みことば/2020,7,12(主日礼拝) № 275
◎礼拝説教 ルカ福音書 11:33-36 日本キリスト教会 上田教会
『あなたの内なる光』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
11:33 だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。34
あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。35 だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。36
もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。(ルカ福音書 11:33-36)
33-35節、「だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい」。救い主イエスが私たちに向けて語っておられ、そこから大切なことを教えられます。神を信じて生きてゆくための光と格別な贈り物を与えられている私たちです。だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。そのとおりです。救い主イエスの福音が一人の人の魂の前に置かれるとき、それは、明かりをもとされた灯火を神さまが人の魂の前に置くことと似ています。神の国の福音を聞いて、そのとおりだと認め、そこには確かに真実があるかも知れないと分かるだけでは、それは不十分です。その人の心の中に受け入れられ、その福音に従って毎日の生活が営まれはじめる必要があります。もし、そうではないなら、誰もいない真っ暗な穴倉の中に灯火が置かれたようなものです。枡の下に置かれて、何を照らすこともなく、周囲の人々にも自分自身にもその光がほんの少しも届かないようなものです。
「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」 (ヨハネ福音書8:12)
「あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい」 (1テサロニケ手紙5:5-11)
また、34節、「あなたの目が」「あなたの目が澄んでいれば、全身も明るい」「目が悪ければ、からだも暗い」と繰り返して語られていることに注意を向けましょう。肉体的・医学的な意味ではなく、「目が見える」「見えない」と比喩的な象徴的な言い方で、主イエスとパリサイ派の人々や律法学者たちが厳しい討論を繰り返していました。イエスは言われました、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言いました、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」。イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」(ヨハネ福音書9:39-41)。どんな神なのか、その御心はどのようであるのか、御心に従ってどう生きることができるのかを詳しく知らされている私たちです。つまり、そのようにして神さまからの輝く明かりを手に持たされている私たちです。信仰の事柄として、神の働きの現実や神の御心を理解し、受け止め、そのように毎日の暮らしを生きること。子供たちのための祈りでも、こう祈ります。「神さま。明るい昼間でも目がよく見えない私たちです。あなたのお働きや御心がよく見えるようにさせてください」と。心が曇り、また鈍くされてしまい、神さまを悲しませるような、御心に逆らうことを次々としてしまう私たちです。あのパリサイ人や律法学者のようにです。ですから神さまに、「目が良く見えるようにしてください。あなたの御心を知って、御心にかなう良い行いを選びとることができるようにさせてください」と日毎に祈り求め続けて生きる私たちです。ここでも、そういう信仰の関りとして「あなたの目が澄んでいれば、全身も明るい」「目が悪ければ、からだも暗い」と告げられます。例えば「手」や「足」や「お腹」ではなく、「あなたの目が」とわざわざ言われます。私たちが歩いているとき、目こそが、その人の行動や行き先を具体的に決めたり導いたり、方向づけたりします。
また35節で、「あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい」と語りかけられました。さらに36節、「もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いて照す時のように、私たちの全身が明るくなるであろう」。あかりが輝いてあなたを照らすときのように、全身が明るくなる。すでに神さまからの明るい明かりが登り、私たちの上に昼も夜も輝きつづけています。だから私たちは「地の塩であり、世を照らす光」であると呼ばれ、救い主イエスを信じて生きているクリスチャンです。救い主イエスは、人々に語ってこう言われました、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ福音書8:12)。この私こそが全世界を照らすための光である、と救い主イエス・キリストは断固として仰います。全世界と、そこにあるすべての生き物を照らすのですから、ユダヤ人とそれ以外の外国人という区別や差別が取り除かれただけではなく、よく学んだ学者とそうではない者、高貴な生まれと、貧しく卑しい生まれとの違いも取り除かれ、どんな区別も分け隔ても、ただお独りの光であられるかたの御前ではすでにすっかり取り除かれています。
しかも、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがない」と語られました。そこで、光であられる救い主イエスを求め、このかたの御前へとぜひ向かってゆくべき理由もまた、はっきりと告げられました。この世界に薄暗がりや真っ暗な闇が広がっているからであり、自分自身が薄暗い闇の中に虚しく座り込んでいたことを知らされ、また薄暗い中で目が良く見えなくされてもいたことにも気づかされます。だからこそ、目が開かれて、その目で見るべきものをはっきりと良く見ることができためにこそ、『あなたも救い主イエスのもとに向かってきなさい』と招かれています。こどものためのあの祈りはこのことをこそ指し示していました。「神さま。明るい昼間でも目がよく見えない私たちです。あなたのお働きや御心がよく見えるようにさせてください。私の心はたびたびとても曇らされ、また鈍くされてしまいます。そのようにして神さまを悲しませるような、御心に逆らうことを次々としてしまう私たちです。神さま、目が良く見えるようにしてください。あなたの御心を知って、御心にかなう良い行いを選びとることができるようにさせてください」と。
「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがない」と語られました。この世界と私たち自身を照らす光が、あちらこちらに、いくつもいくつも、無数にあるわけではありませんでした。この世界全部と私たち一人一人を明るく十分に照らし出すことのできる、ただ一つの、まことの光です。つまりは、見せかけだけの偽りの虚しい光があり、すぐに失われてしまいやすい、やがて消え去ってしまうほかない当てにならない光や、偽物の輝きもあちらこちらにあって、私たちを惑わしもします。ほんのひととき、そうした虚しい光や輝きが私たちを楽しませることがあるとしても、それは、やがてじきに失われてしまいます(ヨハネ福音書5:35「ヨハネは燃えて輝くあかりであった。あなたがたは、しばらくの間その光を喜び楽しもうとした」参照)。だからこそ、この世界を照らすために、まことの光がこの世界にくだってきました。神ご自身が世を照らし、私たちを照らすまことの光です。救い主イエスこそがこの世界を照らすためにくだってこられた神ご自身であり、世を照らすまことの光です。この救い主イエスを信じ、語られるその言葉を聞きつづけている私たちも、その御言葉の光を浴び、その光に照らされ、神からの光を反射します。神からのその明るい光を周囲に輝かせて生きる者とされました。
「わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがない」と語られました。世を照らすまことの光である救い主イエスがおられる。このお独りのかたのもとに来なさい、と教えられました。そうすれば、あなたも闇のうちを歩くことがない。誰かを軽々しく軽蔑したり、非難したり、憎んだり怒ったり、邪魔者扱いしたり、また誰かを困らせたり苦しめたりという、邪悪な闇の行ないをあなたはしてはいけないし、「あなたはそういうことをしないでいられる」と勧められ、また、「そうではないあなたとならせてあげよう」と神から保証されています。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがないと。35節で、「あなたがたの内側にある光」と語りかけられました。どういうことでしょう。自分自身の内側には、どこを探しても光は見当たりませんでした。自分自身の外側にあった、神ご自身の光こそが贈り与えられ、その光は外から来て、私たちの体の中に入ってきました。神の国の福音の光です。なぜ私たちは地の塩であり、光の子供たちであるのか。全世界を照らすまことの光である救い主イエスを信じているからであり、そのかたの御言葉を聞き、聞いた言葉を心の中に受け入れ、蓄えているからです。そのように明かりをともされ、その明かりに導かれて、救い主イエスに従ってゆく者たちであるからです。聖書は証言します、「あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい」(1テサロニケ手紙5:5-11)。明るい昼の光の中でも目が良く見えない私たちだと申し上げました。同じことを、昼間から眠り込んでいてはいけないと励まされます。目を覚まして、主なる神さまに目と心を向けていようと。主イエスを信じているという「信仰」と、神が私たちの味方であり、神が価なしに、ただ恵みによって憐れんでくださり、私たちを愛してくださっているという「胸当て」を付け、さらに救いの望みのかぶとを被って武装していましょう。そうであれば、私たちはそこでようやく、慎み深く、また心安らかに毎日の暮らしを生きることができます。この世の悩みや生活の上での思い煩いが次々にあって、けれどそれを投げ捨てつづけ、邪悪な貪欲を振り払って、誘惑に巻き込まれないように生きることができます。すると、そのとき、昼も夜も明るい中を生きる私たちです。なぜなら、私たちを照らすまことの光が、すでに私たちのうえに上っているからです。
33-35節、「だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい」。救い主イエスが私たちに向けて語っておられ、そこから大切なことを教えられます。神を信じて生きてゆくための光と格別な贈り物を与えられている私たちです。だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。そのとおりです。救い主イエスの福音が一人の人の魂の前に置かれるとき、それは、明かりをもとされた灯火を神さまが人の魂の前に置くことと似ています。神の国の福音を聞いて、そのとおりだと認め、そこには確かに真実があるかも知れないと分かるだけでは、それは不十分です。その人の心の中に受け入れられ、その福音に従って毎日の生活が営まれはじめる必要があります。もし、そうではないなら、誰もいない真っ暗な穴倉の中に灯火が置かれたようなものです。枡の下に置かれて、何を照らすこともなく、周囲の人々にも自分自身にもその光がほんの少しも届かないようなものです。
また、34節、「あなたの目が」「あなたの目が澄んでいれば、全身も明るい」「目が悪ければ、からだも暗い」と繰り返して語られていることに注意を向けましょう。肉体的・医学的な意味ではなく、「目が見える」「見えない」と比喩的な象徴的な言い方で、主イエスとパリサイ派の人々や律法学者たちが厳しい討論を繰り返していました。イエスは言われました、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言いました、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」。イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」(ヨハネ福音書9:39-41)。どんな神なのか、その御心はどのようであるのか、御心に従ってどう生きることができるのかを詳しく知らされている私たちです。つまり、そのようにして神さまからの輝く明かりを手に持たされている私たちです。信仰の事柄として、神の働きの現実や神の御心を理解し、受け止め、そのように毎日の暮らしを生きること。子供たちのための祈りでも、こう祈ります。「神さま。明るい昼間でも目がよく見えない私たちです。あなたのお働きや御心がよく見えるようにさせてください」と。心が曇り、また鈍くされてしまい、神さまを悲しませるような、御心に逆らうことを次々としてしまう私たちです。あのパリサイ人や律法学者のようにです。ですから神さまに、「目が良く見えるようにしてください。あなたの御心を知って、御心にかなう良い行いを選びとることができるようにさせてください」と日毎に祈り求め続けて生きる私たちです。ここでも、そういう信仰の関りとして「あなたの目が澄んでいれば、全身も明るい」「目が悪ければ、からだも暗い」と告げられます。例えば「手」や「足」や「お腹」ではなく、「あなたの目が」とわざわざ言われます。私たちが歩いているとき、目こそが、その人の行動や行き先を具体的に決めたり導いたり、方向づけたりします。
また35節で、「あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい」と語りかけられました。さらに36節、「もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いて照す時のように、私たちの全身が明るくなるであろう」。あかりが輝いてあなたを照らすときのように、全身が明るくなる。すでに神さまからの明るい明かりが登り、私たちの上に昼も夜も輝きつづけています。だから私たちは「地の塩であり、世を照らす光」であると呼ばれ、救い主イエスを信じて生きているクリスチャンです。救い主イエスは、人々に語ってこう言われました、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ福音書8:12)。この私こそが全世界を照らすための光である、と救い主イエス・キリストは断固として仰います。全世界と、そこにあるすべての生き物を照らすのですから、ユダヤ人とそれ以外の外国人という区別や差別が取り除かれただけではなく、よく学んだ学者とそうではない者、高貴な生まれと、貧しく卑しい生まれとの違いも取り除かれ、どんな区別も分け隔ても、ただお独りの光であられるかたの御前ではすでにすっかり取り除かれています。
しかも、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがない」と語られました。そこで、光であられる救い主イエスを求め、このかたの御前へとぜひ向かってゆくべき理由もまた、はっきりと告げられました。この世界に薄暗がりや真っ暗な闇が広がっているからであり、自分自身が薄暗い闇の中に虚しく座り込んでいたことを知らされ、また薄暗い中で目が良く見えなくされてもいたことにも気づかされます。だからこそ、目が開かれて、その目で見るべきものをはっきりと良く見ることができためにこそ、『あなたも救い主イエスのもとに向かってきなさい』と招かれています。こどものためのあの祈りはこのことをこそ指し示していました。「神さま。明るい昼間でも目がよく見えない私たちです。あなたのお働きや御心がよく見えるようにさせてください。私の心はたびたびとても曇らされ、また鈍くされてしまいます。そのようにして神さまを悲しませるような、御心に逆らうことを次々としてしまう私たちです。神さま、目が良く見えるようにしてください。あなたの御心を知って、御心にかなう良い行いを選びとることができるようにさせてください」と。
「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがない」と語られました。この世界と私たち自身を照らす光が、あちらこちらに、いくつもいくつも、無数にあるわけではありませんでした。この世界全部と私たち一人一人を明るく十分に照らし出すことのできる、ただ一つの、まことの光です。つまりは、見せかけだけの偽りの虚しい光があり、すぐに失われてしまいやすい、やがて消え去ってしまうほかない当てにならない光や、偽物の輝きもあちらこちらにあって、私たちを惑わしもします。ほんのひととき、そうした虚しい光や輝きが私たちを楽しませることがあるとしても、それは、やがてじきに失われてしまいます(ヨハネ福音書5:35「ヨハネは燃えて輝くあかりであった。あなたがたは、しばらくの間その光を喜び楽しもうとした」参照)。だからこそ、この世界を照らすために、まことの光がこの世界にくだってきました。神ご自身が世を照らし、私たちを照らすまことの光です。救い主イエスこそがこの世界を照らすためにくだってこられた神ご自身であり、世を照らすまことの光です。この救い主イエスを信じ、語られるその言葉を聞きつづけている私たちも、その御言葉の光を浴び、その光に照らされ、神からの光を反射します。神からのその明るい光を周囲に輝かせて生きる者とされました。
「わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがない」と語られました。世を照らすまことの光である救い主イエスがおられる。このお独りのかたのもとに来なさい、と教えられました。そうすれば、あなたも闇のうちを歩くことがない。誰かを軽々しく軽蔑したり、非難したり、憎んだり怒ったり、邪魔者扱いしたり、また誰かを困らせたり苦しめたりという、邪悪な闇の行ないをあなたはしてはいけないし、「あなたはそういうことをしないでいられる」と勧められ、また、「そうではないあなたとならせてあげよう」と神から保証されています。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがないと。35節で、「あなたがたの内側にある光」と語りかけられました。どういうことでしょう。自分自身の内側には、どこを探しても光は見当たりませんでした。自分自身の外側にあった、神ご自身の光こそが贈り与えられ、その光は外から来て、私たちの体の中に入ってきました。神の国の福音の光です。なぜ私たちは地の塩であり、光の子供たちであるのか。全世界を照らすまことの光である救い主イエスを信じているからであり、そのかたの御言葉を聞き、聞いた言葉を心の中に受け入れ、蓄えているからです。そのように明かりをともされ、その明かりに導かれて、救い主イエスに従ってゆく者たちであるからです。聖書は証言します、「あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい」(1テサロニケ手紙5:5-11)。明るい昼の光の中でも目が良く見えない私たちだと申し上げました。同じことを、昼間から眠り込んでいてはいけないと励まされます。目を覚まして、主なる神さまに目と心を向けていようと。主イエスを信じているという「信仰」と、神が私たちの味方であり、神が価なしに、ただ恵みによって憐れんでくださり、私たちを愛してくださっているという「胸当て」を付け、さらに救いの望みのかぶとを被って武装していましょう。そうであれば、私たちはそこでようやく、慎み深く、また心安らかに毎日の暮らしを生きることができます。この世の悩みや生活の上での思い煩いが次々にあって、けれどそれを投げ捨てつづけ、邪悪な貪欲を振り払って、誘惑に巻き込まれないように生きることができます。すると、そのとき、昼も夜も明るい中を生きる私たちです。なぜなら、私たちを照らすまことの光が、すでに私たちのうえに上っているからです。