2020年7月21日火曜日

7/19「あなたの内側を清くしなさい」ルカ11:37-44


                          みことば/2020,7,19(主日礼拝)  276
◎礼拝説教 ルカ福音書 11:37-44                      日本キリスト教会 上田教会
『あなたの内側を清くしなさい』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

11:37 イエスが語っておられた時、あるパリサイ人が、自分の家で食事をしていただきたいと申し出たので、はいって食卓につかれた。38 ところが、食前にまず洗うことをなさらなかったのを見て、そのパリサイ人が不思議に思った。39 そこで主は彼に言われた、「いったい、あなたがたパリサイ人は、杯や盆の外側をきよめるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで満ちている。40 愚かな者たちよ、外側を造ったかたは、また内側も造られたではないか。41 ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる。42 しかし、あなた方パリサイ人は、わざわいである。はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を宮に納めておりながら、義と神に対する愛とをなおざりにしている。それもなおざりにはできないが、これは行わねばならない。43 あなたがたパリサイ人は、わざわいである。会堂の上席や広場での敬礼を好んでいる。44 あなたがたは、わざわいである。人目につかない墓のようなものである。その上を歩いても人々は気づかないでいる」。                             (ルカ福音書 11:37-44)
                                               
51:7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、
わたしは清くなるでしょう。
わたしを洗ってください、
わたしは雪よりも白くなるでしょう。
8 わたしに喜びと楽しみとを満たし、
あなたが砕いた骨を喜ばせてください。
 9 み顔をわたしの罪から隠し、
わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。
10 神よ、わたしのために清い心をつくり、
わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。
12 あなたの救の喜びをわたしに返し、
自由の霊をもって、わたしをささえてください。   (詩篇51:7-12)
 (*)7節「ヒソプ」;清めの儀式に用いられる植物。もちろん、ヒソプ自体
     に清める効果や力はない。神に清めていただく「目に見えるしるし、道具」。

 37-41節、「イエスが語っておられた時、あるパリサイ人が、自分の家で食事をしていただきたいと申し出たので、はいって食卓につかれた。ところが、食前にまず洗うことをなさらなかったのを見て、そのパリサイ人が不思議に思った。そこで主は彼に言われた、「いったい、あなたがたパリサイ人は、杯や盆の外側をきよめるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで満ちている。愚かな者たちよ、外側を造ったかたは、また内側も造られたではないか。ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる」。パリサイ派の人々もまた神を信じる人々であり、神の律法を大切に思う人々です。ただ、自分たちが信じている神がどういう神であるのかをよく知りませんでした。また、神の律法がどういう目的で彼らに与えられ、彼らをどのように導くはずなのかも十分には教えられてきませんでした。先祖と私たちを憐れんで、価なしに、ただ恵みによって救おうとなさる神です。また神の律法は、憐みの神の本質を先祖と私たちに教え、救い主イエスによって救われることを私たちに願い求めさせるために与えられていました。そのパリサイ人と私たちに神の御心を教え、救いの中へと招き入れるために、ついに救い主イエスがこの地上に降りて来られました。
さて、あるパリサイ人に食事に招かれ食卓についたとき、主イエスは食事の前にわざと手を洗いませんでした。そのパリサイ人にそのことに気づかせ、「どうして手を洗わなかったのか」と不思議に思わせるためにです。そこで、主イエスは彼に仰いました。「いったい、あなたがたパリサイ人は、杯や盆の外側をきよめるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで満ちている。愚かな者たちよ、外側を造ったかたは、また内側も造られたではないか。ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる」。あなたがたの内側を清めなさいと命じられて、自分の手や足や体の外側が埃にまみれて汚れているだけではなく、むしろ自分自身の内側と心こそが、貪欲と邪悪に満ちていて、ひどく汚れていると気づかされました。「あなたの内側を」と語りかけられて、それでもなお死ぬまで自分自身の罪深さと悲惨さに気づかずに一生を過ごす人たちも大勢いるでしょう。神さまが気づかせてくださらなければ、これだけは誰にも分からないのです。もし自分自身の内側を清くすることができるなら、他すべて一切が清いものとなる。そのとおりです。
 そもそもの最初から、神の律法には、『憐みの神の本質を先祖と私たちに教え、憐みの契約を思い起こさせ、救い主イエスによって救われることを私たちに願い求めさせる』というただ一つの目的がありました。あちこち歩いて土や埃に触って、先祖と私たちの手や足がほんのわずか汚れるだけではなく、それどころか、生まれながらに汚れていて、つい腹を立てたり怒ったりしてしまいやすく、罪と腹の思いの奴隷にされていた私たちです。聖書の中で、そのことは何度も何度も語られてきました。例えば私たちの先祖は、神の民とされたしるしに割礼を受けました。天地にあるすべてのものはみな主のものであり、そのうえで、祝福の源として神の民を選んだと告げられました。「イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。……それゆえ、あなたがたは心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない」(申命記10:12-16。体に割礼を受けるだけではなく、むしろ自分の心に割礼を受け、神の御心に素直に従いつづけるあなたでありなさいと。割礼も一回一回の礼拝も、献げものも、みなすべて、神はそこで私たちの心を求めつづけます。けれど私たちの心の中身を問う神の要求は虚しく聞き流されつづけました。自分自身の内側こそがとても汚れているなどとは、ずいぶん長い間、ほとんど誰一人も思いもしませんでした。
 「愚かな者たちよ、外側を造ったかたは、また内側も造られたではないか。ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる」。私たち人間の内側を清くすることはとても難しくて、人間にできることではありません。では、誰がどうやって清くされ、救われるのか。人間にできることではないが、神にはできる。神にできないことは何一つないからです。その最初の一歩が、その食事の場面から始まりました。「あなたがたの内側を清めなさい」と命じられて、自分の手や足や体の外側が埃にまみれて汚れているだけではなく、むしろ自分自身の内側と心こそが、貪欲と邪悪に満ちていて、ひどく汚れていると気づかされました。これが、神の律法の第一の働きと役割です。自分自身の罪深さと邪悪さをはっきりと告げ知らせて、へりくだらせること。自分の正しさやふさわしさによって救われるとする偽りの空想を捨てさせ、打ち砕かれた低い心を与えること。これこそが、救われるためにキリストを求めさせるためのただ一つの準備です。しかも救いは他のどんな被造物(ひぞうぶつ=神によって造られたもの)によっても与えられず、ただただ救い主イエスによって与えられる他ありません。そこで神の律法の第二の働きと役割は、その罪深さからの救いを救い主イエス・キリストに求めさせ、先祖と私たちをキリストへと向かわせ、キリストご自身から救いと生命を受け取らせること。そして第三の働きと役割は、神の御心が何であるのかを日毎によく教えられ、その御心にかなって生きるように励まし、導くこと(「キリスト教綱要」Ⅱ篇76-12節を参照。Jカルヴァン。1559年)
42節、「しかし、あなた方パリサイ人は、わざわいである。はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を宮に納めておりながら、義と神に対する愛とをなおざりにしている。それもなおざりにはできないが、これは行わねばならない」。決してなおざりにしてはならない『義』とは、何でしょう。聖書には、私たち人間の義と神の義とが2つ並べて差し出されています。なおざりにしてはならない義とは、神ご自身の義であり、それは私たち人間の正しさやふさわしさとはずいぶん違う、むしろしばしば正反対の義です。「彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」(ローマ手紙10:2-3と証言されます。私たちは自分の正しさやふさわしさを言い立てたくなり、そこにしがみつきたくなります。しかも、自分はとても正しいと思い込んで言い張っている間、私たちは他の誰かを見下したり、憎んだり、そのいたらなさに腹を立てたりしつづけます。けれど神の義は憐みの義であり、恵みに値しない罪人をなお可哀そうに思って、ゆるして救おうとなさる義です。だからこそ正しくあろうとする私たちは、しばしば神の義に逆らい、背きつづけました。自分の正しさ、ふさわしさ。それこそが私たちの目と心を塞いで、憐みの神の義も愛もすっかり分からなくさせ、なおざりにさせつづけました。価なしの憐みによって、神は、罪人である私たちを受け入れてくださいました。福音によって差し出されていた神の義と憐みを、私たちは主イエスを信じる信仰によって受け取りました。これが、救いの実態であり、その中身です。
 聖書は証言します、「神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない」1ヨハネ手紙1:6-10。あなた自身の内側を清くしなさい、と私たちは命じられる必要があります。命じられて、そこでハッとして気づく必要があります。ああ、うっかりしていた。自分自身の正しさとふさわしさを誤解していた。思い上がりと傲慢のせいで、またもや目が見えなくされていたと。しかも、「自分を清くすることなど自分自身ではとうていできないから、神さまに願って清くしていただきなさい」と。

 私たちも、ぜひ、そうしていただきましょう。過越祭のあの最後の夕食のとき、救い主イエスは食卓から立ち上がって、上着を脱ぎました。手ぬぐいをとって腰に巻き、水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められました。十字架につけられて殺される前の晩、ほんの数時間前のことです。シモン・ペテロの番になって、すると彼はイエスに問いかけました、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」。主イエスは彼に答えて言われました、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。ペテロはイエスに言いました、「わたしの足を決して洗わないで下さい」「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。イエスは彼に言われました、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ」(ヨハネ福音書13:1-10ペテロだけではなく、主イエスの弟子としていただいたすべてのクリスチャンは、主イエスご自身からこのようにして、足も手も頭も全身をすでに洗っていただいています。そしてもちろん、自分自身の内側も心も。どのようにしてか。主イエスの口から出る御言葉を聞きつづけ、その言葉を受け入れ、信じて蓄えつづけることによって、朝も昼も晩も、その言葉を喜び、その言葉を思うことによってです。「あなたがたは、わたしが語った言葉によってすでに清くされている」(ヨハネ福音書15:3,7参照)と保証され、確かに約束されているとおりです。そこに私たちのための神の義と、私たち自身と家族を救うことのできる神の愛がありつづけます。