2017年2月6日月曜日

2/5「種をまく人が」マタイ13:1-9,19-23

 ◎とりなしの祈り

父なる神さま。世界と私たちは、はなはだしい苦しみの中に置かれています。どうか私たちを憐れんでください。
  私たちの心があまりに自分本位・自分中心になって、自分の考え方ややり方を人に押し付け、自分とは違う考え方ややり方の人々を押しのけようとしないようにお守りください。気難しくなって、腹を立てるのに早く、ゆるすことに遅くならないように、心を頑固にしすぎないようにお守りください。神さまが生きて働いておられますことを、どうか今日こそ私たちにもはっきりと信じさせてください。アメリカ合衆国でもイギリスでも世界中で、この日本でも、「自分たちの国と、自分たちとその家族さえ良ければそれでよい」と多くの人々が心を狭く貧しくしようとしています。まるで、良い悪いを判断する心のタガが外れてしまったかのようなのです。ごく普通のイスラム教徒や多くの難民たちがただ国籍や民族や信じている宗教を理由にして邪魔者扱いされ、差別され、世界中から追い払われようとしています。沖縄の人々が土人と呼ばれてバカにされ、総理大臣も政府与党も大臣も大阪府知事さえも「それでいい。何の問題もない」と言い張りつづけます。日本で暮らす外国人が憎まれ、押しのけられつづけています。福島から避難して他の地域に疎開して暮らす子供たちがいじめられ、肩身の狭い思いをしています。なんと恥ずかしく、申し訳ないことでしょう。お詫びのしようもありません。どうか神さま、その土地の教育委員会も県知事も市長たちも、学校教師、親たち、子供たちも正しく健全な心と判断をもって彼らに接することができますように。どうか世界中の人々と私たちを、健全な良心へと立ち戻らせてください。あなたのものでありますキリスト教会と、あなたのものであります私たち自身と家族を、あなたの御心にかなって建て上げてゆくことができますように。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン



                                       みことば/2017,2,5(主日礼拝)  97
◎礼拝説教 マタイ福音書 13:1-919-23              日本キリスト教会 上田教会
『種をまく人が』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
13:1 その日、イエスは家を出て、海べにすわっておられた。2 ところが、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわられ、群衆はみな岸に立っていた。3 イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。4 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。5 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、6 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。7 ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。8 ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。9 耳のある者は聞くがよい」。・・・・・・19 だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。20 石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。21 その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。22 また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。23 また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。            (マタイ福音書 13:1-9,19-23)
                                               




  主イエスが大切なことをぜひ伝えようとして、たとえ話を使って話しています。神さまがどんな神さまなのか。その神さまが私たちをどう思っておられるのか。その神の恵みのご支配のもとで私たちがどんなふうに生きてゆくことができるのか、ということをです。たとえ話ですから、その話の中で何が何をたとえているのかを一つ一つ心に留めながら、読んでいきます。では、種を蒔く人は誰のこと? 種は何だろう。種を蒔かれるいろいろな土地は、いったい何のことでしょう。
  種を蒔く人が出て行って、いろんな土地に種を蒔きます。種は、神さまの言葉です。蒔かれる土地は4種類で、道端の土地(4,19)、石ころだらけで土がほんの少ししかない土地(5-6,20-21)、茨の中の土地(7,22)、そして良い土地(8,23)。せっかく蒔かれた種が、けれどなかなか実を結びません。どうしてでしょう。例えば道端に落ちた種を鳥が来て食べてしまうように、サタンが来て、その大事な《種=神さまからの言葉》を奪い去ってしまうのです。土の少ない石ころだらけの土地でもまた、種は実を結べません。どうしてだか深く根を張れず、ごく浅い所に細くて弱くて短い根しか伸ばせなかったので、強い日差しに焼かれるようなこの世の悩みや辛さや、いろいろな障害に出会って、とうとうこの種も枯れてしまいました。そして別の土地では、茨や雑草がボオボオと生い茂って種を覆いつくしてしまいました。
 22節。「世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで実らない」。この世の思い煩い。富の誘惑。その他いろいろな欲望。それが雑草や茨のように、心の中で生えてくるというのです。例えば、白雪姫の義理のお母さん、おきさきは世界一の美人で、そして本当のことを教えてくれる魔法の鏡を持っていました。鏡は毎日毎日、「あなたが一番美しい。素晴らしい。素敵~」って語りかけてくれました。だから義理のお母さんは毎日毎日得意満面でルンルン気分でした。ところが鏡はある日、今までとは違うことを言い始めます。「白雪姫の方が千倍も万倍も美しい」。この答えを聞いたその瞬間から、おきさきの心の中に雑草が伸び始めます。『白雪姫を見るたびに、憎らしくて憎らしくて、はらわたが煮えくり返るような気がしました。そして、このねたましさや悔しさは、雑草がはびこるように、心の中で伸び広がり、おきさきは昼も夜も、心の休まるときがなくなりました』(こぐま社「こどものためのグリムの昔話.2)。分かりますか。あなたは自分自身の心の中に、そういう雑草が生えたことがありますか。ちょっと恥ずかしいんですが、僕は、そういうことがよくあります。クヨクヨクヨクヨしてしまう。すごく臆病で、肝っ玉が小さいからです。いいえ、それより何よりも神さまに信頼することや神さまに聴き従って委ねる心がほんの少ししかないからです。「人からどう見られるだろう。なんて思われるだろう」と、気にかかって気にかかって仕方がなくなります。「そんなことどうでもいいじゃないか。気にしなくていいんだよ」と自分で自分に言い聞かせても、やっぱりクヨクヨして、溜め息をついている。カンシャクを起こしたり捨て鉢な気持ちになる。「どうせダメだ。あんな人たちに何を言ってもどうせ分かってもらえない」と思ってウンザリしてしまう。だから、白雪姫の話を読んで「あ。このおきさきはいつもの僕と同じじゃないか。そっくりだ」と思いました。さて、種を蒔かれたいろいろな土地のこと。考えてみてください。鳥のようなサタンが来ても大事な種を食べられないような良い土地は、どこにあるでしょう? 強い日差しのようなこの世界の悩みや苦しみ、いろいろな誘惑、すごく困ったことや難しい出来事が起こっても、それでも《種=神さまからの言葉》を守って根づかせるような、土が深くてタップリした良い土地はどこにあるでしょう? せっかく種を蒔いてもらったのです。ようやくやっと芽を伸ばしかけているこの大事な種を実らせたい。私のこの魂の土地に根づかせ、うれしい実を結ばせたい。良い土地はどこにあるでしょうか?
  僕たちがそれぞれ種を蒔かれる土地だとして、「この人は道端の土地。この人は石ころだらけの土地。この人とこの人とこの人は茨の土地。そして、おめでとう、あなたこそは良い土地です」と、そんなことがあるでしょうか? だって、鳥のようなサタンが来て、せっかく蒔かれた大切な種をパクパクムシャムシャ食べてしまうのは、どこでも同じです。どの土地にもサタンの鳥はやってくる。もし、鳥を追い払い、いつも種を守って土地の世話をする者がいてくれるなら、そこは良い土地ではありませんか。しかもサタンの鳥は次の日も次の日も毎日毎日、私の畑に種を食べに舞い戻ってきます。忍耐深く、サタン鳥を追い払いつづけてくれる者がいるなら、その大切な種はかろうじて守られます。強い日差しのような苦しみや悩みはあります。いろいろな障害もどこでも誰にでも何度でも立ち塞がります。茨や雑草のような思い煩いや誘惑、いろいろな欲望もまた、風に運ばれてきます。その思い煩いや誘惑は、初めはほんの小さな種に過ぎませんでした。でも小さな小さな種も、放っておけばどんどん伸びて生え広がり、土地をすっかり覆いつくしてしまいます。もし、伸びてくる雑草に目を配り、心を砕いてよく手入れをしてくれる者があれば、そこは良い土地でありつづけます。石っころを取り除き、雑草をむしり、肥料を施し、水をまき、害虫を遠ざけて、昼も夜も世話しつづけてくれる者がもしいてくれるならば、その土地はやがてとても良い土地になっていきます。同じ1つの土地が手入れ次第で、どこまでも良くなり、また、どこまでも悪くなります。

             ◇

 このたとえ話を読んで、「何か、どこかがおかしい」と感じませんでしたか? 私たちは、《聖書に書いてあるから。主イエスがおっしゃることだから》と、それを当たり前のように、ごく自然な出来事のように受け取ってしまいます。けれど、このたとえ話には初めから奇妙な所があります;「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち・・・・・・」(3-8)。種を蒔く人の、この蒔き方はおかしいと思います。むやみやたらに、いい加減に種を蒔いているのでしょうか。どこでもいいから、芽が出ても出なくてもどっちでもいいから、とにかく、ただ行き当たりばったりに種を蒔いているのでしょうか。それが、神のなさり方でしょうか。
 私たちはここで、心を鎮めて、よくよく考えてみなければなりません。ルカ福音書15章の羊と羊飼いのたとえ話でも、よく似たことが起こりました;「99匹を野原に残して、いなくなった1匹を探し回らないだろうか?」(4)と質問されました。けれど、ごく普通のまともな人間の羊飼いなら、そんな後先を考えない無謀なやり方はしません。そもそもの初めから、この羊飼いは滅多にいないほどの奇妙な人物でした。たった1枚の銀貨を家中ひっくり返して何日も何ヶ月も探し回る女(ルカ15:8-10)も、常識を外れた、滅多にいない、とてもとても風変わりな人物でした。「私も多分おなじようにするだろう」などと、うっかり騙されてはいけません。どこにもいないような、とんでもなく常識外れの、私たちのいつもの道理や一般常識を大きく踏み外した人物の姿が物語られています。「私たちのいつもの考え方ややり方とは、だいぶん違う!!」。ここに気づくことが出発点です。《ぶどう園の主人》もそうでした(マタイ20:1-,21:33-)。「私たちのいつもの考え方ややり方とはだいぶん違う」と気づきたい。「他のどこにもいない奇妙なこの人物は誰のことだろう」と立ち止まって、思いを凝らしたいのです。私たちは、色々なことをよく知っているわけではありません。それでも、聖書の神さまのことはよくよく知らされてきました。皆共々に、必要なだけ十分に習い覚えています。ねえ。この世界と私たちに素敵な種を蒔いたあの神さまが、いったいどんな神さまかということを。私たちの主なる神さまは行き当たりばったりに、いい加減に無責任に、暇つぶしのようにして種を蒔いたのではありません。もちろんです。蒔いたからには、種の1粒1粒に対して、その土地の1区画1区画に対して、願いを込めて蒔いたのです。せっかくわざわざ願いを持って蒔いたからには、途中で飽きたとか嫌気がさしてなどと放り出したりなどなさらず、ちゃんと責任を持ちつづける。「決して見放さず、見捨てない。だから恐れてはならない。おののいてはならない」(申命記31:8と、最後の最後まで。
  さあ、ご覧ください。これが世界の初めであり、ここが初めにあった世界の全体です。「主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった」(創世記2:4)。草一本生えない、荒涼とした寒々しい大地が広がっています。――神さまは夢を見ました。「草や木が青々と生い茂る世界はどうだろうか。木には花が咲き、おいしい様々な実がたわわに実り、風が吹き渡り、鳥が枝に巣を作ってそこでヒナを育てるようになったらどうだろう。きっと、とても素敵だろう」と。その手には、種が握られています。種を見て、そして目の前に広がる荒涼とした大地を見渡して、神さまは種を蒔きはじめます。どんなふうに? もちろん行き当たりばったりにではなく、けれど、「この土地にも。この土地にも」と。「どんな土地にも種を蒔きたい」と願ったのです。「あの道端の土地のような所にも。あの石っころだらけの痩せた貧しい土地にも。あの茨が生い茂ったような、気難しくて、ひどく手間隙かかる厄介な土地にも、私はぜひ種を蒔きたい。ぜひ、その種を芽生えさせ、葉や茎を伸ばさせ、豊かな収穫を結ばせたい」と。ぜひそうしたいと。熱情の神であり、最後の最後まで責任を負いとおす神です。
  だからこそ、種を蒔く人は同時に直ちに土を耕す人でもありつづけました。種を食べようと、鳥が次々にやって来ました。その人は鳥を追い払い、種を守って土地の世話をする者でありつづけました。強い日差しのような苦しみや悩みが、折々に種たちを弱らせました。茨や雑草のような思い煩いや誘惑、いろいろな欲望もまた、風に運ばれてきました。2、3日でも放っておけばどんどん茨は伸びて生え広がり、土地をすっかり覆いつくしてしまいます。今日は、神さまのものである土地を集めて手入れをする日です。知らず知らずのうちに、雑草や茨が草ボオボオと生い茂ってしまった土地もありますね。いつの間にか、石ころだらけになってしまった土地もあります。でも大丈夫。なぜ? 伸びてくる雑草に目を配り、心を砕いてよく手入れをしてくれる者がもしいてくれるならば、そこはふたたび何度でも何度でも良い土地に生まれ変わってゆく。石っころを取り除き、雑草をむしり、肥料を施し、水をまき、害虫を遠ざけて、昼も夜も世話しつづけてくれる者があるならば、その土地はやがて、だんだんと少しずつ良い土地になっていきます。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」(126:5-6)。それは、主である神さまと私たちのことです。あなたのためにも、涙と共に種を蒔いたお方があり、心を砕きながら世話をしつづけてくださった方がおられます。「 種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」(コリント(2)9:10)。それはあのお独りの方、主イエスと私たちのことです。慈しみとゆるしとは、神の御もとにありました。種を蒔いたのも、蒔いた種の世話をしつづけたのも、それは神の慈しみの業です。あのお独りの方の慈しみがあなたに注がれ、この私にも注がれ、だからこそ、ここにもそこにも、必ずきっと良い実を結びます。慈しみの実を。《憐れみを受け、溢れるほどに恵みを受けて、私は、今日ここにあるをえている》という感謝と信頼の実を。木はやがて大きく育って、枝を空へと伸ばすでしょう。慈しみの枝です。枝々は張りめぐらされて、空の鳥たちがたくさんの巣を作り、それぞれの巣からヒナ鳥たちがすくすくと成長し、空を自由に羽ばたき、またそれぞれに枝に巣を作り、ヒナを育てつづけるでしょう(マルコ4:30-32)