2016年11月27日日曜日

11/27こども説教「主の弟子として遣わされてゆく」ルカ9:1-6

 11/27 こども説教 ルカ9:1-6
 『主の弟子として遣わされてゆく』

9:1 それからイエスは十二弟子を呼び集めて、彼らにすべての悪霊を制し、病気をいやす力と権威とをお授けになった。2 また神の国を宣べ伝え、かつ病気をなおすためにつかわして3 言われた、「旅のために何も携えるな。つえも袋もパンも銭も持たず、また下着も二枚は持つな。4 また、どこかの家にはいったら、そこに留まっておれ。そしてそこから出かけることにしなさい。5 だれもあなたがたを迎えるものがいなかったら、その町を出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足からちりを払い落しなさい」。            (ルカ福音書 9:1-5

 主イエスは、ご自分が選んでご自分の弟子とした人々を町や村へと送り出します。神の国の福音を宣べ伝えさせるために、神の祝福を手渡し、神を信じる人々をご自分のもとへと招き寄せるために。まず12人を、次に72人を、さらに多くの弟子たちとこの私たち一人一人をも(当箇所,ルカ10:1-16,マタイ28:16-20
 神の国を宣べ伝えることと病気を癒すこと。それは今日でも同じです。さまざまな病気があり、その中で最も大きな病気は神に逆らって「私が私が」と強情をはりつづけることです。格別に良い医者である神さま、その医者に病気を治していただく私たち。誰も彼もがこの同じ一つの病気にかかり、弟子とされた人々皆もこの同じ一つの病気にかかっていました(ルカ5:27-32。神に逆らう病気を治していただきながら、私たちは自分でも、神さまがその病気にかかった人々を治してくださるのをお手伝いいたします。杖、袋、パン、お金、二枚の下着も持たずに、手ぶらで出かけてゆくようにと指図されました。主なる神さまにこそすがって、神さまを頼みの綱とし、神さまに助けていただきながら働くためにです。アブラムとサライ夫婦が故郷と父の家を離れて旅立ったことと同じです。また最初のとき、漁師だった弟子たちが舟も網も持たずに主イエスに従ったことと同じです。そしてまた、やがて湖のほとりで大勢の人々がほんのわずかなパンと魚によって十分に養われたことと同じです。また、主イエスの弟子とされた人々の中に「知恵のある者が多くはなく、権力のある者も身分の高い者も多くはなく、強いもの有力な者も多くはなく、かえって愚かな者、弱い者、貧しい者、身分の低い者、軽んじられている者、すなわち無きに等しい者たちがあえて選ばれた」こともまったく同じです(創世記12:1-9,ルカ5:1-11,9:12-17,コリント手紙(1)1:26-31。主なる神さまにこそすがって、神さまを頼みの綱とし、願い求め、感謝し、神さまに助けていただき、神にこそ聴き従いながら幸いに働くためにです。迎え入れてもらったらその家に留まれと指図されたことも同じです。5節。迎え入れる者が誰一人もいない場合もある、と言い添えられました。弟子たちは時には、嫌な扱いをされることもありえます。乱暴されたり、悪口を言われたり脅かされたり、ムチ打たれたり、足かせをはめられて牢獄に閉じ込められたり、そういうことも有り得ます。けれどそうであっても、弟子たちはほんの少しも困りませんし、ガッカリしないでその町を出てゆくこともできます。足腰についた埃やチリをパンパンと払い落として、晴れ晴れして出てくることもできます。主なる神さまにこそすがって、神さまを頼みの綱とし、願い求め、感謝し、神さまに助けていただき、神にこそ聴き従いながら幸いに働くために。それぞれの町や家や職場や学校や、いつもの生活の場所へと、日曜日毎に、天と地の一切の権威を御父から授けられた主イエスのもとから送り出されつづけます。しかも送り出す主イエスご自身が、私たちと共にいてくださると太鼓判を押してくださいましたから(マタイ28:16-20


     【補足/手ぶらで】
     (*)3-4節。支えや備えや後ろ盾、その他いっさいを持たずに出てゆくようにと指図されました。かえって邪魔になるからです。主なる神さまにこそすがって、神さまを頼みの綱とし、願い求め、感謝し、神さまに助けていただき、神にこそ聴き従いながら幸いに働くために。主イエスの弟子として世に遣わされ、御心にかなって働き、幸いに生きて死ぬために、『神への信頼』こそが最大最善の備えであり、唯一無二の安心材料であるからです。こども讃美歌も高らかに歌いました、「主われを愛す。主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエスわれを愛す」(讃美歌461番,賛美歌21-484番)。主が私を愛してくださっており、その主は この私のためにも十分に強い。それさえ分かれば十分です。どうぞ、よい日々を。


11/27「預言者が立ちふさがる」サムエル下11:26

 ◎としなしの祈り

 教会と全世界のかしらであられます主イエスの父なる神さま。罪と自分中心の肉の思いから私たちを日毎に救い出し、主イエスの復活の命にあずかって新しく生きる私たちとならせてください。
 主よ。この国と世界全体は大きな苦難の只中にあります。政治家や資本家たちのせいばかりではなく、この私たち自身に大きな責任があります。神さま、申し訳ありません。この国と私たち自身が深く悔い改めて、自衛隊員たちが南スーダンへもどこへも出かけていって無駄に人を殺したり殺されたりし始める前に、とても悪い戦争法をなんとかして廃止することができますように。無駄に使い捨てられようとする彼ら一人一人に、私たちと同じくかけがえのない家族と人生があるからです。また、日本中が人の住めない荒れ果てた不毛の土地になってしまう前に、手遅れになってしまう前に、すべての原子力発電所を今すぐ止めて、新しく歩みはじめさせてください。米軍基地を押し付けられ、ないがしろにされつづける沖縄の同胞たちの怒りと苦しみに、私たちも目と心を向けることができますように。日本で暮らす外国人労働者とその家族の生活と権利が十分に守られ、尊ばれる社会に、この国をならせてください。5年前の震災からの被害はまだまだ続いており、福島原発の事故はほんの少しも収束していないのに、政府も私たちも何もなかったかのように自分たちだけの満足と豊かさと自由をむさぼりつづけています。その片隅で貧しく暮らし、身を屈めさせられている多くの人々がないがしろに扱われつづけています。なんということでしょう。その人々に対しても神さまに対しても、お詫びのしようもありません(出エジプト記22:21-27参照)。年老いた人々にも子供にも若い者たちにも、どうか神さま、生きる喜びと確かな希望を見出させてください。彼らの喜びと悲しみを、どうか、この私たち自身の喜びと悲しみとさせてください。
  主なる神さま。ですから。あなたの御心にかなって生きることを、私たちに願い求めさせつづけてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン



                  みことば/2016,11,27(待降節第1主日の礼拝)  87
◎礼拝説教 サムエル記下11:26-12:15               日本キリスト教会 上田教会
『預言者が立ちふさがる』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  11:26 ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のために悲しんだ。27 その喪が過ぎた時、ダビデは人をつかわして彼女を自分の家に召し入れた。彼女は彼の妻となって男の子を産んだ。しかしダビデがしたこの事は主を怒らせた。 12:1 主はナタンをダビデにつかわされたので、彼はダビデの所にきて言った、「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。・・・・・・9 どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか。あなたはつるぎをもってヘテびとウリヤを殺し、その妻をとって自分の妻とした。すなわちアンモンの人々のつるぎをもって彼を殺した。10 あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう』。11 主はこう仰せられる、『見よ、わたしはあなたの家からあなたの上に災を起すであろう。わたしはあなたの目の前であなたの妻たちを取って、隣びとに与えるであろう。その人はこの太陽の前で妻たちと一緒に寝るであろう。12 あなたはひそかにそれをしたが、わたしは全イスラエルの前と、太陽の前にこの事をするのである』」。13 ダビデはナタンに言った、「わたしは主に罪をおかしました」。ナタンはダビデに言った、「主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。      (サムエル記下11:26-12:15)
  




 イスラエルに王が立てられていた時期はほんの450年ほど、まばたきするほどのごく短い間だけでした。それ以外の、王様などいない長い長い歳月を、なぜ一つの民族として幸いに生き抜くことができたのか。神ご自身こそが神の民のための王さまであり、主人でありつづけたからです。神ご自身が王様でありつづけ、人間の王など必要なかったからです。最初に民が「私たちも他の国の人々のように人間の王が欲しい。そのほうが国が栄えて繁盛する。そのほうが、今よりもっと強くて豊かな国になれるらしいし」と要求したとき、それは神にとってあまりに苦々しい要求でした。主なる神はおっしゃいました、「(わたしの民イスラエルは)わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から今日まで、わたしを捨てて他の神々に仕え、さまざまの事をわたしにしてきた」(サムエル記上8:7-8と。それでもなお渋々、神は彼らの要求を認めました。やがて王国が南北二つに引き裂かれ、南も北も相次いで倒され、王国がすっかり滅びさってしまうまで、その450年間は、神の民が神に背きつづけた心痛む体験学習の期間となりました。立てられた王の傍らにいつも預言者が立っていました。近隣諸国との関係が危うくなってゆくとき、どこかの国と新しい同盟関係を結ぼうかどうしようかというとき、戦うべきか和平を維持すべきか、自分たちはどうすべきか、何をしてはならないのかを王は預言者に尋ねねばなりません。新しい王が立てられるときにも預言者はそこにおり、そこで王と人々は預言者の口を通して語られる神の声に耳を傾けました。立てられた王は、なによりも主なる神ご自身への忠実と服従こそが問われました。もし、神によって立てられた王が神にはなはだしく背くとき、神の御心を少しも思わなくなるとき、預言者は王に「お前の地位と権力と職務を取り上げて、お前をクビにする」(サムエル記上13:13-14,15:17-35参照)とさえ告げました。預言者には、神の御心を国王にも人々にも告げ知らせ、その国の政治と暮らしが神の御心にかなって営まれるように配慮する大きな責任と使命があるからです。
  この直前の11章は恐ろしい報告です。他に並ぶものがないほどの誉れ高い王ダビデが、大きな罪を犯しました。部下の妻と性的不品行を犯し、悪巧みをはかって彼女の夫をわざと殺させ、狙いどおりにその妻を自分のものとしました。11:26-27をご覧ください。「ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のために悲しんだ。その喪が過ぎた時、ダビデは人をつかわして彼女を自分の家に召し入れた。彼女は彼の妻となって男の子を産んだ。しかしダビデがしたこの事は主を怒らせた」。
  預言者には、神の御心を国王にも人々にも告げ知らせ、神の御心にかなって人々の暮らしが営まれるように配慮する責任と使命があります。預言者ナタンは、その務めを担わされました。気が進まなかったでしょうし、とても嫌だったと思います。「あなたは罪を犯した」と王に告げに行くまでに一年近くかかりました。けれど嫌々でも渋々でも、主なる神が預言者にそれをさせるのです。12:1「主はナタンをダビデにつかわされたので、彼はダビデの所に来て言った」。なぜ預言者ナタンは、そんな危険な行動をとったのか。主なる神が、彼にそれをさせたからです。たとえ話のようにして、遠まわしにナタンはダビデに心痛む一つの出来事を告げます。ダビデ自身がしでかした決してゆるされないはずの恥ずべき行ないを。ダビデはその人の事をひじょうに怒ってナタンに言った、「主は生きておられる。この事をしたその人は死ぬべきである。かつその人はこの事をしたため、またあわれまなかったため、その小羊を四倍にして償わなければならない」。ナタンはダビデに言った、「あなたがその人です。イスラエルの神、主はこう仰せられる、『わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とし、あなたをサウルの手から救いだし、あなたに主人の家を与え、主人の妻たちをあなたのふところに与え、またイスラエルとユダの家をあなたに与えた。もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう。どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか。あなたはつるぎをもってヘテびとウリヤを殺し、その妻をとって自分の妻とした。すなわちアンモンの人々のつるぎをもって彼を殺した。あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう』」。ダビデ王が行ったこの性的不品行と人殺しと盗みがとても悪いというだけではなく、彼がそれをしたのは、なによりも「主の言葉を軽んじ、主ご自身を軽んじ、あなどったからだ」(9節)と預言者の口を用いて、主ご自身がきびしく告げています。しかも周囲の誰彼がしているふつつかさや悪い行ないは、この私たちにも他人事としてはよく分かります。自分でも似たようなことを日ごろからしていても、「そんなひどいことがよく出来るものだ。呆れたものだ」などと私たちも言います。自分のことは、すっかり棚にあげて。ですから私たちも、「あなたがその人です」と告げられねばなりません。「他の誰彼のことではなく、この私こそが主に対して罪を犯しました」と私たち自身も、はっきり気づかねばなりません。主なる神さまは、あなたのためにもこの私のためにも生きて働いておられます。
  13-15節をご覧ください。ダビデはナタンに言った、「わたしは主に罪を犯しました」、ナタンはダビデに言った、「主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。しかしあなたはこの行いによって大いに主を侮ったので、あなたに生まれる子供は必ず死ぬでしょう」。罪をゆるしてくださる神です。けれど、罪のための罰が残されました。この私たち全員も主なる神を大いに侮りつづけ、大きな罪を犯しました。やがて救い主イエス・キリストが、私たち皆のために罪の罰をその身に引き受けてくださいました。

 預言とは、神の御心を告げ知らせる働きです。預言者は、その役割を担って働きます。例えば洗礼者ヨハネも同じです。神の御心を告げ知らせ、人々が悔い改め、神の御心に従って生きることへと立ち返るために。ヨハネは呼ばわりました、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから逃れられると、おまえたちに誰が教えたのか。だから、悔い改めにふさわしい実を結べ」と。「わたしたちは何をすればよいのですか」と人々は尋ねました。誰でも知っているはずの、しようと思えばできるはずの、ごく普通のことが告げられました。預言者の言葉はすべての人々に向けて語られつづけます。洗礼者ヨハネが「まむしの子らよ」と呼ばわったのは、「皇帝テベリオ在位の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイツリヤ・テラコニテ地方の領主、ルサニヤがアビレネの領主、アンナスとカヤパとが大祭司であったとき」(ルカ3:1-2でした。つまり、ローマ帝国の皇帝テベリオに対しても、植民地ユダヤを統治する役人ポンテオ・ピラトに対しても、ユダヤの地方領主たちに対しても、大祭司らに対しても彼は語りかけました。ローマ帝国の植民地にされていたユダヤの、その地方領主ヘロデに対しても同じく、「して良いことと悪いことがある。神の御心に背く悪いことをしてはいけない」と(ルカ8:9参照)
  さて、救い主イエスのその働きは『預言者、大祭司、王』という3つの中身をもっています。『預言者』として、救い主イエスこそが神の御心を教え、『大祭司』としてご自分のお体を十字架にささげて私たちの罪のあがないを成し遂げ、『王』として御言葉と聖霊によってキリスト教会とこの世界すべてを治めてくださいます。また、主イエスがそのようにお働きになるというばかりではなく、主イエスを信じるすべてのクリスチャンは主イエスの弟子とされて、同じく、この世界に対して『預言者、大祭司、王』という3つの中身をもって働きつづけます。昔から、聖書によって教えられてきたとおりです。「ええ、私にそんな難しそうな仕事ができるかしら?」と心配になりますか。大丈夫です。なにしろ私たちは、神さまがどんな御心なのかを教えられ、どんな神さまでどんな願いをもって働いておられるのかも知らされています。それぞれの分に応じて、口下手は口下手なりに、「こういう神様ですよ」と家族や友人たちや周囲の人々に知らせてゆく。これが預言者の役割。神と人間、人間と人間との間に立って仲直りと平和のための使者として、祭司の役割を担って働く。また、神の御心にかなった世界と私たちになってゆくために、王の役割さえ担って生きてゆく。宗教改革者は、「クリスチャンは地上のすべての支配者や権力者の上に立つ王であって、何者にも膝を屈めず、言いなりにされない。しかもクリスチャンは同時に自由なしもべであって、心低く、誰にでも奉仕する」(『キリスト者の自由』Mルター,1520年)と告げました。主イエスの最初の弟子たちも、主イエスの名によって語ることも説くことも一切してはならないと権力者たちに脅されても、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか判断してもらいたい。私たちとしては、自分の見たこと聞いたことを語らないわけにはいかない」(使徒4:19と平然と立ち向かいました。この世界全体も、私たち一人一人も、罪の支配から日毎に救い出されつづけて、神の御心にかなって毎日の暮らしを生きるためにです。救い主イエスこそが先頭に立って働き、この私たち一人一人も主イエスの後につづいて、主イエスの弟子として生きるのです。すると私たちは、今では互いに預言者同士です。神の御心を知らされている私たちは、ナタンや洗礼者ヨハネと同じく、互いに告げ合います。「わたしは主に対してはなはだしい罪を犯しました。けれど主なる神さまは、その私の罪を取り除いてくださいました」(ルカ3:10-14,ローマ手紙12:1-2,サムエル下12:13と。
 もう一つのことも語りましょう。たしかに主はダビデを憐れんで、その罪を取り除いてくださいました。けれど生まれてきたダビデの子が死んだことによってではありません。あのろくでなしのダビデ以上に、その何倍も罪深い私共ですけれど、主なる神は私共を憐れんで、その罪を取り除いてくださいました。ダビデの場合と同じく、それは私共の子供が死ぬことによってではありません。そうではなく、ただただ神の独り子イエス・キリストが私たちの罪を背負って死に、私共に先立って新しい生命に復活してくださったことによってです。キリストと共に私共の古い罪の自分が十字架につけられ、殺され、葬られ、キリストと共に新しい生命に生きはじめた私共です(ローマ手紙4:23-25,6:1-11,10:9-13。アブラハムがモリヤの山でわが子を神に献げようとしたときにも、まったく同じことが起きました。アブラハムがわが子を神に献げ、それで神への従順をまっとうしたのではありませんでした。その代わりに、神の独り子イエス・キリストがご自分の体と魂を十字架の上に献げ尽くしてくださって、それでアブラハムのためにも私たちすべてのためにも、自らあがないの供え物となり、神に従順に従って生きるための道を備えてくださった。主の山に備えありとは、そのことでした。ダビデの死んだ息子も、モリヤの山で角をやぶにからめていた一頭の雄羊も、共々にやがて来てくださる救い主イエスをこそ指し示していました。救い主イエスこそが、わたしたちすべてが神を信じて生きるための『道、真理、命』となってくださり(創世記22:9-19,ヨハネ福音書14:6、だからこそ私たちはここにいます。聖書に書いてあるとおりです。あなたも私も主に対して罪を犯しました。犯しつづけています。その罪を、神にゆるしていただきましょう。日毎に悔い改め、神のゆるしと憐れみのもとへと立ち戻りつづけましょう。神は真実な神であり、私たちを罪から救い出してくださったし、救い出しつづけてくださると知っているからです。
主なる神さま、私たちを憐れんでくださって、本当にありがとうございます。


11/20こども説教「出血の病気の女性が」ルカ8:43-48

 11/20 こども説教 ルカ8:43-48
 『出血の病気の女性が』

8:43 ここに、十二年間も長血をわずらっていて、医者のために自分の身代をみな使い果してしまったが、だれにもなおしてもらえなかった女がいた。44 この女がうしろから近寄ってみ衣のふさにさわったところ、その長血がたちまち止まってしまった。45 イエスは言われた、「わたしにさわったのは、だれか」。・・・・・・47 女は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、みまえにひれ伏し、イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した。48 そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。      (ルカ福音書 8:43-48)

 ずいぶん長い間、12年間もずっと出血の病気に苦しめられ、財産をすっかり全部使いつくしても誰にもその病気を治してもらえなかった女性がいました。その人は、一つの希望をもちました。主イエスなら、私の病気をきっと治してくださると。彼女は、主イエスに「うしろから」そっと近寄って衣のふさに触り、そのまま黙って立ち去ろうとし、「隠しきれないと知って震えながら」進み出ました。その病気にかかった者は汚れたものとされて、他の人々の中に決して入ってはいけないと厳しく禁じられていたからです。見つかれば、とてもきびしい罰や懲らしめを受けるだろうと、恐ろしかったからです。
 主イエスは、「わたしに触ったのは誰か。どこにいる」45-46節を参照)と探しつづけます。顔と顔を合わせて、自分が病気を治してあげた相手とちゃんと向き合い、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と語りかけてあげる必要があったからです。どうしても、そうしなければなりません。その彼女のためにも、ここにいるこの私たちのためにもです。あなたの信仰があなたを救った。みなさんは、どうですか。主イエスを信じているのでしたね。その信仰によって、自分自身も、自分の大切な家族もぜひ、主イエスを信じる信仰によって救ってもらいたいと、あなたも心から願っているのですか? じゃあ、それならば、彼女の信仰のどこがどう彼女自身を救ったのかを、この私たちもはっきりと知らねばなりません(*)彼女の信仰は、人々の顔色や空気や誰彼が言うことに従いません。みんながしていることをし、していないことはしないなどと世間様の言いなりにされません。それよりも、主イエスに救っていただくほうが千倍も万倍も大切だと腹をくくる信仰です。「ダメだ。止めなさい」と皆から言われていることをし、何をされるかと恐れながら、けれどもこの1人の人は主イエスへと手を伸ばしました。彼女の信仰は、なにしろ主へと手を伸ばし、主へと向かいたいと願い求める信仰です。悩みがあり、とても抱えきれない困難があり、重すぎる課題があります。それらを抱えて、あの一人の人は、そこで、そのようにして主イエスへと向かいました。貧しく身を屈めさせらるとき、そこで、そのようにして主へと向かう私たちです。恐れと心細さに飲み込まれそうになるとき、ガッカリし、疲れ果てて、心がすっかり挫けそうになるとき、そこで、そのようにして主へと向かう私たちです。「一体どうしたらいいんだろう。誰が私を助けてくれるんだろうか」と途方に暮れるとき、そこで、そのようにして主へと向かう私たちです。だからこそ、私たちはここにいます。それは、まったく恵みであり、自由な贈り物でした。それは、この私が何者であるのかをもはや問いません。この恵みとゆるしのもとに据え置かれて、私たちはもう互いに、大きいだの小さいだの、貧しいだの豊かだの強いだの弱いだの、見苦しいだの見劣りがするだのと見比べ合うことをしなくてよいのです。私たちには一つの確信があります。主イエスに対する確信です。この主に私たち自身の一切をゆだねることができる、という確信です。ゆだねるに足るお独りの方と出会った、という確信です。


   【補足/あなたの信仰が】
    (*)48節。そうである場合と、そうではない場合とがありました。信仰が小さすぎる場合があり、まったく無い場合さえあり、無くても救われた人々もいます。けれど、せっかく主イエスを信じたのなら自分と家族を救いうる信仰がほしいですね。その信仰もまた神からの恵みの贈り物。それなら、願い求めましょう。「わたしを救いうる信仰を、主よ、与えてください。神を知りたい。信じたい」と。願いは、かなえられます。かなえてくださる慈しみ深い真実な神がおられますから。


11/20「権威者の限界と慎み」ローマ13:3-7

                                        みことば/2016,11,20(主日礼拝)  86
◎礼拝説教 ローマ手紙 13:3-7                          日本キリスト教会 上田教会
『権威者の限界と慎み』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  13:3 いったい、支配者たちは、善事をする者には恐怖でなく、悪事をする者にこそ恐怖である。あなたは権威を恐れないことを願うのか。それでは、善事をするがよい。そうすれば、彼からほめられるであろう。4 彼は、あなたに益を与えるための神の僕なのである。しかし、もしあなたが悪事をすれば、恐れなければならない。彼はいたずらに剣を帯びているのではない。彼は神の僕であって、悪事を行う者に対しては、怒りをもって報いるからである。5 だから、ただ怒りをのがれるためだけではなく、良心のためにも従うべきである。6 あなたがたが貢を納めるのも、また同じ理由からである。彼らは神に仕える者として、もっぱらこの務に携わっているのである。7 あなたがたは、彼らすべてに対して、義務を果しなさい。すなわち、貢を納むべき者には貢を納め、税を納むべき者には税を納め、恐るべき者は恐れ、敬うべき者は敬いなさい。
(ローマ手紙 13:3-7)




 ローマ手紙 13:3-7です。「いったい、支配者たちは、善事をする者には恐怖でなく、悪事をする者にこそ恐怖である。あなたは権威を恐れないことを願うのか。それでは、善事をするがよい。そうすれば、彼からほめられるであろう。彼は、あなたに益を与えるための神の僕なのである。しかし、もしあなたが悪事をすれば、恐れなければならない。彼はいたずらに剣を帯びているのではない。彼は神の僕であって、悪事を行う者に対しては、怒りをもって報いるからである。だから、ただ怒りをのがれるためだけではなく、良心のためにも従うべきである。あなたがたが貢を納めるのも、また同じ理由からである。彼らは神に仕える者として、もっぱらこの務に携わっているのである。あなたがたは、彼らすべてに対して、義務を果しなさい。すなわち、貢を納むべき者には貢を納め、税を納むべき者には税を納め、恐るべき者は恐れ、敬うべき者は敬いなさい」。私たちの上に、この地上の世界に、さまざまな権威者と支配者・指導者たちが立てられており、それら大小様々なすべての権威者の権威と責任とは神に由来する。そのことを権威者自身も、また私たち一人一人もよく弁えている必要があります。「従うべきだ」と日本語に翻訳された言葉は、元々の意味としては、『その権威のもとに立って、その権威者を下から支える』『協力してあげて、きちんと責任と務めを果たすことができるように助けてあげる』という意味です。何をされても、ただただ闇雲に、ご無理ごもっともと目もつむり耳もふさいでペコペコ従いなさいなどという意味では決してありません。しかも兄弟たち。「いたずらに剣を帯びているのではない」はずのその権威者たちが、剣や委ねられた権力をいたずらに、正しい用い方ではなく理不尽に用いることはありえるからです。神による、神によって立てられたはずの、神のしもべであるはずの権威者が、けれども、ならず者の暴君と化し、どこまでも暴走し、道を踏み外しつづけることはありえます。世界中のどの国でも、私たちの住むこの国でも。
  ここで読み解いてゆくためのカギとなるのは、5節で「良心のためにも」と言われ、6節でも「彼らは神に仕える者として、もっぱらこの務めに携わっている」と指摘されている点です。良心とは、神の御心にこそ従うという『信仰の良心』であり、『神さまの御心への服従』です。また、その権威者も私共一人一人も、クリスチャンであろうがなかろうが、皆共々に「神に仕える者として、もっぱら神に仕える務めに携わっている」からです。目の前にいる権威者に仕え、従う以前に、神にこそ仕え、神に従って生きる私たちです。その土台の上に立って、目の前にいる、神によって立てられた権威者が神の御心にかなって務めを忠実に果たしてゆくことができるように支え、できるかぎり協力もする。他の聖書箇所で、「すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい」「神をおそれ、王を尊びなさい」(ペテロ手紙(1)2:13,17と告げられていることも、まったく同じ道理です。はっきりした優先順序があり、決して棚上げすることのできない根源的な土台があります。「主のゆえに、目の前のその権威者に従う」のですし、『主にこそ従う』という弁えの範囲内で、それに矛盾しない限りにおいてだけ、その権威者に従うことがゆるされます。神をこそおそれ、神に聞き従うという土台の上に立って、目の前の王や大小様々な支配者、権威者、指導者らに従います。つまり、「神によって立てられた権威に従う」とは、その「立てられた権威」が神に逆らう場合にはその権威と命令とに抵抗する権利と義務が生じることを教えています。なぜなら、その彼らの上にも、私共の上にも、天に主人がおられます。しかも私たちは、そのことをよくよく教えられ、習い覚えてもきたからです(コロサイ手紙4:1
 このローマ手紙13:4に、「彼(=神のよって立てられた大小様々な権威者たち)は、あなたに益を与えるための神のしもべなのである」と書いてあります。神が立ててくださったその権威と力の目的を履き違えて、その権威者が人々に害を与え、ないがしろに扱い、踏みつけにするとき、とくに、益を与えるはずの権威者がかえって逆に人々の生活と命と安全を奪うなどして機能不全に陥った場合です。例えばユダヤ民族の絶滅の危機に瀕して、モルデカイは王妃となったエステルを諭します、「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。また例えば、人々がイエスを救い主だと誉めたたえて叫ぶ声を聞いてパリサイ人らが弟子たちと群衆皆に黙るように命じてくれと訴えたとき、主イエスは答えました、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」(エズラ記4:13-14,ルカ福音書19:40。重大局面にあたって、私たちが何かをしなければ国が滅び、神の国が後退りしてしまうなどとは語られません。私たち次第ではなく、私たちの両肩にこの国と世界の命運がかかっているわけではありません。なぜなら神ご自身が、確かに生きて働いておられますからです。あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。もしこの人たちが黙れば、道端の石っころさえもが叫ぶであろう。
  もう一度、思い浮かべてみましょう。私たちの目の前にいる大小様々な権威者たち。例えば幼稚園や保育園、小学校中学校高校の教師たちがそれです。職場の主任や管理職がそれです。医療機関や介護福祉施設の職員たちがそれです。また、国家権力、政府与党、内閣総理大臣、警察官、裁判官などがそれです。地方行政団体の首長や議員たち役人たちがそれです。キリスト教会の牧師、長老、執事などがそれです。いいえ、それどころか 子供たちを養い育ててきたお父さんお母さんたち。子供たちが人生で最初に出会う、最も身近な権威者は、子供たちのお父さんお母さんです。それらすべては、神による権威であり、神に由来する権威です。しかも、そうでありながら、彼らは生身の人間にすぎません。良いこともするし、してはならない悪いことをする場合もあるでしょう。なぜ? だって人間だもの。「従いなさい」と命じられていましたね。それは、『その権威のもとに立って、その権威者を下から支える』『協力してあげて、神の御心にかなって、きちんと責任と務めを果たすことができるように精一杯に助けてあげる』という意味です。あなたの目の前にいるその権威者が、神ご自身の権威にはなはだしく逆らい、脱線し、ならず者の暴君に成り下がってしまうとき、この私たちはどうしたらいいでしょう。一つの家族の中でも、それはありえます。社会全体の中でもキリスト教会の中でも、それはありえます。神によって立てられた権威が暴走し、ならず者の暴君と化すとき、私たちはどうしたらいいでしょう。私どもには果たすべき義務と責任があります。彼らを下から支える責任です。協力してあげて、きちんと責任と務めを果たすことができるように助けてあげる義務と責任です。「それは間違っていますから、してはいけません。分かりますね」となだめたり、誤りを正したり、できるだけ優しい口調で諭したりもしながら、共々に、委ねられた権威と責任とを神の御心にかなって果たしてゆく。彼らと共同の義務と責任です。幼稚園や保育園、小学校中学校高校の教師たちに対しても、私たちには共同の責任と義務があります。職場の主任や管理職に対しても。医療機関や介護福祉施設の職員たちに対しても。また、国家権力、政府与党、内閣総理大臣、警察官、裁判官などに対しても。地方行政団体の首長や議員たち役人たちに対しても。キリスト教会の牧師、長老、執事などに対しても。同じように子供たちは自分の父親や母親に対して果たすべき義務と責任があります。まったく同じく、父親たち母親たちは自分の子供たちに対して、果たすべき大きな義務と責任があります。神による権威であり、神に由来する権威です。しかも、そうでありながら、彼らもこの私たち一人一人も生身の人間にすぎません。良いこともするし、してはならない悪いことをする場合もあるでしょう。だって人間だもの。私たちは、キリストを主と仰ぐキリスト者です。だからこそキリスト者は自由な王であって、何者にも膝を屈めず、だれの奴隷にもされてはならず、何者にも決して屈服しません。たとえ絶大な権力を握るこの世の王や、権力者やどんな支配者たちに対しても(Mルター『キリスト者の自由』,1520年)。ここから、ついにとうとう、信仰をもって主に従って生きることの悪戦苦闘が始まります。
  皆さんがすでによくご存知のとおり、聖書によってご自身を知らせておられます神は、正しくあり、しかも慈しみ深い神です。しかもその神が、この世界全体と私たちの主人として生きて働いておられます。何をどうすべきか、何をしてはならないのか、聖書自身が語る内容は明らかです。けれどキリスト教会も含めて、私たち人間がそれを度々くりかえして歪めてしまいました。神によって立てられた権威、権威者たちとどう付き合うことができるのか。聖書自身からの最終的・決定的な答えは、主イエスが教えてくださった『主の祈り』の中にはっきりと刻み込まれていました。まず、『天にまします我らの父よ』と呼びかけています。神を我らの父よと呼びかけ、そのおかたが他の誰よりも高く卓越した力をもって『天にいる』と言い表しています。また主の祈りに含まれる6つの祈願の中の第二番目『御国をきたらせたまえ』は、神が王としてこの地上に支配を及ぼし、治めてくださいと願い求め、その支配に服従し、神にこそ従って生きる私たちであらせてくださいと願っています。第三の願い『御心の天になるごとく地にもなさせたまえ』。神の御心がこの地上世界で、私たちが生きる生活の只中で成し遂げられますようにと。その願いは、祈り求めるこの私たちが神の御心にかなって生きはじめようとすることから始まり、広がってゆきます。『御心をこの地上にもなさせてください』と願うようにとは、神ご自身がその願いを着々とかなえつつあり、そのように御心にかなって生きることを本気で願い求める私たちになってゆくという確固とした約束です。その幸いな生活が私たちの生活の只中ですでにはじまり、少しずつ少しずつ積み重ねられてきています。『主の祈り』の結びはさらに、国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなりと、つまり、『支配と権力と栄光とがどこまでも、いつでも、どういう状況においても、ただただ天の御父のものである』。その心強さと深い慰めと確かさとを、主の祈りを口にする度毎に私たちの魂に刻み込ませつづけます。
 ああ、そうだったのか 天の御父への十分な信頼の上に立って、その信頼に幾重にも包み込まれてこそ、私たち自身の手厳しく困難な現実問題(=第4,5,6祈願)に立ち向かうことができます。(祈願)日用の糧を神から受け取り感謝すること。(祈願)神によって罪をゆるされつづける者同士として互いにゆるしあうこと。そして、(祈願)神に逆らう罪と誘惑から守られつづけて生きること。現実的・実践的な3つの願いと、そのための『御父への十分な信頼』という根源的・究極の只一つの願い。
目の前にいる具体的な権威者との付き合い方も、これとまったく同じです。天の御父への信頼と服従。だからこそ、目に前に据えられている大小様々な権威者らの職務と役割を重んじることもでき、だからこそ時には「それは間違っている。してはいけません」と逆らい、抵抗することさえ出来る。天に主人がおられると今やはっきりと私共は知りました。救い主イエスは、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」とおっしゃり、「神の国は実にあなたがたの只中にある」と断言なさいました。この主イエスから、私たちも、それぞれの働きと生活の場へと送り出されたのですし、送り出されつづけます。主はおっしゃいます、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マルコ福音書1:15,ルカ福音書17:21,マタイ福音書28:18-20

 

2016年11月14日月曜日

11/13こども説教「恐れることはない。ただ信じなさい」ルカ8:40-42、49-56

 11/13 こども説教 ルカ8:40-4249-56
 『恐れることはない。ただ信じなさい』

8:49 イエスがまだ話しておられ るうちに、会堂司の家から人がきて、「お嬢さんはなくなられました。この上、先生を煩わすには及びません」と言った。50 しかしイエスはこれを聞いて会堂司にむかって言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ」。51 それから家にはいられるとき、ペテロ、ヨハネ、ヤコブおよびその子の父母のほかは、だれも一緒にはいって来ることをお許しにならなかった。
(ルカ福音書 8:49-51

  ユダヤ教の一つの会堂の責任者であるヤイロという人が、主イエスのもとへとやって来ました。12歳ほどになる娘が死にかけていたからです。自分の家へと主イエスを連れていこうとしていると、悪い知らせが届きました。「お嬢さんは亡くなられました。この上、先生にわざわざ来ていただかなくてもよいでしょう」と。50節です。しかし、イエスはこれを聞いて会堂司に向かって言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ」。
 語りかけているその言葉によって、語りかけられているその相手がどんな様子なのか。何をどう思っているところなのかが分かります。「恐れることはない」と主イエスが彼に語りかけているのは、その彼がまたもや恐れに取り付かれ、その恐れの中に今にも飲み込まれようとしているからです。「ただ信じなさい」と語りかけられているのは、主イエスへの彼の信頼が、せっかく本気で信じようとしていた矢先に、早くも揺らぎだしているからです。ヤイロの場合、もちろん彼は主イエスを信じていました。主イエスこそが娘の命を救ってくださると信じ、主イエスという独りのお方にこそ期待をかけました。主イエスのおられる所へと出かけてきて、その足元にひれ伏し、「家に来て、どうか娘を助けてください」としきりに願い出ました。これが、彼が主イエスを信じていることの具体的な中身です。けれど同時に、目に映り耳に入る他さまざまな事柄が、主イエスへの彼の信頼の中身を紛れさせつづけます。大声で泣きわめき騒いでいる人々の声が耳に入っています。また、「泣くな、娘は死んだのではない。眠っているだけである」と主イエスが仰るのを聞いて、人々があざ笑うのを見ました。このとき、主イエスを信じようとするヤイロの信仰は揺さぶられ、きびしい挑戦にさらされていました。そこで、もしかしたらヤイロは他の人々といっしょになって、主イエスを信じる心を紛らせてしまったかも知れませんでした。「恐れることはない。ただ信じなさい」(50)と、主イエスから命じられていました。ここが、いつものポイントであり、分かれ道でありつづけます。主イエスの死と復活を信じていないわけではありません。けれどなお、恐れている。けれどなお、ほんのちょっとしたことが起こる度毎に心を激しく揺さぶられつづける。どういうわけでしょうか。――主イエスの御声に聴き、他のさまざまな声にも聴き従っているからです。主イエスを信じ、またその一方では他さまざまな意見や主張にも、同じように聴き従っているからです。主イエスを信じる心を、その度毎に、紛らせてしまうからです。主イエスは子供の両親と3人の弟子だけを連れて、子供のいる部屋に入っていかれました。子供の手をとって、「少女よ、起き上がりなさい」とお命じになりました。少女はすぐに起き上がって、歩き出しました。また、食べ物を娘に与えるようにと言われました。この人が生きるための食べ物。パンと、主の口から出るすべての言葉(申命記8:3。あなたも起き上がり、歩きなさい。食べ物も他一切も神さまの御手から受け取って、生きるための力を神さまから贈り与えられて、あなたも一日一日と生きていきなさい。


【補足/ペテロ,ヨハネ,ヤコブ】
51節。このとき、山の上で主イエスの姿が白く輝いたとき、またゲッセマネの園でも、この同じ3人だけを主イエスは同行しました(当箇所,ルカ9:28-36,マタイ26:37)。決して、『格別に優秀な選りすぐりの3人』というわけではありません。あの3人はただ、やがてときが来て、人々が主イエスを信じるために、直接の目撃証人として用いられます。「あのとき、ああいうことがあった。こういうことも」と。主の弟子として遣わされてゆくための安心材料は、ただただ主イエスご自身からの保護の約束だけです(マタイ18:19-20,28:19-20,ルカ10:17-20,22:31-32,ヨハネ15:16-17他)。私たちとまったく同じですね。この私たち一人一人も、主イエスの死と復活の証人として立てられ、遣わされつづけます。


11/13「権威者とは何者か?」ローマ13:1-2

 ◎とりなしの祈り

 慈しみ深い父なる神さま。あなたは私共に隣人を愛することをお命じになり、とくに「親から引き離されて暮らす子供たち、夫と死に別れた未亡人、外国からの出稼ぎ労働者(=寄留者)たちのために正しい裁きを行ない、食べ物と着るものを与え、彼らを愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で外国からの出稼ぎ労働者たちだったのだから」(申命記10:18-参照)と指図をなさいました。あなたからのご命令とご委託を、私共の心に刻ませてください。
  主なる神さま。この国では経済的な格差がますます広がり、毎日の生活と食べるものにも困る貧しい人々が置き去りにされつづけています。未亡人のような、遠い国からの出稼ぎ労働者のような彼らです。親から引き離されて暮らす子供たちのような彼らです。外国からの出稼ぎ労働者たちも、また日本人も過酷な労働条件で働かされ、モノや道具のように扱われ、使い捨てにされる人々が大勢います。主よ、私たちを憐れんでください。沖縄と福島と原発施設を設置されているそれぞれの地元の人々を顧みてください。原発施設で働く下請け労働者たちと東京電力の社員たちの健康をお守りください。とても危ない紛争地域に送り出されて、戦争に参加させられようとしている自衛隊員とその家族をどうか助けてください。無駄に粗末に命を捨てさせられないように、彼らをお守りください。保育園、幼稚園と、すべての学校教師たちの働きをお支えください。お父さんお母さんたちが、自分の子供たちを十分に愛し、心を砕き、精一杯に養い育てることができるように、その心と毎日の生活とをお支えください。福祉施設と医療現場で働くすべての職員が公正に正しく、また思いやり深く誠実に務めに当たることができますように。貧しく心細く暮らす多くの人々がいます。彼らの毎日の暮らしがあなたの憐れみによって支えられ、心強く守られますように。その彼らのためにも、私たちの家族と地域のためにも、この国と後から来る新しい世代のためにも、私たちをどうか地の塩、世のための光(マタイ5:13-16参照)として十分に用いてください。神さまからの憐れみを受けたものたちとして、私たちには、果たすべき役割と大きな責任があるからです。天に私たちの主人がおられます。そのことを信じます。主よ、どうか私たちを憐れんでください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン。



                                         みことば/2016,11,13(主日礼拝)  85
◎礼拝説教 ローマ手紙 13 12                    日本キリスト教会 上田教会
『権威者とは何者か?』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  13:1 すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。2 したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である。そむく者は、自分の身にさばきを招くことになる。  (ローマ手紙 13:1-2)

4:1 あなたがたにも主が天にいますことが、わかっているのだから。
                        (コロサイ手紙 4:1)
 


 1-2節です。「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である。そむく者は、自分の身にさばきを招くことになる」。これは難しい箇所です。「すべての人は」と語りかけられているのですから、一人の例外もなく誰も彼もがと命じられています。私たちの上に、この地上の世界に、さまざまな権威者と支配者・指導者たちが立てられており、それら大小様々なすべての権威者の権威と責任とは神に由来する。そのことを権威者自身も、また私たち一人一人もよく弁えている必要があります。「従うべきだ」と日本語に翻訳された言葉は、元々の意味としては、『その権威のもとに立って、その権威者を下から支える』『協力してあげて、きちんと責任と務めを果たすことができるように助けてあげる』という意味です。ですから何をされても、ただただ闇雲に、ご無理ごもっともとペコペコ従いなさいなどという意味では決してありません。どうぞ、安心してください。なぜならば、たとえ神による権威、神に由来する権威であるとしても、その権威者たちは、『自分は神によって立てられた者だから、神の御心にこそ忠実に従って、神の御心にかなって仕事を果たさねばならない』などとはほんの少しも知らない場合も大いにあるからです。あるいは知っていても、神ご自身の権威に自分がはなはだしく逆らい、脱線し、ならず者の暴君に成り下がってしまう場合もありえたからです。それは今日でも、世界中でもこの日本でも 大いにありえます。神によって建てられた権威が暴走し、ならず者の暴君と化すとき、私たちはどうしたらいいでしょうか? 問うまでもありません。『その権威者が、立ててくださった神の御旨にかなって健全に働くことができるように、下から支える』。『協力してあげて、責任と務めを彼らがふさわしく適切に果たすことができるように助けて』あげます。そのためには時には、反対意見を権威者に対してはっきりと申し述べたり、その誤りを正したり、立ち向かうこともします。そのようにして権威と役割をゆだねられた彼らを支えたり、手助けしてあげるのです。
  少し前に、「牧師という職業の人間に対して、私たちはどう考え、どのように付き合ったらいいでしょう」と問いかけていました。それについてのまったく正反対の二種類の判断が、私たちの教会の中にありつづけます。ある人々は、『牧師は教会の責任者であり、ボスだ。お父さんのようなリーダーだ。だから、なにしろこの人の判断に聞き従い、この人の指示に従っていく。この人の思い通りの、望むままの仕方で教会を運営していくことが良いことなのだ』と。別の人々は言います。『いや、そうじゃない。その考え方は間違っている。牧師は頭ではなく、ボスでもない。ましてや神でもなく神の代理人でもない。確かに責任を持つ者であるとしても、それはキリストに仕えるしもべとしての責任だ。聖書はそう言っていたじゃないか。私たちは皆共々に、主に仕えるしもべ同士である。主にこそ従うのだ』と。「牧師が間違ったことや悪いことなどするはずがない」という人々さえいます。いいえ、牧師も学校教師も警察官も裁判官も内閣総理大臣も、たかだか生身の人間にすぎません。あなたや私と同じに 良いこともすれば悪いこともする。それら生身の人間にすぎないものを神に替えて、むやみに信用しすぎたり、ただ言いなりに従ってよいわけではありません。信じたり拝んだりしていい相手は、ただただ神さまだけ。しかももちろん、牧師も神父もとんでもない悪事を働くこともありえます。「正しい人は一人もおらず、みな罪人にすぎず、罪人の中の罪人だ」(ローマ手紙3:9-19,テモテ手紙(1)1:15と聖書が告げる大切な真実を、人間理解の根本原理を、中身のないただの絵空事にしてはなりません。「牧師や神父の中の何人かが」というだけでなく、キリスト教会は繰り返し繰り返し何度も「組織ぐるみの大犯罪」に手を染め、神にはなはだしく背きました。キリストの教会とその教えは、何度も何度も泥にまみれ、世俗化し、中身のない形式主義に堕落しました。ちょうど一ヶ月前にも、そのことを紹介しました(マタイ福音書11:20-24『悔い改めない町を叱る』2016,10,9 礼拝説教)。今から500年ほど前のこと。『罪のゆるし。罪からの解放』は、中身のない形ばかりのものへ、教会のただの金儲けの道具へと変質していました。『免罪符、天国行きの格安チケット』の格安販売です。たった一人の修道士が立ち上がって、「それは間違っている。そんなイカサマをしてはいけない、主なる神に背いてしまうではないか」と。そこから教会全体を真っ二つに引き裂く宗教改革がはじまり、教会はローマ・カトリックとプロテスタント諸派(プロテスタントとは、『抗議する者たち』という意味)とに分裂して今に至ります。キリスト教会が腐敗し堕落するとき、ひと握りの人々が立ち上がって、「それは間違っている。神へと立ち戻ろう」と呼びかけ、正しい道へと導き返すことができた場合もあり、けれど立ち戻ることがなかなかできなかった長い暗黒の時代もありました。しかも何度も繰り返して。例えば、インディアンやその土地に元から住んでいた住民を弾圧し、虐殺し、土地や財産を取り上げて商売人たちと手を組んで大儲けしたのは、キリスト教会です。商売人たちと一緒になって黒人奴隷を売り買いしたのも、キリスト教会です。黒人たちを差別し、奴隷やモノのように扱いつづけたのも、キリスト教会です。南アフリカ共和国で人種隔離政策を取りつづけたのも、キリスト教会とクリスチャンたちであり、しかも私たちの教会と近しい親戚筋の改革教会のものたちでした。これらのはなはだしい悪事を正すことは難しく、何十年もの長い長い歳月を必要としました。兄弟姉妹たち。キリスト教会と私たちすべてのクリスチャンは罪人の集団にすぎないのです。そのことを、心底から本気になって弁えつづけねばなりません。「自分たちは正しい」とする傲慢こそが、罪のいつもの最大の根っこです。彼らの振り見て、我がふり直せ。
 これら、延々と繰り返されたはなはだしい悪事の責任者が誰であるのかは明らかです。王や教会上層部の指導者たちは、もちろん逃れようもない責任者です。けれど彼らだけが責任者なのか。いいえ、それは違います。王や指導者たちと共に、その悪事に加担した全員が一人残らず責任者です。「それは間違っている。神に背いているから、そんなことはしてはいけない」と、もしそこで、ほんの一握りの人々が立ち上がるなら、その国は神の国でありつづけることができます。「それは間違っている。そんなことはしてはいけない」と判断し、声をあげることのできる国民がそこにたった一人でもいるならば。モーセであれ安倍首相や日キの大会議長であれ、尊敬された大先輩の牧師であれ、他のどんな王様たちであれ、神に代わることなどできません。人間を神に代えることなど、決してしてはいけません。そのためには、神を信じて生きるはずの一人一人に、つまりこの私たちにこそ責任があります。どうぞ思い浮かべてみてください。教会では牧師や長老に従い、家に帰ったら夫や父親に従い、町内会では班長や世話役に従い、職場では上司や現場主任の言うことに何でもハイハイと従うのか。神への信頼と、目の前の人間にすぎない指導者・権威者への信頼。この二つが互いに相容れない場合はあります。なぜなら、目の前のその権威者は生身の人間にすぎないからです。間違った判断をしてしまうこともあるからです。だって、人間だもの。そのとき、神を信じて生きるはずの私たちは、どうするでしょう。「それは間違っている。そんなことはしてはいけない。あなたは神ではなく神の代理人でもない」と立ちはだかって、彼らの心得違いや判断の間違いを、あなたは正すことができるでしょうか。それとも言いなりにされて、どこまでも流されていってしまうでしょうか。それが、いつもの別れ道。キリストを頭と仰ぐキリストのものである教会なのか、キリストに従って生きるクリスチャンなのか、それともそうではないのか。

 神によって立てられた大小様々な権威者たち。一つ一つ思い浮かべてみましょう。幼稚園や保育園、小学校中学校高校の教師たちがそれです。職場の主任や管理職がそれです。医療機関や介護福祉施設の職員たちがそれです。また、国家権力、政府与党、内閣総理大臣、警察官、裁判官などがそれです。地方行政団体の首長や議員たち役人たちがそれです。キリスト教会の牧師、長老、執事などがそれです。子供たちが人生で最初に出会う、最も身近な権威者は、その子供たちのお父さんお母さんです。それらすべては、神による権威であり、神に由来する権威です。しかも、そうでありながら、彼らは生身の人間にすぎません。良いこともするし、してはならない悪いことをする場合もあるでしょう。だって人間だもの。「従いなさい」と命じられていましたね。それは、『その権威のもとに立って、その権威者を下から支える』『協力してあげて、神の御心にかなって、責任と務めをふさわしく適切に果たすことができるように精一杯に助けてあげる』という意味です。あなたの目の前にいるその権威者が、神ご自身の権威にはなはだしく逆らい、脱線し、ならず者の暴君に成り下がってしまうとき、私たちはどうしたらいいでしょうか。一つの家族の中でも、それはありえます。キリスト教会の中でも、それはありえます。神によって建てられた権威が暴走し、ならず者の暴君と化すとき、私たちはどうしたらいいでしょう。
  父さん母さんとその子供たちの場合が、分かりやすい良い実例です。子供たちは、どんなふうに育っていくでしょう。「お父さん。あなたを尊敬しているし、とても大切に思っています。でも、天に主人がおられます(コロサイ4:1)。あなたがしていることは間違っている。それは悪いことです」と、その息子や娘たちは父親に立ち向かって行けるでしょうか。それとも、「お父さんが言うのだから仕方がない」とその妻や子供たちは言いなりになるでしょうか。もし仮に40歳、50歳、60歳になっても、「だアって、ぼくのお父さんがこれこれだと言うので」などと何でも言いなりに従うなら、何一つも自分自身で考えたり判断したり選び取ったり、一人の人間として大人として責任を負おうとしないなら、その父さん母さんは子供の育て方をすっかり間違えてしまったことになるでしょう。その子はあまりに未熟な小さな小さな3歳の子供です。いいえ、決してそうであってはなりません。私たち人間一人一人に権威と責任と務めをお与えになった神が、天におられるからです。天におられます主人にこそ忠実に従い、天の主人にこそ仕えて生きるはずの私たちだからです。私たちは、キリストを主と仰ぐキリスト者です。だからこそキリスト者は自由な王であって、何者にも膝を屈めず、だれの奴隷にもされてはならず、何者にも決して屈服しません。たとえ絶大な権力を握るこの世の王や、権力者やどんな支配者たちに対しても(Mルター『キリスト者の自由』,1520年)。ここから、ついにとうとう、信仰をもって主に従って生きることの悪戦苦闘が始まります。
  やがて主イエスを信じる弟子たちは、警察官や役人や偉い議員たちに厳しく脅かされても、「二度とイエスの名を口に出していい広めてはならない」と叱られても、棒で打たれても、涼しい顔をしてこう言い返しました。「イエスは私に対しても主であり、この世界全体に対しても主である。神に聞き従わず人間すぎない者どもに聞き従うわけにはいかない。なぜなら神の御前に正しくはないし、間違ったことなので。ナザレのイエス。他に主人はおらず、私たちを救いうる名はイエスの他には、天下の誰にも与えられてはいない。この私としては、自分の見たこと聞いたこと、信じたことを語らないわけにはいかない」(使徒4:10-12,19-20参照。そのとおりです。目の前にいる大小様々な権威者に従ってもいいのは、その人間の言うことなすことが神の御旨に背いていないときだけです。なぜでしょう。なぜなら、天にただお独りの主人がおられることを私たちはよくよく習い覚えてきたからです(コロサイ手紙4:1を参照)


   【参考】(1)「日本キリスト教会 教会員の生活」の第四章三節『教会と国家』の項目、『現代日本の状況における教会と国家に関する指針』(2003年改訂版,p90-96,巻末付録p209-220)。
(2)『キリストが主だから ~いま求められる告白と抵抗~』(山口陽一,朝岡勝共著,新教出版社)


2016年11月7日月曜日

11/6こども説教「墓場に住む人のために」ルカ8:26-39

 11/6 こども説教 ルカ8:26-39
 『墓場に住む人のために』

8:26 それから、彼らはガリラヤの対岸、ゲラサ人の地に渡った。27 陸にあがられると、その町の人で、悪霊につかれて長いあいだ着物も着ず、家に居つかないで墓場にばかりいた人に、出会われた。・・・・・・36 それを見た人たちは、この悪霊につかれていた者が救われた次第を、彼らに語り聞かせた。37 それから、ゲラサの地方の民衆はこぞって、自分たちの所から立ち去ってくださるようにとイエスに頼んだ。彼らが非常な恐怖に襲われていたからである。そこで、イエスは舟に乗って帰りかけられた。38 悪霊を追い出してもらった人は、お供をしたいと、しきりに願ったが、イエスはこう言って彼をお帰しになった。39 「家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい」。そこで彼は立ち去って、自分にイエスがして下さったことを、ことごとく町中に言いひろめた。   (ルカ福音書 8:26-38)

 「向こう岸へ渡ろう」と主イエスと弟子たちが湖を渡ってきたのは、一人の人を救いへと導き入れるためでした。その人は悪霊に取りつかれ、鎖と足かせにつながれ、墓場や荒野をさまよいつづけ、長い間苦しめられつづけていました。この人に取り付いた悪霊が「神の子イエスよ、あなたはわたしと何の係わりがあるのです」28節)と叫びかけました。悪さをして人を困らせる悪霊にというよりも、むしろ苦しめられているその人自身に、主イエスは大いに係わりがあります。その人を縛り付け、苦しめているものから自由にしてあげるために、そのためにこそわざわざ湖を渡ってきたのです。また、そういう人々を救うためにこそ、救い主イエスはこの世界に降りてこられたのですから(テモテ手紙(1)1:12-16参照)。名前を聞くと、悪霊は「レギオン」と答えました。とても大勢だ、という意味です。悪霊は、この人の中から追い出すのなら、その代わりに山辺にいたたくさんの豚の群れの中に入らせてほしいと願い出ました。主イエスはその願いをゆるしてやりました。悪霊にとりつかれた豚たちは崖から湖へと駆け下り、溺れ死んでしまいました。悪霊を追い出してもらった人は、正気に戻りました。
 豚を飼っていた者たちは商売の道具であるたくさんの豚を失って、大きな損害を受けました。豚を飼っていた者たちばかりではなく、町や村からやってきた大勢の人々も、主イエスのなさったことをとても迷惑な困ったことだと考えました。「豚を飼う者たちのように、私たちも財産を失ったり、大きな損害や迷惑を受けるかも知れない。とても都合が悪いから出ていってもらいたい、二度と来ないでもらいたい」と人々は主イエスに頼みました。苦しんでいたとてもかわいそうな人が一人、救い主イエスによって救われました。けれどその大きな幸いと喜びに、その人たちは目を向けることができないでいます。自分たちが儲かるか損をするか、自分たちにとって都合がいいか悪いかということにばかりすっかり心を奪われているからです。とても残念なことでした。
  悪霊を追い出してもらった人は「主イエスについていきたい」としきりに願いましたが、自分の住んでいた家へと帰されました。主イエスと出会い、主を信じるようになった人々が大勢います。その中にはいっしょに付いていくことをゆるされた者もおり、自分の家や故郷に帰された者たちもいます。家に帰された者たちは、例えばクリスマスの夜の羊飼いたち、東方からきた博士たち、サマリヤの井戸の傍らで出会った女性、エチオピアの宦官、ほかにもたくさん。実は、その両方共が同じです。どっちにしても、そこから主イエスを信じて生きることがはじまってゆくからです。主イエスを信じて生きるようにされた者たちは、一人残らず全員、彼と同じことを命じられています。39節を見てください。「家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい」。そこで彼は立ち去って、自分にイエスがして下さったことを、ことごとく町中に言いひろめた。神さまがこの私にも、どんなに大きな素敵なことをしてくださったのか。それを心に留め、子供らや家族に伝え、家に座っている時も、道を歩く時も、寝る時も起きる時も、それらについて語り、味わいつづけて生きるようにと。そのようにして、心を尽くし、精神をつくし、力を尽くして、あなたの神、主を愛するようにと(申命記6:4-9。神さまからとても大きくて素敵なことをしていただいた私たちですから、そのように日々を暮らしてゆくことができるのです。



11/6「神の御旨にこそ従う」ローマ12:1-2

  ◎とりなしの祈り
 父なる神さま。
暗黒の地に私たちは住み、薄暗がりの中を私たちは歩いていました(ルカ福音書 1:77-79。神さまにも人さまにも逆らい続けるわがまま勝手であまりに頑固な心を抱えていたからです。自分は賢いし、物が分かっていると思い込んでいました。恥ずかしくない、正しく良い行いを十分にしていると自惚れていたからです。そのために他人を見下したり、軽んじたり、自分とほんの少し違う物の考え方や、文化や言葉、ほんの少し違う生活習慣をもつ他の人々を押しのけたりしてしまいました。申し訳ありません。いつの間にか、心がとても貧しくなっていました。どうか、あなたの憐れみによって、この私たちを平和の道へと導いてください。いつもの職場で仲間たちとともに働くとき、家で家族の世話をし、子供を養い育てるとき、年老いた親の世話をするとき、誰かの世話を受けるときにも、いつでも、どこで何をしていても、そこでそのようにして、あなたに仕える思いをもって生きることができるようにさせてください。主よ、わたしたちを憐れんでください。助けを求める声に応えて自分の手を差し伸べることができますように。助け起こされ、ゆるされ、多くを与えられてきた私たちですから、そのように人を助け、また寛大な心でゆるしたり受け入れたりもできますように。なすべきことをし、してはならないことをしないで、言ってはならない言葉を口にださずにいられますように。自分の願いや計画や欲望のままにではなく、むしろただあなたの御心にこそかなって生きることを、この私たちにも願い求めさせてください。
  保育園、幼稚園と、すべての学校教師たちの働きをお支えください。お父さんお母さんたちが、自分の子供たちを十分に愛し、心を砕き、精一杯に養い育てることができるように、その心と毎日の生活とをお支えください。福祉施設と医療現場で働くすべての職員が公正に正しく、また思いやり深く誠実に務めに当たることができますように。貧しく心細く暮らす多くの人々がいます。彼らの毎日の暮らしがあなたの憐れみによって支えられ、心強く守られますように。その彼らのためにも、私たちの家族と地域のためにも、この国と後から来る新しい世代のためにも、私たちをどうか地の塩、世のための光として十分に用いてください。天に私たちの主人がおられます。そのことを信じます。主よ、どうか私たちを憐れんでください。主イエスのお名前によって祈ります。     アーメン。


                                          みことば/2016,11,6(主日礼拝)  84
◎礼拝説教 ローマ手紙 12:1-2                          日本キリスト教会 上田教会
『神の御旨にこそ従って生きる』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
                                                (ローマ手紙 12:1-2)




 まず1節。「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」。「そういうわけで」と語りはじめられました。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝であり、本当の礼拝なのだ。これまで語られつづけてきた中身(ローマ手紙3:21-28,5:6-11,6:1-18,8:1-17,10:8-13,11:17-36が、そのような生き方、そのような信仰生活をせよと命じているというのです。ごく簡単に言ってしまえば、救い主イエス・キリストによって神の憐れみを受け、罪をゆるされ、神に逆らって「私が私が」と強情をはりつづける罪の奴隷状態から救い出され、神の御旨に素直に従って生きることができる者とされた。そういうあなただからこそ、自分の心も体も丸ごと全部を神への生きた供え物としてささげ、そのように一日一日を生きてゆくことができる。ただ日曜日の午前中に礼拝堂で礼拝をささげているだけではなくて、あなたの毎日毎日の朝昼晩のいつもの生活こそが礼拝そのものじゃないか。それこそ、なすべき霊的な礼拝であり、本当の礼拝じゃないかと。
  この私たち自身も恵みにまったくふさわしくない罪人であったのに、けれど罪をゆるされ、救い主イエスを信じる者とされ、新しい生命に生きる者とされました。それは、ただただ神の憐れみの取り扱いでした。差し出され、受け取った憐れみという土台の上に立って日々を生きるようにと命じられ、促されています。このご命令自体もまた、同じく、ただただ神の憐れみの取り扱いです。
  「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」。「からだをささげなさい」と言われ、「生きた供え物としてささげなさい」と念を押されました。生きた供え物であるのは、その供え物が息を吸ったり吐いたり、立ち上がったり横になったり、歩き回ったりして毎日毎日の暮らしを生きて生活するからです。この私共のその普段の暮らしの、ひとコマひとコマずつを、神さまへの供え物とせよ。『せよ』と命じられているのですから、当然そうできるし、私共自身の毎日の暮らしがそのような神への供え物となると太鼓判を押されています。では、自分自身のいつもの暮らしを、ここで具体的に思い巡らせてみましょう。子育て最中のお母さんはご飯支度をし、掃除洗濯をし、子供たちの養育のあれこれに思い悩んだり、喜んだり困ったりしながら暮らしています。その一つ一つが、自分自身のためであり子供のためでもあり、同時に、神さまへの『生きた供え物』でもある。だからその折々に、神への願いと感謝をもって事柄に取り組み、神の御心にかなって判断し、御心にかなって選び取ることを願い求めて働いてゆく。会社や職場で働くときにもまったく同じで、同僚たちと互いに助け合ったり、心を配りあったりしながら、また上司の指示にも従いながら、けれどそれだけではなく、そこでそのようにして、神への願いと感謝をもって事柄に取り組み、神の御心にこそかなって判断し、御心にかなって選び取る。それをこそ本気で願い求めながら働いてゆく。たしかに、その折々の現場で私たちは主婦であり、父さん母さんであり、職場の労働者でもありつつ、それだけではなく紛れもなくクリスチャンでありつづける。なによりも神への願いと感謝をもって事柄に取り組み、自分のしたいようにでもなく上司が命じるままにでもなく、むしろただただ神の御心にかなって判断し、御心にこそかなって選び取ることを願い求めて働いてゆく。いつ、どこで誰と何をしているときにも、「天に主人がおられます。そのことをよくよく習い覚えてきたはずの私だ」(コロサイ手紙4:1参照と自分を戒め、励ましつつ、その一つ一つの事柄に取り組んでゆく。親の介護をして暮らす人々も同じです。食事の世話をし、風呂に入れてあげ、あるいはオムツの始末をしながら、ただ年老いた父親母親のお世話をしているというだけでなく、そこでそのようにして神さまに仕えて働いています。目の前に横たわっているその小さな人は、姿を変えた主イエスご自身であるからです。主はおっしゃいました、「コップ一杯の水を飲ませるとき、手を引いて散歩をするとき、オムツを取り替えてお尻をきれいに拭いてあげるとき、風呂に入れてあげ、背中をさすってあげるとき、その人の悩みや辛さに耳を傾けてあげるとき、その一人の小さな者にしてくれたのは、私にしてくれたことだ。してくれなかったのは、私にしてくれなかったことだ」(マタイ福音書10:40-42,25:31-40と。するとそれは逆に、自分自身が年老いて、身も心も衰え弱って、家族や施設の職員の助けを受けて暮らす日々でもまったく同じです。自分が何をできるか、どれほど人様のお役に立てるか、足手まといで世話を受けるばかりで申し訳ないなどと思ってはなりません。もっと、その千倍も万倍も大切なことがあったのです。神さまが、こんな私にさえ、いったい何をしてくださったか。何をしてくださりつづけているか。なにしろ、神の憐れみの取扱いを受けつづけいる私どもですから、若く元気だった頃とまったく同じに その折々に、神への願いと感謝をもって事柄に取り組み、神の御心にかなって判断し、御心にかなって選び取ることを願い求め、喜びと感謝と希望を神さまからも人さまからも十分に受け取りつづけて生きることができます。
  それこそが、なすべき礼拝そのものです。他の人たちには理解できないでしょうし、分からないでしょう。けれどその一人のクリスチャンは、この私たちは、ご飯支度をしながら、掃除洗濯をしながら、子供たちの養育のあれこれに思い悩んだり、喜んだり困ったりしながら、そこでそのように神さまを礼拝し、自分自身を生きた供え物として神さまにささげています。会社や職場で同僚たちと互いに助け合ったり、心を配りあったりしながら、また上司の指示にも従いながら、「お言葉ですが」と時には勇気を振り絞って言いづらい意見や渋い顔をされながらも言うべき要望を申し述べながら、そこでそのようにして神の御心にこそかなって判断し、御心にかなって選び取ることをこそ本気で願い求めています。そのように、いつもの仕事をしながら神さまを礼拝しています。いつ、どこで誰と何をしているときにも、「天に主人がおられます。そのことをよくよく習い覚えてきたはずの私だ」と自分を戒め、励ましつつ。なんということでしょう。ついにとうとう、なすべき霊的な礼拝を、まことの礼拝をささげ、礼拝にあずかっています。サマリヤの山の上でもなくエルサレムの神殿ででもなく、どこかのキリスト教会の礼拝堂でさえなく、家の中で、職場で、道を歩きながら、施設のベッドにじっと横たわりながら、痛みに耐えながら、そこでそのようにして霊とまこととをもって天の御父を礼拝しています。今がその時です。神は霊であるから、礼拝する私共も霊とまこととをもってなすべき礼拝し、自分のからだと暮らしを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげています。朝も昼も晩も。いつ、どこで、誰と何をしていても、たとえ何一つもしていなくたって。
 次に2節。「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」。この世と妥協するとは、『この世界の在り方や習慣や流儀と同じ形になる』という意味です。この世と同じ形ややり方にならずに、ではどういう形になるのか? キリストの在り方、キリストが示し、教えてくださったやり方と心得をもって、神の憐れみのもとに据え置かれた者たちとして生きるということです。「むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」。いいえ、弁え知ることができるし、ちゃんと知っているはずだし、そのように弁え知りつつ生きるものとされている、という神からの約束です。
  しかも月に一回、私どもの目の前に格別なパンと杯が据え置かれています。「だから、ふさわしくないままでパンを食し、主の杯を飲む者は、主の体と血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ、杯を飲むべきである。主の体をわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分に裁きを招くからである」(コリント手紙(1)11:27-29)「ああ 全然ふさわしくない私」。その通り。当たっています。けれど、それは聴き取るべき真理の中の半分にすぎません。大事な半分ですが、残りの、その千倍も万倍も大事な半分は、「その、ふさわしくない、不十分な人間を、神さまは憐れんでゆるし、喜んで迎え入れ、きっと必ず救う」ということです。宗教改革者はこう説明しました;「このお祝いパーティは、(パン&杯も、他なにもかもも)神さまからの贈り物です。病いを抱えた者には医者の薬。罪人には慰め。貧しい者には贈り物。しかし自分は健康だと思っている者や、『自分はただしい、ちゃんとやっている』と買いかぶっている人や、すでに豊かに満たされている者には何の意味もありません。ただ一つの、最も善いふさわしさは、神さまの憐れみによってふさわしい者とされるために、私たち自身の無価値さとふさわしくなさを神さまの前に差し出すことです。神さまによって慰められるために、自分自身においては『ダメだ、ダメだ』と絶望すること。神さまの憐れみによって立ち上がらせていただくために、自分自身としては低くへりくだること。神さまによって『ただしい。よし。それで十分』としていただくために、自分自身のうぬぼれや卑屈さ、了見の狭さ、ズルさ、臆病さ、独りよがりな悪さをまっすぐに見詰めること。それらを憎むこと。神さまによって晴れ晴れと生きさせていただくために、古い罪の自分と死に分かれること」と(J.カルヴァン『キリスト教綱要』。Ⅳ篇1740-42節を参照)
  さて、これがパンを食べ杯を飲み干すときの心得であるとして、それならば、パンと杯が目の前にないときは、主を信じて生きて死ぬはずのこの私たちはどう心得たらいいでしょう。同じです。パンと杯が目の前にあっても無くても。兄弟姉妹たち。私たちは、ただただ、主なる神さまの憐れみによってだけふさわしい者とされます。神さまご自身からの慰めと力づけを、ぜひ受け取りたい。主によって立ち上がらせていただき、主によって生きることをし始めたい。他のナニモノでもなく、主ご自身への信頼によって生き、他のナニモノに従ってでもなく主イエスの福音に従って選び取り、判断しながら生きること。日曜の午前中と午後と、教会の敷地内で、このように心得ていたいと願っています。それなら自分の家に帰って、連れ合いや子供たちや年老いた親の前では? 町内会や親戚たちの前では? いつもの職場や学校では?

     〈次週からの礼拝内容〉
1113  ローマ手紙 13:1-2   『権威者とは何者か?』
    20    13:3-7      『権威者の限界と慎み』
  27  サムエル記下12:1-15  『預言者が立ちふさがる』
124   創世記1:26-2:3         『人間とは何者か?』
    11  マタイ福音書24:44-51  『どう生きて、死ぬか?』
    18  コロサイ手紙 3:12-4:1ローマ手紙13:8-10『隣人を愛する』
    25  ローマ手紙 13:11-14   『夜はふけ、朝が近づいた』(クリスマス)