2015年9月7日月曜日

9/6「地の塩」マタイ5:13、コロサイ4:6

                                         みことば/2015,9,6(主日礼拝)  23
◎礼拝説教 マタイ福音書 5:13,コロサイ手紙4:6        
日本キリスト教会 上田教会

『地の塩』   

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC



5:13 あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。
                                                           (マタイ福音書 5:13)

4:6 いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう。                                    (コロサイ人への手紙 4:6)


主イエスは群衆をご覧になりました。それぞれの苦しみと悩みを抱え、だからこそ主イエスについてきた人々です。薄暗い死の陰の地に住んでおり、飼う者のない羊のように弱り果て、まただからこそ悔い改めて神へと立ち返る必要のある人々です。主イエスは山に登り、お座りになり、弟子たちがみもとに近寄りました。「あなたがたは地の塩である。世の光である」と主イエスが仰った直接の相手は、弟子たちです。けれど弟子たちのすぐ後ろには、大勢の群衆もすでに詰め寄っており、語りかける主イエスと、その言葉を聴き続けている私たち弟子たちとに目を凝らしています。まだ弟子になってはいない人々は、耳を傾け、目を凝らしながら考え込んでいます、「あの彼らが地の塩であり、世の光である。それは一体どういうことだろうか」と。すでに主イエスの弟子とされた私ども自身も考え込んでいます。「この私たちが地の塩であり、世の光である。それは一体どういうことだろうか」と。そうこうしながら、これらの群衆の中からも一人また一人と、主イエスの弟子に加えられてゆく者たちが起こされてゆきます。
  塩には、様々な役割がありました。食べ物に塩を加えて味つけをしました。塩によって、その食べ物は味わい深くなり、よい風味を加えられました。食品が腐ったり傷んだりしないように、それらを清めて長持ちさせる保存料の働きをしました。「あなたがたは地の塩である。世の光である」と主イエスは弟子たちに、この私たちにもお語りになりました。周囲の人々とどう付き合っていくか。家族に対して、教会の兄弟姉妹たちに対して、地域の隣人たち、職場や学校の友人たち、仲間たちに対してどう振る舞うのか。毎日毎日をどう暮らしてゆくのか。並べて読みましたコロサイ手紙4:6「いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう」。口から出る言葉が塩で味付けられている。それは、やたらに塩っぱかったり辛口だったりするのではなくて、むしろしんなりとまろやかであり、心優しい。コロサイ手紙は3章からすでに、隣人との付き合い方に厳しく注文をつけていました。どう振る舞うか。何を語り、どういう態度で人と接するべきか。地の塩としての毎日毎日の暮らしぶりです。あなた自身の貪欲を殺してしまいなさい。憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を今日こそキッパリと捨ててしまいなさいと。それ以上に、「あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい」(コロサイ3:12-13)。しかも主イエスの弟子たちよ、私たちを塩漬けるのは聖霊の火である他なかったのです。「人はすべて火で塩づけられねばならない。塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」(マルコ福音書9:49-50)。先週、白人至上主義秘密結社、KKKのことを語りました。彼らは昼日中、表通りで他の人々が見ている前では善良なクリスチャンでありつづけた。家の中や自分の家の敷地内で、あるいは薄暗がりの中や、覆面を被りマントに身を隠している間は恐ろしい獣でありつづけた。毎週日曜日に教会で美しく清らかな教えに耳を傾けつづけ、家に帰ると、彼らはしつけと称して黒人奴隷たちをムチ打ち、殴ったり蹴ったりした。それでも心はほんの少しも痛まなかった。美しく清らかな教えと、暴力や差別や非人道的な虐待行為、冷淡で薄情な在り方。それらはなんの不都合もなく両立した。先週はうっかり思い違いをして、「真っ黒い覆面を被り、黒いマントに身を隠して」と話していました。「腹の中が真っ黒なら、衣装や姿形も真っ黒だろう」と思い込んでいました。実際には、彼らの覆面もマントも、いつも洗濯仕立てのシーツのように真っ白でした。むしろ、そのほうが本当に怖い。しかも白く塗った墓、白く塗ったマスク、白く塗ったマント。聖書の報告そのままです;「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである」(マタイ23:25-28)。わが魂よ、外側を真っ白に塗ったKKKと律法学者のふり見て我がふり直せ。本気で直せ。間に合ううちに。
  キリストの教会とクリスチャンにとって、塩も塩気も塩の効果も、輝く明るい光も、なにもかも救い主イエス・キリストご自身です。救い主イエスご自身から良い贈り物をいただきつづけている私どもです。主は仰った、「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既に清くされている。わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネ福音書15:3-5)私たちのための塩気はこれでした。キリストとつながっている。キリストからの言葉を抱えて生きているし、聞き取り受け取ってきたその言葉が、私たちを清くしつづけている。だから必ず実を結ぶ。当然、塩気があり、必要なだけ十分に清められてもいる。そうであるはず。けれど度々、その塩気はどこかに紛れてしまいました。
 地の塩についてのマルコ福音書からの報告を先程、読み比べました。「人はすべて火で塩づけられねばならない。塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」(マルコ福音書9:49-50)。あなたがた自身の内に塩を持て。そこで初めて、互に和らぐことができる。塩をうっかり手放してしまうから、それで度々、私たちは互いにトゲトゲしく振舞いました。「自分さえ良ければいい」と了見を狭くし、心を頑固にし、あまりに身勝手になって隣人を押しのけてしまいました。兄弟姉妹がたに対しても、家族に対しても、なにより塩であり光であられる主イエスご自身に対して、まったく申し訳ないことです。けれど、どうやって互いに和らいでよいのか、どうしたらそんなことができるのか分かりませんでした。それで、私たち自身の内に塩を持つために、互いの間に必要なだけ十分にたっぷりと『塩』を持つために、聖晩餐のパンと杯が備えられました。
 ですから今日は、先に申し上げておきましょう。コリント教会のクリスチャンたちは度々、すっかり塩気を失って生臭くなりました。互いに対してトゲトゲしく振舞ってしまいました。「自分さえ良ければいい」と了見を狭くし、心を頑固にし、あまりに身勝手になって兄弟たちを押しのけてしまいました。各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、一方には腹を空かせて飢えた人々が取り残され、他方には好き勝手に酔っている者さえあり、主の家におらせていただいているのではなく自分の家に居るような殿様気分、ボス気分でいる。貧しい人々が軽んじられ、恥かしめられている有様をつぶさに見てとって、「それでは、あの小さな彼らが恥ずかしめられるばかりでなく、神の教会が恥ずかしめられ、神さまご自身が侮られ、恥ずかしめられている」(コリント手紙(1)11:17-22参照)と主の弟子は叱ります。心が痛みます。聖晩餐の制定語、コリント手紙(1)11:27以下は、具体的には、私共のこういう付き合い方や普段の在り方を厳しく諌めます。目の前にパンと杯があってもなくても いつも、どこで誰と何をするにも同じ一つの心得です。コリントの兄弟姉妹たち、どうぞ今日こそ本気でお聞きください;「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分に裁きを招くからである」。
  主の体の肢々とされた者としてふさわしくないことを、この私たちは度々しでかしています。その度毎に、主の体と血とを犯しつづけ、その飲み食いや、口から出るいつもの何気ない言葉や態度や一つ一つの行いや腹の思いによって、朝も昼も晩も、私共は自分自身に裁きを招きつづけています。本当のことです。けれど今にも滅びようとする悪人たちよ、主なる神は仰います;「わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。……あなたがたが私に対しておこなったすべての咎を捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのである。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」(エゼキエル書18:23-32。ふさわしいからではなく、よくよく弁えているからでもなく、むしろ逆 今にも滅びそうな罪人であり、ひるがえって生きるために救い主イエスの血と肉をぜひとも必要としている私共だからこそ、「取って食べなさい。この杯から飲みなさい」と命じられています。死にかけている重病人のための唯一の解毒剤なので、あなたこそはこの生命のパンと杯を受け取りなさい。それで、讃美歌142番をこの後もうすぐ歌います。私たちがぜひとも持つべき必要不可欠な塩は、またそれをもって互いに和みあうことのできる格別な『地の塩』は、ただただ救い主イエスの血潮だからです。ダジャレみたいで申し訳ないですが、これが真相です。他のどこにもないこの塩気は、奇妙なことに、互いに相反する2種類の味がします。「救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。滅びる者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、救われる者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである」(コリント手紙(2)2:15-16参照)。もし万一、その塩から香りも塩気もなくなり、効き目がなくなれば、イエスご自身が私たちをではなく、この私たちこそが 直ちに救い主イエスを家の外へと放り投げてしまうでしょう。自分自身の魂の外側へとポイと投げ捨ててしまうでしょう。主とは何の関係もない者のように、毎日毎日を暮らし始めるでしょう。礼拝中にも、教会の中でも外でも、そこにまるで神さまがいないかのように身勝手に貪りはじめるでしょう。恐ろしいことです。142番の2節、「消えなば消え去れ」。地位も名誉も良い評判も幸いも何もかも、もし消えるというなら、どうぞいいですよ好きなように、いつでも消え去ってください、という意味です。3節2行目、「こもごも」は入れ替わり立ち代り現れるということですが、まあ、「恵みと悲しみがごちゃまぜになって一緒に」というくらいの意味です。4節ではさらに、「恵みと悲しみ、1つに溶け合う」と言い表しています。不思議な情景です。さて、なにしろこの讃美歌の生命は3節と4節にあります。そこから、歌全体に生命が流れ出て、染み込んでいくようです。3節4節、「(3)見なさい、十字架の主イエスの頭から、そして釘打たれた手や足から、恵みと悲しみが入れ替わり立ち代りに、ごちゃまぜになって流れ落ちてくる。(4)恵みと悲しみは、1つに溶け合って流れ落ちてくる。主イエスの頭に被せられたあのあざけり笑うための茨の冠は、それなのに本物の王冠としてまばゆく輝いている」。主イエスを信じる祈りの人が十字架の主を一途に仰ぎつづけています。流れ落ち、したたってくる主イエスの真っ赤な血潮に目を凝らしていたはずでした。けれど気がつくと、主イエスの血潮はこの人の信仰の目には、『恵みと悲しみ』に見えました。驚きながら、心を深く揺さぶられながら、「ああ、恵みと悲しみが流れ落ちてくる。入れ替わり立ち代りに、ごちゃまぜになって流れ落ちてくる。1つに溶け合って、私たちのための主イエスの恵みと悲しみが流れ落ちてくる」と受け止めています。なんということでしょう。つまり、この人は十字架につけられた主イエスの姿を仰ぎ見ながら、相反する、互いに矛盾する2種類の感情を同時に味わっています。喜びと悲しみと、あるいは感謝と申し訳なさとを。悲しみや苦しみや申し訳なさがある。確かに、けれどそれだけじゃなくて、感謝があり、喜びと希望がある。なぜなら救い主イエスは、ここで今にも死んでいかれようとしているだけじゃなくて、主と私たちの復活の生命がここではじまろうとしているからです。それを見て、この手に受け取ることができるなら、私たちもここで、神さまに対する申し訳なさと感謝とを同時に、満ち足りるまで十分に味わうことができます。復活の生命を、ここでこの十字架の主から、私たちもついにとうとう受け取ることができます。