2021年8月23日月曜日

8/22「あなたの信仰があなたを救った」ルカ18:35-43

             みことば/2021,8,22(主日礼拝)  333

◎礼拝説教 ルカ福音書 18:35-43         日本キリスト教会 上田教会

『あなたの信仰が

あなたを救った』

 

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

18:35 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道ばたにすわって、物ごいをしていた。36 群衆が通り過ぎる音を耳にして、彼は何事があるのかと尋ねた。37 ところが、ナザレのイエスがお通りなのだと聞かされたので、38 声をあげて、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい」と言った。39 先頭に立つ人々が彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」。40 そこでイエスは立ちどまって、その者を連れて来るように、とお命じになった。彼が近づいたとき、41 「わたしに何をしてほしいのか」とおたずねになると、「主よ、見えるようになることです」と答えた。42 そこでイエスは言われた、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。43 すると彼は、たちまち見えるようになった。そして神をあがめながらイエスに従って行った。これを見て、人々はみな神をさんびした。              ルカ福音書 18:35-43

                                               

10:9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。11 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。12 ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。13 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。                                         (ローマ手紙 10:9-13)


 35-39節、「イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道ばたにすわって、物ごいをしていた。群衆が通り過ぎる音を耳にして、彼は何事があるのかと尋ねた。ところが、ナザレのイエスがお通りなのだと聞かされたので、声をあげて、『ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい』と言った。先頭に立つ人々が彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、『ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい』」。まず最初に、この目の不自由な彼が「ダビデの子イエスよ」と呼ばわったことについて、ご説明します。道端に座っていて、彼は、「ナザレ村出身のイエスという方がここを通り過ぎようとしている」と聞かされました。すると彼は、直ちに、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい』と声をあげて言いました。イエスに対して「ダビデの子よ」と呼びかけることは、救い主イエスに対する信仰のはっきりしたしるしです。旧約聖書の預言者たちのいくつもの証言によって、「ダビデ王の子孫の中からやがて救い主がこの世界に遣わされる」(イザヤ9:7,エゼキエル34:23,37:24,マタイ1:1,9:27,ローマ1:3と預言されており、人々はそれをはっきりと信じ、その時を待ち望みつづけてきたからです。主イエスの力ある御業の数々や、神の国の福音についての教えを噂で聞き及び、この彼もまた、「このイエスというお方こそ、預言者たちの口を通して約束されていた、神から遣わされた救い主に違いない」と信じる者とされていたのです。「ダビデの子」と主イエスに対して呼びかけたのは、権威あるお方という尊敬の表現や単なる称号ではなく、はっきりと『このお方こそが神から遣わされた救い主であり、その方を救い主だと信じる私である』と言い表しています。

さて、目の不自由な一人の人が道端に座って、物乞いをしていました。救い主イエスが通りかかると、彼は救い主イエスに向かって呼ばわりつづけ、この方からの救いを受け取り、目が見えるようにしていただきました。神をあがめ、感謝し、救い主イエスに従って生きる者とされました。そのとき、救い主イエスはたしかに、「あなたの信仰があなたを救った」と仰いました。ここが、踏みとどまるべき、今日の最重要のポイントです。その人の信仰が、その人自身と家族を救う場合があり、そうではない場合もあるということでしょうか。「あなたの信仰があなたを救った」(ルカ7:50,8:47,17:19,マタイ9:22,マルコ5:34,10:52,使徒3:16,14:9とわざわざ語られ、その言葉がこれでもかこれでもかと何度も記録されつづけているということは、そういうことです。そうであるなら、せっかく神を信じて生きることをしはじめた私たちです。自分自身と家族を救うほどの確かな信仰を、信じて生きる甲斐があるほどの十分な信仰を、私たちもぜひ受け取りたい。あの彼のように。

 目の不自由なその彼は、道ばたにすわって、物ごい(=十分な収入も、生きる手立てもない貧しい人が、「なんでもいいから恵んでください」と他者に頼むこと。「新明解国語辞典」)をしていた。自分自身の苦しく惨めな境遇に誰かが目を留め、心にかけてくれそうな場所を彼は探しました。そして、その道端を自分で選んで座り、物乞いをし始めました。自分から進んでその場所に出てきて、その道端にわが身を置きました。道行く人たちが彼の姿を見て、助けの手を差し伸べてくれることを期待して。「あなたがた貧しい人たちは幸いだ。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20と別の時に主イエスは仰いました。その貧しさは、施しを受けようとして道端に座っている物乞いの心と姿だと、ある人は思い至りました。そのとおりだと思えます。もし彼が、その道端に座って物乞いをしていなかったなら、ほんの短い生涯の最期の最期まで、心細く惨めなままだったかも知れません。道端に座って、「ナザレのイエスがお通りなのだ」と聞かされたので、声をあげて、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい」と言いました。迷惑だし邪魔だから静かに黙っていなさいと他の人々に叱られても、彼はますます激しく叫びつづけました、『ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」。ぜひとも私は救い主イエスからの憐れみを受け取ろう、なんとしても受け取りたいと心に堅く決めていたからです。あの彼は、神からの憐れみを求めていました。邪魔されても、叱られても、人から嫌な顔をされても、それでもなお求めることを止めませんでした。「ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」と、彼はますます激しく、熱心に、本気になって求めつづけました。彼のこの姿を見てください。

 これは、神に願い求める祈りの、この私たちのための手本です。なぜなら、「ナザレのイエスがお通りだ」と聞かされて、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい」と自分自身で声をあげたからです。迷惑だし邪魔だから静かに黙っていなさいと他の人々に叱られても、咎められても、なお口を閉ざそうとしなかったからです。「ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」と、ますます激しく求めつづけたからです。あの彼は、自分がとても困り果てていることを、つくづくと感じ取っていました。助けを求める言葉も、自分で見つけ出していました。彼の惨めさや心細さや苦しみなど少しも知らない人々が迷惑がったり、叱りつけて黙らせようとしても、そんなことで黙り込みはしなかったからです。自分がどんなに惨めで、悲惨で心細い日々を過ごしてきたかをよく覚えているので、だから彼は求めつづけました。そのしつこさ、粘り強さは、たっぷりと十分に報いられました。あの彼は、探し求めていたものを見つけ出しました。その日に、あの彼は光を与えられ、目が見えるようにされました。このように、あなたも神に願い求めるようにと私たちは促されます。もし、あなたが願っているのなら、それを、あなたが本気になって求めればいいじゃないかと。

 40-42節、「そこでイエスは立ちどまって、その者を連れて来るように、とお命じになった。彼が近づいたとき、『わたしに何をしてほしいのか』とおたずねになると、『主よ、見えるようになることです』と答えた。そこでイエスは言われた、『見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った』」。救い主イエスは、十字架の死が待ち受けるエルサレムの都に向かって旅路を歩んでいます。とても重たい問題や課題を頭の中にいくつも抱えておられます。それでもなお、もちろん、この小さく貧しい一人の人のために立ち止まり、その人と向かい合い、親切に声をかけてあげる時間はあるのです。とても心優しい、憐み深いお方であるからです。「わたしに何をしてほしいのか」とおたずねになり、『主よ、見えるようになることです』と彼が答え、そこでイエスは言われました、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。あなたの信仰があなたを救った。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(1コリント手紙12:3と聖書によって証言されています。他の人からいくら熱心にていねいに教えられても、だからと言って、「イエスを神から遣わされた主であり、救い主である」などと信じることも認めることも誰にもできません。神ご自身がその人の心に教えてくださるのでなければ、「イエスを救い主、私の主」と信じることは誰にもできない。つまり、神ご自身がその人に、また私たち一人一人に、イエスを主であると信じる信仰を与えてくださいました(ヨハネ福音書6:37,44「父が引き寄せてくださらなければ」,1コリント12:3「聖霊によらなければ~」)

けれどなおその信仰は、弱々しいのです。また、多くの不完全さや思い煩いや、自分勝手な思いや、不信仰やかたくなさをも含んでいるでしょう。それでもなお、その弱々しくいたらない信仰であっても、なおその信仰によって、彼は救い主イエスに向かって呼ばわり、周囲の人々から叱られても咎められても、迷惑がられても、呼ばわりつづけました。信仰によって。そのように主イエスへと向かってきた彼を、救い主イエスは追い払ったりなど決していたしません。そんなことをなさるはずがないのです。ご自身が、こう証言しています、「父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない」(ヨハネ福音書6:37。そのとおりです。あの彼の心からの願いは受け入れられ、直ちに、その人は光を受け取り、見えるようにされました。

43節、「すると彼は、たちまち見えるようになった。そして神をあがめながらイエスに従って行った。これを見て、人々はみな神をさんびした」。救い主イエスからの憐れみを受け取った者たちの、その歩みや生き様、振る舞いについて、はっきりした実例が示されています。ここに報告されているとおりです。光を与えられ、見えるようにされたこの人は、「神をあがめながらイエスに従って行った」。神への感謝と喜びが、彼の魂に深々と刻まれたからです。『救い主イエス。このお独りのお方に聞き従って生きるに値する、私自身のための主人である』。その彼も、私たちもまた、そのことの生きた証人です。私たちもこう証言することができます。「ただ一つのことだけは、はっきりと分かています。私は以前には目が良く見えないものでした。けれど今は、見るべきものを見えるようにしていただいたということをです」(ヨハネ福音書9:25

 神への感謝と信頼こそが、信仰のたしかな泉です。そこからだけ、主イエスに従って生きることが湧き出てきます。神に逆らう罪をゆるされたこと、神との平和、生きる希望。それらを私に贈り与えてくださったのは救い主イエスだと、それをはっきりと実感するのでなければ、誰も自分のために用意されていた十字架を背負うことも、『イエスは私の主である』と人々の前で告白することもできるはずがありません。救い主イエスがまずこの私を愛してくださり、私の罪をあがなうために十字架につけられ血を流してくださった。そのことをはっきりと知らされ、私たちは神を信じて生きる者たちとされました。救い主イエスが私たちの病いを癒し、私たちのそれぞれの重荷を取り去り、それぞれの飢え渇きを満たしてくださいました。だから、そのようにして、私たちは救い主イエスに聞き従って生きる者たちとされました。「いったい誰が神の国に入れられ、だれが救われるでしょうか」(ルカ18:26-27。それは、私たち人間にできることではなく、神しか出来ません。神ご自身こそが、この私たちのためにも成し遂げてくださいました。

 

 


8/22こども説教「神の国を宣べ伝えつづける」使徒28:25-31

 8/22 こども説教 使徒行伝28:25-31

 神の国を宣べ伝えつづける

        (「使徒」の最終回)

 

28:25 互に意見が合わなくて、みんなの者が帰ろうとしていた時、パウロはひとこと述べて言った、「聖霊はよくも預言者イザヤによって、あなたがたの先祖に語ったものである。26 『この民に行って言え、あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。27 この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。28 そこで、あなたがたは知っておくがよい。神のこの救の言葉は、異邦人に送られたのだ。彼らは、これに聞きしたがうであろう」。29 〔パウロがこれらのことを述べ終ると、ユダヤ人らは、互に論じ合いながら帰って行った。〕30 パウロは、自分の借りた家に満二年のあいだ住んで、たずねて来る人々をみな迎え入れ、31 はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。    (使徒行伝28:25-31) 

 

 大勢のユダヤ人たちが集まって、パウロの口から神の国の福音を聞きました。受け入れて信じる者もおり、また、そうではなく信じない者たちも多くいました。皆が帰ろうとしているとき、預言者イザヤの言葉を引用して、「聞いても悟らない。見ても認めない。悔い改めて癒されることがない」ときびしい言葉を語り聞かせます。また、「神のこの救いの言葉は、ユダヤ人ではない外国人に送られた」と。それを語ったパウロの気持ちは、「自分と同じ民族であるユダヤ人たちの何人かでもぜひ救い出したい」(ローマ11:11-15参照)という心からの願いでした。

 30-31節、「パウロは、自分の借りた家に満二年のあいだ住んで、たずねて来る人々をみな迎え入れ、はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた」。パウロは裁判にかけられるのを待っている囚人として、鎖につながれ、昼も夜も監視されながらも福音を語りつづけました。二年の間、神の国を宣べ伝え、主イエスのことを教えました。その後どうなったか、迫害が強まったのか、あるいは釈放されたのかは書いてないので分かりません。神の国の福音を宣べ伝えつづけ、彼は生きて、やがて死んでいきました。ほかの伝道者たちも皆そうです。それで、十分です。

 

 

★★★こども説教 およその予定

 

創世 1:1-5「第一日目に」

  1:24-2:3「人間の創造」

  2:4-18「土の塵で人を造った」

  2:19-24「男と女に造った」

  3:1-7「神に背く罪のはじまり」

  3:8-15「へびのかしらを砕くもの」

  4:1-16「なぜ怒るのか?」

  6:9-22「箱船を造る」

  8:13-22「洪水の終わり」

  9:8-17「すべての生き物との契約」

  9:18-28「ノアの恥ずかしい姿」

  11:1-9「バベルの塔」

  12:1-9「アブラハムの旅立ち」

  12:10-20「妹だと言ってほしい」

  15:1-7「アブラハムとの契約」

  16:1-15「あわれんでくださる神」

  17:1-19「アブラハムの不信仰」

  18:1-15「サラの不信仰」

18:16-33「正しい者が10人いたら」

  19:15-28「ソドムを逃れ出て」

22:1-19「イサクをささげる」

  25:27-34「長子の特権」

  27:18-29「祝福をだまし取るヤコブ」

  28:10-22「べテルでの夢」

  32:23-33「祝福してくださるまでは」

  37:18-28「ヨセフが売られたとき」

  41:25-36「パロが見た夢」

  45:1-15「兄弟たちとの再会」

  50:15-21「神に代わることができようか」

  50:22-26「私の骨をもって」(全30回)

 

そのあと、

☆ピリピ手紙 1:1-2から、全22回。

 

2021年8月17日火曜日

8/15「三度目の受難予告」ルカ18:28-34

           みことば/2021,8,15(主日礼拝)  332

◎礼拝説教 ルカ福音書 18:28-34             日本キリスト教会 上田教会

『三度目の受難予告』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

18:28 ペテロが言った、「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」。29 イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、30 必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。31 イエスは十二弟子を呼び寄せて言われた、「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子について預言者たちがしるしたことは、すべて成就するであろう。32 人の子は異邦人に引きわたされ、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、33 また、むち打たれてから、ついに殺され、そして三日目によみがえるであろう」。34 弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が理解できなかった。              ルカ福音書 18:28-34                        

8:13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。14 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。16 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。

(ローマ手紙 8:13-16)

 救い主イエスは弟子たちに、ご自身の十字架の死と復活をあらかじめ知らせつづけました。とても大切なことなので、何度も繰り返して語りかけました。これが、その三度目の、最後の受難予告(ルカ9:21-27,9:44-45,当箇所)です。

 まず、28-30節。「ペテロが言った、『ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました』。イエスは言われた、『よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである』」。三度目の、最後の受難予告です。最初のとき、主イエスはご自身の死と復活の予告と共に、予告に添えて、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう」(ルカ9:21-24と弟子たちに命令なさいました。「自分の十字架」とは、神さまから与えられ、それゆえ自分で引き受けなければならない苦しみや試練や悩みなどです。また、捨てるべき、失うべき「自分。自分の命」とは、自分が抱えてしまった肉の思い、自己中心の欲望、自分を誇ろうとする欲求などです。よく見ると、それは自分ではなく、自分の命でもなく、かえって自分を貧しくし、自分を損なわせる、無いほうがよい邪魔な障害物です。けれど、ここでは、捨てるべき「偽りの自分。自分の偽りの命」、また背負うべき「自分の十字架」つまり、神から与えられた試練や悩みについては触れられていません。

 さて、その代わりに、とても難しく悩ましいことが語られました、「だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。ごく表面的に受け取るなら、「神を信じて生きるためには家族を皆、捨てなさい」と命じられているようにも聞こえます。もし、神を信じて生きるために自分の妻や夫、両親、兄弟、子供たちを捨てなければならないのなら、本当にそうだとすれば、この信仰も神も虚しいものではないでしょうか。神を信じて生きることにどんな価値があるのかと、疑わしく思えるでしょう。いいえ、決してそうではありません。このときには言葉の意味が隠されていて、弟子たちは皆、何も分からず、少しも理解できませんでした。けれど今では、その意味ははっきりしています。

どうぞ、お聞きください。まず、聖書からの決定的な第一の証言です。使徒16:31。やがて復活の主に出会った後で、牢獄の看守に向かって、弟子たちはこうはっきりと証言します、「救われるためにどうしたらいいでしょうか」「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなた自身も、あなたの家族も救われます」(使徒16:31。ここで語られた言葉の意味も中身も、これです。「捨てなさい」と語られていた真意は、「神に信頼して、家も妻も夫も、兄弟姉妹も子供も孫もなにもかもすべてを神に委ねなさい。委ねることができる。そうしたら、あなた自身も、あなたの家族も救われる」という意味です。ここまで分かって、それでようやく私たちは、大切な家族に、連れ合いや両親、兄弟、子供たちに安心して、この信仰を伝え、神の恵みと祝福のもとへと、心をこめて、精一杯に招いてあげることもできます。私たちが大切に思っている家族や、連れ合いや両親や子供たちを軽んじる神ではなく、そういう信仰ではないのです。他にも、いくつかの大切な証言を並べます。例えばアブラハムとサラ夫婦が神に招かれたとき、主であられる神は「あなたを祝福する。あなたは祝福の土台、出発点となる」と約束しました。また、ヨシュアが同胞たちに神を信じることと神への従順へと招いたとき、彼は、「わたしと、わたしの家は、共に主に仕えます」と信仰を言い表しました。また例えば救い主イエスは、弟子の一人のしゅうとめが高い熱を出して寝込んでいるのを見舞って、熱を下げて起き上がらせてあげました。これらのことを覚えて、よくよく魂に刻みつけている必要があります。このように私たち自身と共に、私たちの家族一人一人をも慈しみ、顧みつづける神です(創世記12:1-3,ヨシュア記24:15,ルカ4:38-39

 救い主イエスを信じ、この方に従って生きてゆくために捨てなければならないのは、家族ではなく、もっぱら「自分が抱えてしまった肉の思い、自己中心の欲望、自分を誇ろうとする欲求」などです。それは、かえって自分を貧しくし、自分を損なわせる、無いほうがよい邪魔な障害物だからです。冒頭の28節。だから、最初にペテロが誇らしげに言っていました、「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」と。自分のものを捨てて、あなたに従ってきたと口では言いながら、うぬぼれて自分を誇ろうとする「虚しい自分」が根強く残って、「ごらんなさい。わたしたちは」と虚しく自己主張しつづけているからです。その姿は、「神の律法のすべてを小さい頃から守ってきました」と胸を張りながら、富や財産や自分自身に執着していた、あの「ある役人」(先々週の箇所、18:18-27とそっくりです。その執着とこだわりのせいで、「あの役人」も弟子たちも、だから心を鈍くされつづけ、主イエスが繰り返し語っていることの意味も中身も分からず、少しも理解できずにいました。多くの財産を持ち、裕福であり、また自分はとても信仰深く正しく生きてきたと思い込んでいた「あの役人」とまったく同じに、「ごらんなさい。わたしたちは」と虚しく自己主張していたあの弟子たちが神の国に入れていただくよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっと簡単なのです。その両方の悪い見本を眺めながら、この私たち一人一人も、「それでは、誰が救われるでしょうか」と主であられる神に向かって本気になって問うべきです。まったく同じ答えが救い主イエスから差し出されます、「人間にはできないことも、神にはできる」18:27と。

さて、ようやく31-33節です、「イエスは十二弟子を呼び寄せて言われた、『見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子について預言者たちがしるしたことは、すべて成就するであろう。人の子は異邦人に引きわたされ、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、また、むち打たれてから、ついに殺され、そして三日目によみがえるであろう』」。救い主イエスはご自身の十字架の死と復活を、何度も何度も繰り返し弟子たちに予告しつづけていました。異邦人に引きわたされ、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、むち打たれてから、ついに殺され、そして三日目によみがえることの1つ1つが、ご自身にとっても、また主イエスに従って歩んでいこうとしている弟子である私たちにとっても、とても大切なことであるからです。罪人をその罪から救い出すために、引きわたされ、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、また、むち打たれてから、ついに十字架につけられて殺され、そして三日目に死人の中からよみがえること(1テモテ手紙1:15を参照)。それこそが、神であられる救い主イエスがこの地上に降りて来られた目的であり、救い主として果たすべき使命であったからです。救い主イエスは、多くの者の罪のあがないとして、その身代金としてご自身の生命をささげてくださいました。神に対する私たちの背きの罪をあがなうために、十字架の上でご自身のからだを引き裂き、ご自身の血潮を流し尽くしてくださいました。聖書は証言します、「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。……まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである」(ローマ手紙5:6-11。神の愛が、このようにして罪人であり神に背くものであった、この私たちにも注がれました。

ふたたび34節です、「弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が理解できなかった」。心が鈍くされ、その十字架の言葉を分からなくされ、理解できずにいるのは、あの彼らも今日のこの私たちも同じようなものです。救われるに値しない罪人である私たちを救うために、その身代わりとなってあがないの死を成し遂げてくださった救い主イエスの死は、今なお、私たちの前に大きなつまづきの石となって立ち塞がりつづけます。罪人である私たちを救うために、救い主イエスは、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、自分自身を虚しくして、しもべのかたちをとり、人間の姿になられました。自分自身を低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられました(ピリピ手紙2:6-11を参照)。その真実に背を向け続けて、私たちは、「ごらんなさい。この私は」と虚しく自分の正しさや賢さやふさわしさを言い張りたくなります。自分自身の心の中を見てみましょう。そのかたくなな心を打ち砕くことは人間には出来ません。憐れみ深い神が、この私たちのためにも、そうしてくださるのでなければ、誰にもできません。救い主イエスこそが、正しくふさわしい大きな大人であろうとすることを私たちに止めさせます。大人の心ではなく、まったく正反対に小さな子供の心を私たちに差し出します。それは、いつのことでしょう。十字架にかかる前の晩、ゲッセマネの園で。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ福音書14:36と。「アバ」、お父ちゃん、おっとうと、救い主イエスは小さな子供の言葉と心で御父への信頼と従順を言い表しています。「わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と。さらに聖書は証言します;「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる」(ローマ8:14-16と。「その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶ」。聖霊なる神によって、この私たちも『アバ父』と呼ぶことができる。アバ父、ゲッセマネの園での救い主イエスの、あの幼な子の心です。その同じ一つの心を贈り与えられて、だから『神の子』とされています。その御父に十分に信頼を寄せ、聴き従って生きる神の子です。このように、私たち人間にできないことを、けれど神が私たちのために成し遂げてくださいます。神の国に入り、そこで幸いに暮らすために授けられる、幼な子であることの身分と中身はこれです。

 

 《平和を慕い求める祈り》

神さま。私たちが平和を思い、あなたから与えられる平和を受け取るために、先祖と私たち自身のよこしまさと罪深さをはっきりと分からせてください。先の第二次世界大戦で先祖と私たちは、神さまに対しても隣人たちに対しても、はなはだしい罪を犯しました。今なお、自分自身を正しいとするばかりで、その恥じ入るべき罪を認めようとせず、つぐなおうともしていません。侵略戦争をしかけてアジアの同胞たちを踏みつけにし、虐殺し、不当に奪い取りつづけた私たちです。その罪を、私たちの国家としても国民としても、よく分かることができますように。今なお、国家としても日本人としても私たちが、日本に暮らす外国人を不当に差別し、排除し、憎んで追い払おうとしつづけています。そのことを恥ずかしく、とても申し訳ないことだと私たちに感じ取らせ、私たちの心に痛みを覚えさせてください。なぜなら、救い主イエスが「私の平和をあなたがたに与える」と仰ったからです。その約束に、この国と私たちは、はなはだしく背いているからです。

また私たち自身も、普段の暮らしの中で小さな争いやいがみ合いの中にしばしば巻き込まれて暮らしています。この私たち一人一人もまた、生まれながらの怒りの子でであるからです。自分を正しいと強く言い立てる性分を強く抱えるものたちだからです。どうか神さまご自身の恵み、憐み、平和を私たちに思い起こさせてください。私たちの出会いを通して悲しみの中に慰めを、痛みの中に癒しを、 疑いの中にあなたへの信仰を、主よ豊かに注ぎ込んでください。私たちを新たにし、 あなたの示される解放と平和への道を歩む者としてください。

主イエスのお名前によって祈ります。アーメン

8/15こども説教「神の福音を語りつづける」使徒28:21-24

  8/15 こども説教 使徒行伝28:21-24

 『神の福音を語りつづける』

 

28:21 そこで彼らは、パウロに言った、「わたしたちは、ユダヤ人たちから、あなたについて、なんの文書も受け取っていないし、また、兄弟たちの中からここにきて、あなたについて不利な報告をしたり、悪口を言ったりした者もなかった。22 わたしたちは、あなたの考えていることを、直接あなたから聞くのが、正しいことだと思っている。実は、この宗派については、いたるところで反対のあることが、わたしたちの耳にもはいっている」。23 そこで、日を定めて、大ぜいの人が、パウロの宿につめかけてきたので、朝から晩まで、パウロは語り続け、神の国のことをあかしし、またモーセの律法や預言者の書を引いて、イエスについて彼らの説得につとめた。24 ある者はパウロの言うことを受けいれ、ある者は信じようともしなかった。       (使徒行伝28:21-24

 

 たずねてきたユダヤ人たちは、「この宗派について、反対のあることが私たちの耳にも入っている」と打ち明けてくれました。この宗派とは、私たちの信じているキリスト教の信仰のことです。今でも、私たちを良く言うものも悪く言う者たちも、また、その中身をまったく何も知らない人たちも大勢います。けれど、少なくとも、彼らは耳を傾けて聞こうとしてくれました。

 23-24節、「そこで、日を定めて、大ぜいの人が、パウロの宿につめかけてきたので、朝から晩まで、パウロは語り続け、神の国のことをあかしし、またモーセの律法や預言者の書を引いて、イエスについて彼らの説得につとめた。ある者はパウロの言うことを受けいれ、ある者は信じようともしなかった」。ユダヤ人も外国人も大勢の人たちがパウロさんのところに来てくれて、神の国の福音について語られることを聞きました。どんな神なのか。その神がどういう救いと幸いを与えてくれるのか。どういう私たちなのか。神を信じて、この私たちがどのように生きることができるのか。それが、福音の中身です。そして、もちろん語られたことを受け入れて、信じる人々がいました。また、受け入れず、信じようとしない人々もいました。どうしてかというと、神さまご自身が信じさせてくださらなければ、誰も受け入れることも信じることもできないからです(ヨハネ福音書6:37,44「父が引き寄せてくださらなければ」,1コリント12:3「聖霊によらなければ~」)。そのようにして今日でも、これからも、神の国の福音が世界中のあちこちで語られつづけます。

2021年8月9日月曜日

8/8「天の都を目指す旅路」へブル11:10-16

         みことば/2021,8,8(召天者記念の礼拝)  331

◎礼拝説教 ヘブル手紙 11:10-16               日本キリスト教会 上田教会

『天の都を目指す旅路』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 11:10 彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。11 信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。12 このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。14 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。15 もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。16 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。(ヘブル手紙 11:10-16

                                               

14:2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。3 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。4 わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。5 トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。  (ヨハネ福音書 11:2-6


 10-12節、「彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである」。まずアブラハムとサラ夫婦の生涯、そしてその子供たち、孫たち、イサク、ヤコブら私たちの信仰の先祖たちの歩みが思い起こされています。とくに12節で、アブラハムとサラ夫婦について、「死んだも同然の人から」「死んだと同様な人から」「死にかけていた人」(新共同訳、口語訳、新改訳など)と、決して穏やかではない危うい言い方がなされています。説明します。ごく表面的には、ずいぶん年老いて子供を産めないはずの体力の衰えた人たちだという意味でもあります。しかしそればかりでなく、むしろ、その人の魂の在り方、生き方について、聖書は、神に背いて生きる人々を『罪の中に死んでいる人間』と言い表してきました。つまり誰も彼もが皆、神の憐れみの眼差しによって見るならば、死んだ人間だったわけです。「先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者だった。わたしたちもみな、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かしキリスト・イエスにあって、共によみがえらせて下さった」。また、神のもとを離れてさまよって者が戻ってきたとき、「死んでいたのに生き返った。死んでいたのに生き返った」(エペソ2:1-6,ルカ15:24,31と喜び祝います。アブラハムとサラ夫婦も実際には、神を信じて生き始めた後も、生涯ずっと、信仰と不信仰の間を揺らぎ続ける罪深い人々でした。何度も繰り返して不信仰と傲慢に陥り、神を疑い、心を頑なにして裏切り、神の恵みから遠く離れ去る度毎に、けれどなおその罪をゆるされ、連れ戻され、信じる心を与えられ、希望と喜びを贈り与えられ続けて生きた生涯でした。この私たち皆と同じようにです。

13-14節、「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している」。神によって用意されている天の都を目指して旅をするように生きる私たちです。「旅人であり、ほんのひとときそこに身を寄せ、旅立ってゆくもの(=寄留者。きりゅうしゃ。一時的にそこに身を寄せている者)」だと言っています。そのとおりで、やがて時が来て、この世界を立ち去ることになっている私たちです。だからこそ、地上を生きるつかの間のときを惜しみつつ、魂に刻みつつ、一日ずつ精一杯に生きる私たちです。

さて、1人の人が、神を信じる信仰のうちに生きて死ぬことが出来た。それは、本人の意思や決心などによったのではなく、私たちの信仰が弱まる度毎に強くし、私たちが迷い出る度毎に連れ戻しつづけてくださった神ご自身の憐れみによりました。もし、神を信じる信仰のうちに一人の人が生きて死ぬことが出来たとするならば、それらは皆すべて、神の憐れみによったのであり、みなすべて神の贈り物であったといえます。

「まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした」。「まだ約束のものは受けていなかった」とは、約束されたもののすべて全部を受け取ったわけではなかった、という意味です。すべてではありませんが、それでもなお先祖と私たちも、神からの祝福と幸いの十分な手付けを、あふれるほどに受け取りつづけています。はるか遠くからその祝福を眺めているだけではなく、すぐ近くで見て、手に触れ、味わい、はっきりと確信し、折々に何度も何度も喜ばせていただきました。だから信じ続け、待ち望みつづけることもできました。同じように、神殿で救い主であられる幼子イエスと出あったシメオンもまた、その手に幼子イエスを抱き、神をほめたたえました。喜びにあふれて、「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます、わたしの目が今あなたの救を見たのですから」(ルカ1:29-32

15-16節、「もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである」。アブラハムの孫であるヤコブのことを思い起こしましょう。あるとき実の兄ときびしく争い、兄に殺されることを恐れて弟ヤコブは夜逃げをしました。そのヤコブに、「あなたの祖父であるアブラハム、またあなたの父であるイサクと出会い、その彼らに対して主となり神として彼らを支え、守り、導きつづけた神である」。ヤコブも、「自分のおじいちゃんやお父さんにとっての神である」と、そのことは十分に承知していました。けれども私自身はまだ、この神をよく知らないし、まだ信じているわけではない。この私にとってはまだ何の関係もない相手だと。けれど、ここで、兄を恐れて夜逃げをして、誰もいない淋しい場所で石を枕に眠ろうとしていたこの夜、ヤコブはとうとう神さまと出会いました。どんな神であるのかをはっきりと知らされ、『その神さまを私も信じて生きてみたい』とついにとうとう願いはじめました。ヤコブは、神に申し出ます、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう」(創世記28:20-21。祖父であるアブラハムにとっての主なる神であり、父イサクにとっての神だとは分かっていました。けれど、自分にとっては何者でもなかった神。けれど、このときから、ヤコブはその神を『自分にとっての主であられる神』とし、また自分自身を、『神を信じて生きる私』とさせていただきました。神を信じて生きる1人の新しい人間がそこでそのようにして誕生しました。わたしは、あなたの神である。あなたは、私を信じて、その信仰のうちに生涯を全うして生きて死ぬ私の民であると。

 「事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである」。先祖と私たちが天の故郷を熱望したので、神のほうでもその者たちを神の国の住民として迎え入れてくださる。しかも今日ごいっしょに読んだ箇所の最初に、こう証言されていました、「彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である」。神ご自身が天の都を計画し、それをご自身で建て上げたのだと。いよいよこれで、すべてが明らかになりました。神の国、天の都とは、神が生きて働いておられ、その御心と御力を十分に発揮してくださる世界です。救い主イエスは最初にこうおっしゃいました、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。また、「神の国はあなたがたの只中にある」と。また主イエスを信じる弟子である私たちに、「神の国を来たらせてください」(マルコ1:15,ルカ11:2,17:21と願い求めて生きるようにと教えられました。やがて十字架の死と復活の直前に、最後の食事の席で、「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、また来て、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」(ヨハネ福音書14:2-3「わたしの父の家」。救い主イエスにとっての父は、私たちにとっても父です。救い主イエスを信じる私たちは、イエスをとおして父であられる神さまの子供たちとしていただきました。だから、私たちの父の家です。そこは私たちにとっても自分の故郷であり、自分たちの家です。この父から決して忘れられることもなく、いつでも大歓迎で迎え入れられ、安心してそこにいることが出来ます。「あなたがたのために、場所を用意しに行く。行って、場所の用意ができたならば、また来て、あなたがたをわたしのところに迎える。わたしのおる所にあなたがたもおらせる」と主イエスは仰る。読むたびに驚きます。主イエスが、父であられる神の家の中に私たち一人一人の場所を用意してくださる。主イエスが迎えに来てくださり、ご自身がおられる所に私たちをもおらせてくださる。なんと何から何まで、至れり尽くせりです。「救い主イエスのもとにこの私たちが行くのを待っている」というのではなく、直々に迎えに来てくださり、連れて行ってくださる。このように、神の国に手厚く迎え入れていただける私たちです。

神さまが私たちの味方です。父であられる神さまがご自身の独り子イエスをさえ惜しまず死に渡し、墓に葬り、三日目によみがえらせてくださったからです。その御父が御子イエスと共にこの私たち一人一人をも新しい生命に生きさせてくださるからです。御子イエス・キリストを贈り与えてくださった父なる神さまが、御子イエスとともに、すべて何でも私たちに贈り与えてくださらないはずがないからです。キリスト・イエスは死んで、いいえ、ただ十字架につけられて死んだだけではなく、葬られ、その三日目に墓からよみがえり、父なる神さまの右にある王様のイスに座り、世界全部、生き物たち全部とともにこの私たちのためにも御力を存分に働かせてくださるからです(ヘブル手紙11:13-16,ピリピ手紙3:20-21,ローマ手紙 8:31-39参照)

  主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ福音書14:6とおっしゃいます。父なる神さまの御もとへと至るためのただ一筋の道がある。『それがこの私だ。だから私にこそ聞け。私を通れ。あなたは私から受け取りなさい』と主は断固としておっしゃる。神と私たち人間の間に、一本の確かな道が開かれました。その引き裂かれた体と流された血潮を通って、私たちは神の御もとへと近づいてゆくことができます。恐れも遠慮もいらず、誰はばかることもなく、誰でも、その一本の道を通って神さまの御もとへと近づいてゆくことがゆるされています。


8/8こども説教「ユダヤ人たちに語る」使徒28:17-20

 8/8 こども説教 使徒行伝 28:17-20

 『ユダヤ人たちに語る』

 

28:17 三日たってから、パウロは、重立ったユダヤ人たちを招いた。みんなの者が集まったとき、彼らに言った、「兄弟たちよ、わたしは、わが国民に対しても、あるいは先祖伝来の慣例に対しても、何一つそむく行為がなかったのに、エルサレムで囚人としてローマ人たちの手に引き渡された。18 彼らはわたしを取り調べた結果、なんら死に当る罪状もないので、わたしを釈放しようと思ったのであるが、19 ユダヤ人たちがこれに反対したため、わたしはやむを得ず、カイザルに上訴するに至ったのである。しかしわたしは、わが同胞を訴えようなどとしているのではない。20 こういうわけで、あなたがたに会って語り合いたいと願っていた。事実、わたしは、イスラエルのいだいている希望のゆえに、この鎖につながれているのである」。        (使徒行伝 28:17-20

 

 ローマに到着して、そこで暮らし始めて3日目に、まずユダヤ人たちがパウロさんに会いに来ました。パウロは、彼らと話し合いました。訴えられて、これから裁判にかけられる私です。けれど、殺されなければならないような悪いことは何一つもしていません。また、自分と同じ民族である仲間たちを訴えようとしているわけでもありませんと、パウロは語りはじめます。

 20節、「こういうわけで、あなたがたに会って語り合いたいと願っていた。事実、わたしは、イスラエルのいだいている希望のゆえに、この鎖につながれているのである」。ローマまで長い旅をしてきたことも、裁判にかけられることも、牢獄に囚われて鎖につながれていることも、皆すべて、『イスラエルのいだいている希望のためだ』と語りはじめました。神の民とされたイスラエルが抱いている希望とは、救い主がこの世界に遣わされて、神の国をこの地上に建ててくださるという希望です。神ご自身のお力とお働きのもとに、私たちが神の御心かなって生きることを願い求めながら日々を生きることができるという希望です。しかも、約束されていた救い主とは、ナザレ村から来たイエスというお方であり、私たちを救う力はただ救い主イエスにだけあり、救い主イエスを信じて救われるという希望です(使徒4:10-12,16:31,ヨハネ福音書 3:16ほか)。パウロさんも私たちも、この同じ一つの希望を家族や他たくさんの人たちに知らせるようにと、神さまから命じられています(使徒19:21,23:11

2021年8月3日火曜日

8/1「なすべき、ただ1つのこと」ルカ18:18-27

              みことば/2021,8,1(主日礼拝)  330

◎礼拝説教 ルカ福音書 18:18-27                日本キリスト教会 上田教会

『なすべき、ただ1つのこと』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

18:18 また、ある役人がイエスに尋ねた、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。19 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。20 いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」。21 すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。22 イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。23 彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである。24 イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。26 これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねると、27 イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。         ルカ福音書 18:18-27

                                               

1:26 兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。27 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、28 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。30 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。31 それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。

                      (1コリント手紙 1:26-31)

 マタイ、マルコ、ルカ、この3つの福音書が同じ一つの出来事を報告しています。なぜ、そうなのか。とても大切な報告であり、それぞれよく心に留めて、よく覚えておく価値があるからです。まず18-21節、「また、ある役人がイエスに尋ねた、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」。すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。救い主イエスは、この彼の心の中身をよく分かっておられました。彼の魂に強い光を当てて、その魂がいまどんな状態にあるのかを彼自身にも私たちにもはっきりと知らせようとして、神からの十の戒めを思い起こさせます。あの彼も私たちもよく習い覚えているはずの神の律法をどうとらえ、どう理解しているかが、私たちの心を知るためのよい目印になるからです。十戒の後半部分、「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え」(出エジプト記20:1-17,申命記5:6-21。すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。これです。これこそが、この人の自尊心の中心部分です。なにしろ神の律法に従って、正しく適切に生きてきた私であり、誰に恥じることもなく、小さい子供の頃から今に至るまで何の落ち度も後ろ暗いこともない。神を愛し尊び、隣人を自分自身のように愛し尊んできた私である。つまりこの彼は、見るべきことを何一つ見えておらず、暗闇の中に置かれ、自分自身がいったいどんな人間であるのかもまったく分かっていませんでした。自分自身についても、神についても、その御心や律法が指し示している中身についても、何一つも分かっていませんでした。

 さて、この人は滅多にいないような、ごくまれな例外的な人間でしょうか。今日では、この人のような人間はほとんどいないと思うでしょうか。いいえ。世界中に、とても大勢います。神の律法は、なによりまず自分自身の罪深さを自分に気づかせるためにあり、それが第一の役割です。けれどこの人も神の律法を詳しく学んで、よくよく習い覚えていながら、どうしたわけか、神の御心と律法の要求とは正反対の『自分自身の正しさや、ふさわしさ』をこそ律法から学び取ってしまいました。それを、堅く信じ込んでしまいました。せっかく学んできた神の律法はその人にとって何の役にも立ちませんでした。間違った教わり方だったために、かえって、それはその人のつまずきの石となり、大きな災いのタネとなりました。それゆえ、自分自身の罪深さや傲慢さや心の頑なさもまったく知らずに暮らしつづけてきました。もちろん聖書も、私たち自身の罪深さや傲慢さや心の頑なさを告げ知らせつづけてきました、「神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました」。また主イエスご自身も、「昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう」(詩51:1-4,マタイ5:21-22と。さらに宗教改革者はこう説き明かしました、「神は、殺人を禁ずることによって我々に、嫉妬、憎悪、怒り、復讐などを『殺人の根』として憎み、これらはみな神の御前においては『ひそかな殺人である』ことを教えておられる。悪意を抱かないだけでなく、その人に対して忍耐と平和と柔和と慈悲と友情とを示し、その人の受ける危害や痛手を自分の力の及ぶかぎり取り除き、われわれの敵に対しても善を行うことを、神は望んでおられます」(「ハイデルベルグ信仰問答 問106107」)。これらが、神の律法に関して習い覚えておくべき最低限の内容です。そして、自分自身の内面を清くすることは、まず第一に、「ほんのわずかも清くない、とても罪深い、神の憐れみの御心に背きつづけている私だ」と気づくことからはじまります。それが、神に従って生きることのそもそもの出発点です。その人も私たち自身も、「それらのことはみな、小さい時から守っております」ではなくて、「ああ。私の中には何一つも善いものが宿っていないことを私は知っています」(ローマ手紙 7:14-18参照)と心底から嘆くことが出来たなら、どんなに幸いでしょう。

22-25節、「イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。誰にでも「全財産をみな売り払って施しなさい」と仰るわぇではありません。人を見て、その人に必要な導きをなさる救い主です。この人は財産や自分の正しさにとても執着し、こだわり、それにガンジガラメに捕らわれていた人でした。だから、この人には、ここまで言ってあげる必要があったのです。彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである。イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。この人は良い願いを抱いていました。「神から永遠のいのちを受け取りたい」と。神を信じ、神との親しい交わりの中に生きて、そこで幸いと祝福を受け取りつづけて生きていきたいと。それなのに、なぜ、神に聴き従って生きる生き方を教えてもらえなかったのか。なぜ、この人は主イエスの弟子にしていただけなかったのか。けれど残念なことに、この人は『神から贈り与えられる永遠のいのち』よりも他に、もっと大事に思って、もっと心魅かれるものがあったからです。彼の財産です。地上に蓄えた財産をみな手放して、天に宝を探して生きるようにと招かれたとき、彼は、その招きを断る他ありませんでした。財産と富を愛する心こそが、彼の心を支配する大きな強い主人となって、彼を縛りつけていたからです。もちろん財産や富ばかりを言っているわけではありません。さまざまなものが私たちの心を虜にし、引きつけ、誘惑し続け、神を第一として生きることを邪魔します。『神から贈り与えられる永遠のいのち』よりも他に、もっと大事に思って、もっと心魅かれるものが、私たちの目の前に立ち塞がりつづけます。例えば、ロトの妻を振り返らせたソドムの町と暮らしと親しい人々のようにして。

「財産のある、豊かに飛んでいる者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう」。そのとおり、しかも、あの人にとっては、『自分自身の正しさや、ふさわしさ』もまた、手放すことのできない、あまりに大きくなりすぎた、邪魔で厄介な財産でした。自分自身の罪深さや、「律法のすべてをみな小さい頃から守ってきた私である」という自負と傲慢さもまた、手放すことのできない大きな富であり、宝でした。しかも自分自身の罪深さ、傲慢さ、心の頑なさ、自分の肉の思い、情、様々な欲望という罪の中に死んでいた私たちであり、以前にはそうだったというだけでなく今も、死んでいた状態へとサタンによってたびたび連れ戻されつづけてしまう私たちです。「神の恵みによるのでなければ、罪に死んでいた者は誰も神の国に入ることはできない」と、世々の教会は習い覚えてきました(エペソ2:8,ヨハネ3:5,使徒4:12,ローマ5:6-12,8:11。私たち自身の心とその普段の生活の只中で、なお罪が力を発揮し、私たちを『罪の中に死んでいる人間』へと連れ戻そうと狙いつづけます。だからこそ神の恵みによって、新しく御心にかなって生きる者であらせていただきたいのです。御霊の働きによって生かされ、その御霊によって進んでゆくことができますように。しかも、キリストに属する私たちであるので、そのように生きることができるからです。神ご自身が、そうさせてくださるからです。

26-27節、「これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねると、イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。しかも私たちは、それぞれすでにとても豊かであり、賢く、優秀であり、力を持った強い者とされています。悲しみながら立ち去っていったあの役人のように。そのとても豊かすぎる私たちが、自分自身の富や豊かさや力や賢さや知恵によってはなく、ただただ神の憐れみによってこそ罪をゆるされ、神の国に入れていただく。それは至難の業です。自分自身の豊かさや偉大さと神の恵みとは、連れだって歩むことが決してできないからです。聖書は証言します、「主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。また、「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである」(ルカ1:51-55,1コリント手紙1:26-31

 しかも、救い主イエスは罪人を救うためにこの世界に来られたのです。罪人を憐れんで、その罪をゆるし、罪から救い出して、神の国へと迎え入れてくださるために。私たちこそが、その罪人の中の最たる者たちであり、憐れんでいただいた者たちです。律法をみな正しく守って、隣人を自分自身のように愛し、精一杯に尊び、ふさわしく暮らし、だから、あなたは救われたですか。いいえ、とんでもありません。ただただ神の恵みと憐れみによってだけ、神を信じる者とされ、神の国に入れていただきました。だからこそ、憐み深い神さまがどこまでもどこまでも私たちの味方です。