2018年6月11日月曜日

6/10「死んで、新しい生命に生きる」マタイ27:57-66,ローマ6:1-18


                       みことば/2018,6,10(主日礼拝)  166
◎礼拝説教 マタイ福音書 27:57-66, ローマ手紙6:1-18   日本キリスト教会 上田教会
『死んで、新しい生命に生きる』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

  6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。12 だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、13 また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。14 なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。15 それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。16 あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。17 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、18 罪から解放され、義の僕となった。                              (ローマ手紙 6:3-18


  聖書に書かれてあるとおりです。救い主イエスは十字架につけられ、やがて大声で叫んで息を引き取りました。ヨセフという人物がその遺体を受け取り、自分のための墓に納め、墓の入口に大きい石をころがしておきました。祭司長とパリサイ人たちはローマ総督ピラトに「あの嘘つきが自分は三日目によみがえると言っていましたから、その三日目まで墓の番をさせてください」と願い出ました。主イエスの弟子たちが遺体を盗み出して、「イエスはよみがえった」と嘘を言いふらすかも知れないからと。ピラトは願いを聞き入れ、墓の入口の大きな石に封印をし、番人を置かせて墓の番をさせました。救い主イエスの復活も、また私たち自身が新しい生命に生きることも嘘や出まかせだと思い、なかなか信じられない人々が昔も今も大勢います。しかも、私たちクリスチャンの中にさえ(コリント手紙(1)15:12-19参照)。すると、その信仰はどういう信仰になってしまうでしょう。

  さて、ローマ手紙6:1-18。この6章こそ、キリストの教会と1人1人のクリスチャンにとって極めて重要です。洗礼を受けたはじめの日から息を引き取る最後のときまでの、つまりクリスチャンの全生涯にわたる人生設計がはっきりとここで告げ知らされているからです。6:1-315-16、ほぼ同じ言葉がしつこく繰り返されています。「恵みが増し加わるために罪に留まるべきであろうか。断じてそうではない。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおその中に生きておれるだろうか。それとも、あなたがたは知らないのか」「恵みのもとにあるからといって、私たちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。あなたがたは知らないのか」。ね。ほとんど、そっくりそのままです。この手紙も含めて、新約聖書に収められている手紙のおよそ半分ほどを書いたパウロは、たびたびこういう口調でものを語ります。けっこうトゲトゲしいし、皮肉っぽいですね。偉そうだとか『上から目線』だとか槍玉にあげられ、それだけで無視されたり反発されたりもします。困りました。けれど特に、「あなたがたは知らないのか」は彼の大事な語りグセです。大切に思うことをなんとかして相手に伝えよう、ぜひ受け止めてもらいたいと願うとき、このように語り出します。「あなたがたは知らないのか。当然知っているはずだし、よくよく分かっているはずだが、うっかりして忘れてしまったのか。だから、このテイタラクか。この肝心要をなんとかして思い起こしてもらいたい」と。彼が「ええっ、知らないのか。まさか。よくよく知っていたはずなのに」などと言い始める度毎に、私たちは背筋をピンと伸ばして、耳をよくよく澄ませる価値があります。ですから、「知らないのか」とその同じ言葉で囲い込まれた3-14節こそが、立て直され、もう一度取り戻されるべき信仰と福音の中心点です。洗礼の日から始まっている、全生涯に及ぶ人生設計。神さまから贈り与えられています新しい生命と自由、その中身、それが実現していく道筋についてです。4-6節。「わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである」。キリストが十字架の上で殺され、葬られ、よみがえらされた。同じように私たちもまた、自分自身の内にある古い罪の人を殺され、葬っていただき、そのようにして新しく生きる者とされたし、されつづける。5節と8節で、「もし~なら、~になる」とわざとのように同じ言い回しが繰り返されます。もちろん、わざと目につくようにこう書き表しています。気づいて欲しいという願いを込めてです。もし、罪の奴隷とされていた古い自分と死に別れるならば、その場合には、そこでようやく、私たちもまた新しい生命に生きる者なる。けれどもし、古い罪の自分と腹の思いが生き延びつづけるならば、それならば、新しい生命もあるはずがない。「おかしいなあ。洗礼を受けて何十年もたったくせに、なかなか新しい生命にならないなあ」と首を傾げつづけている人がいますか。ここに、ちゃんと約束されている。手順と道筋もこのとおりだと。それでも、なかなか新しい生命が始まらない。始まる気配も兆しもまったくない。……あ。そうだったのかァ。それじゃあ、もしかして、罪の奴隷とされていた古い自分とあなたは死に別れ損なっているんじゃないですか。いつまでも古い自分のままでいい、罪の奴隷のほうが性分にもあっているしとアグラをかいて、それで、せっかくの新しい生命を受け取り損ね続けているんじゃないですか。8節も同じです。「もし、私たちがキリストと共に死んだのなら、また彼と共に生きることにもなる」。どういうことでしょう。つまり、逆に、キリストと共に死ななかったとしたら、それならば、彼と共に生きることにはならないということです。11節で、わざわざ「認むべきである」と釘をさされていました。神さまに対して、神さまに向かって、神さまの御前で生きている私たちだと、ちゃんとあなたは認めなさい。嫌だ嫌だと拒みつづけていないで。もしかしたら誰かから、「クリスチャンは罪人である。生涯ずっと同じく罪深い、あまりに生臭い、自分勝手で人を傷つけたり踏みつけにする人間であっていいし、何ヶ月も何年もつまらないことでただウジウジウジウジしつづけても、それは仕方のないことだ」などとデマカセを告げられて、うっかり鵜呑みにしてしまったのかも知れません。生涯ずっと同じく変わらず罪深い? えええ、もしそれが本当なら、そんな信仰がいったい何の役に立つでしょう。そんなつまらない信仰を誰がいったい「私もそれをぜひ欲しい」と願い求めるでしょうか。誰も欲しがりません。もしそうならば、「それがクリスチャンか、それでもキリスト教か」とあなたの大切な家族は悲しんで、泣き喚きつづけるでしょう。「そんな信仰も、そんな神さまも要らない」と、あなたの娘も息子たちも、ご近所さんたちも職場の同僚たちも呆れ果てて、キリストの教会にも私たちクリスチャンにも見向きもしなくなるでしょう。たしかに罪人の集団にすぎません。罪深さや身勝手さ、自分自身の心があまりに頑固なことに私たちは生涯苦しめられるでしょうし、そのために人を傷つけたりもするでしょう。けれど聖書自身が告げていた真実は少し違う。「生涯ずっと同じく罪深い。仕方ないし、それでいい」ではなく、「罪との戦いと悪戦苦闘は生涯ずっとつづく」と。むしろ「感謝の実を結ばないはずがない。そんなことはありえない」(ハイデルベルグ信仰問答,問64参照)と太鼓判を押され、あなたはもう罪の奴隷にならなくてよい、と励まされています。もう百も承知でしょうけれど、それでもオサライをしておきましょう。聖書が告げる『罪』とは、神さまに逆らうことです。そこから様々な悲惨さが末広がりに溢れ出てきました。「自分は正しい。正しい」と我を張りつづけ、「私は私は」と自己主張しつづけることです。したいことはする、気の進まないことやしたくないことはしないと自分の腹の虫・腹の思いをご主人さまとして、その奴隷に成り下がりつづけること(ローマ手紙6:6,17,ピリピ手紙3:18-4:116-17節は、私たちの目の前に置かれた2つの道を指し示しました。2つの道のどちらか1つしか歩けない。死に至る罪のしもべとなるか、それとも、「私の願いどおりではなく神さまの御心にかなうことが成し遂げられますように」と神さまに従順に仕える僕とされて、義と生命にたどり着くか。そのどちらか1つ。しかもそれは主イエス直伝の教え、『2人の主人問題』です。どのしもべでも二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方を疎んじるからである(ルカ16:13。しかも、目の前に置かれた2つの道を見比べて、「さあて、どっちにしようかな。あっちにしようか、それともこっちか」と思案しているわけではありません。すでに私たちは1つの道を選び取り、その1つの道を歩き始めています。「私の願いどおりではなく他の誰彼の考えや気分次第でもなく、ただただ神さまの御心にかなうことが成し遂げられますように」と神さまに従順に仕えるしもべとされて生きる道を。必ずきっと、義と生命にたどり着くはずの道を。だからこそ18節で直ちに、「しかし神は感謝すべきかな。あなたがたはかつては罪の僕であったが、……罪から解放され、義のしもべとなった」。
  なぜでしょうか。それは、いつからでしょう。主イエスが死者の中からよみがえられたからです。そのお独りの方を信じて生きていこうと決心して洗礼を受けたその日から、この新しい生命の道に生きることが始まり、一日また一日と積み重ねられてきました。罪の奴隷とされていた古い自分と死に別れ、それを墓穴に葬り去っていただき、神さまの御前にある新しい生命に生きはじめる。一日また一日と死んで生きて、死んで生きて、死んで生きてと生涯の間ずっと繰り返しつづける。その1本道は救い主イエス・キリストという名前の道です。その新しい生命もまた、イエス・キリストという名前の生命です。あなたも、はっきりと覚えておられますね。主イエスは私たちに向かってこう仰っしゃいました。「私は道であり、真理であり、命である。誰でも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」
(ヨハネ福音書14:6。しかも、私たちはイエス・キリストというただ1本の道を歩きつづけています。イエス・キリストという名前の真理を学びつづけており、イエス・キリストという生命を受け取りつづけています。だからこそ、私たちはクリスチャンです。ここはキリストの教会です。誰でも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない。つまり、キリストという一本道を歩いていきさえすれば、誰でも必ずきっと天の御父のもとに辿り着けるということです。キリストという真理を学び、習い覚えさえすれば、喜びに満ちて幸いに生きて死ぬための十分な真理を掴むと保証されています。キリストという生命を受け取りさえすれば、私たちは神さまに対して、神さまに向かって、神さまの御前を生きる者とされる。「♪主われを愛す」という小さな子供讃美歌1954年版 461番)は祈り求めながら、はっきりと確信していました。歌の4節;「私のご主人さまであるイエスよ、私を清くしてくださって、こんな私にさえも良い働きをさせてください」と。「清くなることなどとても無理。逆立ちしても100万年かかってもできない」。その通りです。もし、神さまなどおられないならば。ただ居るだけで手出しも口出しもしない神さまなら。私たちをほとんど愛してもおらず、「いいよいいよ、どうでもいいよ」と放ったらかしにする無責任な神さまなら。でも大間違いです。ご主人さまである、独り子なる神イエスにはできる。神にできないことは何一つないからです(マルコ福音書10:26-27参照)。私たちのご主人さまであるイエスよ、私たちを清くしてくださって良い働きをなさしめてください。してよいことと悪いことがあります。しかも誰が見ていようがいまいが、誰が聞いていようがいまいが、いつでもどこででも、私たちそれぞれの振る舞いと口から出る普段の言葉と腹の思いとは、すでに隠しようもなく、白日のもとにさらされています。1人の伝道者もそうです。長老も執事も、1人1人のクリスチャンも皆そうです。ローマ手紙12:1-2は語りかけます;「兄弟たち。神の憐れみによって勧めます。……あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」。神さまの御心にかなって生きることをこそ願い求めつづける私たちです。朝も昼も晩も、どこで何をしていても、自分の家の中で家族と一緒のときにも、道を歩いているときにも、職場や学校でも。誰と向き合っているときにも、ただ独りで過ごす日々にも。もちろん、今日ここにおいてもです。神さまに対して、神さまに向かって、神さまの御前で生きている私たちだと、ちゃんとあなたは認めなさい。はい分かりました。主なる神さまがそう仰るので、この私たちこそはそれをはっきりと認め、それをします。肝に銘じて、1日1日を生きるようにと命じられ、ただ命じられているだけではなく、必ずきっとそうさせるという神さまご自身からの約束でもあります。こんな私たちのためにさえも、神さまが、きっと必ずしてくださるという根源的な希望でもあります。ぜひとも、そうなりたい。願いは叶えられます。なぜ? どうしてでしょう。叶えてくださる神さまが、この私たちのためにさえ生きて働いておられるからです。