジュネーブ信仰問答」 問308-320参照)と。弱い私たちだからだ、と告げています。そのとおり。私たちはみな、心も体もとても弱いのです。ですから、支えと助けがなければ簡単に倒れてしまいます。神さまを信じる心も同じで、信仰が弱くなって倒れてしまわないようにと、神さまが支えの手段をいくつも与えてくださっています。一回一回の礼拝がそうであり、聖書を読むことも祈りも、教会の集会や交わりも、私たちの信仰を支えるための手段や道具として神さまが用意してくださいました。

 神に逆らう罪の奴隷状態から解放され、神のもとへと立ち返りつづけ、神の御前で新しく生きることが積み重ねられてゆく。その具体的な中身と在り方は、ローマ手紙 6章から8章の前半に詳しく説き明かされます。「もし、わたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もし、わたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる(ローマ手紙 6:5-8と。あなたも僕も誰でも、心に悪い考えや悪い性分を抱えています。なんだか意地悪だったり、頑固で強情だったり、優しい親切な心になれず、すぐに怒ったり恨んだりしつづけてしまう心を。臆病で、生ズルイ考えを。その罪の言いなりにされないで生きられるなら、とても幸いです。自分自身のその悪い考えや性分をねじ伏せ、罪と死に別れて生きることができます。『もし~なら、~となる』と、さきほど読んだローマ手紙6章の5節と8節で二度念を押されています。つまり、『もし~ではないなら、~とはならない』と。しかも、罪に死んで神に生きている自分であると『認むべきである』11節)と。認めようとしないあまりに強情で頑固な自分がいて、神のお働きの邪魔をし、逆らおうとする自分がいるからです。『古い罪の自分と日毎に死に別れる』ことと『神の御前に、新しく生きはじめること』を、もちろん神こそが、この私たちのためにも成し遂げてくださいます。そうか。すでに死んだ人間として、古い罪と死に別れさせていただいた人間として、この私たちは大切な家族や連れ合いや子供たちや隣人たちのもとへ出かけてゆくことができます。私たちは、新しく出会うことができます。ようやく互いに見つけ出し、ついにとうとう互いに生き返ったことを思って、そこで恵みとあわれみの祝宴を生きはじめることが出来るかもしれません。なぜなら十字架につけられて殺されたイエス・キリストが私たちの目の前に描き出され、その御子イエスの霊が私たち一人一人の体の中に住んでくださり、語りかけつづけてくださるからです。父なる神が、救い主である御子イエス・キリストを死人の中からよみがえらせてくださったからです。「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった。とうとう見つけた」(ルカ15:24)と言って互いに喜び祝うことができます。もし、神が私たちをあわれんでくださるならば。神のあわれみを、この私たちも受けとめることができるならば。