2020年7月29日水曜日

われ弱くとも ♪栄えの主イエスの

われ弱くとも      (お試しサンプル品⑨/142番,21-297番)

 ♪ 栄えの主イエスの

 

  こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。賛美歌21297番、1954年版讃美歌142番、『栄えの主イエスの』です。賛美歌211954年版とを読み比べました。よかった、ほとんど変わっていません。言葉を2つだけ説明しておきます。まず2節、「消えなば消え去れ」。(消え去ってもずっと残っていてもどっちでもいいんですが、でも)もし消えるというなら、どうぞいいですよ好きなように、いつでも消え去ってください、という意味です。つまり、どうでもいいということなんでしょうか。だって、この世のものすべてですよ。「もし消えるというなら、どうぞ消え去ってもいいですよ」。え、本当? これは大問題発言ですね、いくらなんでも言い過ぎでしょう。本当かなあ、あとでよくよく考えてみましょう。3節2行目、「こもごも」は入れ替わり立ち代り現れるということですが、まあ、「恵みと悲しみがごちゃまぜになって一緒に」というくらいの意味です。4節ではさらに、「恵みと悲しみ、1つに溶け合う」と言い表しています。不思議な情景です。

さて、なにしろこの讃美歌の生命は3節と4節にあります。そこから、歌全体に生命が流れ出て、染み込んでいくようです。3節4節、「(3)見なさい、十字架の主イエスの頭から、そして釘打たれた手や足から、恵みと悲しみが入れ替わり立ち代りに、ごちゃまぜになって流れ落ちてくる。(4)恵みと悲しみは、1つに溶け合って流れ落ちてくる。主イエスの頭に被せられたあのあざけり笑うための茨の冠は、それなのに本物の王冠としてまばゆく輝いている」。ちょうど前回扱った讃美歌『丘の上の主の十字架』(Ⅱ-18221-303。救い主イエスの十字架を思いめぐらせつづけた祈りの人が、「それは荒削りの主の十字架だ」と見てとったように、ここでも別の祈りの人が十字架の主を一途に仰ぎつづけています。流れ落ち、したたってくる主イエスの真っ赤な血潮に目を凝らしていたはずでした。けれど気がつくと、主イエスの血潮はこの人の信仰の目には、『恵みと悲しみ』に見えたのです。驚きながら、心を深く揺さぶられながら、「ああ、恵みと悲しみが流れ落ちてくる。入れ替わり立ち代りに、ごちゃまぜになって流れ落ちてくる。1つに溶け合って、私たちのための主イエスの恵みと悲しみが流れ落ちてくる」と受け止めています。なんということでしょうか。つまり、この人は十字架につけられた主イエスの姿を仰ぎ見ながら、相反する、互いに矛盾する2種類の感情を同時に味わっています。喜びと悲しみと、あるいは感謝と申し訳なさとを。――これは、すごく説明しづらいです。というかいくら説明しても、分かる人にしか分からない。説明されなくたって、分かる人には分かる。死ぬことと生きることがここで同時に起こり、同時にその2つ共が差し出されているからです。悲しみや苦しみや申し訳なさがある。確かに、けれどそれだけじゃなくて、感謝があり、喜びと希望がある。なぜなら救い主イエスはここで今にも死んでいかれようとしているだけじゃなくて、主と私たちの復活の生命がここではじまろうとしているからです。もし、それを見て取ることができるなら、私たちもここで、相反する、互いに矛盾する2種類の感情を同時に味わうことができます。復活の生命を、ここでこの十字架の主からこの私たちも受け取ることができます。だからこそ、例えば讃美歌239番『さまよう人々立ち返りて』の4節で、「十字架の上なるイエスを見よや。血潮したたるみ手を広げ、『いのちを受けよ』と招きたもう」のです。だからこそあの茨の冠さえ、本物の王様の冠としてまばゆく輝いて見える。今日でも、同じことが起こりつづけます。ある人々は、十字架の主を仰いで、「ああ本当に人間だったんだなあ。あんなに苦しんで悩んで、私たちと同じに絶望したり嘆いたりしている。かわいそうになあ」と共感し、心を痛めたり悲しんだりし、まるで近所の気さくなお兄さんを眺めるように親しみを覚えています。また別の人々は十字架の主イエスを仰いで、悲しみや苦しみや申し訳なさを覚えます。けれどそれだけじゃなくて、感謝を覚え、喜びと希望が溢れ出てきます。なぜなら救い主イエスはここで今にも死んでいかれようとしているだけじゃなくて、三日目に復活なさるからであり、主イエスと私たちの復活の生命がここではじまろうとしているからです。さあ、ここが、十字架の救い主を仰ぐ私たちのいつもの分かれ道です。誰かが私の身代わりとなって死んでくれた。はい、ありがとう。けれどそれだけでは、力も勇気も希望も湧いてくるはずがありません。私のために苦しんで死んでくださったその同じお独りの方が、ただ苦しんで死んだだけじゃなくて、この私のためにもちゃんと復活してくださった。今も生きて働いてくださっている。それなら、その方に信頼を寄せながら生きることができます。やつれて、息も絶え絶えになって死んでいこうとする方に共感や親しみを覚えることはできても、信頼を寄せたり、その方に助けていただけるとは誰にも思えません。けれどもし、死んで三日目に復活させられた方を信じられるなら、そのお独りの方に「わが主よ、わが神よ」と全幅の信頼を寄せることができます。そこに大きな希望があり、喜びと平和と格別な祝福がある。これが、起こった出来事の真相です。十字架の上のやつれて息も絶え絶えのその同じ主が同時に、復活の主でもあると信じられるかどうか、それがいつもの別れ道。われは死ぬべき罪人なり。そのとおり。主イエスがこの私の救いのためにも十字架の上で死んで、その三日目に復活してくださった。だから私たちは生きる。ただし、『私の罪深さ。身勝手さ。臆病さやずるさ、薄情さ』は殺していただきます。たしかに罪人なんだけれども、その罪深さを毎日毎日殺していただいて、神さまの御前で、神さまに向かって新しく生きる者とされました。だからこそ主の救いの御心は慈しみ深く、畏れ敬うに値する。

では、1節2節。「(1)栄光の主イエスの十字架をもし仰ぐならば、世の富も貧しさも、人から誉められることもけなされることも、塵やゴミのようにどうでもいいことに感じられる。それよりも千倍も万倍も大切なことがある。(2)十字架にかかってくださった主イエスのほかには、誇るものも、頼りにするものも一切ない。もし、この世界のあらゆるすべてが消え去るというならば、(消え去ってもずっと残っていてもどっちでもいいんですが)、どうぞいいですよ好きなように、いつでも消え去ってください」。どう思いますか? かなりぶっきらぼうで乱暴だし、言葉足らずですね。簡単にすぐ誤解されちゃいそうです。聖書を読むときも讃美歌を読むときも、たびたび、こういうぶっきらぼうで乱暴な言い方と出会います。田舎から出てきた、口下手で無口な人と友達になって付き合いはじめた、と思ってください。付き合っていくうちに、こういう人だとだんだん分かってきたら、その人のぶっきらぼうで乱暴な言い方にも慣れて、その人の気持ちが分かるようになってきます。聖書も讃美歌も、口下手で無口な友達です。でも付き合ってみると、案外にいいやつです。1節と2節は互いに深く関わり合って、同じことを伝えようとしています。世の中のことが全部どうでもいいなんて乱暴なことを言っているわけじゃない。世捨て人のようになって、修行僧や仙人のようになって、山奥で独りぼっちでくらしていこうと考えているわけでもない。富も貧しさも、人から誉められることもけなされることも、生きていく上で決して無視できない大切な要素です。それでも私たちはしばしば、あまりに深くそれに捕らわれ、縛られてしまいます。お金がまったくなかったら生活に困るでしょう。けれど山ほどあったら幸せになれるかというとそうでもない。僕だって、けなされるよりも誉められるほうが好きです。けれどしばしば、他人からの評価が気になって気になって仕方がなくなってしまう。それで人の顔色を窺いながら、「こんなところを見られたらどう思われるだろう」「人からなんと見られるだろうか」と体裁を取り繕うことばかりに汲々とし、誉められたと言っては喜び、けなされたと言ってはがっかりし、一喜一憂しつづける。それじゃあ、つまんないし、了見が貧しすぎる。この人は、そういうことに縛られない広々した自由な心をついに手に入れた。しかも、十字架の主を仰ぐ中で。2節は1節のつづきで、1節との関わりの中で意味がはっきりしてきます。『誇るもの』と言っていました。板前や大工さんや町工場の職人さんなどにとって『腕1本』が誇り。何を頼りとして何を頼みの綱として生きるのか、という根本問題を問いかけています。指先や腕に大怪我を負ってしまった。すると途端に生活に困りはじめます。お金や財産も、人からの評価も健康も生命も、誇りにしていた腕1本もなにもかも、それらすべてが過ぎ去ってゆくはずの、やがて朽ち果ててしまう束の間の宝ものです。そのつもりで1日1日を大切にし、惜しみながら心に刻みながら私たちは生きていきます。何を頼みの綱として生きるのか、「私にはコレがあるから大丈夫」と言えるコレを持っているのかどうか。罪人である私をゆるし、罪から解放して神の子供たちとして迎え入れてくださるために、主イエスは十字架について死んで復活してくださった。この救い主こそが私にとってのピカイチの誇りであり、頼みの綱であると言っています。コレがあるから、私は安心して、希望と喜びをもって生きていけると。だから、2節は「十字架の他には誇るものはない。頼みの綱も頼りも、ただただ十字架の死と復活の主イエスただお独りである。だから、この世界にあるさまざまな頼みの綱、頼りや安心材料のすべてすっかり無くなったとしても、私はちっとも困りません」。これが1節2節の心です。

 5節。「ああ、主の恵みに応える道なし」。1954年版讃美歌では「~報いる道なし」。同じです。それで、「わが身のすべてを主の前に献げる」「ただ自分自身の体と魂とを主に献げてひれ伏す」。自分自身を神さまに献げることを「献身」と言うのでしたね。牧師や神父や司祭さま修道女たちばかりが献身しているのではありません。そのことは、ちゃんと覚えていてください。だれか身近な知り合いが神学校や修道院に入るのを見て、「献身、献身。ああ良かった」と喜びますけど、それと同じくらいに誰かが神さまを信じて生きる決心をして洗礼を受けるとき、「献身、献身。ああ良かった」と大喜びに喜びたい。その人は、「わが身のすべてを主の前に献げる」のですし、「ただ自分自身の体と魂とを主に献げてひれ伏して」います。クリスチャンは全員1人残らず、洗礼を受けたその日から毎日毎日、一生涯、そのようにして生きるのです。礼拝のとき、ささげものをします。礼拝献金も維持献金もなにかの感謝献金も皆同じで、袋の中のものと一緒に、そこでそのようにして「わが身のすべてを主の前に献げ」「ただ自分自身の体と魂とを主に献げてひれ伏して」います。そこには、それぞれの一週間の働きや生活が含まれました。1人のお母さんは家族のためにご飯支度をし、洗濯や掃除をしたことの1つ1つを主の前に差し出しています。年老いた親の介護をして暮らした人はその働きを、会社員は会社での自分の働きを、病気で入院していた人はベッドの上で過ごした時間を主の前にささげます。良いことも悪いことも、誇らしいことも恥ずかしいこともすべて全部をささげます。4節が歌った通り、主の恵みに応えるためでなく報いるためでもなく、ただただ主への感謝として。主へのひたすらな願いとして。「どうぞ、この献げものも私自身も清めてくださって、主の御用のために用いてください」。用いてくださるなら、清くされるからです。むしろ主からの恵みを受け取るために「自分自身の体と魂とを主に献げてひれ伏し」ます。

 

    ♪ さかえの主イエスの 十字架を仰げば

      世の富 誉れは 塵にぞ等しき ……


2020年7月26日日曜日

7/26こども説教「もし、神の御心ならば」使徒18:18-23


 7/26 こども説教 使徒行伝18:18-23
 『もし、神の御心ならば』

18:18 さてパウロは、なお幾日ものあいだ滞在した後、兄弟たちに別れを告げて、シリヤへ向け出帆した。プリスキラとアクラも同行した。パウロは、かねてから、ある誓願を立てていたので、ケンクレヤで頭をそった。19 一行がエペソに着くと、パウロはふたりをそこに残しておき、自分だけ会堂にはいって、ユダヤ人たちと論じた。20 人々は、パウロにもっと長いあいだ滞在するように願ったが、彼は聞きいれないで、21 「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰ってこよう」と言って、別れを告げ、エペソから船出した。22 それから、カイザリヤで上陸してエルサレムに上り、教会にあいさつしてから、アンテオケに下って行った。23 そこにしばらくいてから、彼はまた出かけ、ガラテヤおよびフルギヤの地方を歴訪して、すべての弟子たちを力づけた。 
  (使徒行伝18:18-23

 主イエスの弟子たちの福音伝道の旅はつづきます。
20-21節、「人々は、パウロにもっと長いあいだ滞在するように願ったが、彼は聞きいれないで、『神のみこころなら、またあなたがたのところに帰ってこよう』と言って、別れを告げ、エペソから船出した」。まだまだ何日もここに残って、神さまの話を聴かせてもらいたいと人々は願いました。主イエスの弟子は、それを断って、先へ先へと進んでいきます。先へ先へと進んでゆく理由も、あるいは一つの場所に長く留まりつづける理由もはっきりしています。「もし神の御心なら、またここに帰って来よう。そうではないなら、帰って来たくてもできない。帰ってきてはいけない」。神さまの御心にだけ聞き従う私たちです。その人たちや自分自身がそうしたいかどうかではなく、ただただ神さまの御心にこそ聴き従って生きてゆこうとする。だから、その人たちはクリスチャンです。十字架にかかる直前、救い主イエスが祈っていました。「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、(父なる神さまの)御心のままになさってください」(マルコ福音書14:36。この手本に従って、私たちも一日ずつを生きていきます。神を信じているからであり、そこにこそ、この私たちと大切な家族のための安心と幸いがあるからです。

7/26「憐みの神にこそ信頼する」ルカ12:1-7


               みことば/2020,7,26(主日礼拝)  277
◎礼拝説教 ルカ福音書 12:1-7                          日本キリスト教会 上田教会
『憐みの神にこそ信頼する』
             ~パリサイ人の病気~



牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 12:1 その間に、おびただしい群衆が、互に踏み合うほどに群がってきたが、イエスはまず弟子たちに語りはじめられた、「パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい。2 おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。3 だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう。4 そこでわたしの友であるあなたがたに言うが、からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。5 恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。6 五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。7 その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。 (ルカ福音書 12:1-7)
                                               
8:31 それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。32 ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。……37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。(ローマ手紙8:31-39)
 まず1-5節のことです。律法学者やパリサイ人が激しく詰め寄って、論争を挑み続けます。おびただしい群衆も群がってきて、大騒ぎになろうとしています。その只中で、主イエスはまず弟子たちに語りかけます。1節、「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善だ」と。パンの練り粉の中に入れられたわずかなパン種がパン全体の隅々にまで及び、パンをふくらませる。聖書全体の中で、この『パン種とパン』のたとえが何度も用いられ、私たちに大切なことを伝えようとします。パンをおいしく膨らませる良いパン種と、パン全体をすっかりダメにしてしまうとても悪いパン種があるようです(レビ記7:13,23:17,マルコ8:15,1コリント5:6-8,ガラテヤ5:9など)。さて、パリサイ人のパン種。神を信じて生きるはずの人々が、どうして中身のない嘘と偽りの人々に成り下がってしまったのか。そもそも律法が間違って教えられつづけてきたことを発端としています。自分自身の罪深さを知らせ、自覚させるはずの律法を与えられました。けれど正反対に、その教育を受けた生徒たちは自分の正しさを競い合ったり、見せびらかしたり、他人を見下したりする偽善者たちへと成り下がりました。かえって、ますます神の憐みや恵みが分からなくなり、どのように救われるのかも分からなくなり、神を思うことも神に信頼することも従うこともできなくなりました。何百年もの間ずっとです。例えば、律法にかなう行いを問われて、「はいはい。そういうことは皆、小さい頃から守ってきました」と青年が答えたのも、この間違った信仰教育の結果です。例えば、「神殿で祈る二人のたとえ」が自分を正しいと思い込んでいる人のために語られたのも、このためです。「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ決して天国に入ることはできない」(ルカ18:21,18:9-,マタイ5:20と釘を刺されているのも、このことです。姿や形を変えながら、この同じパン種は今日の私たちの只中にまで生き残っています。中身のない形ばかりの信仰、神をそっちのけにした人間中心の信仰というパン種です。
 4-7節で、神によって造られたものにすぎない人間たちを恐れることが警告されます。人間を恐れるな。その代わりに、「神さまにこそ必要なだけ十分に信頼を寄せ、聴き従い、助けと良いものをただ神にこそ願い求めて生きていきなさい」と。人間を恐れるな、恐れるな。神をこそ恐れよ、恐れよと畳みかけられて、7節「恐れることはない」。「人間を恐れること」こそが、私たちの魂と神の国とを隔てさせる最も大きな障害物でありつづけます。「人々は私のことを何と言っているだろう?」「人々は私のことをどう思っているだろうか?」「人々は私に対して何をしようとしているのだろうか?」。こうした恐れや不安、心細さが高じてくることは、入り込んでしまったあの嘘と偽りの虚しいパン種が増殖していることのはっきりした症状の1つです。私たちの練り粉の中で、そのとても悪いパン種がどんどん膨れ上がって、その心を人々への恐れの中に捕らえ、しばりつけてしまいます。
 「神を恐れる」ことは、むしろ「憐れんでくださる神への全幅の信頼」です。さて、6-7節、「五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である」;困窮と悩み、恐れの中に置かれているクリスチャンを励まし、勇気づけようとして主イエスは語りかけます。神によって造られた、最も小さな者に対してさえ、神の慈しみと憐みは確かに及ぶと。ところで、「5羽のスズメが2アサリオンで売られている(一日分の労働賃金がデナリ。その10分の1がアサリオン。長野県の最低賃金は時給848円、一日分では6784円)。神のみ前で忘れられていない大切なスズメ1羽の値段はおよそ270円。では、あなたや私はいくらくらいの売値がつくでしょう。あなたがたは多くのスズメよりも優った者である。どの程度に優っているでしょう。いくら以上の売値がつけば、私たちは安心できるでしょう」。恐れることはない。なぜなら、多くのスズメよりも優った者なのだから? なぜ、ここで主イエスがこういうことを仰るのかがまったく分からず、ぼくは何十年も頭を抱えて困りつづけました。
 とうとう分かりました。「あなたがたは多くのスズメよりも優っている。だから当然、スズメの何倍も手厚くしっかりと神から守っていただけるだけの価値がある。ねえ、そうだろう?」と問いかけ、私たちの大好きな自尊心をくすぐり、習い覚えてきた福音の道理に照らして自分自身で判断するようにと促しています。つまり、信仰の保守点検および整備です。「主イエスの弟子とされたはずのこの私たちがパリサイ人のパン種にいつの間にか感染していないかどうか。すっかり汚染されていないかどうか」を検査するための、教育的配慮です。
私たち人間は、はたして多くのスズメよりも優った、価値の高い、素晴らしく貴重な存在でしょうか? 仮にそうだとして、では神さまは、優った、価値の高い、素晴らしく貴重な存在をこそ救い、そうではない劣った、価値の低い、粗末でつまらない存在に見向きもしないのか。滅びるままに放っておかれるのか。心を鎮めて、『教えられてきたイロハのイ』に立ち戻りつづけねばなりません。多くのスズメより、また他の多くの民族よりも他の人々よりもはるかに優れているなら、恐れなくてもいいのか。もしそうではないなら、私たちは恐れるべきなのか。いいえ、決してそうではありません。ただ恵みによってだけ救われるからです。救われるに値しない罪人が、ただ憐れみを受けて救われる。それ以外の救いの筋道はどこにもないからです。『小さな昆虫、小鳥たち、野原に咲く名も知られない多くの草花とほぼ同じ程度の私たちだけれども、憐れんでいただいて、それで確かに救っていただける(神の愛は、まず世界創造の6日目の全被造物に対する喜びに由来します、「見よ、それは非常に良かった」「極めて良かった」(創世1:31)。「価値があるからでなく、優れた良い点があるからではない」(申命記7:6-8,9:4-7)と念を押しつづけ、「地のすべてのやからはあなたによって祝福に入る」(創世12:1-3)と憐みと祝福の出発点としました。だからこそ、「思いあがってはならない。誇ってはならない」と何度も何度も釘を刺しつづけました。『黒人の命も大切だ(Black  Lives  Matter)』と声高に叫ばれつづけ、さまざまな少数者が差別・排除されつづける悪い風潮が世界中に長い間はびこりつづけている大きな責任はキリスト教会にあります。隔離政策をつづけた南アフリカ共和国も、KKK教団もまた、自分たちとは違う他者を差別し、排除し、憎み、踏みつけにしながらも敬虔なクリスチャンを自任しつづけました。少数者を差別し、軽蔑し、憎んで排除する風潮は、この国にも根強くつづいています。恥ずかしいことです)。ああ本当に』と心底から分かった者だけが、神の憐みを知り、神の御前に安らかでいることができます。しかも、どこもかしこも神の御前です。しばらくして主の弟子の一人がはっきりと答えます、「私たちには何か優った所があるのか。いいや絶対にない(他の誰に対しても、スズメに対しても)(ローマ3:9参照)。スズメ1羽よりもはるかに劣っており、神から重んじられるような備えが何一つないときに、キリスト・イエスによって神の憐みが差し出されました。怒りの子として生まれ、まったく堕落し、腐敗したもののほか何一つももたない私たちでしたのに、にもかかわらず救いへと選び入れられ、神の子たちとされました。宗教改革期の信仰問答は説き明かします。神にまったく信頼するためには何を知るべきか?「神が全能であり、完全に善意であられることを知る」。けれどそれだけでは十分ではなく、さらに、「神が御力の助けをお与えくださり、慈しみを注いでくださるだけの価値が私たちにないと知ること」(ジュネーブ信仰問答 問8-14。むしろ、価値があるのか無いのかと何の関係もなしに、神の慈しみをあふれるほどに注がれつづけている。なにしろ罪の内に死んでいた私たちであり、価も功績もまったくなしのゆるしであり、主はキリストにおいて価なしに私たちを義となさいました。いつの間にかすっかり忘れていましたが、ただ神の恵みによるのでない限り、誰一人も神の国に入ることなどできなかったのです。(ローマ手紙3:24「すべての人は罪を犯したため神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスのあがないによって~」。このことです。とても小さく弱く乏しい群れであってもなお、私たちは神以外のなにものをも恐れないでいられます。その唯一の根拠がここにあります。
  さて、4-5節「恐れるな、恐れるな。いいや、むしろ恐れなさい」。神ではないナニモノをも、あなたは決して恐れるな。恐れなくても大丈夫。むしろ神をこそ、あなたは本気になって恐れよ。『恐れ』は、裏返せば、その何かへの『信頼』です。心を悩ませるその『恐れや不安の材料』は、そのまま、その人の『安心材料』でもあります。いいえ。むしろ神をこそ、あなたは神さまにこそ全幅の信頼を寄せなさい。そのために、よくよく耳を傾けて、聞き従いなさいと勧めています。天の御父への十分な信頼へとあなたも立ち戻れ、と勧めています。4-5節の勘所は、その御父が「殺した後で地獄に投げ込む権威があるから」、だから恐れなさいということではありません。むしろ、体も魂も支え、養い、救い出しつづけてくださるから、だから信頼しなさい。

              ◇

  およそ500年前の信仰告白は、私たちの飛びっきりの安心材料について、このように説き明かします。「生きている時も死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか?」「それはわたしが、からだも魂も、生きている時も死ぬ時も 、わたしのものではなく、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。主は、ご自分の尊い血によって、わたしのすべての罪を完全に償ってくださり、わたしを悪魔のすべての力から救い出し、天におられるわたしの御父のみこころによらなければ、髪の毛ひとすじもわたしの頭から落ちることがないようにと、わたしを守っていてくださいます」(ハイデルベルグ信仰問答,問1,1562年)
  『神ではないモノや人間どもへの恐れ』と『神への信頼』。それは、児童公園や小学校の運動場の片隅においてあるシーソー台のようです。『神ではないモノや人間どもへの恐れ』が重くなって、どんどん下がってゆくとき、その反対側の板に乗っている『神への信頼』はどんどんどんどん軽くなって、影が薄くなってゆくばかりです。逆に『神への信頼』が少しずつ育って、大きく重くなってゆくと、『神ではないモノや、たかだか人間に過ぎないどもへの恐れ』は少しずつ萎んで小さく軽くなってゆきます。あるとき、人間のことばかり気にかかって、「人が見たらどう思われるだろう」「世間様に何と見られるだろうか」と恐ろしくなって、クヨクヨメソメソしています。すると、そのとき、『神への信頼』はどんどんどんどん軽くなって、影が薄くなってゆくばかり。あるいは、もうほとんど影も形もなくなってしまっているかも知れません。聖書の中でも外でも、神さまはそういう私たちを励ましつづけます。「主はみずからあなたに先立って行き、またあなたと共におり、あなたを見放さず、見捨てられないであろう。恐れてはならない、おののいてはならない」、「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる」「なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、誰が私たちに敵しえようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡された方が、どうして、御子のみならず万物をも贈り与えてくださらないはずがあるだろうか。いいや、あるはずもない。きっと必ず、そうしてくださる」(申命記31:8,使徒18:9-10,ローマ手紙8:31-





2020年7月22日水曜日

われ弱くとも ♪丘の上の主の十字架


われ弱くとも      (お試しサンプル品⑧/賛美歌21303番)
 ♪ 丘の上の主の十字架  

  こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。賛美歌21231番、讃美歌第Ⅱ編182番、『丘の上の主の十字架』です。もう20年ほども前の事なんですが、大切なクリスチャンの友だちがいて、その人が、「丘の上の主の十字架」と「キリストには代えられません」とこの2曲がなにしろ格別に大好きだ、朝も昼も晩もずっと歌ってると言ってたんです。「大好きだ。ずっと歌ってる」と言ってニコニコしていたその口ぶりや顔つきを僕は忘れることができません。その人は、年を取っておじいちゃんになってからこの神さまと出会い、信じるようになり、けれどクリスチャンになってほんの数年で死んでしまいました。この2曲を歌う度に石川さんのことを思い出すし、その石川さんのことを思い出すたびに、この「丘の上の主の十字架」と「キリストには代えられません」を思い出して、ぼくもやっぱりこの歌が大好きだなあとしみじみ思います。朝も昼も晩も、ず~っと歌っちゃう。こういう信仰だ、こういう神さまだ、その通りだなあと思います。難しい言葉はほとんどありませんが、3つだけ聞いてください。まず、くりかえし部分の「うち捨て」。ただ捨てるんじゃなくて、えいっと力一杯に投げ捨てる、必死になって本気で捨てるという強い言葉です。それくらいしなきゃ、この世界での栄光や名誉を捨てることも、それを願う心から自由になることもなかなか出来ないということですね。2つ目、同じ繰り返しの「み救い」の「み」は、尊敬の意味の「あなたさまの」です。つまり、神さまから与えられる救い。「み名。み国、み心」も同じで「神さまのお名前、神さまの国、神さまの心」です。もう1つ、4節1行目の「なにかはあらん」。何事か大変なオオゴトだろうか。はいはい、何度も出てきた例の質問しているようで全然質問じゃない言い方です。悩みや死ぬことがオオゴトだろうかビックリ仰天か、いいや、全然たいしたことない。
 じゃあ、1節から3節までをまず味わいましょう。「(1)丘の上の主の十字架、苦しみのしるしよ。人の罪を主イエスはご自分の身に負い、ご自身の生命を私たちに与えてくださる。(くりかえし)世の人々から受ける栄光や名誉や賞賛をえいと投げ捨て、十字架の主イエスにすがって一筋に私は歩んでいこう。神さまが与えてくださる救いに入るまで。(2)世の人々があざけったりバカにするとしても、十字架の主イエスは慕わしい。小羊である神のみ子の苦しみを思うので。(3)荒削りの主イエスの十字架はかぎりなく尊い。私の罪をゆるし、私をその罪深さから清めてくださるのは、ただ主イエスの血潮だけである」。この歌の最初の大きな衝撃は、もちろん3節1行目の『荒削りの主の十字架』という一言です。荒削りの主の十字架。まるで、金づちで頭をガツンと殴られたような気持ちになります。「おしゃれで美しいインテリアやアクセサリーの首輪、耳飾りなどにして、慣れ親しんだり、楽しんだりしていたそういう自分自身の軽々しい気分と、告げられていた救いの現実とはずいぶん違うものだった。あまりにかけ離れていた」と気づかされます。あるいは屋根の上や礼拝堂の中で十字架を眺めるとき、「ああ十字架か」と私たちは、いつもの普通の気分です。そこで驚いたり、心を深く揺さぶられたりもせず、「十字架かあ」とただ眺めている。気にも留めずに。ウトウトと眠り込んでいた私たちの信仰の魂を、この『荒削りの主の十字架』という強烈な一言が呼び覚まします。さらに一歩また一歩と、救いの御業の現実の中へと私たちを招き入れます。1節の3行目、4行目「人の罪を主は身に負い、与えたもう、いのちを」。また3節の3行目、4行目「われをゆるし、清くするは、ただ主の血潮のみ」。荒削りの主の十字架という短い一言によって切り開かれた神様の現実が、ここにあります。そこで、いのちが差し出され、与えられようとしていること。十字架上の主イエスの血潮こそが私をゆるし、私を清くしてくれること。とうとうここに、目を凝らしています。十字架の上に、すでに、主イエスと私たちの復活のいのちがはじまっています。「主イエスの苦しみ。苦しみ」と言いながら、この祈りの人は、ただ救い主イエスの苦しみと死ばかりを眺めているのではありません。そこからはじまる新しい生命にこそ目を凝らしています。罪人であるこの私の救いためにさえ、主イエスはご自身の肉を引き裂き、血を流し尽くしてくださった。だから私は罪をゆるされ、罪の奴隷状態から解放されて自由にされ、清くされる。曇りなく、喜ばしく生きる新しい私とされる。「十字架は慕わしい」「主の十字架は限りなく尊い」と喜びにあふれているその本当の理由は、ここにありました。「荒削りの主の十字架」という一言が、キリストの教会とクリスチャンたちを深い眠りから目覚めさせました。目覚めさせて、神さまご自身の現実に目を向けさせました。ですからこの『丘の上の主の十字架』という1曲は、私たちにとって格別に大切な歌でありつづけます。キリストの教会と私たちクリスチャンは何度も何度も眠り込んでしまうからです。ゲッセマネの園でのあの弟子たちのように。疲れと思い悩みのあまりにまぶたが重く垂れ下がってきて。主イエスはご自身の祈りの格闘をつづけながら、私たちを気がかりに思って、何度も何度も様子を見に来て「しっかりしなさい」と声をかえます。「目を覚まして祈っていなさい。誘惑と試練にすっかり飲み込まれてしまいますよ。ほらほら目を覚まして。だって、あなたがたは心も体も弱いのだから」と。それなのに眠っているのか、眠っているのか。まだ眠っているのかと。主の十字架もその救いの御業も度々ただおしゃれで体裁がよいばかりの単なるアクセサリーやインテリアの1つへと小さく弱くされました。私たちの眠りの中で、ただただ形式的な約束事や建前やスローガンに成り下がりました。やがて、知らず知らずのうちにその十字架と復活の主イエスが私たちに生命をあたえてくださるとは、私たちは思わなくなりました。十字架上で流し尽くされた主イエスの血潮、引き裂かれた体、それによって私たちはゆるされた。清くされたし、されつづけるなどとは、やがて誰1人も思わなくなりました。十字架も、死と復活の救い主イエスもその御業も、すっかり骨抜きにされます。何度も繰り返して。
 この数年、私たちは度々耳にしてきました。ただ親しみやすいだけのきさくで身近な、とても人間的な救い主。ゲッセマネの園でも十字架の上でも、苦しみ絶望してただ無残に死んでいかれた、かわいそうな救い主という噂を。「罪のゆるしはただ大目に見て、いいよいいよと罪も咎も見過ごしてくれることだ」という噂を。「罪深いままで招かれた。だから生涯ずっと同じく罪深いままの私たちだ。だって世の中も社会の現実もあまりに汚れているじゃないか、仕方がない仕方がない」という根も葉もない悪い噂を。いいえ、大間違い。真っ赤な嘘です。だって、この讃美歌が「違う違う。荒削りの主の十字架だったじゃないか」と大声で叫んでいます。『主われを愛す』も。『さまよう人々立ち返りて』(239)も、はっきりと歌っていましたね。4節「さまよう人々立ち返りて、十字架の上なるイエスを見よや。血潮したたるみ手をひろげ、『生命を受けよ』と招きたもう」。しかも聖書自身が十字架の死と復活をただ形ばかりのアクセサリーやインテリアにすることを強く拒みつづけています。ガラテヤ手紙3:1以下、「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが"霊"を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」。その通り、主イエスの復活の生命をあなたも受け取りなさい。神さまの御前で、神さまに向かって、あなたも新しい生命を生きることをし始めなさい。
 くりかえし部分はとてもきっぱりしているし、かなり厳しい中身です。「世の栄え、打ち捨て、十字架にすがりて、一筋にわれ行かん。み救いに入るまで」。主イエスの十字架を歌う讃美歌の中で、どうしたわけかよく似たことがたびたび語られます。来週歌う297番『栄えの主イエスの』の1節でも、「栄えの主イエスの十字架を仰げば、世の富、誉れは、塵にぞ等しき」。『キリストには代えられません』(-19521-522)の繰り返し部分でも、「世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、行け。キリストには代えられません、世のなにものも」と。この世の中で高い給料をいただいて裕福に暮らすことや、財産を蓄えることや、名声を得て、皆から誉められたり、感心されたり、ちやほやされること。まるで、そういうことが悪いことみたいですね。「世の栄え、打ち捨て」です。また、「世の富、誉れは、塵やゴミと同じだ」と。さらに、「世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、行け。キリストには代えられません、世のなにものも」と。さあ、困りました。聖書自身はなんと語っているのか、頭の中を整理しておきましょう。聖書は、楽しみやお金や財産や人から誉められることが悪いとは言っていません。それらは人を楽しませ、自分自身のためにも他者のためにも、大事によく用いることもできます。ただ、そこにはいつも誘惑と危険がつきまといます。そこを警戒しているのです。楽しみや、人から誉められることや、財産や地位、それらが心を惑わせて神さまに背かせてしまう実例を聖書は次々に報告しつづけました。例えば、金持ちの青年が主イエスのもとから悲しみながら立ち去っていったことを覚えているでしょ。永遠の生命よりも神を信じて生きるよりも、それよりもっともっと大切に思えるものがあの彼にはあったからです。ぞんぶんに楽しんでもいい。人から誉められていいし、それを願ってもいい。財産やお金を山ほど蓄えて、高い地位や権力を手に入れてもいい。けれど心を惑わされないように、気をつけて使うように。
 では、いよいよ4節です。「目の前にふりかかる1つ1つの悩みごと、やがて衰えて死んでいくこと、重い病気に次々とかかること。それがオオゴトだろうかビックリ仰天か、いいや、全然たいしたことない。苦しみにも辛さにも、少しも困らないし平気だ。救い主がやがてこの世界を完成させてくださる栄えの朝、世の終わりを、私も待ちわびながら生きてゆく。自分が担うべき十字架を担いながら、1日また1日と」。少し前に、「み恵みゆたけき」(294番,21-461)でも同じことを申し上げました。教えられ、信じてきた中身は、この4節の通りです。簡単に言うと、『死んでそれで終わりじゃない。その先があり、死の川浪を乗り越えて神の御国にきっと必ず辿り着く。辿り着かせていただける』という信仰です。ね、だから、例えばある日、医者から「癌ですよ。あと半年か、数ヶ月の生命」などと告げられます。転んで大怪我をします。うっかりして家から火事を出して、ご近所さんにも迷惑をかけてしまいます。サギにあって、蓄えをすっかり騙し取られてしまう。会社をクビになる。その他いろいろ。次々に厄介事にあい、「どうして私ばかりがこんなに」と本人は思います。驚いたり嘆いたり悲しんだり、頭を抱えたり、アタフタオロオロする人々がたくさんいるでしょう。ほとんどの人はそうかも知れません。けれど私たちクリスチャンにとって、それは普通のことです。それがオオゴトだろうかビックリ仰天か、いいや、全然たいしたことない。本当です。しかもに、その人が格別にしっかりしているとか信仰深いとかではなくて、なにしろ、しっかりしていてとてもよい神さまがついていてくださるからです。私たちもまったく同じです。その神さまに十分に信頼を寄せているし、神さまとの出会いを積み重ねてきました。私たちはクリスチャンです。

2020年7月21日火曜日

7/19こども説教「苦しめられることもある」使徒18:12-17


 7/19 こども説教 使徒行伝18:12-17
 『苦しめられることもある』

18:12 ところが、ガリオがアカヤの総督であった時、ユダヤ人たちは一緒になってパウロを襲い、彼を法廷にひっぱって行って訴えた、13 「この人は、律法にそむいて神を拝むように、人々をそそのかしています」。14 パウロが口を開こうとすると、ガリオはユダヤ人たちに言った、「ユダヤ人諸君、何か不法行為とか、悪質の犯罪とかのことなら、わたしは当然、諸君の訴えを取り上げもしようが、15 これは諸君の言葉や名称や律法に関する問題なのだから、諸君みずから始末するがよかろう。わたしはそんな事の裁判人にはなりたくない」。16 こう言って、彼らを法廷から追いはらった。17 そこで、みんなの者は、会堂司ソステネを引き捕え、法廷の前で打ちたたいた。ガリオはそれに対して、そ知らぬ顔をしていた。                  (使徒行伝18:12-17

 13節、「この人は、律法にそむいて神を拝むように、人々をそそのかしています」。ユダヤ人たちのこの訴えは間違った嘘の証言です。けれどローマの国から送られてきている総督は、話をちゃんと聴きもせずに、みんなを法廷から追い払い、わざわざ法廷の前でクリスチャンが殴ったり蹴られたりしても、知らんぷりをしています。自分には何の関係もないと。そういうえば、ポンテオ・ピラト総督も同じことをしていました。悪くなくても苦しめられることもあります。間違っていなくても、分かってもらえないこともあります。パウロも会堂長ソステネも、そして私たちも。
 先週いっしょに読んだところで、パウロは神さまから励まされていました。「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる」9-10節)コリントの町のクリスチャンたちはへこたれません。挫けずに辛抱して、持ちこたえ続けます。何度でも立ち上がりつづけます。パウロだけでなく、神の民とされた一人一人は、神さまから励まされつづけるからです。「恐れるな。私がついているから」と。励まされつづけて、だんだんと少しずつ神さまに信頼する心がその人の中で育って、強く大きくなっていくからです。その彼らのためにも、神さまが生きて働いておられるからです。


7/19「あなたの内側を清くしなさい」ルカ11:37-44


                          みことば/2020,7,19(主日礼拝)  276
◎礼拝説教 ルカ福音書 11:37-44                      日本キリスト教会 上田教会
『あなたの内側を清くしなさい』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

11:37 イエスが語っておられた時、あるパリサイ人が、自分の家で食事をしていただきたいと申し出たので、はいって食卓につかれた。38 ところが、食前にまず洗うことをなさらなかったのを見て、そのパリサイ人が不思議に思った。39 そこで主は彼に言われた、「いったい、あなたがたパリサイ人は、杯や盆の外側をきよめるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで満ちている。40 愚かな者たちよ、外側を造ったかたは、また内側も造られたではないか。41 ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる。42 しかし、あなた方パリサイ人は、わざわいである。はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を宮に納めておりながら、義と神に対する愛とをなおざりにしている。それもなおざりにはできないが、これは行わねばならない。43 あなたがたパリサイ人は、わざわいである。会堂の上席や広場での敬礼を好んでいる。44 あなたがたは、わざわいである。人目につかない墓のようなものである。その上を歩いても人々は気づかないでいる」。                             (ルカ福音書 11:37-44)
                                               
51:7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、
わたしは清くなるでしょう。
わたしを洗ってください、
わたしは雪よりも白くなるでしょう。
8 わたしに喜びと楽しみとを満たし、
あなたが砕いた骨を喜ばせてください。
 9 み顔をわたしの罪から隠し、
わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。
10 神よ、わたしのために清い心をつくり、
わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。
12 あなたの救の喜びをわたしに返し、
自由の霊をもって、わたしをささえてください。   (詩篇51:7-12)
 (*)7節「ヒソプ」;清めの儀式に用いられる植物。もちろん、ヒソプ自体
     に清める効果や力はない。神に清めていただく「目に見えるしるし、道具」。

 37-41節、「イエスが語っておられた時、あるパリサイ人が、自分の家で食事をしていただきたいと申し出たので、はいって食卓につかれた。ところが、食前にまず洗うことをなさらなかったのを見て、そのパリサイ人が不思議に思った。そこで主は彼に言われた、「いったい、あなたがたパリサイ人は、杯や盆の外側をきよめるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで満ちている。愚かな者たちよ、外側を造ったかたは、また内側も造られたではないか。ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる」。パリサイ派の人々もまた神を信じる人々であり、神の律法を大切に思う人々です。ただ、自分たちが信じている神がどういう神であるのかをよく知りませんでした。また、神の律法がどういう目的で彼らに与えられ、彼らをどのように導くはずなのかも十分には教えられてきませんでした。先祖と私たちを憐れんで、価なしに、ただ恵みによって救おうとなさる神です。また神の律法は、憐みの神の本質を先祖と私たちに教え、救い主イエスによって救われることを私たちに願い求めさせるために与えられていました。そのパリサイ人と私たちに神の御心を教え、救いの中へと招き入れるために、ついに救い主イエスがこの地上に降りて来られました。
さて、あるパリサイ人に食事に招かれ食卓についたとき、主イエスは食事の前にわざと手を洗いませんでした。そのパリサイ人にそのことに気づかせ、「どうして手を洗わなかったのか」と不思議に思わせるためにです。そこで、主イエスは彼に仰いました。「いったい、あなたがたパリサイ人は、杯や盆の外側をきよめるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで満ちている。愚かな者たちよ、外側を造ったかたは、また内側も造られたではないか。ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる」。あなたがたの内側を清めなさいと命じられて、自分の手や足や体の外側が埃にまみれて汚れているだけではなく、むしろ自分自身の内側と心こそが、貪欲と邪悪に満ちていて、ひどく汚れていると気づかされました。「あなたの内側を」と語りかけられて、それでもなお死ぬまで自分自身の罪深さと悲惨さに気づかずに一生を過ごす人たちも大勢いるでしょう。神さまが気づかせてくださらなければ、これだけは誰にも分からないのです。もし自分自身の内側を清くすることができるなら、他すべて一切が清いものとなる。そのとおりです。
 そもそもの最初から、神の律法には、『憐みの神の本質を先祖と私たちに教え、憐みの契約を思い起こさせ、救い主イエスによって救われることを私たちに願い求めさせる』というただ一つの目的がありました。あちこち歩いて土や埃に触って、先祖と私たちの手や足がほんのわずか汚れるだけではなく、それどころか、生まれながらに汚れていて、つい腹を立てたり怒ったりしてしまいやすく、罪と腹の思いの奴隷にされていた私たちです。聖書の中で、そのことは何度も何度も語られてきました。例えば私たちの先祖は、神の民とされたしるしに割礼を受けました。天地にあるすべてのものはみな主のものであり、そのうえで、祝福の源として神の民を選んだと告げられました。「イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。……それゆえ、あなたがたは心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない」(申命記10:12-16。体に割礼を受けるだけではなく、むしろ自分の心に割礼を受け、神の御心に素直に従いつづけるあなたでありなさいと。割礼も一回一回の礼拝も、献げものも、みなすべて、神はそこで私たちの心を求めつづけます。けれど私たちの心の中身を問う神の要求は虚しく聞き流されつづけました。自分自身の内側こそがとても汚れているなどとは、ずいぶん長い間、ほとんど誰一人も思いもしませんでした。
 「愚かな者たちよ、外側を造ったかたは、また内側も造られたではないか。ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる」。私たち人間の内側を清くすることはとても難しくて、人間にできることではありません。では、誰がどうやって清くされ、救われるのか。人間にできることではないが、神にはできる。神にできないことは何一つないからです。その最初の一歩が、その食事の場面から始まりました。「あなたがたの内側を清めなさい」と命じられて、自分の手や足や体の外側が埃にまみれて汚れているだけではなく、むしろ自分自身の内側と心こそが、貪欲と邪悪に満ちていて、ひどく汚れていると気づかされました。これが、神の律法の第一の働きと役割です。自分自身の罪深さと邪悪さをはっきりと告げ知らせて、へりくだらせること。自分の正しさやふさわしさによって救われるとする偽りの空想を捨てさせ、打ち砕かれた低い心を与えること。これこそが、救われるためにキリストを求めさせるためのただ一つの準備です。しかも救いは他のどんな被造物(ひぞうぶつ=神によって造られたもの)によっても与えられず、ただただ救い主イエスによって与えられる他ありません。そこで神の律法の第二の働きと役割は、その罪深さからの救いを救い主イエス・キリストに求めさせ、先祖と私たちをキリストへと向かわせ、キリストご自身から救いと生命を受け取らせること。そして第三の働きと役割は、神の御心が何であるのかを日毎によく教えられ、その御心にかなって生きるように励まし、導くこと(「キリスト教綱要」Ⅱ篇76-12節を参照。Jカルヴァン。1559年)
42節、「しかし、あなた方パリサイ人は、わざわいである。はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を宮に納めておりながら、義と神に対する愛とをなおざりにしている。それもなおざりにはできないが、これは行わねばならない」。決してなおざりにしてはならない『義』とは、何でしょう。聖書には、私たち人間の義と神の義とが2つ並べて差し出されています。なおざりにしてはならない義とは、神ご自身の義であり、それは私たち人間の正しさやふさわしさとはずいぶん違う、むしろしばしば正反対の義です。「彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」(ローマ手紙10:2-3と証言されます。私たちは自分の正しさやふさわしさを言い立てたくなり、そこにしがみつきたくなります。しかも、自分はとても正しいと思い込んで言い張っている間、私たちは他の誰かを見下したり、憎んだり、そのいたらなさに腹を立てたりしつづけます。けれど神の義は憐みの義であり、恵みに値しない罪人をなお可哀そうに思って、ゆるして救おうとなさる義です。だからこそ正しくあろうとする私たちは、しばしば神の義に逆らい、背きつづけました。自分の正しさ、ふさわしさ。それこそが私たちの目と心を塞いで、憐みの神の義も愛もすっかり分からなくさせ、なおざりにさせつづけました。価なしの憐みによって、神は、罪人である私たちを受け入れてくださいました。福音によって差し出されていた神の義と憐みを、私たちは主イエスを信じる信仰によって受け取りました。これが、救いの実態であり、その中身です。
 聖書は証言します、「神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない」1ヨハネ手紙1:6-10。あなた自身の内側を清くしなさい、と私たちは命じられる必要があります。命じられて、そこでハッとして気づく必要があります。ああ、うっかりしていた。自分自身の正しさとふさわしさを誤解していた。思い上がりと傲慢のせいで、またもや目が見えなくされていたと。しかも、「自分を清くすることなど自分自身ではとうていできないから、神さまに願って清くしていただきなさい」と。

 私たちも、ぜひ、そうしていただきましょう。過越祭のあの最後の夕食のとき、救い主イエスは食卓から立ち上がって、上着を脱ぎました。手ぬぐいをとって腰に巻き、水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められました。十字架につけられて殺される前の晩、ほんの数時間前のことです。シモン・ペテロの番になって、すると彼はイエスに問いかけました、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」。主イエスは彼に答えて言われました、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。ペテロはイエスに言いました、「わたしの足を決して洗わないで下さい」「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。イエスは彼に言われました、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ」(ヨハネ福音書13:1-10ペテロだけではなく、主イエスの弟子としていただいたすべてのクリスチャンは、主イエスご自身からこのようにして、足も手も頭も全身をすでに洗っていただいています。そしてもちろん、自分自身の内側も心も。どのようにしてか。主イエスの口から出る御言葉を聞きつづけ、その言葉を受け入れ、信じて蓄えつづけることによって、朝も昼も晩も、その言葉を喜び、その言葉を思うことによってです。「あなたがたは、わたしが語った言葉によってすでに清くされている」(ヨハネ福音書15:3,7参照)と保証され、確かに約束されているとおりです。そこに私たちのための神の義と、私たち自身と家族を救うことのできる神の愛がありつづけます。

2020年7月16日木曜日

われ弱くとも ♪さまよう人々、立ち帰りて


われ弱くとも   (サンプルお試し品⑦/讃美歌239番) 
 ♪ さまよう人々、立ち帰りて 


  こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。残念なことに賛美歌21はこの歌を外してしまいましたが、1954年版讃美歌の239番『さまよう人々、立ち帰りて』です。楽譜の右下にイザヤ44:22と記されています。「イスラエルよ、わたしを忘れてはならない。わたしはあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」(イザヤ書44:21-22)と。まず、背きと罪が指摘されます。あなた自身に背きと罪があり、だからこそ、あなたは私を忘れ、さまよいつづけているのだと。主なる神さまがその背きと罪を吹き払った。だから私を思い出し、私のもとへと立ち帰ってきなさい。歌全体では、神さまからの招きと罪人の悔い改めとが繰り返し語られ、そこに目を凝らつづけています。1節で、「罪と咎を悔やむ心こそは、天の御父より与えられた贈り物である」。2節では、「まことの悔い改めをこそ言い表しなさい。悔いて砕かれたその心をたとえ他の誰1人も気づかなくたって、御父こそがちゃんと分かってくださるのだから」。このラジオ放送との付き合いがはじまって、3年近くになります。どんな人たちがどんなふうに放送を聞いているんだろうかと、度々思い巡らせます。近くにキリスト教会がなくて、礼拝に連なりたくてもできないという人たちもいるでしょう。また、キリスト教会の生身の現実やその人間関係につまづいて、傷ついたり心を痛めたりしてさまよっている人々も数多くおられるでしょう。「教会や礼拝から遠ざかっているわけじゃないんだけど、毎週毎週礼拝に出席しているけど、なんとなく心がウツウツとし満たされない、それで」という人たちもいるのでしょうか。「つまづきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である」(マタイ18:7)と厳しく警告されています。とても申し訳ないことですし恥ずかしいことですが、ぼくは人を何度もつまずかせてきました。腕を切り落とし、目玉を何個も何個もえぐりださねばならないはずの人間です。申し訳ありません。あなたの前にも、そういう不届きな働き人たちが何人も立ち塞がって、あなたと神さまとの間を邪魔したかも知れません。それでもなお心を鎮めて、改めて思いめぐらせてみたい。私たちがキリストの教会へと向かい、1回の礼拝へと駆けつけたのは何のためだったのか。神さまと親しく出会いたかったからです。その御声を聞き分けたかったからでした。さまよう人々がどうやって信仰を回復され、どのようにして神さまの御もとへと立ち帰るのかをこの讃美歌は告げています。神へと向かい、そこで神さまと出会い、御声を改めて聞き分けてです。人とのつながりが神さまとの出会いを手助けする場合があり、逆に、人間が間に立ち塞がって邪魔をする場合もありえます。そうそう、質問されたことがあります。「人と付き合うのが苦手だけど、教会での交わりや付き合いはどうしたらいいですか。やはり積極的に参加すべきでしょうか」。あなたならどう答えますか。――兄弟姉妹の交わりは大切です。でも、それも『あなたが困らない範囲で』ということです。分かりますか。孤立して独りぼっちで生きるのは、淋しく辛いことです。また逆に、人と一緒に居ることを息苦しく重荷に感じてしまう日々もあります。もしかしたら、あなたは子供の頃に、「誰とでも、いつでも仲良く付き合いなさい」と誰かに教えられましたか? でも人間は、そんなふうにできていません(ローマ手紙3:9-26)。人と付き合ってもいいし、付き合わなくてもいい。参加してみたいと思えば、すればいい。気が進まなければ止めておけばいい。簡単でしょう。だってね、教会に来るのは神と出会いたくて、神さまと付き合いたくて来る。人付き合いが苦手なときには、ただ礼拝だけで、後はサッサと帰ってもいい。「いつもサッサと帰っちゃって申し訳ない」いったい誰に対して申し訳なく思うのでしょう。神さまに対して。それとも周囲の人間たちに対してですか。それは余計な気苦労。その気苦労のせいで、かえって神さまのことが分からなくなります。危ない、危ない」。
 『悔い改め』と『罪のゆるし』こそが、この信仰の中心部分でありつづけました。それは、神さまからの恵みと祝福を受け取るためのいつもの出発点です。詩編51編は語りかけます;「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」。また主イエスご自身がたとえ話をもって語りかけます。ルカ福音書18:9以下、二人の人が祈るために神殿に上った。ファリサイ派の人と徴税人と。徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』。言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」。けれど、生命をもたらすはずの悔い改めはキリストの教会で、どのように導かれているでしょう。もしかしたら私たちは神殿に上っていったあのファリサイ派の人のように祈り、ファリサイ派の人のように生活し、あのファリサイ派の人のように感謝しているかも知れません。自分で自分を正しいとしつづけながら。恐ろしいことです。けれどなお、さまよいつづけていた罪人が神のもとへととうとう立ち帰ってくる。そのことをはっきりと説き明かしたのは、ルカ福音書15章であると思えます。先週も放蕩息子の弟のことを話しました。ルカ15章のことをもう少し話します。いなくなっていた1匹の羊。見失った1枚の銀貨。いなくなっていた1人の息子と、家にずっといたはずのもう1人の息子。それらが、神を見失ってはぐれていた私たち自身の姿である、と聖書は語ります。羊と銀貨と息子と。それぞれの姿と有様とその魂のあり方とは、私たちの目には互いにずいぶん違っているようにも見えます。例えば、あの羊がどんなふうに迷子になったのかは、私たちには分かりません。うっかりしていたのかも知れないし、自分勝手だったのかも知れません。狼や羊ドロボウに目をつけられていたのかも知れません。迷子になって途方にくれて、「帰りたい」とメエメエ鳴いたのかも知れないし、あるいは、迷子になったとも気づかず気楽に気ままに草をムシャムシャ食べ続けていたのかも知れません。また、あの息子は自分で判断し、家を出ていくことを自分自身で選び取りました。やがて身を持ち崩して「父の家に帰りたい」と願い、家に帰ってくるときも、誰に勧められたのでもなく自分から帰ってきました。さて、あの銀貨は、うっかりしていたのでもなく自分勝手だったのでもなく、帰りたいと鳴いたのでもなく、自分で帰ってこようとしたのでもありませんでした。だって、ただの銀貨だったのですから。ただ単に財布から落ちて、コロコロ転がって、タンスとタンスの隙間かテーブルの下か雑誌や古新聞のページの間かどこかに紛れ込みました。自分が失われた、とも知りませんでした。銀貨にとっては、その事態は痛くも痒くもなく、ただ失われるままに失われ続けて、放っておけば100年でも200年でもそのまま失われつづけて。
 ここで、一つ気づくことがあります。3つのたとえ話を始めるきっかけとなった場面(1-2)。主イエスと共に食事の席についている人々。そして、遠くから眺めて「どうしてあんな人たちと」と腹立たしく思っていた人々。主イエスと共に食卓についていたあの人たちは、それを嬉しく思っていました。ちょうど羊飼いのもとに連れ戻された羊のように。ちょうど、父の家に迎え入れられたあの弟のように。その一方で、遠くから眺めて「どうして」と腹立たしく思っていた律法学者やファリサイ派の人たち。多分、もしその食卓に招かれたとしても、あんまり嬉しくは思わなかったでしょう。けれど兄弟たち。連れ戻された羊が喜ぼうが喜ぶまいが、見つけ出された銀貨がそれを何とも思わなくたって、戻ってきた息子が感謝してもしなくても、なにしろ羊飼いはうれしい。なにしろ銀貨の持ち主はうれしい。なにしろ、あの父親はうれしい。多分、あの不機嫌な律法学者やファリサイ派の人たちが食卓に一緒に座ったら、もしそうしたら、主イエスはとても喜んだでしょう。家中ひっくり返して銀貨を探しつづけたあの持ち主のように。出迎えたあの父親のように。あの羊飼いのように、大喜びで喜んだでしょう。
  もし、あなたがあの羊飼いだったとしたら、1匹の羊を見失ったら、同じように99匹を野原に放り出して探し回るでしょうか? もし、あなたが10枚の銀貨を持っていてその中の枚をなくしたら、家中ひっくり返して1晩でも2晩でも、何週間でも何ヶ月かかっても見つけ出すまで探しつづけますか? いいえ、私だったらそんな愚かな、そんな採算の取れないことはしません。1匹のために99匹がいなくなってしまったら大損害です。もし、どうしても探しに行かなければならないとしたら、そのときにはまず99匹を柵の中に戻して頭数を数え、カギをかけ、アルバイトの見張り役を数名手配し、指示を与え、それからなら探しに行ってみてもいいでしょう。どこまででもいつまででも見つかるまで探すでしょうか。いいえ。ある程度探してみてダメなら、あっさり諦めるでしょう。これは、他のどこにもいないほどの、きわめて珍しい羊飼いです。これは、あまりに不合理な愚かな女です。人間のことではないのです。神ご自身のことです。私たちの神は、私たち人間のような神ではありません。大きな羊だから、と探す神ではありません。格別に値段の高い、毛並みのいい、優良上等な美しい羊だから、と惜しむ神ではありません。他の10円銀貨と違って1000円の銀貨だから、と探す神ではありません。他の息子と違って見所と取り柄のある大きな息子だから、と探す神ではありません。大会社の社長のような神ではないのです。その社長に目をかけられた優秀で立派なエリート社員のような私たち、ではありません。なぜ探しつづけたか、迎え入れてなぜあんなにも大喜びに喜んだか。憐れむ神だからです。失われて、今にも死んでしまおうとする罪人の魂が憐れであり、捨て置くことなどできないと惜しんでやまないからです。なぜ罪人を招き、その1人の罪人が立ち戻ってくるのを大喜びするのか。神さまは憐れむ神だからです。このことを、決して忘れてはなりません。
7,10節。「大きな喜びが天にある。神の天使たちの間に喜びがある」。神の喜びは、神の悲しみや痛みと表裏一体であり、一組です。神さまのほうに向いていたはずの1人のゆるされた罪人が、いつの間にか人間のほうへ人間のほうへと思いを曇らせ、心を惑わせてゆく。ついに人間のことばかり思い煩い、神を思うことを忘れてしまう。すると、その1人の魂を思って、天に大きな大きな悲しみと痛みがある。神さまがどんなに心を痛め、どんなに深く嘆き悲しむことか。神さまのもとを離れてさまよいつづけているたくさんの人々がいます。おびただしい数の放蕩息子たち、放蕩娘たちが。ある息子たちは財産の分け前をもらって荷造りをしはじめています。別の息子たちは放蕩の真っ最中で、別の娘たちは豚小屋の豚の餌を眺めながら考え込みはじめました。そうでした。この私も息子たちの1人で、いなくなっていたのに見つけていただきました。死んでいたのに、生き返らせていただきました。神さまのもとに帰ってくることができて、あの放蕩息子のたとえ話を聞かされ、とても嬉しかった。「あ、この俺のことだ。俺のことが書いてある」と驚きました。どうして帰ってくることができたのか分かりません。いいえ、「わたしの生命をあなたにあげよう。受け取りなさい」と主イエスが招いてくださったからです。あなたもそうです。いなくなっていたのに見つけていただき、死んでいたのに生き返らせていただきました。こんなに嬉しいことはありません。

(*『われ弱くとも。わたしを導く讃美の歌』2014年10月から全52回の配信。その選抜、再放送中。2020年10月から、『嘆きに応える神の御言』配信が再開される見込みです)



2020年7月14日火曜日

7/12こども説教「恐れるな、語りつづけよ」使徒18:9-11


 7/12 こども説教 使徒行伝18:9-11
 『恐れるな。語りつづけよ』

18:9 すると、ある夜、幻のうち に主がパウロに言われた、「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。10 あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる」。11 パウロは一年六か月の間ここに腰をすえて、神の言を彼らの間に教えつづけた。       (使徒行伝18:9-11

 主イエスの弟子たちは、つまり私たちすべてのクリスチャンは、神さまのことを皆に知らせつづけます。学校の友達にも、近所の人たちにも、大切な家族の一人一人にも、「こういう神さまですよ。神さまを信じるととても安心で、こんなに嬉しいことがありますよ」と。嬉しい良いことがあり、また苦しく辛いことも次々とたくさんあります。誰でもそうです。励まされてホッと一安心したり、また心細くなったりの繰り返しです。実は、主イエスの弟子たちがコリントの町で伝道をしはじめた頃、とてもつらくて苦しくて心細くて、大変でした18:6「(ユダヤ人たちが)反抗してののしり続けた」,1コリント手紙2:3「弱く、かつ恐れ、不安だった」参照)
実は、主イエスの弟子たちがコリントの町で伝道をしはじめた頃、とてもつらくて苦しくて心細くて、大変でした。9-10節、「すると、ある夜、幻のうちに主がパウロに言われた、『恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない』」。語りかけられている言葉で、その人の様子や態度がよく分かります。「恐れるな。恐れるな、大丈夫だから」と繰り返し励まされる。なぜでしょう? その人がとても恐れているからです。「語りつづけなさい」、くじけて黙り込んでしまいそうだからです。「私がついている。本当のことだよ」、誰も味方になってくれないし独りぼっちだと、心細く、とても弱気になっているからです。「あなたに誰も危害を加えない」、ひどい目にあいそうな気がして、とても怖がっているからです。その一晩だけ神さまに励ましていただいただけではありません。繰り返し、何度も何度も何度も「怖がらなくていいよ。大丈夫、私がついているからね」と励まされつづけて、それでようやく安心して働くことができました。だんだんと少しずつ、神さまに信頼する心がその人の中で育って、強く大きくなっていきました。私たちもそうです。

7/12「あなたの内なる光」ルカ11:33-36


                       みことば/2020,7,12(主日礼拝)  275
◎礼拝説教 ルカ福音書 11:33-36                      日本キリスト教会 上田教会
『あなたの内なる光』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 11:33 だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。34 あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。35 だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。36 もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。(ルカ福音書 11:33-36)
                                               
「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」      (ヨハネ福音書8:12

「あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい」  (1テサロニケ手紙5:5-11
 33-35節、「だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい」。救い主イエスが私たちに向けて語っておられ、そこから大切なことを教えられます。神を信じて生きてゆくための光と格別な贈り物を与えられている私たちです。だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。そのとおりです。救い主イエスの福音が一人の人の魂の前に置かれるとき、それは、明かりをもとされた灯火を神さまが人の魂の前に置くことと似ています。神の国の福音を聞いて、そのとおりだと認め、そこには確かに真実があるかも知れないと分かるだけでは、それは不十分です。その人の心の中に受け入れられ、その福音に従って毎日の生活が営まれはじめる必要があります。もし、そうではないなら、誰もいない真っ暗な穴倉の中に灯火が置かれたようなものです。枡の下に置かれて、何を照らすこともなく、周囲の人々にも自分自身にもその光がほんの少しも届かないようなものです。
 また、34節、「あなたの目が」「あなたの目が澄んでいれば、全身も明るい」「目が悪ければ、からだも暗い」と繰り返して語られていることに注意を向けましょう。肉体的・医学的な意味ではなく、「目が見える」「見えない」と比喩的な象徴的な言い方で、主イエスとパリサイ派の人々や律法学者たちが厳しい討論を繰り返していました。イエスは言われました、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言いました、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」。イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」(ヨハネ福音書9:39-41。どんな神なのか、その御心はどのようであるのか、御心に従ってどう生きることができるのかを詳しく知らされている私たちです。つまり、そのようにして神さまからの輝く明かりを手に持たされている私たちです。信仰の事柄として、神の働きの現実や神の御心を理解し、受け止め、そのように毎日の暮らしを生きること。子供たちのための祈りでも、こう祈ります。「神さま。明るい昼間でも目がよく見えない私たちです。あなたのお働きや御心がよく見えるようにさせてください」と。心が曇り、また鈍くされてしまい、神さまを悲しませるような、御心に逆らうことを次々としてしまう私たちです。あのパリサイ人や律法学者のようにです。ですから神さまに、「目が良く見えるようにしてください。あなたの御心を知って、御心にかなう良い行いを選びとることができるようにさせてください」と日毎に祈り求め続けて生きる私たちです。ここでも、そういう信仰の関りとして「あなたの目が澄んでいれば、全身も明るい」「目が悪ければ、からだも暗い」と告げられます。例えば「手」や「足」や「お腹」ではなく、「あなたの目が」とわざわざ言われます。私たちが歩いているとき、目こそが、その人の行動や行き先を具体的に決めたり導いたり、方向づけたりします。
 また35節で、「あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい」と語りかけられました。さらに36節、「もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いて照す時のように、私たちの全身が明るくなるであろう」。あかりが輝いてあなたを照らすときのように、全身が明るくなる。すでに神さまからの明るい明かりが登り、私たちの上に昼も夜も輝きつづけています。だから私たちは「地の塩であり、世を照らす光」であると呼ばれ、救い主イエスを信じて生きているクリスチャンです。救い主イエスは、人々に語ってこう言われました、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ福音書8:12。この私こそが全世界を照らすための光である、と救い主イエス・キリストは断固として仰います。全世界と、そこにあるすべての生き物を照らすのですから、ユダヤ人とそれ以外の外国人という区別や差別が取り除かれただけではなく、よく学んだ学者とそうではない者、高貴な生まれと、貧しく卑しい生まれとの違いも取り除かれ、どんな区別も分け隔ても、ただお独りの光であられるかたの御前ではすでにすっかり取り除かれています。
 しかも、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがない」と語られました。そこで、光であられる救い主イエスを求め、このかたの御前へとぜひ向かってゆくべき理由もまた、はっきりと告げられました。この世界に薄暗がりや真っ暗な闇が広がっているからであり、自分自身が薄暗い闇の中に虚しく座り込んでいたことを知らされ、また薄暗い中で目が良く見えなくされてもいたことにも気づかされます。だからこそ、目が開かれて、その目で見るべきものをはっきりと良く見ることができためにこそ、『あなたも救い主イエスのもとに向かってきなさい』と招かれています。こどものためのあの祈りはこのことをこそ指し示していました。「神さま。明るい昼間でも目がよく見えない私たちです。あなたのお働きや御心がよく見えるようにさせてください。私の心はたびたびとても曇らされ、また鈍くされてしまいます。そのようにして神さまを悲しませるような、御心に逆らうことを次々としてしまう私たちです。神さま、目が良く見えるようにしてください。あなたの御心を知って、御心にかなう良い行いを選びとることができるようにさせてください」と。
 「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがない」と語られました。この世界と私たち自身を照らす光が、あちらこちらに、いくつもいくつも、無数にあるわけではありませんでした。この世界全部と私たち一人一人を明るく十分に照らし出すことのできる、ただ一つの、まことの光です。つまりは、見せかけだけの偽りの虚しい光があり、すぐに失われてしまいやすい、やがて消え去ってしまうほかない当てにならない光や、偽物の輝きもあちらこちらにあって、私たちを惑わしもします。ほんのひととき、そうした虚しい光や輝きが私たちを楽しませることがあるとしても、それは、やがてじきに失われてしまいます(ヨハネ福音書5:35「ヨハネは燃えて輝くあかりであった。あなたがたは、しばらくの間その光を喜び楽しもうとした」参照)。だからこそ、この世界を照らすために、まことの光がこの世界にくだってきました。神ご自身が世を照らし、私たちを照らすまことの光です。救い主イエスこそがこの世界を照らすためにくだってこられた神ご自身であり、世を照らすまことの光です。この救い主イエスを信じ、語られるその言葉を聞きつづけている私たちも、その御言葉の光を浴び、その光に照らされ、神からの光を反射します。神からのその明るい光を周囲に輝かせて生きる者とされました。
 「わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがない」と語られました。世を照らすまことの光である救い主イエスがおられる。このお独りのかたのもとに来なさい、と教えられました。そうすれば、あなたも闇のうちを歩くことがない。誰かを軽々しく軽蔑したり、非難したり、憎んだり怒ったり、邪魔者扱いしたり、また誰かを困らせたり苦しめたりという、邪悪な闇の行ないをあなたはしてはいけないし、「あなたはそういうことをしないでいられる」と勧められ、また、「そうではないあなたとならせてあげよう」と神から保証されています。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがないと。35節で、「あなたがたの内側にある光」と語りかけられました。どういうことでしょう。自分自身の内側には、どこを探しても光は見当たりませんでした。自分自身の外側にあった、神ご自身の光こそが贈り与えられ、その光は外から来て、私たちの体の中に入ってきました。神の国の福音の光です。なぜ私たちは地の塩であり、光の子供たちであるのか。全世界を照らすまことの光である救い主イエスを信じているからであり、そのかたの御言葉を聞き、聞いた言葉を心の中に受け入れ、蓄えているからです。そのように明かりをともされ、その明かりに導かれて、救い主イエスに従ってゆく者たちであるからです。聖書は証言します、「あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい」(1テサロニケ手紙5:5-11。明るい昼の光の中でも目が良く見えない私たちだと申し上げました。同じことを、昼間から眠り込んでいてはいけないと励まされます。目を覚まして、主なる神さまに目と心を向けていようと。主イエスを信じているという「信仰」と、神が私たちの味方であり、神が価なしに、ただ恵みによって憐れんでくださり、私たちを愛してくださっているという「胸当て」を付け、さらに救いの望みのかぶとを被って武装していましょう。そうであれば、私たちはそこでようやく、慎み深く、また心安らかに毎日の暮らしを生きることができます。この世の悩みや生活の上での思い煩いが次々にあって、けれどそれを投げ捨てつづけ、邪悪な貪欲を振り払って、誘惑に巻き込まれないように生きることができます。すると、そのとき、昼も夜も明るい中を生きる私たちです。なぜなら、私たちを照らすまことの光が、すでに私たちのうえに上っているからです。


 33-35節、「だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい」。救い主イエスが私たちに向けて語っておられ、そこから大切なことを教えられます。神を信じて生きてゆくための光と格別な贈り物を与えられている私たちです。だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。そのとおりです。救い主イエスの福音が一人の人の魂の前に置かれるとき、それは、明かりをもとされた灯火を神さまが人の魂の前に置くことと似ています。神の国の福音を聞いて、そのとおりだと認め、そこには確かに真実があるかも知れないと分かるだけでは、それは不十分です。その人の心の中に受け入れられ、その福音に従って毎日の生活が営まれはじめる必要があります。もし、そうではないなら、誰もいない真っ暗な穴倉の中に灯火が置かれたようなものです。枡の下に置かれて、何を照らすこともなく、周囲の人々にも自分自身にもその光がほんの少しも届かないようなものです。
 また、34節、「あなたの目が」「あなたの目が澄んでいれば、全身も明るい」「目が悪ければ、からだも暗い」と繰り返して語られていることに注意を向けましょう。肉体的・医学的な意味ではなく、「目が見える」「見えない」と比喩的な象徴的な言い方で、主イエスとパリサイ派の人々や律法学者たちが厳しい討論を繰り返していました。イエスは言われました、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言いました、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」。イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」(ヨハネ福音書9:39-41。どんな神なのか、その御心はどのようであるのか、御心に従ってどう生きることができるのかを詳しく知らされている私たちです。つまり、そのようにして神さまからの輝く明かりを手に持たされている私たちです。信仰の事柄として、神の働きの現実や神の御心を理解し、受け止め、そのように毎日の暮らしを生きること。子供たちのための祈りでも、こう祈ります。「神さま。明るい昼間でも目がよく見えない私たちです。あなたのお働きや御心がよく見えるようにさせてください」と。心が曇り、また鈍くされてしまい、神さまを悲しませるような、御心に逆らうことを次々としてしまう私たちです。あのパリサイ人や律法学者のようにです。ですから神さまに、「目が良く見えるようにしてください。あなたの御心を知って、御心にかなう良い行いを選びとることができるようにさせてください」と日毎に祈り求め続けて生きる私たちです。ここでも、そういう信仰の関りとして「あなたの目が澄んでいれば、全身も明るい」「目が悪ければ、からだも暗い」と告げられます。例えば「手」や「足」や「お腹」ではなく、「あなたの目が」とわざわざ言われます。私たちが歩いているとき、目こそが、その人の行動や行き先を具体的に決めたり導いたり、方向づけたりします。
 また35節で、「あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい」と語りかけられました。さらに36節、「もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いて照す時のように、私たちの全身が明るくなるであろう」。あかりが輝いてあなたを照らすときのように、全身が明るくなる。すでに神さまからの明るい明かりが登り、私たちの上に昼も夜も輝きつづけています。だから私たちは「地の塩であり、世を照らす光」であると呼ばれ、救い主イエスを信じて生きているクリスチャンです。救い主イエスは、人々に語ってこう言われました、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ福音書8:12。この私こそが全世界を照らすための光である、と救い主イエス・キリストは断固として仰います。全世界と、そこにあるすべての生き物を照らすのですから、ユダヤ人とそれ以外の外国人という区別や差別が取り除かれただけではなく、よく学んだ学者とそうではない者、高貴な生まれと、貧しく卑しい生まれとの違いも取り除かれ、どんな区別も分け隔ても、ただお独りの光であられるかたの御前ではすでにすっかり取り除かれています。
 しかも、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがない」と語られました。そこで、光であられる救い主イエスを求め、このかたの御前へとぜひ向かってゆくべき理由もまた、はっきりと告げられました。この世界に薄暗がりや真っ暗な闇が広がっているからであり、自分自身が薄暗い闇の中に虚しく座り込んでいたことを知らされ、また薄暗い中で目が良く見えなくされてもいたことにも気づかされます。だからこそ、目が開かれて、その目で見るべきものをはっきりと良く見ることができためにこそ、『あなたも救い主イエスのもとに向かってきなさい』と招かれています。こどものためのあの祈りはこのことをこそ指し示していました。「神さま。明るい昼間でも目がよく見えない私たちです。あなたのお働きや御心がよく見えるようにさせてください。私の心はたびたびとても曇らされ、また鈍くされてしまいます。そのようにして神さまを悲しませるような、御心に逆らうことを次々としてしまう私たちです。神さま、目が良く見えるようにしてください。あなたの御心を知って、御心にかなう良い行いを選びとることができるようにさせてください」と。
 「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがない」と語られました。この世界と私たち自身を照らす光が、あちらこちらに、いくつもいくつも、無数にあるわけではありませんでした。この世界全部と私たち一人一人を明るく十分に照らし出すことのできる、ただ一つの、まことの光です。つまりは、見せかけだけの偽りの虚しい光があり、すぐに失われてしまいやすい、やがて消え去ってしまうほかない当てにならない光や、偽物の輝きもあちらこちらにあって、私たちを惑わしもします。ほんのひととき、そうした虚しい光や輝きが私たちを楽しませることがあるとしても、それは、やがてじきに失われてしまいます(ヨハネ福音書5:35「ヨハネは燃えて輝くあかりであった。あなたがたは、しばらくの間その光を喜び楽しもうとした」参照)。だからこそ、この世界を照らすために、まことの光がこの世界にくだってきました。神ご自身が世を照らし、私たちを照らすまことの光です。救い主イエスこそがこの世界を照らすためにくだってこられた神ご自身であり、世を照らすまことの光です。この救い主イエスを信じ、語られるその言葉を聞きつづけている私たちも、その御言葉の光を浴び、その光に照らされ、神からの光を反射します。神からのその明るい光を周囲に輝かせて生きる者とされました。
 「わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがない」と語られました。世を照らすまことの光である救い主イエスがおられる。このお独りのかたのもとに来なさい、と教えられました。そうすれば、あなたも闇のうちを歩くことがない。誰かを軽々しく軽蔑したり、非難したり、憎んだり怒ったり、邪魔者扱いしたり、また誰かを困らせたり苦しめたりという、邪悪な闇の行ないをあなたはしてはいけないし、「あなたはそういうことをしないでいられる」と勧められ、また、「そうではないあなたとならせてあげよう」と神から保証されています。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがないと。35節で、「あなたがたの内側にある光」と語りかけられました。どういうことでしょう。自分自身の内側には、どこを探しても光は見当たりませんでした。自分自身の外側にあった、神ご自身の光こそが贈り与えられ、その光は外から来て、私たちの体の中に入ってきました。神の国の福音の光です。なぜ私たちは地の塩であり、光の子供たちであるのか。全世界を照らすまことの光である救い主イエスを信じているからであり、そのかたの御言葉を聞き、聞いた言葉を心の中に受け入れ、蓄えているからです。そのように明かりをともされ、その明かりに導かれて、救い主イエスに従ってゆく者たちであるからです。聖書は証言します、「あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい」(1テサロニケ手紙5:5-11。明るい昼の光の中でも目が良く見えない私たちだと申し上げました。同じことを、昼間から眠り込んでいてはいけないと励まされます。目を覚まして、主なる神さまに目と心を向けていようと。主イエスを信じているという「信仰」と、神が私たちの味方であり、神が価なしに、ただ恵みによって憐れんでくださり、私たちを愛してくださっているという「胸当て」を付け、さらに救いの望みのかぶとを被って武装していましょう。そうであれば、私たちはそこでようやく、慎み深く、また心安らかに毎日の暮らしを生きることができます。この世の悩みや生活の上での思い煩いが次々にあって、けれどそれを投げ捨てつづけ、邪悪な貪欲を振り払って、誘惑に巻き込まれないように生きることができます。すると、そのとき、昼も夜も明るい中を生きる私たちです。なぜなら、私たちを照らすまことの光が、すでに私たちのうえに上っているからです。