われ弱くとも (お試しサンプル品⑨/142番,21-297番)
♪ 栄えの主イエスの
こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。賛美歌21の297番、1954年版讃美歌142番、『栄えの主イエスの』です。賛美歌21と1954年版とを読み比べました。よかった、ほとんど変わっていません。言葉を2つだけ説明しておきます。まず2節、「消えなば消え去れ」。(消え去ってもずっと残っていてもどっちでもいいんですが、でも)もし消えるというなら、どうぞいいですよ好きなように、いつでも消え去ってください、という意味です。つまり、どうでもいいということなんでしょうか。だって、この世のものすべてですよ。「もし消えるというなら、どうぞ消え去ってもいいですよ」。え、本当? これは大問題発言ですね、いくらなんでも言い過ぎでしょう。本当かなあ、あとでよくよく考えてみましょう。3節2行目、「こもごも」は入れ替わり立ち代り現れるということですが、まあ、「恵みと悲しみがごちゃまぜになって一緒に」というくらいの意味です。4節ではさらに、「恵みと悲しみ、1つに溶け合う」と言い表しています。不思議な情景です。
さて、なにしろこの讃美歌の生命は3節と4節にあります。そこから、歌全体に生命が流れ出て、染み込んでいくようです。3節4節、「(3)見なさい、十字架の主イエスの頭から、そして釘打たれた手や足から、恵みと悲しみが入れ替わり立ち代りに、ごちゃまぜになって流れ落ちてくる。(4)恵みと悲しみは、1つに溶け合って流れ落ちてくる。主イエスの頭に被せられたあのあざけり笑うための茨の冠は、それなのに本物の王冠としてまばゆく輝いている」。ちょうど前回扱った讃美歌『丘の上の主の十字架』(Ⅱ-182,21-303)。救い主イエスの十字架を思いめぐらせつづけた祈りの人が、「それは荒削りの主の十字架だ」と見てとったように、ここでも別の祈りの人が十字架の主を一途に仰ぎつづけています。流れ落ち、したたってくる主イエスの真っ赤な血潮に目を凝らしていたはずでした。けれど気がつくと、主イエスの血潮はこの人の信仰の目には、『恵みと悲しみ』に見えたのです。驚きながら、心を深く揺さぶられながら、「ああ、恵みと悲しみが流れ落ちてくる。入れ替わり立ち代りに、ごちゃまぜになって流れ落ちてくる。1つに溶け合って、私たちのための主イエスの恵みと悲しみが流れ落ちてくる」と受け止めています。なんということでしょうか。つまり、この人は十字架につけられた主イエスの姿を仰ぎ見ながら、相反する、互いに矛盾する2種類の感情を同時に味わっています。喜びと悲しみと、あるいは感謝と申し訳なさとを。――これは、すごく説明しづらいです。というかいくら説明しても、分かる人にしか分からない。説明されなくたって、分かる人には分かる。死ぬことと生きることがここで同時に起こり、同時にその2つ共が差し出されているからです。悲しみや苦しみや申し訳なさがある。確かに、けれどそれだけじゃなくて、感謝があり、喜びと希望がある。なぜなら救い主イエスはここで今にも死んでいかれようとしているだけじゃなくて、主と私たちの復活の生命がここではじまろうとしているからです。もし、それを見て取ることができるなら、私たちもここで、相反する、互いに矛盾する2種類の感情を同時に味わうことができます。復活の生命を、ここでこの十字架の主からこの私たちも受け取ることができます。だからこそ、例えば讃美歌239番『さまよう人々立ち返りて』の4節で、「十字架の上なるイエスを見よや。血潮したたるみ手を広げ、『いのちを受けよ』と招きたもう」のです。だからこそあの茨の冠さえ、本物の王様の冠としてまばゆく輝いて見える。今日でも、同じことが起こりつづけます。ある人々は、十字架の主を仰いで、「ああ本当に人間だったんだなあ。あんなに苦しんで悩んで、私たちと同じに絶望したり嘆いたりしている。かわいそうになあ」と共感し、心を痛めたり悲しんだりし、まるで近所の気さくなお兄さんを眺めるように親しみを覚えています。また別の人々は十字架の主イエスを仰いで、悲しみや苦しみや申し訳なさを覚えます。けれどそれだけじゃなくて、感謝を覚え、喜びと希望が溢れ出てきます。なぜなら救い主イエスはここで今にも死んでいかれようとしているだけじゃなくて、三日目に復活なさるからであり、主イエスと私たちの復活の生命がここではじまろうとしているからです。さあ、ここが、十字架の救い主を仰ぐ私たちのいつもの分かれ道です。誰かが私の身代わりとなって死んでくれた。はい、ありがとう。けれどそれだけでは、力も勇気も希望も湧いてくるはずがありません。私のために苦しんで死んでくださったその同じお独りの方が、ただ苦しんで死んだだけじゃなくて、この私のためにもちゃんと復活してくださった。今も生きて働いてくださっている。それなら、その方に信頼を寄せながら生きることができます。やつれて、息も絶え絶えになって死んでいこうとする方に共感や親しみを覚えることはできても、信頼を寄せたり、その方に助けていただけるとは誰にも思えません。けれどもし、死んで三日目に復活させられた方を信じられるなら、そのお独りの方に「わが主よ、わが神よ」と全幅の信頼を寄せることができます。そこに大きな希望があり、喜びと平和と格別な祝福がある。これが、起こった出来事の真相です。十字架の上のやつれて息も絶え絶えのその同じ主が同時に、復活の主でもあると信じられるかどうか、それがいつもの別れ道。われは死ぬべき罪人なり。そのとおり。主イエスがこの私の救いのためにも十字架の上で死んで、その三日目に復活してくださった。だから私たちは生きる。ただし、『私の罪深さ。身勝手さ。臆病さやずるさ、薄情さ』は殺していただきます。たしかに罪人なんだけれども、その罪深さを毎日毎日殺していただいて、神さまの御前で、神さまに向かって新しく生きる者とされました。だからこそ主の救いの御心は慈しみ深く、畏れ敬うに値する。
では、1節2節。「(1)栄光の主イエスの十字架をもし仰ぐならば、世の富も貧しさも、人から誉められることもけなされることも、塵やゴミのようにどうでもいいことに感じられる。それよりも千倍も万倍も大切なことがある。(2)十字架にかかってくださった主イエスのほかには、誇るものも、頼りにするものも一切ない。もし、この世界のあらゆるすべてが消え去るというならば、(消え去ってもずっと残っていてもどっちでもいいんですが)、どうぞいいですよ好きなように、いつでも消え去ってください」。どう思いますか? かなりぶっきらぼうで乱暴だし、言葉足らずですね。簡単にすぐ誤解されちゃいそうです。聖書を読むときも讃美歌を読むときも、たびたび、こういうぶっきらぼうで乱暴な言い方と出会います。田舎から出てきた、口下手で無口な人と友達になって付き合いはじめた、と思ってください。付き合っていくうちに、こういう人だとだんだん分かってきたら、その人のぶっきらぼうで乱暴な言い方にも慣れて、その人の気持ちが分かるようになってきます。聖書も讃美歌も、口下手で無口な友達です。でも付き合ってみると、案外にいいやつです。1節と2節は互いに深く関わり合って、同じことを伝えようとしています。世の中のことが全部どうでもいいなんて乱暴なことを言っているわけじゃない。世捨て人のようになって、修行僧や仙人のようになって、山奥で独りぼっちでくらしていこうと考えているわけでもない。富も貧しさも、人から誉められることもけなされることも、生きていく上で決して無視できない大切な要素です。それでも私たちはしばしば、あまりに深くそれに捕らわれ、縛られてしまいます。お金がまったくなかったら生活に困るでしょう。けれど山ほどあったら幸せになれるかというとそうでもない。僕だって、けなされるよりも誉められるほうが好きです。けれどしばしば、他人からの評価が気になって気になって仕方がなくなってしまう。それで人の顔色を窺いながら、「こんなところを見られたらどう思われるだろう」「人からなんと見られるだろうか」と体裁を取り繕うことばかりに汲々とし、誉められたと言っては喜び、けなされたと言ってはがっかりし、一喜一憂しつづける。それじゃあ、つまんないし、了見が貧しすぎる。この人は、そういうことに縛られない広々した自由な心をついに手に入れた。しかも、十字架の主を仰ぐ中で。2節は1節のつづきで、1節との関わりの中で意味がはっきりしてきます。『誇るもの』と言っていました。板前や大工さんや町工場の職人さんなどにとって『腕1本』が誇り。何を頼りとして何を頼みの綱として生きるのか、という根本問題を問いかけています。指先や腕に大怪我を負ってしまった。すると途端に生活に困りはじめます。お金や財産も、人からの評価も健康も生命も、誇りにしていた腕1本もなにもかも、それらすべてが過ぎ去ってゆくはずの、やがて朽ち果ててしまう束の間の宝ものです。そのつもりで1日1日を大切にし、惜しみながら心に刻みながら私たちは生きていきます。何を頼みの綱として生きるのか、「私にはコレがあるから大丈夫」と言えるコレを持っているのかどうか。罪人である私をゆるし、罪から解放して神の子供たちとして迎え入れてくださるために、主イエスは十字架について死んで復活してくださった。この救い主こそが私にとってのピカイチの誇りであり、頼みの綱であると言っています。コレがあるから、私は安心して、希望と喜びをもって生きていけると。だから、2節は「十字架の他には誇るものはない。頼みの綱も頼りも、ただただ十字架の死と復活の主イエスただお独りである。だから、この世界にあるさまざまな頼みの綱、頼りや安心材料のすべてすっかり無くなったとしても、私はちっとも困りません」。これが1節2節の心です。
5節。「ああ、主の恵みに応える道なし」。1954年版讃美歌では「~報いる道なし」。同じです。それで、「わが身のすべてを主の前に献げる」「ただ自分自身の体と魂とを主に献げてひれ伏す」。自分自身を神さまに献げることを「献身」と言うのでしたね。牧師や神父や司祭さま修道女たちばかりが献身しているのではありません。そのことは、ちゃんと覚えていてください。だれか身近な知り合いが神学校や修道院に入るのを見て、「献身、献身。ああ良かった」と喜びますけど、それと同じくらいに誰かが神さまを信じて生きる決心をして洗礼を受けるとき、「献身、献身。ああ良かった」と大喜びに喜びたい。その人は、「わが身のすべてを主の前に献げる」のですし、「ただ自分自身の体と魂とを主に献げてひれ伏して」います。クリスチャンは全員1人残らず、洗礼を受けたその日から毎日毎日、一生涯、そのようにして生きるのです。礼拝のとき、ささげものをします。礼拝献金も維持献金もなにかの感謝献金も皆同じで、袋の中のものと一緒に、そこでそのようにして「わが身のすべてを主の前に献げ」「ただ自分自身の体と魂とを主に献げてひれ伏して」います。そこには、それぞれの一週間の働きや生活が含まれました。1人のお母さんは家族のためにご飯支度をし、洗濯や掃除をしたことの1つ1つを主の前に差し出しています。年老いた親の介護をして暮らした人はその働きを、会社員は会社での自分の働きを、病気で入院していた人はベッドの上で過ごした時間を主の前にささげます。良いことも悪いことも、誇らしいことも恥ずかしいこともすべて全部をささげます。4節が歌った通り、主の恵みに応えるためでなく報いるためでもなく、ただただ主への感謝として。主へのひたすらな願いとして。「どうぞ、この献げものも私自身も清めてくださって、主の御用のために用いてください」。用いてくださるなら、清くされるからです。むしろ主からの恵みを受け取るために「自分自身の体と魂とを主に献げてひれ伏し」ます。
♪ さかえの主イエスの 十字架を仰げば
世の富 誉れは 塵にぞ等しき ……