2019年4月30日火曜日

4/28「医者である神、重病人の私たち」ルカ5:27-32


               みことば/2019,4,28(復活節第2主日の礼拝)  212
◎礼拝説教 ルカ福音書 5:27-32                        日本キリスト教会 上田教会
『医者である神、
重病人である私たち』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
5:27 そののち、イエスが出て行かれると、レビという名の取税人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。28 すると、彼はいっさいを捨てて立ちあがり、イエスに従ってきた。29 それから、レビは自分の家で、イエスのために盛大な宴会を催したが、取税人やそのほか大ぜいの人々が、共に食卓に着いていた。30 ところが、パリサイ人やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに対してつぶやいて言った、「どうしてあなたがたは、取税人や罪人などと飲食を共にするのか」。31 イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。32 わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。          (ルカ福音書 5:27-32)

 神ご自身である救い主イエスは、片田舎の小さな町の、貧しい大工の息子として育ちました。初めにこの方の弟子とされたのは、ごく普通の無学な漁師たちでした。次に弟子とされたのは、人々から嫌われ馬鹿にされていた取税人でした。オギャアと生まれる場所のためには、わざわざ家畜小屋のエサ箱を選びました。神の国の教えを広める弟子としては、漁師や取税人たちを、無きに等しい者たちを わざわざお選びになりました(コリント手紙(1)1:26-31を参照)。そこには、はっきりした理由があります。私たし人間の小さな小賢しい知恵や力や賢さによらず、そんなものには全くお構いなしに、神ご自身の知恵と慈しみによって救いを成し遂げてゆくために。
  27-28節。取税人のことは、少しは説明しておきましょう。なぜ彼らが人々から嫌われ馬鹿にされ、仲間外れにされていたのか。そのころユダヤの国はローマ帝国の植民地にされ、ローマの国の言いなりにされていました。取税人はユダヤ人からお金を集めて、そのほとんどすべてをローマの国に渡しました。家に住むための税金、道路や橋を渡るための税金、食べ物を買うための税金、いろいろな形で集められたたくさんの税金は、しかしユダヤ人のためにではなく、もっぱらローマの国のためだけに使われました。ユダヤ人たちはローマの国にたくさんの税金を払うのも、好きなように利用されるのも、言いなりにされて支配されるのも嫌でした。「そんなことはしたくない。私たちは嫌だ」と言いたかったのです。けれど相手の方が強かったので、逆らうことが出来ませんでした。心の中では、彼らはローマの国を憎みました。また心の中では、言いなりにされて「はい。分かりました。いいえ喜んで従いますよ、はいはい」と従っている自分たちのあり方も大嫌いでした。けれどローマの国や自分自身の悪口を言う代りに、ローマ帝国の手下とされているあの取税人どもの悪口を言いました。自分たち自身の不甲斐なさに腹を立てて嘆く代わりに、あの彼らを馬鹿にしました。自分の不幸や貧しさを彼らのせいにしました。すると、少しは心が晴れました。貧しい不幸な時代には、またそういう貧しく淋しい社会では、小さな子供も大人たちも、人間はそういうふうに誰かを馬鹿にしたり、いじめたり憎んだり、仲間外れにしたりするのです。自分の辛さや惨めさをその誰かに肩代わりさせて、それで心の憂さを晴らすために。彼らを踏みつけて惨めにさせて、その分だけ、ほんのちょっと良い気分になろうとして。けれどご覧ください。その踏みつけられた惨めな人々の傍らに寄り添って、そこに 私たちの救い主イエス・キリストが立っておられます(マタイ10:42,18:1-6,25:31-46
  29-30節。主イエスの弟子にしていただいた元・取税人の彼は、友達を大勢招いてパーティーを開きました。どうしてでしょう。何のためでしょうか。とても嬉しかったからです。その喜びをぜひ分かち合いたい、と願ったからです。昔からの友だちや、家族や仕事仲間たち。元・取税人の彼はその人たちをとても大切に思っています。しかも、救われた今となっては、「その一人一人にとっても、主イエスと出会うことが嬉しく心強いことにちがいない。彼らにも格別な喜びや力を与えるだろう。彼らの魂もまた、救い主を必要としている。それがあれば彼らはどんなに慰められ、心強いだろうか」と知っているからです。あの友だちもそうだ。この人もこの人もと。さて、ここでも、信仰のことや神様のことをよく分かっているはずの人たちが怒ったり、文句を言ったり馬鹿にしたりします。文句を言っている信仰の指導者たちの考え方や物の見方をよくよく観察しておきましょう。プンプン腹を立てているあの彼らは、私たちのための『悪い先生。真似をしてはいけない悪い手本』であるからです。「なぜ、あんな人たちと一緒に飲んだり食べたりする?」と彼らは言います。どうしてなんだろうかと質問しているのではありません。腹を立て、嫌~な気持ちになって、非難しているのです。「主と共に座るその喜ばしい食卓には、あの人たちはふさわしくない。いいえ、この立派な私たちこそがふさわしい」と言いたいのです。
 では質問。神さまの御前でのふさわしさとは、一体どんなものだったでしょうか? コリント手紙(1)1:26-31は、それをはっきりと物語ります。「愚かな者。弱い者。身分の低い者、軽んじられている者を。無きに等しい者を、神ご自身がわざわざ選んだ」のだと(ほかにもコリント手紙(1)4:6-,9:22,11:30,ローマ手紙4:17,ルカ福音書1:48-54,マルコ福音書10:31,マタイ福音書18:3,20:26)。私は何でもよく知っている、分かっている、私はとても強く賢いと思い込んでいる者をはずかしめるために。どんな人間でも、神さまの前でも人様の前でも誇ったり自惚れたり思い上がってしまうことがないために。そのために、わざわざそうした。もちろん、あなたや私に対してもまったくそうだった、と。これらの言葉を繰り返し聞きつづけながら、朝も晩も読み返しながら、なおいつの間にか分かったつもりの、ずいぶん偉そうな私たちです。とても賢いつもりの私たちであり、分かっているつもりの、豊かで強いつもりの、大きな大人物のつもりの、しっかりしているつもりの私たちです。神の前でも人様の前でもずいぶん誇っている。あるいは逆に、なんだかいじけて首をすくめている。誇ることもいじけることも、同じ一つのことです。どっちにしても主なる神ご自身を誇ることからずいぶん遠い。ですから、知恵あるつもりの私たちは、その自分自身の知恵について恥をかかねばなりません。力あるつもりの私たちは、その私たちの力について恥をかかねばなりません。そこそこの地位と名誉を手に入れている私たちは、そのそこそこの地位と名誉について恥をかかされ、無力な者とされねばなりません。あなたも私も、まだまだ恥をかき足りません。その浅はかな知恵があるために、神の知恵に本気になって聞くことができないでいるからです。その小さな力があるために、神の力に信頼することができずにいるからです。そのそこそこの賢さとほどほどの強さがあるために、神の賢さと強さを願い求めることも、「はい。ありがとう」と受け入れることもできずにいるからです。誇るとは何でしょうか? 「それがあるから私は安心だ。心強い」と信頼し、支えとし、頼みの綱とすることです。振り返ってみて、神の前でも人様の前でも、自分自身に向かっても、私たちはあまりにたくさんのものを支えとし、拠り所としています。多くのものを頼みの綱としています。その私たち自身のどこに、主ご自身をこそ誇る余地があるでしょう。例えば一日が終わって、私たちはその日を振り返って「よく働いた。私はよくやった」などと思うのです。あるいは「まあまあ、よくやった。ほどほどだった」などと。順調な日々にも、悩みを抱えて途方にくれる日々にも、私たちは私たち自身とその手の働きを思います。そして周囲の人々やモノを眺め回します。私たちの働きと知恵と賢さと、私たちの強さと弱さと、私たちの賢さと愚かさと、私たち自身の豊かさと貧しさと。では、一体どこに神がおられるのでしょうか。この私たち自身の毎日の生活の中の、その眼差しと腹の据え方の中の、一体どこに、生きて働いておられます神がいるでしょうか。私たちは何者だったでしょう(申命記7:16-10,8:11-20,9:4-5参照)
 31-32節。神ご自身の救いの御業と祝福について、ついにとうとう救い主イエスはお答えになります;「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と。精一杯に働くときにも、心を尽くして誰かに親切にしてあげるときにも、この私たちこそははっきりと思い起こしておきたいのです。救い主がこの地上に来たのは罪人を招くためであり、その罪と悲惨さから救い出し、神の恵みとゆるしのもとへと立ち戻らせるためでした。神にも人様にも逆らいつづけ、「私が。私こそが」と頑固に言い張りつづけ、自分にこだわりつづけることを聖書は『罪』と名づけました。あまりに罪深い私たちです。ここで、その『罪』を『病気』と、『罪人』を『重い病いを患う今にも死にかけている重病人』と救い主イエスご自身が言い換えています。罪人は病人のようです。その病人をかわいそうい思って、なんとか健康な心を取り戻させてあげたいと心を砕きつづける神は、医者である神です。十分に健康だから、十分に正しくふさわしいからと招いたのではありません。そうではなく、その病人のような罪人をあわれむからであり、滅びるままに捨て置くことなど出来ないと惜しんでくださったからであり、ぜひとも救い出してあげたいと切望してくださったからでした。しかも神に逆らうことをすっかり止めた素直な正しい人間など一人もいない。その病人である罪人を救うためにこそ、救い主イエスはこの世界に降りてきてくださった、と聖書はきっぱりと証言します(ローマ手紙3:9-20,テモテ手紙(1)1:12-17。あなたも、この私自身も、死にそうな重い病いを患う病人でした。いいえ、いまなお病人です。わたしは正しい。私はちゃんとやっている。私は私は」と言い立てて止まない病気があります。「人からどう思われるだろ。どう見られてしまうか」と恐れてビクビクする病気があり、「認められたい。受け入れてもらいたい。それなのにどうして」と飢え渇きつづける病気があり、「けっして忘れない。ゆるせない」と憎みつづける病気があり、「貧しい。豊かだ。有り余っている。不足している。それに比べてあの人は、この人たちは」と目くじら立てて見比べつづける病気があります。夏風邪くらいに甘く見て、うまいものでも食べてグッスリ眠ればそのうち治るとでも思っていたのですか。いいえ、とんでもない。これこそ死に至る病気です。この病気は、あなたの命にかかわります。おもな症状――かたくなさ。了見が狭く、意固地で偏屈。冷淡な批判がましさ。なんとなくイライラすること。悪口や陰口。ごうまんと卑屈。次々とわきあがる恐れと不安。ウツウツ、モヤモヤとした気分。溜め息。物足りなさや淋しさ、心細さ。その他いろいろ。神さまご自身にしか癒せない、あまりに危険な重い病気があり、私たちは度々この病気のとりこにされました。医者のような神であり、病人のような私たちです。いいえ。医者である神さま。病人である私たち。どの一人も例外なくかなりな重病人です。自分が病気だとは知らないでいる病人たち。どの医者にかかっていいか分からずに途方に暮れている病人たち。どうせ無理だ、手遅れだと絶望している病人たち。そして、この私たちこそは十分な良い医者ととうとう出会って、病気を治していただいている途中のとても幸いな、あまりに恵まれた病人たちです。
 さあ、兄弟姉妹たち。あの宴会の場面を覗いてみましょう。元・取税人のレビという男が、照れながら、ちょっと緊張しながら挨拶しています;「皆さん、今日はよく来てくださいました。私は主イエスと出会いました。この方です。主イエスと言います。主であられる神さまと言います。主というのは、ご主人さまであり、『主治医』という意味です。私の病気と健康にこの主治医こそが全責任を負ってくださり、必ずすっかり健康にして、幸せに生きてやがて幸せに満ち足りて死んでゆくことさえできるようにしてくださる、と太鼓判を押してくださいました。しかも治療費はタダです。びっくりでしょ。まさか、この自分が病気だなんて思っていなかったので、『お前は病気だ。放っておくと死んでしまうぞ』と最初に言われたとき、腹が立ちました。イカサマ野郎だと思いました。でもだんだん健康になってきて、それがとても嬉しくて ぜひ、みなさんと一緒に喜びたいと思いました。「とっても素敵で愉快なパーティがあるんだよ。一緒に行こ。ね。頼むから。騙されたと思って、試しにまず一回来てみて。頼むから」と誘いました。ぜひ、この方と出会っていただきたくて、今日ここにお招きしました。どうぞ遠慮なく、このお医者さんに診てもらってください」。税金取立て人のレビの仲間たちはワイワイ楽しみ、大いに食べたり飲んだりし、語り合いました。その診療所の医局長である救い主イエスは、そこでなんと挨拶なさるでしょう。例えばこうおっしゃるかも知れません;「私は医者です。しかも自慢するみたいですが、かの有名なブラックジャック先生の千倍も万倍も腕がいい。しかも誰にも思い浮かべられないほどにも大金持ちなので、治療費はタダです。なにしろ病人がわたしの所に来てくれると嬉しい。しかも特に、誰にも治せないような、とてもとても難しい病気の、今にも死にそうな、どの医者からも見放されたような難しい病人が来てくれると嬉しい。死んでいた者が生き返り、いなくなっていた者を探し出せると、とても嬉しい。あなたの病気も治してあげますよ。あなたも、あなたも。このあと早速一人一人診てげましょう。名前を呼ばれたら診察室に入ってきてください。じゃあ乾杯」(ルカ福音書15:7,10,24を参照)。この風変わりなお医者さんの診察室は、お祝いパーティの宴会場でもあります。それがキリストの教会であり、毎週毎週、日曜日毎の礼拝で起こっている出来事です。お祝いパーティの真っ最中に、診察と治療も同時進行で行われつづけます。その一風変わった病院のお祝いパーティ兼、診察・治療は、この2000年の間くりかえされつづけています。世界中のあちこちで、町中でも田舎でも、主イエス病院の分院、診療所が建てられました。私たちもその同じ診察室の、一つの食事の席に連なりつづけます。主イエスと共にある憐れみの食卓に。救い出された罪人たちが薬を飲みながら、傷に包帯を巻いていただきながら、飲み食いしたり、歌ったりして座っています。「健康な人に医者はいらない。いるのは病人である。救い主イエス
・キリストがこの世界に来てくださったのは、義しい人を招くためではなく、罪人である重病人を招いて悔い改めさせ、新しい、健康で晴れ晴れした生命を贈り与えるためである」。なんという恵み、なんという喜びでしょう。
祈りましょう。