2015年8月30日日曜日

★聖書講演「耕したり、耕されたり」~なぜ私は働くのか~

『耕したり、耕されたり。』 
~なぜ私は働くのか?~
牧師 金田聖治
 
 苦しい時代の中に私たちは生きていると思えます。なんだか了見が狭くて、他人に対してはひどく冷淡で、思いやりに欠けている世の中です。自信を持ち、希望に胸をふくらませて将来を夢見ている子供や若者たちはごく少ないと思えます。むしろ多くの人たちが、ひどく心細い気持ちで毎日毎日を暮らしているでしょう。若い人たちばかりじゃなく、子供たちも年寄りも。ですから、そう簡単に励ましや慰めを語れません。さて、働くとは何でしょうか。何かの役割を与えられ、仕事をする。あるときには仕事がよくできて誉められたり喜んでもらったり、別のときにはそうでもなくて、けなされたり嫌味を言われたり、きびしく叱られたりもします。喜びながら働く日々もあり、悩みながら苦しみながら働く日々もありますね。働くとは何でしょう。そのとき何が起こっているでしょう。まず聴いてください。マルコ福音書4:26以下;

「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りま せん。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです」。    

これ新改訳なんですが、ぼくの友だちはこの「そうこうしているうちに」って所がすごく好きだって言うんです。「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません」。働くことも、生きてゆくことも、こういうふうに出来ていると思えます。地は人手によらず実をならせる、といいます。もちろん種を蒔いたり雑草をむしったり、水をかけたり肥料を与えたり精一杯に世話をして働くわけです。それでも土の下の深く暗いところで、私たちの知らない大きな働きがなされつづけている。養分を運ぶ、いくつもの目に見えない川が土の下に流れています。ミミズや微生物やバクテリアがうねうねもぞもぞ動き回って、土に栄養と活力を与えます。土を耕す人はその活動全体の中のごくわずかの部分に関わるだけです。土の下の奥深いところで何が行われているのかを、ほとんど知らずに。けれど、その大きな働きや存在に信頼して、自分が今すべきことを精一杯にしている。働くことや生きることは、それに似ています。朝から晩まで人間たちのことばかり思い煩って、頭がカチンカチンに堅くなってしまった人たちには、この世界は、まるで『人間による・人間のための・人間のものである世界』であるかのように見えるでしょう。『我らの日毎の糧を今日も与えたまえ』と口癖のように祈りながら、腹の中ではそんなことちっとも思っていない。「私たちの日毎の糧も生活費も食費も何もかも、自分で稼いで自分の甲斐性と根性と努力と才覚で自分に与えています。神さまの世話になんかなっていませんから、ご心配なく」って。へえ、そうなんだあ。これから就職しようとしている若い人に向けて話しています。どんな仕事についてもいいけど、なにしろ毎週日曜日に礼拝に集えるほうが幸せです。そうでないなら、はっきり言ってかなり危なっかしい。生きる意味も神さまを信じることも、いつの間にかすっかり分からなくなりますよ。例えば、「信仰は信仰、仕事は仕事と割り切るように」などと誰かに教えられましたか? 日曜日の午前中、教会の敷地内にいるときだけクリスチャンで、あとはそれぞれ好きにしたらいいなどと。会社では会社や上司のルールや命令に従い、家では父さん母さんに従い、学校では先生方の言うことを聴いて、それ以外は好きにしていい自由時間。へええ。じゃあ、いつどこでどういうときに神さまの御心に従って生きるんですか。心の中だけの信仰だし、心の片隅でただニッコリ微笑んでいるだけの、手出しも口出しもしない、小さな小さな神さまだと教えられましたか。で、そんな根も葉もないイカサマをあなたは鵜呑みにしてるんですか。10人中10人がそう思い込まされているんじゃないかなあ。神さまが生きて働いておられることを僕は知っているし、信じています。だから、マルコ4章を紹介してくれたその友だちと一緒になって口癖のようにつぶやきつづけています。夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに。夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちにと。
  働くこと、家庭や家族を築き上げてゆくこと、生きてゆくことの意味。それらを最初に決定的に語りかけたのは創世記24節以下でした。神さまによってこの世界が造られたその初めのとき、地上は草一本も生えない、物淋しい大地だったと報告されます。どうしてかと言うと、その理由は2つ。

(1)雨がまだ大地に降り注いでなかった。
(2)その恵みの雨を受けとめて、土を耕す人もいなかったから。

雨と、そして土を耕す人。この世界が生命にあふれる、青々とした素敵な世界であるためには、雨が大地にたっぷりと降り注ぎ、そしてその恵みの雨を受けとめて土を耕す人がそこにいる必要がありました。この世界と私たちを造った神さまは、私たちがビックリするような、人の心に思い浮かびもしなかった不思議な仕方で問題を解決していかれます。「いつごろ雨が降るだろう。まだかなあ」と空を見上げて待っていましたら、空の上からではなく、地面の下から水が湧き出てきて大地を潤しました。土を耕す人も、わざわざ土の塵から形づくりました(6,7)。神さまがその鼻に生命の息を吹き入れた。それで人は生きる者となった。そのことを、ずっと考え巡らせてきました。「オレって何て馬鹿なんだろう。なんて臆病でいいかげんで、ずるくて、弱虫なんだろう。ああ情けない」とガッカリして、自分が嫌になるときがあります。そういうとき、この箇所を読みました。「どうして分かってくれないんだ。なんで、そんなことをする」と周りにいる身近な人たちにウンザリし、すっかり嫌気がさしてしまいそうになるときに、この箇所を読みました。どんなに強くてしっかりしているように見える人でも、それでもなお、堅い石や鉄やダイヤモンドで造られた人なんか誰1人もいないのです。土の塵で、泥をこねて造られた私たちです。土を耕して生きるはずのその人も、土でできている。どういうことか分かりますか? その人の中に小さな1粒の種が芽生え、大きく育ち、素敵な花を咲かせ、やがて嬉しい実を結ぶためには、その人のためにも、やっぱり(1)恵みの雨と、(2)その人を耕してくれる別の耕す人が必要だってことです。もし、そうでなければ、その人も直ちにカラカラに乾いて、干からびて、草一本も生えない寒々しく荒れ果てた淋しい人間になってしまうかも知れなかった。踏み荒らされて壊された砂の道路や、砂の山や砂の家のようになってしまうかも知れなかった。で、その人を耕してくれる人もやっぱり同じく土の塵で造られていて、神さまからの恵みの雨と別の耕す人を必要とした。その耕す人もやっぱり・・・・・・。土の塵から造られ、鼻に生命の息を吹き入れられた私たちです。壊れ物のような、とても危っかしい存在です。それぞれに貧しさと足りなさを抱え、時にはパサパサに乾いた淋しい気持ちに悩んだりもします。恵みの雨に潤され、耕されるのでなければ、この私たちだって草一本も生えない、荒れ果てた、淋しい人間になり果ててしまいます。しかも土の塵。石や鉄やダイヤモンドでできたビクともしない人など1人もいません。ですから、あんまり乱暴なことを言ったりしたりしてはいけません。あんまりその人が困るような無理なことをさせてはいけません。壊れてしまっては大変です。
  218節の「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。これは、ただそれだけで語られているのではなくて、4-7節の成り立ちと、15,16,17節のつながりの中に置かれています。

「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう』」。  

そして、だからこそ主なる神は言われるのです。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と。素敵なエデンの園に連れてこられました。何のため? そこを耕し守るためにです。(1)その土地を耕し守って生きる、という大切な働きと役割。(2)すべての木から取って食べなさい、とあまりに気前よく恵みと祝福を与えられました。(3)ただし、『これだけはしてはいけない。慎んで留まれ』と戒めも与えられて。働きと役割。祝福と恵み。そして『これだけはしてはならない』という戒め(15,16,17)。しかも土で造られた私たち人間はあまりに不完全で、ひどく未熟でした。意固地になり、独り善がりになりました。ね、だからです。だからこそ、人が独りでいるのは良くない。独りでは、その土地を耕して守るという大きな重い務めを担いきれないからです。独りでは、あまりに気前よく与えられた祝福と恵みを本当に嬉しく喜び祝うことができないからです。もし助ける者がいてくれるなら、その人は祝福と恵みを十分に受け取って、「こんなに良いものを私なんかがいただいていいんですか。本当ですか。ああ嬉しい。ありがとうございます」と喜び祝い、感謝にあふれて生きることができます。独りでは、『これだけはしてはいけない。ダメだよ、止めなさい』という戒めのうちに身を慎んで留まることなどとうていできないからです。もし、その人を助けてくれる者がいてくれるならば、その人は、たとえあまりに不完全で、ひどく未熟だとしても、たびたび意固地になり、独り善がりになってしまいやすいとしても、それでもなおその土地を耕して守りながら生きることができます。2章の終わりに、「2人とも裸であったが恥ずかしがりはしなかった」と書いてあります。見栄を張って取り繕うことも要らず、虚勢を張ることも要らない。恥ずかしいことや後ろめたいこと、未熟なふつつかさを山ほど抱えている。お互い様です。土の塵から、泥をこねて造られた者同士です。目の前のその人の不出来さ、了見の狭さ、うかつさをどうぞゆるしてあげてください。何度でも何度でも大目に見てあげてください。

           ◇

 最後に、大切なことを手短かに2つ言います。メモしてください。
1つは、仕事をするときの失敗例。どの仕事も素敵な良い仕事になりうるし、悪い仕事にもなりえます。だから、どんな仕事を選ぶかということ以上に、自分が選んだその仕事にどう取り組んでいくのかが大切です。聖書の中にも外にも失敗例はたくさんあって、自分の働き方を考え直し、建て直してゆくためにとても役に立ちます。まず創世記4章のカイン。神さまへの感謝をあらわすために献げものをしたはずだったのに彼は腹を立てました。誉められたかったし、見せびらかしたかったからです。それからルカ福音書10章のマルタ姉さん、15章の放蕩息子の兄さん、マタイ20章の朝早くからぶどう園で働いた労働者たち。彼らは皆、仕事をしながら腹を立てたり、惨めな気持ちになって妬んだり、淋しくなってしまいました。それらが皆、神さまへの感謝の献げものだということを忘れてしまったからです。働くことそれ自体が幸いであり神さまからの祝福であることも、すっかり分からなくなりました。それじゃあ水の泡。彼らのふり見て我がふり直せ。
  もう1つ。職業でも結婚でも何の場合でも、苦しくて辛くてとても困るとき、そこからサッサと逃げてきなさい。後先考えず恥も体裁もかなぐり捨てて。このままいたら壊れてしまうかも知れないと気づくなら、すぐに逃げ帰ってきていい。本当ですよ。

イエス・キリストの父なる神さま。
若い者たちに、喜びにあふれて生きる道を備えてください。この世界が生きるに値する素晴らしい世界であることを、つくづくと実感させてください。彼らにも、また私共年長の者たちにも、主イエスを信じる信仰を日毎に与え、どうかその信仰を増し加えてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン

* キリスト教ラジオ放送局(日本FEBC)、インターネットで放送中。
FEBC」⇒「特別企画/クリスチャン学生の職業選択のポイント」で検索できます。