われ弱くとも (サンプルお試し品⑦/讃美歌239番)
♪ さまよう人々、立ち帰りて
こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。残念なことに賛美歌21はこの歌を外してしまいましたが、1954年版讃美歌の239番『さまよう人々、立ち帰りて』です。楽譜の右下にイザヤ44:22と記されています。「イスラエルよ、わたしを忘れてはならない。わたしはあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」(イザヤ書44:21-22)と。まず、背きと罪が指摘されます。あなた自身に背きと罪があり、だからこそ、あなたは私を忘れ、さまよいつづけているのだと。主なる神さまがその背きと罪を吹き払った。だから私を思い出し、私のもとへと立ち帰ってきなさい。歌全体では、神さまからの招きと罪人の悔い改めとが繰り返し語られ、そこに目を凝らつづけています。1節で、「罪と咎を悔やむ心こそは、天の御父より与えられた贈り物である」。2節では、「まことの悔い改めをこそ言い表しなさい。悔いて砕かれたその心をたとえ他の誰1人も気づかなくたって、御父こそがちゃんと分かってくださるのだから」。このラジオ放送との付き合いがはじまって、3年近くになります。どんな人たちがどんなふうに放送を聞いているんだろうかと、度々思い巡らせます。近くにキリスト教会がなくて、礼拝に連なりたくてもできないという人たちもいるでしょう。また、キリスト教会の生身の現実やその人間関係につまづいて、傷ついたり心を痛めたりしてさまよっている人々も数多くおられるでしょう。「教会や礼拝から遠ざかっているわけじゃないんだけど、毎週毎週礼拝に出席しているけど、なんとなく心がウツウツとし満たされない、それで」という人たちもいるのでしょうか。「つまづきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である」(マタイ18:7)と厳しく警告されています。とても申し訳ないことですし恥ずかしいことですが、ぼくは人を何度もつまずかせてきました。腕を切り落とし、目玉を何個も何個もえぐりださねばならないはずの人間です。申し訳ありません。あなたの前にも、そういう不届きな働き人たちが何人も立ち塞がって、あなたと神さまとの間を邪魔したかも知れません。それでもなお心を鎮めて、改めて思いめぐらせてみたい。私たちがキリストの教会へと向かい、1回の礼拝へと駆けつけたのは何のためだったのか。神さまと親しく出会いたかったからです。その御声を聞き分けたかったからでした。さまよう人々がどうやって信仰を回復され、どのようにして神さまの御もとへと立ち帰るのかをこの讃美歌は告げています。神へと向かい、そこで神さまと出会い、御声を改めて聞き分けてです。人とのつながりが神さまとの出会いを手助けする場合があり、逆に、人間が間に立ち塞がって邪魔をする場合もありえます。そうそう、質問されたことがあります。「人と付き合うのが苦手だけど、教会での交わりや付き合いはどうしたらいいですか。やはり積極的に参加すべきでしょうか」。あなたならどう答えますか。――兄弟姉妹の交わりは大切です。でも、それも『あなたが困らない範囲で』ということです。分かりますか。孤立して独りぼっちで生きるのは、淋しく辛いことです。また逆に、人と一緒に居ることを息苦しく重荷に感じてしまう日々もあります。もしかしたら、あなたは子供の頃に、「誰とでも、いつでも仲良く付き合いなさい」と誰かに教えられましたか? でも人間は、そんなふうにできていません(ローマ手紙3:9-26)。人と付き合ってもいいし、付き合わなくてもいい。参加してみたいと思えば、すればいい。気が進まなければ止めておけばいい。簡単でしょう。だってね、教会に来るのは神と出会いたくて、神さまと付き合いたくて来る。人付き合いが苦手なときには、ただ礼拝だけで、後はサッサと帰ってもいい。「いつもサッサと帰っちゃって申し訳ない」いったい誰に対して申し訳なく思うのでしょう。神さまに対して。それとも周囲の人間たちに対してですか。それは余計な気苦労。その気苦労のせいで、かえって神さまのことが分からなくなります。危ない、危ない」。
『悔い改め』と『罪のゆるし』こそが、この信仰の中心部分でありつづけました。それは、神さまからの恵みと祝福を受け取るためのいつもの出発点です。詩編51編は語りかけます;「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」。また主イエスご自身がたとえ話をもって語りかけます。ルカ福音書18:9以下、二人の人が祈るために神殿に上った。ファリサイ派の人と徴税人と。徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』。言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」。けれど、生命をもたらすはずの悔い改めはキリストの教会で、どのように導かれているでしょう。もしかしたら私たちは神殿に上っていったあのファリサイ派の人のように祈り、ファリサイ派の人のように生活し、あのファリサイ派の人のように感謝しているかも知れません。自分で自分を正しいとしつづけながら。恐ろしいことです。けれどなお、さまよいつづけていた罪人が神のもとへととうとう立ち帰ってくる。そのことをはっきりと説き明かしたのは、ルカ福音書15章であると思えます。先週も放蕩息子の弟のことを話しました。ルカ15章のことをもう少し話します。いなくなっていた1匹の羊。見失った1枚の銀貨。いなくなっていた1人の息子と、家にずっといたはずのもう1人の息子。それらが、神を見失ってはぐれていた私たち自身の姿である、と聖書は語ります。羊と銀貨と息子と。それぞれの姿と有様とその魂のあり方とは、私たちの目には互いにずいぶん違っているようにも見えます。例えば、あの羊がどんなふうに迷子になったのかは、私たちには分かりません。うっかりしていたのかも知れないし、自分勝手だったのかも知れません。狼や羊ドロボウに目をつけられていたのかも知れません。迷子になって途方にくれて、「帰りたい」とメエメエ鳴いたのかも知れないし、あるいは、迷子になったとも気づかず気楽に気ままに草をムシャムシャ食べ続けていたのかも知れません。また、あの息子は自分で判断し、家を出ていくことを自分自身で選び取りました。やがて身を持ち崩して「父の家に帰りたい」と願い、家に帰ってくるときも、誰に勧められたのでもなく自分から帰ってきました。さて、あの銀貨は、うっかりしていたのでもなく自分勝手だったのでもなく、帰りたいと鳴いたのでもなく、自分で帰ってこようとしたのでもありませんでした。だって、ただの銀貨だったのですから。ただ単に財布から落ちて、コロコロ転がって、タンスとタンスの隙間かテーブルの下か雑誌や古新聞のページの間かどこかに紛れ込みました。自分が失われた、とも知りませんでした。銀貨にとっては、その事態は痛くも痒くもなく、ただ失われるままに失われ続けて、放っておけば100年でも200年でもそのまま失われつづけて。
ここで、一つ気づくことがあります。3つのたとえ話を始めるきっかけとなった場面(1-2節)。主イエスと共に食事の席についている人々。そして、遠くから眺めて「どうしてあんな人たちと」と腹立たしく思っていた人々。主イエスと共に食卓についていたあの人たちは、それを嬉しく思っていました。ちょうど羊飼いのもとに連れ戻された羊のように。ちょうど、父の家に迎え入れられたあの弟のように。その一方で、遠くから眺めて「どうして」と腹立たしく思っていた律法学者やファリサイ派の人たち。多分、もしその食卓に招かれたとしても、あんまり嬉しくは思わなかったでしょう。けれど兄弟たち。連れ戻された羊が喜ぼうが喜ぶまいが、見つけ出された銀貨がそれを何とも思わなくたって、戻ってきた息子が感謝してもしなくても、なにしろ羊飼いはうれしい。なにしろ銀貨の持ち主はうれしい。なにしろ、あの父親はうれしい。多分、あの不機嫌な律法学者やファリサイ派の人たちが食卓に一緒に座ったら、もしそうしたら、主イエスはとても喜んだでしょう。家中ひっくり返して銀貨を探しつづけたあの持ち主のように。出迎えたあの父親のように。あの羊飼いのように、大喜びで喜んだでしょう。
もし、あなたがあの羊飼いだったとしたら、1匹の羊を見失ったら、同じように99匹を野原に放り出して探し回るでしょうか? もし、あなたが10枚の銀貨を持っていてその中の1枚をなくしたら、家中ひっくり返して1晩でも2晩でも、何週間でも何ヶ月かかっても見つけ出すまで探しつづけますか? いいえ、私だったらそんな愚かな、そんな採算の取れないことはしません。1匹のために99匹がいなくなってしまったら大損害です。もし、どうしても探しに行かなければならないとしたら、そのときにはまず99匹を柵の中に戻して頭数を数え、カギをかけ、アルバイトの見張り役を数名手配し、指示を与え、それからなら探しに行ってみてもいいでしょう。どこまででもいつまででも見つかるまで探すでしょうか。いいえ。ある程度探してみてダメなら、あっさり諦めるでしょう。これは、他のどこにもいないほどの、きわめて珍しい羊飼いです。これは、あまりに不合理な愚かな女です。人間のことではないのです。神ご自身のことです。私たちの神は、私たち人間のような神ではありません。大きな羊だから、と探す神ではありません。格別に値段の高い、毛並みのいい、優良上等な美しい羊だから、と惜しむ神ではありません。他の10円銀貨と違って1000円の銀貨だから、と探す神ではありません。他の息子と違って見所と取り柄のある大きな息子だから、と探す神ではありません。大会社の社長のような神ではないのです。その社長に目をかけられた優秀で立派なエリート社員のような私たち、ではありません。なぜ探しつづけたか、迎え入れてなぜあんなにも大喜びに喜んだか。憐れむ神だからです。失われて、今にも死んでしまおうとする罪人の魂が憐れであり、捨て置くことなどできないと惜しんでやまないからです。なぜ罪人を招き、その1人の罪人が立ち戻ってくるのを大喜びするのか。神さまは憐れむ神だからです。このことを、決して忘れてはなりません。
7,10節。「大きな喜びが天にある。神の天使たちの間に喜びがある」。神の喜びは、神の悲しみや痛みと表裏一体であり、一組です。神さまのほうに向いていたはずの1人のゆるされた罪人が、いつの間にか人間のほうへ人間のほうへと思いを曇らせ、心を惑わせてゆく。ついに人間のことばかり思い煩い、神を思うことを忘れてしまう。すると、その1人の魂を思って、天に大きな大きな悲しみと痛みがある。神さまがどんなに心を痛め、どんなに深く嘆き悲しむことか。神さまのもとを離れてさまよいつづけているたくさんの人々がいます。おびただしい数の放蕩息子たち、放蕩娘たちが。ある息子たちは財産の分け前をもらって荷造りをしはじめています。別の息子たちは放蕩の真っ最中で、別の娘たちは豚小屋の豚の餌を眺めながら考え込みはじめました。そうでした。この私も息子たちの1人で、いなくなっていたのに見つけていただきました。死んでいたのに、生き返らせていただきました。神さまのもとに帰ってくることができて、あの放蕩息子のたとえ話を聞かされ、とても嬉しかった。「あ、この俺のことだ。俺のことが書いてある」と驚きました。どうして帰ってくることができたのか分かりません。いいえ、「わたしの生命をあなたにあげよう。受け取りなさい」と主イエスが招いてくださったからです。あなたもそうです。いなくなっていたのに見つけていただき、死んでいたのに生き返らせていただきました。こんなに嬉しいことはありません。
(*『われ弱くとも。わたしを導く讃美の歌』2014年10月から全52回の配信。その選抜、再放送中。2020年10月から、『嘆きに応える神の御言』配信が再開される見込みです)