みことば/2015,9,20(主日礼拝) № 25
◎礼拝説教 マタイ福音書 5:17-20, 23:23-28
日本キリスト教会 上田教会
『律法を成就するために』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
5:17 わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。18
よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。20
わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。 (マタイ福音書 5:17-20)
17-18節。神であられる救い主イエス・キリストは、神であるまま同時に生身の肉体を受け取り、人間となられ、この世界に降りて来られました。神の国を宣べ伝え、十字架にかかって殺され、葬られ、その三日目に復活し、復活したその姿を多くの弟子たちに見せて下さり、弟子たちが見ている目の前で天に昇っていかれ、今も生きて働いておられ、やがて再び来られます。それがどういうことなのか。何のためなのか。この世界と私たちのために何をしてくださり、私たちをどのように導き、どこへと連れ出してくださるのか。そのことが、いよいよここから『律法』との関わりの中で、また同時に、『旧約聖書』との関わりの中で、イエスご自身によって説き明かされます。少し紛らわしいのですが、ここでも、「律法」という言葉は二重の意味で用いられています。(1)神から授けられた、神の民が守るべき生活ルール(=律法)という意味。シナイ山の上で二枚の石の板に刻まれた十の戒めをその中心の内容としています(出エジプト記20:1-17,申命記5:6-21,マタイ福音書22:34-40)。(2)旧約聖書を「律法と預言者」あるいは、「律法と預言者と諸書」などと一般に呼び習わしてきました。この(1)(2)二つの意味を含んで、ここで語られています。旧約聖書では、「救い主がやがてこの世界に来られて、世界の救い祝福を成し遂げる」と約束しつづけました。
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「主イエスは律法が嫌いだったんじゃないか。だから度々、律法破りみたいな乱暴なことをわざと次々に行ったし、律法学者と論争したし、神殿も毛嫌いして破壊予告みたいなことを言っていた。過激なテロリストや無政府主義者みたいな人物だったようだ」などと、そそっかしいクリスチャンが誤解して言います。確かに、そういうふうに見えないこともない、かも知れない。けれど実際には、主イエスは神さまからの律法をとても重んじていました。ここで読んでいるとおりです。神殿も、「天の父の家である」と大切に思っておられました。けれど律法と神殿の惨憺たる現状をつぶさにご覧になって心を痛め、「ああエルサレムよ」と嘆き、涙したり、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」(21:12-13)と神殿境内で商人たちの店や屋台をひっくり返したり、投げ捨てたりとカンカンになって激怒なさり、乱暴狼藉を働きました。「神の宮を打ち壊し、三日の後に建てる」(マタイ26:61,27:40,ヨハネ2:19-21)とも、確かに仰いました。主イエスは律法を重んじました。だからこそ、うわべを取り繕うばかりの律法主義者・ただただ形ばかりの形式主義者たちの言動を憎み、その腹の中の思いにガッカリしつづけました。「あなたがた、偽善者たちよ」と。形式化し、不正と偽善にまみれた神殿の有様を深く悲しみ嘆き、その全面的な再建を思い描き、思い描いただけでなく、成し遂げました。どのようにして?
あらゆるすべてのものごとが形だけのものになり、うわべだけの中身も生命もないものに成り下がってしまう危険を孕んでいます。神さまを信じる信仰も。神に従って生きる生活ルールもまた、形骸化し、中身と生命を失ってしまう危険にさらされ続けます。シナイ山の上で授けられた戒めは十項目でした。よくよく考えてみるならば、守るのがかなり難しいような厳しい内容。1500年ほどの時代をへて、それらは600から800個もの細則と運用規則に膨れ上がりました。「ああ、あれね。なんだ、そんなことかあ。私は小さな子供の頃からそれらを全部しっかりと守ってきました。はいはい、他に何か足りないものがありますか、あれば仰ってください」(マタイ19:20参照)と、裕福で家柄のよい人々なら誰でも胸を張れるほどの、ごくごく簡単な約束事に。その分だけ律法は、神さまご自身の元々の願いや心とは遠くかけ離れた、中身と生命のないものへと変質してしまいました。5-7章の、山の上での主イエスの長い長い説教は、中身と生命を失ってしまった、死にかけている律法に、もう一度生命を吹き込もうとするものです。なぜなら神さまからの律法こそが、神さまの御心であったからです。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主なる神さまを愛すること。隣人を自分自身のように尊び愛すること。ここにこそ、神さまを信じて生きることの生命がありつづけるからです。
20節。「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に入ることはできない」。この発言がカギです。十字架直前の一週間の間に、主イエスは祭司長たちや民の長老たちに、つまり律法の専門家であると見なされていた人々に語りかけます。「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった』」(マタイ21:31-32)。福音書の中で、主イエスご自身から、どうして律法学者やパリサイ人たちやその言動が目の敵のようにして非難され、攻撃され、「それは間違っている。間違っている」と指摘されつづけるのか。彼らは、私たちクリスチャン自身を映し出す鏡だからです。あの彼らこそが私たち自身だからです。彼らのふり見て我がふり直せ。それで、5:17以下と共に23:23-28もご一緒に味わいました。あの箇所を読んで胸を痛めることのできるクリスチャンは幸いです。天国はその人たちのものです。彼らと同じく、「私は正しい正しい、ちゃんとやっている」と言い立てている私たちです。そのままでは、決して天国に入ることができません。21:31以下では、祭司長たちや民の長老たちより先に取税人や遊女が神の国にはいる、と断言されました。後になってでも、多少は後回しにされても、もし結局は入ることができるならば上出来でしょう。でも何と言われていたか。「(洗礼者)ヨハネがあなたがたのところにきて義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった」。ということは、悔い改めないまま信じようとしないままでは、後になっても天国に決して入れない。立ち止まって、よくよく考えねばなりません。「律法学者やパリサイ人」に無くて「取税人や遊女」にはあるもの。それを何としても見つけ出し、手に入れなければなりません。救われるためには。
「洗礼者ヨハネは義の道を説いたのに」と主イエスは仰った。義の道。ずいぶん長い間、忘れられてきました。互いに相反する二種類の義がありつづけます。神さまご自身の義、そして私たちそれぞれの義。律法の専門家だったはずの彼らこそが、神ご自身の義を覆い隠しました。けれど多くの預言者たちが語りかけ続け、洗礼者ヨハネもそれを指し示し、主の弟子も語りかけました;「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない」「なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである」(ローマ手紙3:21-27,10:3-4)。では、律法学者でありパリサイ人でもある兄弟姉妹たち。災いから幸いへと移し替えていただくために、ご一緒に苦い薬を飲みましょう。朝昼晩と夜寝る前と、この同じ薬を飲みましょう。マタイ福音書23:23-29です、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ブヨはこしているが、らくだは飲みこんでいる。偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである」。すごく苦いですね。その分、よく効きます。飲みつづければ、2週間、3週間で、みるみる健康になっていきます。「律法学者やパリサイ人や祭司長たちと民の長老たち」に無くて、けれど「取税人や遊女」にはあるもの。それを、私たちもとうとう見つけ出しました。神さまからの憐れみです。神の義を知らないわけではありませんでしたが、聞き流しつづけていました。「自分は正しい正しい、ちゃんとやってきた」と自分の義を言い張りつづけるばかりで、神の義に従わず、逆らってばかりいた私たちでした。この自分自身も含めて! すべての人は罪を犯したため神の栄光を受けられなくなっており、だからこそ私たちは、価なしに、ただただ神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされた。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためだった。神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされた。すると、どこに私たちの誇りがあるのか、どこにもまったくない。ということを度々すっかり忘れてしまいました。この私たちは以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっていることも、度々すっかり棚上げし、度外視していました。憐れむ神であり、憐れみを受けた私たちであることを、憐れんで罪をゆるす神であり、罪ゆるされた罪人である私たちであることを、すっかり手放していました(ローマ3:21-,同11:30-32,ペトロ(1)2:10,テモテ(1)1:12-17)。だからその結果として! 私たちはしばしば不幸せであり、不平不満をつぶやきつづけ、高ぶった思いに囚われ、自分自身と家族と隣人に災いを招き寄せつづけました。なんということでしょう。
けれど、ようやく思い出しました。なぜならばこの私たちのためにも救い主イエス・キリストは来て下さり、律法を成就してくださり、神の御心に従って生きる私たちとしてくださるからです。主イエスが成し遂げてくださったからです。「主は言われる、わたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」(エレミヤ書31:31-34)。神さまからの律法が私たちのうちに置かれ、心に刻まれる日が来る。今日こそその日です。くどくどと教えられ、諭されるまでもなく、子供も大人も年配の者たちも賢いものも愚かな者たちも皆が主をよくよく知るようになる。ついにとうとう、名実ともに、ただ形だけ体裁だけでなく中身も本当に! 神さまが私たちの神となってくださり、私たちは神の民とされ、神の民として日々を生きる者とされる。神さまが私たちの罪をゆるし、罪と悲惨から日毎に救い出しつづけてくださることによって。救い主イエス・キリストによって、それが、あなたのためにも私のためにも、私たちの大切な家族のためにも、きっと必ず成し遂げられます。