2016年3月31日木曜日

3/27「心を騒がせるな」ヨハネ14:1-3

                            みことば/2016,3,27(復活節第1主日の礼拝)  52
◎礼拝説教 ヨハネ福音書 14:1-3                       日本キリスト教会 上田教会
『心を騒がせるな』
+(付録)聖書研究 『私たちはふつつかなしもべです。すべき事をしたに過ぎません』


  牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

14:1 「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。3 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。      (ヨハネ福音書 14:1-3)


1-3節。救い主イエスが十字架につけられて殺されてしまう、その前の晩のことです。「十字架につけられ、殺され、墓に葬られ、その三日目に墓からよみがえることになっている」と主イエスはご自分の弟子たちに繰り返し繰り返し、あらかじめ知らせていました。けれど、弟子たちはそれが本当のことなのか、またどういうことなのかを、なかなか理解することも受け入れることも出来ませんでした。本当に主イエスが殺され、どこかへいなくなってしまうとするなら、その後、自分たちはどうしたらいいのか。いったい何を頼りや支えとして、何にすがって生きてゆけるのかと。いよいよその時が迫って、弟子たちの心は騒ぎ立ち、激しく揺さぶられています。その弟子たちのうろたえぶりと、心細さ、惨めさ、あまりの恐れを思いやって、主イエスは彼らに語りかけます。「あなたがたは心を騒がせないがよい。ビックリしたり怖がったり心細がったりしないで安心していることが、あなたにも出来るから」と。心を騒がせたり激しく揺さぶられたりしないためには、あなたがたは父なる神を信じ、そしてこの私をも信じなさい。よくよく信じなさいと。
  しかも、この私たちも彼らと同じです。強がって見せても、誰でも本当はとても心細かったのです。恐ろしいことや心配事が山ほどあって、次々とあって、あの彼らのようにたびたび激しくうろたえながら、心を騒がせ、激しく揺さぶられながら、私たちも暮らしています。小さな子供たちもそうです。中学生高校生、大学生も、世の中で働きはじめた若者たちもそうです。子供を育てている若いお父さんお母さんたちも、そればかりではなく、ずいぶん長く生きてきたはずの年配の方々も実は、子供たちや若い者たちに負けず劣らず、それぞれの心細さを抱えて毎日毎日の暮らしを生きています。
  「父なる神を信じ、そしてこの私を信じなさい。よくよく信じなさい」と主イエスは、すでにちゃんと十分に信じているはずのその弟子たちに、わざわざ念を押しています。そうする必要があるからです。信じているはずの信仰は、けれど紛れてしまいやすいからです。例えばガリラヤの湖の上で小舟に乗っていて、弟子たちがアタフタオロオロした時がありました。それも2回も(マタイ8:23-27,14:22-。主イエスが小舟の片隅で眠り込んでおられたときと、そこに主イエスがおらず弟子たちだけで小舟に乗り、大波や風にあおられて舟が沈んでしまいそうになったとき。1回目、主イエスが風と湖を叱りつけると風も波も鎮まりました。「この方はどういう方なのだろう。風も湖も従わせてしまうとは」と弟子たちはとても驚きました。2回目、主イエスは水の上を歩いて弟子たちのところに来てくださいました。弟子の一人ペテロは「自分も同じように水の上を歩かせてください」と願い、「来なさい」と命じられ、歩き始めました。最初の一歩二歩くらいは、なんとか水の上を歩けました。けれどすぐに、ザブーン、ザブーンと打ち寄せる大波や強い風が怖くなり、それが気になって気になって、するとブクブクブクと沈みはじめて、危うく溺れかけました。「主よ、お助けください」とペテロは叫びました。主イエスは彼を助けて、舟に乗せ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と仰いました。だいたい皆、これくらいのものです。信じていないわけではない。けれど全然足りないし、薄すぎる。すぐに、ザブーン、ザブーンと打ち寄せる大波や強い風が怖くなり、それが気になって気になって、するとブクブクブクと沈みはじめて、危うく溺れかける。大波が打ち寄せても、強い風が吹いても、いいえ 大波がザブーン、ザブーンと打ち寄せれば打ち寄せるほど。風がビュービューと吹き付ければ吹き付けるほど、それだけますます主イエスにこそ目を凝らさねばなりませんでした。例えば神の民とされたイスラエルの歴史も、気もそぞろなこのペテロとだいたい同じでした。信じていないわけではない。けれどその信仰は全然足りないし、薄すぎる。その証拠に、そよ風がほんの少しそよそよ吹いて、ほんのちょっと波がチャプチャプ、パシャパシャと小舟を揺らしただけで、その途端すぐ他のアレコレが気にかかって気にかかって、するとブクブクブクと沈みかける。助けてもらって、舟に乗せていただく。また心が騒いでブクブク沈みかけて、その繰り返しです。「風も湖も従わせてしまうとは、この方はどういう方なのだろう」と驚きながら、何度も何度も驚きを味わいながら、主イエスがどういう方なのかがなかなかピンと来ない。預言者たちは口を酸っぱくして、同じことを語りかけつづけました。「『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』」(イザヤ書7:4,30:15-16,出エジプト記14:13-14,116:7もし、『私もあの彼らと似たようなものだ。信仰がないわけじゃないが足りなすぎるし薄すぎる』と気づくなら、「神さま。どうか私の信仰を増し加えてください」と願い求めることができます。「神さまによって救われ、力を得たい。格別な安らぎと確かさを私も受け取りたい」と、もし願うなら、その願いはきっと必ずかなえていただけます。
 さて2-3節、「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、また来て、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」。このことを、よく覚えておいてください。小さな子供も、このまえ、この飛びっきりに大切な問題を質問していました。「ねえねえ、お母さん。死んだらどうなるの。どこに行くの?」。その大切な子供にもぜひ教えておいてあげなくちゃ。これが答えです。しかも主イエスご自身からの答えですから、十分に信用できます。詳しく聞き分けましょう。「わたしの父の家」。主イエスにとっての父は、私たちにとっても父です。主イエスを信じる私たちは、イエスをとおして父の子供たちとしていただいたからです。だから、私たちの父の家です。そこは私たちにとっても自分の故郷であり、自分の実家であり、自分たちの家です。この父から決して忘れられることもなく、いつでも大歓迎で迎え入れられ、くつろいで安心してそこにいることが出来ます。自分たちの家なんですから。主イエスを信じて、ただそれだけで神の子供たちとしていただいた私たちです。ですから、神の子供たちのうちで最も弱々しい子供も、とても礼儀知らずな乱暴な子供も、神に背いてばかりいる不届きな子供も、つまりは最低最悪の、罪人の中の頭であり罪人中の罪人でさえ、その家から締め出されることがありません。「こんなつまらない、ちっぽけな私の居場所なんか無いかもしれない」などと誰も恐れたり怖じける必要もない。
  「あなたがたのために、場所を用意しに行く。行って、場所の用意ができたならば、また来て、あなたがたをわたしのところに迎える。わたしのおる所にあなたがたもおらせる」と主イエスは仰る。ビックリです。主イエスが、父の家の中に私たち一人一人の場所を用意してくださる。主イエスが迎えに来てくださり、ご自身がおられる所に私たちをもおらせてくださる。なんと何から何まで、至れり尽くせりです。「彼のところに私たちが行くのを待っている」というのではなく、迎えに来てくださり、連れて行ってくださる。最初のクリスマスの夜、一回目に主イエスがこの世界に来てくださったとき、それは私たち罪人を神の子供たちとし、神さまと共に生きる新しい喜ばしい生命を贈り与えてくださるためでした。二回目に、やがて再び主イエスが来られるとき、それは主イエスを信じて生きる私たちにとって、一回目に負けず劣らずに慰め深い出来事となります。なぜなら天にある私たちの父の家、自分の故郷、自分の実家、自分たちの家に迎え入れていただく時となるのですから。では、これらのことについて何と言ったらよいでしょうか。神さまが私たちの味方です。いつ? もちろんいつでもです。生まれる前から、今までも今も、死んだあとでも。それならいったい誰が私たちを困らせたり、悪さをしたり、苦しめたりできるでしょう。誰が私たちを訴えたり、「こんな悪いことをした悪い人間だ」などと悪口を言ったりできるでしょう。誰にも何一つも手出しができません。なぜ? 神さまが私たちの味方ですから。御父がご自身の独り子イエスをさえ惜しまず死に渡し、墓に葬り、三日目によみがえらせてくださったからです。その御父が御子イエスと共にこの私たちをも新しい生命に生きさせてくださるからです。御子イエス・キリストを贈り与えてくださった父なる神さまが、御子イエスとともに、すべて何でも私たちに贈り与えてくださらないはずがないからです。キリスト・イエスは死んで、いいえ、ただ十字架につけられて死んだだけではなくて 葬られ、その三日目に墓からよみがえって、父なる神さまの右にある王様のイスに座り、世界全部、生き物たち全部とともにこの私たちのためにも、力を存分に働かせてくださるからです。だからもう私たちは今でははっきり信じています。はっきりと知っています。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他、神さまに造られたにすぎないどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示され、手渡された神の愛から、わたしたちを引き離すことは決してできないのだということを(ヘブル手紙11:13-16,ピリピ手紙3:20-21,ローマ手紙 8:31-39参照)
  これで私たちも今では、湖で溺れかけたペテロよりも安心です。風も波も従わせ、私たちの揺さぶられやすい危うい心をさえ鎮めることのできるただお独りの方を、主イエスを知っているし、そのお方をこそ本気で信じてもいるからです。『生きていても死んだ後でも、なにしろ主イエスが一緒にいてくださる。一緒にいるだけでなく、ちゃんと守って助けてくだる。どこからでも何があっても、だから大丈夫』と太鼓判を押されているからです。この私たちは主なる神さまのもとに立ち返って、そこで落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば、力を得る。力を得つづける。なぜ? 主なる神さまを喜び祝うことこそ私たちの力の源であり、力そのものであるからです(イザヤ30:15-17,マタイ28:18-20,ネヘミヤ記8:10を参照)。しかも、今ではとうとう、そのように生きて死ぬことを確信し、本気で願い求めてもいるからです。なんという恵み、なんという幸いでしょう。

★★★  礼拝予告 ★★★
3 『道、真理、生命』 
ヨハネ福音書 14:4-6
  10 『死んで、それで終わりではない』
       テサロニケ手紙(1) 4:13-5:10
 17 『明日も分からない生命?』
         コリント手紙(1) 15:17-33
 24  『無から有を呼び出す神』
ローマ手紙 4:17-25
1 『生きるにも死ぬにも』
ローマ手紙 14:4-9
   8 『私は動かされない』  16:7-11

 ◎とりなしの祈り

救い主イエスを死者の中からよみがえらせ、それだけでなく、主とともに私たちをも新しい生命に活かしてくださる父なる神さま。命の約束を、どうか今日こそ私たちに堅く信じさせてください。悲しむとき、誘惑にあうとき、孤独で心細く暮らす日々に、病いの床にあり死が間近に迫るときにさえ、あなたの御前で勇敢に人生に立ち向かい、苦難や死に対してさえ、恐れなく立ち向かうことができます。このことを、どうかこの私たちにもはっきりと確信させてください。
 この29()に、とうとう戦争法案が施行されます。神さま申し訳ありません。神さまに対しても同胞たちに対しても、私たちはお詫びのしようもありません。自衛隊員が世界中の紛争地域に派遣され、殺したり殺されたりしはじめます。小さな少年の兵隊たちとも命を奪い合います。外国で暮らす日本人とその家族の生命も狙われつづけます。泥沼の中で無残な報道が次々と耳に入りつづけるでしょう。なんという恐ろしい法案を私たちはゆるしてしまったのでしょう。だからこそ諦めず、目と耳をふさぐことなく、このはなはだしく悪い法律を廃止する日まで、大人である私たち自身が自分の責任を痛感し、責任を果たしつづけることができるように導いてください。あまりに危険で無責任な原子力発電所を稼働させ続け、放射能汚染水を地面の下や海に垂れ流しつづけ、アジア諸国にその危険で無責任な発電所を売りつけようとしていることのはなはだしい無責任さも身勝手さも、この私たち自身にあります。日本で暮らす外国人を憎んだり排除しようとする人々の邪まな活動に対しても、私たちは責任があります。過酷で劣悪な労働条件で働かされ、安く利用され、使い捨てにさせられつづける人々の貧しく惨めな暮らしに対しても、米軍基地を無理矢理に押し付けられている沖縄の同胞たちに対しても、神さま、私たちには果たすべき大きな責任があります。貧しく心細く暮らす子供たちとその家族に対して、年老いた人々に対しても、若者たちに対しても、被災地や仮設住宅に置き去りにされている人々に対しても、私たちには果たすべき責任があります。後から来る若い世代に対して、私たちには大きな責任があります。まったく、本当に申し訳ないことです。お詫びのしようもありません。そのことを覚えつづけさせてください。主なる神さま、私たちは大きな苦難の中に据え置かれています。どうか私たちを憐れんでください。なによりも、あなたが生きて働いていますことを私たちにはっきりと堅く信じさせ、御心にかなって生きることを私たちに今日こそ本気で願い求めさせてください。この世界のためにも、また私たちの家族や職場の仲間たちに対しても、深手を負って道端に倒れている小さな隣人たちのためにも、あなたご自身の平和の道具として、私たちを朝も昼も晩も用いてください。
 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン


(付録)聖書研究
『私たちはふつつかなしもべです。
すべき事をしたに過ぎません』
                   金田聖治

17:5 使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増してください」と言った。6 そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。7 あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。8 かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。9 僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。10 同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。   (ルカ福音書 17:5-10)


  キリスト教会が2000年かかって考え巡らせつづけ、今後も考えたり思い煩ったり、ときにはなはだしく誤解しつづけるだろうことを、僕も思い巡らせてきました。キリスト教会に出戻ってきた30歳のときから今日に至るまでの27年間。救われるのは、善い行いによってなのか、それともただただ恵みによるのか? もちろん、『ただ恵みによる。自分自身の良き業は、自分が救われるかどうかとはまったく何の関係もない』と聖書66巻は素朴で単純明瞭な唯一の真理を答えつづけます。500年前のハイデルベルグ信仰問答は、問60-64の中で、この課題に答えようとしました。「まったくの恵みなのです」と断言する問63のために、根拠としてルカ福音書1710節があげられます。問答そのものよりもむしろ、ルカ17:5-10が十分な答えを差し出します――
 ルカ福音書175-10節を読んでみましょう。
 「私たちの信仰を増してください」と弟子たちから願い求められ、主イエスがその願いに、たとえ話を用いてお答えになります。まず7-9節。『家の主人』は神さまです。『しもべたち』は、人間全般を見渡しているとしても、特には私たちクリスチャンのことです。畑を耕したり、あるいは牛や羊の世話などをしてそれぞれ一日働いて、夕暮れ時に私たちは主人の家に帰ってきます。クタクタに疲れ果てているかも知れません。けれど主人はその召使いに、「疲れただろう。よく働いた。ご苦労だった。さあさあ手を洗って、すぐ食卓に着きなさい。いっしょに晩飯を食べようじゃないか」などと言うだろうか。いいや、かえって、「夕食の用意をしてくれ。そして私が飲み食いをするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。わたしが十分に食べ終えた後で、自分の分の飲み食いをするがよい」と言うではないか。9節はさらに痛烈です。「主人から命じられたことを召使いがすべてすっかり果たしたからといって、主人はその召使いに感謝するだろうか。いいや、するはずがない」。そして締めくくりの10節;「同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕(しもべ)です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。これこそが、天の主人に仕える召使いであるすべてのクリスチャンが弁えているべき基本の認識であり、心得であるというのです。わたしたちはふつつかな僕(しもべ)です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい。ただ口で言うだけでなく、心でも腹でも味わいつづけなさい。はい、分かりました。
  この箇所を読んで、あなた自身はどんな気持ちがしましたか? 嬉しい気持ちがしたでしょうか。それとも、見下されたような踏みつけられたような、なんだか嫌な気がしましたか。
  これが、『救われるのはただ恵みによる。自分自身の良き業は、自分が救われるかどうかとはまったく何の関係もない』ことに関する、救い主イエスご自身からの決定的な証言です。しかも驚いたことに、この召使いは不当な扱いをまったく受けていません。しかも、召使い自身も渋い顔も嫌な顔も、ウンザリした顔もしていないはずです。分かりますか? 耕作、牧畜、主人の食事のための世話、その他もろもろは良き業にもなり、悪い業にも成り下がりうるでしょう。働きの一つ一つが『感謝の献げもの』であるのかどうか、その中身と心こそが問われるからです。同じことをしながら失敗し、思い違いをして、悪い働きをしてしまった召使いたちが聖書中に列挙されました。まず不機嫌になったカイン、士師ギデオン、サウル王、不機嫌になったマルタ姉さん、不機嫌になった放蕩息子の兄、ぶどう園の早朝から働いて不機嫌になった労働者たち、不機嫌になって互いにイガミ合い、押しのけ合ったピリピ教会、コリント教会の兄弟姉妹たち、そのほか多数(創世記 4:1-16,士師記 8:22-27,サムエル記上13:8-14,15:7-27,ルカ福音書10:38-42,15:25-32,マタイ福音書20:1-16,ピリピ手紙2:1-5,12-18,コリント手紙(1)1:10-17,3:1-4,12:12-269節で「主人は召使いに感謝をしない」と断言されて、はっと気づきます。そうだったのか。「ご主人からも人様からも感謝され、誉められて当然」と私たちが思い込んでいるからです。自分は正しく立派な人間だと自惚れて他人を見下し、「誰彼は罪深い。いたらない」などと裁きつづけていたからです。人間中心のモノの見方にかぶれて、自分の目の中の大きな梁に少しも気づきませんでした。この私たちこそがあまりに罪深かったのです。たびたび不機嫌になり、不平不満をつぶやいたり苛立ったりしつづけた理由はそこにありました。そうだったのか。主人が私たち召使いに感謝するのではなく 召使いである私たち自身こそが、ご主人に感謝を申し上げるのです。何について? 朝から夕方まで、耕作や牧畜やさまざまな労働をしながら、そこでそのようにして主人に仕えて働くことができたこと。主人の食事の世話までさせていただいたことについてです。良き業など到底できなかったはずの私たち。もし、できたのなら、それらは恵みの贈り物でした。朝、仕事に出かけてゆくとき、夕方、主人の食事の世話をしていたとき、その間も四六時中ずっと、どこで誰と何をしていても主人に仕えて働き、すでに十分すぎるほどの報酬にあずかっていたのです。すでに、それらこそが主人からのただ恵みの贈り物だったからです。さて、この私共も良き業をし、主人に感謝し、主人に仕える幸いを喜び祝うことができるのかどうか。10節を口ずさみ、そこでどんな気持ちが沸き起こってくるか確かめてみましょう。「私はふつつかなしもべです。なすべき事をしたに過ぎません」。あるいは、「ふつつかすぎて、なすべき事を十分には出来ませんでした。申し訳ありません」と。もし、なんだか危ないようなら、あまり嬉しい気がしないなら、すぐに良い医者のところへ大慌てで駆け戻り、治療していただきましょう。

 ――まとめ。『良き業』が要らない、しなくてよい、わけではない。けれど順序が違う。後から、良き業(=感謝の実)を行いはじめる。
   罪人・悪人であり、神を憎んで逆らう無価値な私共を、まず神が愛した。まず神がゆるした。まず神が恵みのうちに捕え入れてくださった。(⇒ヨハネ手紙(1)4:7-12,ヨハネ福音書,15:12-17,ローマ手紙5:6-11,イザヤ書46:3-4)
   罪ゆるされた罪人らは神を信じる信仰を与えられ、神を愛する愛を与えられ、神に従う従順をさえ贈り与えられ、従いはじめた。
    受けた恵みの結果として、罪人らは『感謝の実』を結びはじめる(ハイデルベルグ信仰問答,問64。御父と主イエスからの恵み、憐れみ、平安のもとに、私共一人一人が堅く留まりつづけることができますように。どうぞ、よい日々を。


               (同じ表題、同じ趣旨で、当教会の機関誌『信濃のつのぶえ73号』(2016,3,27発行)にその巻頭言として掲載しています。誌面構成の都合で、そちらは4割引ほどの短縮版、こちらはその全長版です。)


2016年3月23日水曜日

3/20こども説教「水と聖霊と火で」ルカ3:15-20

 3/20 こども説教 ルカ福音書3:15-20
 『水と聖霊と火で』 
~洗礼者ヨハネ.(3)

3:15 民衆は救主を待ち望んでいたので、みな心の中でヨハネのことを、もしかしたらこの人がそれではなかろうかと考えていた(*)。16 そこでヨハネはみんなの者にむかって言った、「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。17 また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。18 こうしてヨハネはほかにもなお、さまざまの勧めをして、民衆に教を説いた。(ルカ福音書 3:15-18)

 洗礼者ヨハネは、「罪のゆるしを得させる悔い改めの洗礼」を宣べ伝え、またその洗礼を施していました。この彼の後につづいて、キリストの教会もまったく同じに、「罪のゆるしを得させる悔い改めの洗礼」3節)を宣べ伝え、またその洗礼を施しつづけています。「罪」とは、神さまにも人さまにも逆らいつづけて、「私が私が」と強情になることです。「罪のゆるし」は、そういう強情さを拭い去っていただいて、ワガママ勝手さや自分自身の強情さの言いなりにされないようにしてもらうことです。そのために、自分自身やまわりの人間たちのことばかり思い煩っていた人間が、心の思いもあり方も神さまへとグルリと180度、向き直らせていただかねばなりません。それが、「悔い改め」です。とても難しいことで、しかも人間はとても頑固にできていますから、自分自身ではなかなか出来ません。じゃあ、どうしたら出来るのか。神さまご自身がしてくださるので、どんなに頑固な人でも、どんなにワガママで自分勝手な人にでも、神さまへとグルリと向き直って生きることができるのです。それは、とても晴れ晴れとした素敵な生き方です。洗礼を受けた日から、そういう新しい人生が始まっていきます(ローマ手紙6:1-23,8:1-39,10:1-13
  16節でヨハネは言います、「わたしは水でお前たちに洗礼(=せんれい。バプテスマ)を授ける。私よりも力のある方がおいでになって、この方が、聖霊と火とによってお前たちに洗礼をお授けになるであろう」。これこそが、キリストの教会で2000年もの間ずっと起こっている、起こりつづけている、最も大切な出来事です。まず洗礼の出来事を説明しています。私たち人間が『ごく普通の水道の水』を用いて洗礼を授ける。そこに直ちに救い主イエスが『聖霊と火』を用いて、洗礼を確かな中身と生命のある十分な神さまの現実としてくださる。聖晩餐のパンと杯も同じです。「ただの儀式だろう。形だけのことだろう。そんなことをして何になる。だから何だっていうのか」と馬鹿にしたり、見下す人々も大勢いるでしょう。今までもそうでした。これからもそうです。主イエスを信じる信仰によってしか、神さまご自身のお働きを見ることも受け取ることもできないからです。洗礼がそうであり、聖晩餐のパンと杯がそうであるなら、キリスト教会と一人一人のクリスチャンの、いつもの毎日の働きも皆全部、それと同じです。ごく普通の私たちが、貧しさも弱さもだらしなさもワガママ勝手さも頑固さも抱えながら、けれど主イエスを信じて、願い求めながら働くとき、その一つ一つの働きを神さまがご自分の働きとして用いてくださって、よい働きとしてくださいます。それが、信じて生きる私たちのための神さまからの約束なのです。「種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである」(コリント手紙(2)9:10-11

      【割愛した部分の補足】
(*)15節「民衆は救主を待ち望んでいたので、みな心の中でヨハネのことを、もしかしたらこの人がそれではなかろうかと考えていた」;かつても今も、目に見えない神さまを見えないままに信じつづけることは難しい。それで私たちは、『素敵そうに見える生身の人間』を、ついつい神を信じることの代用品としてしまう。そのほうが分かりやすい。そのほうが手軽で便利だし。「はるかに優れたかたが後から来る。私は、その彼の靴紐を解く値打ちもない」(16節)とヨハネ自身が彼らの誤りを修正しようとするが、人々は聞き入れようとしない。私たちの周囲にも、洗礼者ヨハネのような『燃えて輝くつかの間の灯火』のような素敵な人物たちがいるだろう。マザーテレサ、キング牧師、八重の桜、花岡青洲の妻、塩狩峠の青年、ほか色々。私たちも、その灯火で、ほんのつかの間楽しもうとするかも知れない。そのあまりに、神ご自身を脇へ脇へと押しのけ、神を捨て去ろうとするかも知れない。それこそが、陥りやすい典型的な偶像崇拝である。この聖書的な最初の事例は、金の子牛事件だった(出エジプト記32:1-)。偉大な指導者モーセが40日40夜、長期出張した。人々は、「モーセはもう帰って来ないかもしれない。どうしたらいいだろうか。これからは誰に信頼し、誰を頼みの綱としたらいいのか」と思い悩み、金の子牛の像を作った。「今日からは、これが我らの神だア」と高らかに宣言し、彼らはほしいままにふるまった。「モーセがいなくなったから新しい指導者を立てよう」ではなく、「新しい神さまを造っちゃおう」。やがて長い歳月がすぎた後で「他の国々と同じく私たちにも人間の王が欲しい」と人々が願ったとき、神は苦々しく答えた。「彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしたように、あなたにもしているのである」(サムエル記上 8:7-8)。今日のキリスト教会でも、それは大いに有り得る。主なる神を捨て去って他の神々、他の人々に仕えてしまう虚しく愚かな反逆を、私たちは警戒し、恐れつづけねばならない。











★★★  礼拝予告 ★★★
3月27()『心を騒がせるな』
ヨハネ福音書 14:1-3
3 『道、真理、生命』 
ヨハネ福音書 14:4-6
  10 『死んで、それで終わりではない』
       テサロニケ手紙(1) 4:13-5:10
 17 『明日も分からない生命?』
         コリント手紙(1) 15:17-33
 24  『無から有を呼び出す神』
ローマ手紙 4:17-25
 1 『生きるにも死ぬにも』
ローマ手紙 14:4-9
   8 『私は動かされない』  16:7-11


3/20「狭い門から入れ」マタイ7:13-14

                みことば/2016,3,20(受難節第6主日の礼拝)  51
◎礼拝説教 マタイ福音書 7:13-14                 日本キリスト教会 上田教会
『狭い門から入れ』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

7:13 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。14 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。                                     (マタイ福音書 7:13-14)


主イエスご自身が語りかけます。13-14節。「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」。狭い門、細い道と言いながら、しかしその実態としては私たち人間が普通に思い浮かべる「狭さ」や「細さ」とはずいぶん違っています。例えば一流学校や一流企業などとは違って、もし入りたいと願う者なら、入りたいと願いさえすれば、格別に優秀でなくても、ごく普通の、どこにでもいる誰でも入ることがゆるされます。しかも救い主イエスは、すべての人を、何の分け隔ても区別もせず、無条件で、しかもただただ恵みによってだけ招いておられるのですから。では、どういうことでしょうか? 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。――けれど中身をお伝えしましょう。その狭く見えた門と細いかのように思えた道の先に待ち構えているのは、神の国です。その門も、その道も、救い主イエス・キリストご自身です。主イエスは仰いました。「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう」「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」(ヨハネ福音書10:7-9,14:6-7。主イエスという名前の門を通って、私たちは入りました。主イエスという名前の門から出たり入ったりして、私たちはこの門の足元で美味しい牧草に朝も昼も晩も、ありつきつづけています。しかも主イエスという名前のただ一本の道を、この私たちも歩いてきました。今も、これからもそうです。あなた自身にとって、その門は狭くて、入りにくかったですか? 確かに。肩肘張って、「私こそは。俺様は」などと肩で風を切って偉そうに、ふんぞり返って歩いていたときには、門の高さも幅も狭すぎて、あまりに窮屈で、なかなか入れませんでした。身を低く屈めて、肩もすぼめて、ごく普通のどこにでもいる小さな人々の一人にならなければ、それよりもなんと 大きな大人物の大人であることをきれいさっぱり止めて、小さな小さな子供のようになるのでなければ、その狭い門は誰にも決して入ることができなかったのです。道も案外に細かった。だって、一人につき一人分の道幅しかありませんでした。混み合っているときの電車の座席のようでした。二人分、三人分も幅を利かせて、横の座席に荷物をいくつも載せていては、駅員さんに「申し訳ありません。他の乗客の方たちのために席を詰めて座っていただけますか。荷物は足元か、網棚に置いていただけないでしょうか」などと礼儀正しく指導を受けました。で、その歩き具合はいかがでしたか。細くて凸凹で、イバラも生い茂る、とても歩きにくくて困難で苦労の多い道でしたか。さあ、どうでしょうか。
  「狭くて低くて小さくて薄汚れていて」などと、その門と道について不平不満を漏らす人々も大勢います。「細くて凸凹でイバラも生い茂る、とても歩きにくくて困難で苦労も多くて。ああ、嫌だ嫌だ」と渋い顔をする人たちも大勢います。けれど不思議なことに、別のほんの少しの人たちにとっては、広々した平らな、歩きやすい道でした。「ずいぶん苦労して捜してみたんだけど、なかなか見つからなくて。どこにもなかった。目印もなかった。どこかに隠して、見つからないようにしてあったんじゃないかな。それで仕方なく諦めた。いやあ、残念だった」などと言う人々もいます。ええっ? おかしいなあ。そう言えば、主イエスご自身が仰っていました。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」(マタイ福音書 7:7-8。先週お話したばかりですけれど、求めさえすれば誰にでも与えられる。捜しさえすれば、誰でも必ずきっと見つけることができる。門を叩きさえすれば、しかも拳が傷ついて血が出るほどにガンガンガンガンとではなく、「こんこんこんこん」とノックしさえすれば、必ずきっとドアを開けてもらえるし、ちゃんと中にいれてもらえる。なぜ? そういう神さまだからです。
 では、なぜ、狭く低すぎるように見えたのか。なぜ、細くて苦労が多くて困難なように思えたのか。私たち人間のほうが区別をし分け隔てをし、選り好みをしつづけ、しばしば心がとても頑固であるからです。「~でなければならない。~であるはずなのに」と思い込んで、ついつい意固地になるからです。自分自身と周囲の人間のことばかりクヨクヨと思い煩い、そのおかげで、神さまを思う暇がほんの少しもないからです。案外に負けん気も強くて自尊心もとても高くて、自己主張と我が強すぎるからです。あるいは世間様を恐れて、「人からどう思われるだろう。どう見られるだろうか」などと、とても臆病になって人間たちを恐れていたのかも知れません。そうした人間的な人間中心のモノの見方・考え方にとって、主イエスの教えはとてとても狭く、低く、細すぎるように見えました。苦労も多く困難で難しくて、そのわりには喜びも少なすぎるように見えました。だって、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい」(使徒4:19などと涼し~い顔をして平気で、また本気で、言い出すのですから。この格別に幸いな道は、なんと驚くべきことに、神さまへの服従の道だったのです。この信仰について、ごく表面的に聞きかじった人々は「キリスト者の自由。キリスト者の自由という。自由にしていていいんだと思ってました。ありのままの自分でそのままで愛され、そのままで招かれた。今までどおりに生涯ずっと、自分の思い通りに好き勝手に生きていていいんだと教えられてきました。え? 違うんですか」と驚きます。キリスト者の自由は、『神さまの御心にこそ従う。だから、神さま以外のもののさまざまな束縛や隷属から自由にされること』。それは神への服従と一対だったのです。そのままのあなたで愛され、招かれました。その通り。けれど、罪深いまま、心が頑固で身勝手で意固地なままでよいはずがない。しかも、それでは幸せになどなれるはずもない。神さまの御心に素直に従って生きる新しい自分になることができる。よい働きもできる。そこにクリスチャンの希望があります。そこにこそ、よくよく目を凝らしましょう。兄弟姉妹たち。命に至る門が開かれ、その道を見つけ出し、その道を私たちはすでに歩き始めています。もうずいぶん長く歩いてきました。イエス・キリストという名前の門であり、イエス・キリストという名前の道です。イエス・キリストという名前の命です。心を惑わされてはなりません。そのただ一つの門を出たり入ったりして、その足元でよい牧草にあずかりつづけてきました。そのただ一つの道を歩いていますので、必ずきっと御父のもとへと私たちはたどり着き、格別な真理を学び取り、格別な生命にもあずかりつづけます。
 例えば復活の主イエスがペテロに、「私を愛するか。愛するか、愛するか」と三度問いかけ、その上で「私の小羊を養いなさい。私の羊を飼いなさい。その世話をしなさい」とお命じになったとき、さらにつづけてこう仰いました。「『よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう』。これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、『わたしに従ってきなさい』と言われた」(ヨハネ福音書21:18-19。行きたくない所へも無理にも連れていかれる。そこには二重の意味が込められていました。(1)ペテロがやがてそのように殉教の死を迎えることになる、という予告でもあります。けれどそれを超えて、(2)すべてのクリスチャンはペテロのように生きてゆきます。若かった時、つまりこの神さまを信じていなかったときには、私たちの誰もが自分の思うままに生きていた。行きたいところへ行き、行きたくないところへは行かず、やりたいことをし、気が向かないことはしなかった。自分のための主人は自分自身だったからです。けれども主イエスを信じる信仰を贈り与えられて、信じて生きはじめてからは、この私たちは、主なる神さまによって囚人の帯を結びつけられ、主なる神さまによって行きたくない所へも連れて行かれ、気が向いても向かなくても、なにしろご主人から「せよ」と命じられていることをし、「してはならない」と戒められていることをしないでおく。伸ばした手を紐で結ばれ、その手綱の紐を主なる神さまに握っていていただいて、主なる神さまによって引き回されて暮らしていくのです。このことは、はっきりと覚え、魂によくよく刻んでおかねばなりません。また別のときに主イエスは仰いました。まったく同じ中身ですけれども、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ福音書11:28-30。休ませてあげよう、と招かれました。背負っている重い荷物をおろさせてあげよう。その重い荷物をおろして、その代わりに主イエスの荷物を運びなさいと。そっちはただただ重くて疲れて、骨折り損のくたびれ儲けなだけだけれど、わたしの荷物はとっても軽いから。わたしのくびきを負いなさい。わたしのくびきは負いやすいからと。『くびき』は、荷車を引いたり農耕に用いられる牛や馬の首にかけられる道具です。そこに手綱が結えられ、その手綱を主イエスが握ります。つまり、主イエスのものである私たちは牛や馬として用いられ、農耕の牛や馬として扱われ、荷車を引かせたり、畑を耕させたりします(*)。なにしろ主イエスが手綱をしっかり握って、私たちを引き回して働かせてくださると仰るのです。そのように主イエスに導かれ、主イエスに従って働く日々こそが、格別な幸いであり、平安であるからと。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。この約束を信じました。降ろさせていただいた重い荷物は、「私は私はと肩肘張って強情になる」という荷物でした。「あの人がこう言った。この人たちはこう考えているらしい」と周囲の人々の顔色や空気を読みつづけて、人様と世間様の気に入ってもらえる自分でなければというあまりに重すぎる荷物でした。「気が向く。向かない。虫が好く好かない」などと自分の腹の思いの言いなりにされて、その奴隷のように従わされて生きる、自己中心のワガママ勝手な重い荷物でした。神様のことなんかほんの少しも考えない、ただただ人間と自分自身のことばかり思い煩いつづけるあまりに生臭すぎる荷物でした(ローマ手紙16:18,ピリピ手紙3:19,マタイ福音書16:23参照)。たから私たちはたびたび疲れ果てました。たびたび途方に暮れました。その重い荷物はただただ骨折り損のくたびれ儲けで、ちっとも私たちを幸せにしてくれませんでした。そんなつまらない、ただ虚しいだけの荷物を背負って歩き回っていることこそが、私たちの不幸せの理由でした。
  今まではずっと悪い夢を見て、うなされていたようです。やっと目が覚めました。ああ、良かった。ついにとうとう、ただ重くて疲れ果てるだけの虚しい荷物を下ろすことができて。その代わりに主イエスご自身からの軽~い荷物を担わせていただけて。主イエスのくびきを負わせていただき、主イエスご自身が私たちの手綱を握ってあちらこちらへと連れ回してくださって。主イエスにこそ学ばせられ、主イエスにこそ聴き従って生きる道へと捕え移していただけて。ああ、そうだったのか。それで、そのためにこそ神さまを信じて生きることをし始めたのか。なんという幸いでしょう。なんという恵みでしょうか。
 
            【割愛した部分の補足】
(*)「わたしのくびきを負い、わたしの荷を運べ」マタイ福音書11:28-30。「私たちが農耕用の牛や馬にたとえられるのは不愉快だ。家畜扱いするとは」などと感じる人々は多いでしょう。習い覚えてきた近代的精神が、そう感じさせます。主体的であるようにと勧められ、理性と自我が重んじられ、人であることの尊厳が強調されました。それには良い面もありましたが、あまりに肥大した自己意識と理性尊重は信仰の領域では私たちを思い上がらせ、『神中心の考え方』から『人間中心の考え方』へと私たちの思いを引き下げさせました。エルサレム入城の際の子ロバの出来事を思い起こすことができますか? マタイ福音書21:1-11。主イエスを背中に乗せた、あの子ロバ。あれがクリスチャンの一つの基本形です。『キリストを背に乗せて運ぶ者』;それがクリスチャンの根源的な本質でありつづけます。あなたや私をも、農耕用の牛や馬として、また子ロバとしてお用いになる。なんという光栄でしょうか。







2016年3月14日月曜日

3/13こども説教「まむしの子らよ!」ルカ3:7-14

 3/13 こども説教 ルカ3:7-14
 『まむしの子らよ   
~洗礼者ヨハネ.(2)

3:7 さて、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出てきた群衆にむかって言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。8 だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。9 斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」。10 そこで群衆が彼に、「それでは、わたしたちは何をすればよいのですか」と尋ねた。 (ルカ福音書 3:7-10)

  洗礼者ヨハネの、そのヨハネという名前は『主は憐れみ深い』という意味でした。主の憐れみ深さを指し示すはずのその彼の説教の言葉は、まるで正反対のように、とてもきびしい恐ろしい口調で語りはじめられます(*17-9節、「まむしの子らよ(*2、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」。「まむしの子らよ」とは、とても厳しい語りかけです。まむしは毒蛇の一種ですが、それだけではなく創世記3章、エデンの園で人間たちを唆して神さまに背かせたあの蛇の子孫。つまり、「悪魔の手下にされている者たちよ」という容赦ない非難です。自分たちはアブラハムの子孫だと自惚れて安心している人々に、「いいやそれどころか、むしろ、お前たちは悪魔の手下にされてしまっているじゃないか」と叱りつけています。なんということでしょう。ところで、あなたのお父さんお母さんはどういう父さん母さんですか? いつでも、あなたが何をしても、ただニッコリして「いいんだよいいんだよ。かわいい子だね。好きなようにしていていいからね」と、ちっとも叱ったり、恐い顔一つしないようなら、もしかしたらその父さん母さんは、あなたのことをもうあまり愛してはいないのかも知れません。だって、本当に大切な子供なら、してはいけないことをするとき、本気で叱ります。とても憐れみ深い、私たちのことをとても大切に思って、本気で愛してくださっている神さまです。だから、本気で叱りつけています。「まむしの子らよ。迫ってきている神の怒りから逃れられると、おまえたちにだれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ」。そこには、聞くべき大きな道理がありました。
 また、彼ら自身も、自分がまむしの子に成り下がろうとしていることに自分で気づきはじめてもいました。「神さま、神さま」と口先では信仰深そうな美しい言葉を並べ立てながら、けれど普段のいつもの自分の口から出る何気ない言葉や行いや腹の思いはどうだろうか。自惚れて他人を見下して高い山や丘のようになっていた。いじけて僻んで、低くて薄暗い谷間のようにジメジメしていた。意固地で、わがままで頑固で、なんだか険しい曲がりくねった道のようになっていた。ああ、どうしたらいいだろうかと。だから彼のところにやってきたのです。平らな、晴れ晴れ広々とした道に直していただきたくて。悔い改めにふさわしい実を結べ。そのとおりではありませんか。もし、本気で神さまを大切に思い、神さまの御心になかって生きていきたいと願うなら、私たちのその願いは実を結ばないはずがない。人々は洗礼者ヨハネに質問しました。「それでは私たちは何をすればいいのですか」。11-14節、「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい」。取税人もバプテスマを受けにきて、彼に言った、「先生、わたしたちは何をすればよいのですか」。彼らに言った、「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」。兵卒たちもたずねて言った、「では、わたしたちは何をすればよいのですか」。彼は言った、「人をおどかしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足していなさい」。
ビックリです。誰も手が届かないようなとても難しいことが命じられたのではありませんでした。しようと思えば誰にでもできそうな、ごく普通の、当たり前のことが命じられました。神さまへと、あなたの思いもあり方も、180度グルリと向け返しなさい。どんな神さまなのかを、あなたもよく知っていますね。それじゃあ、神さまが喜んでくださることをしよう。神さまが悲しんだりガッカリするはずのことはしないでおこうと、あの彼らはついにとうとう思い直しました。新しい生き方が、そこから始まっていきました。うわおっ。



         【割愛した部分の補足】
(*)「憐れみ深い。憐れみ」;たぶん、これこそ聖書全66巻中の最重要のキーワード(=謎を解くカギ)であると思える。神ご自身の本質について。救いの中身と道筋について。神によって救われた者たちが何者であり、どのように生きて死ぬことができるのかについて。例えばルカ福音書中の、神さまへの二つの讃歌(1:46-5567-79)は、異口同音に「憐れみ、憐れみ、憐れみ」と連呼していた。神は一人の卑しい女性を憐れみ、神の民をも同様に憐れみつづける。その憐れみを忘れず、彼らを救い出す。『罪のゆるしによる救い』という契約はこうして、神の憐れみから始まり、その憐れみを内容とする。「神はすべての人を憐れむために、すべての人を不従順の中に閉じ込めた。不従順にされた者たちもやがて憐れみを受けるようになる」(ローマ手紙11:31-32,コリント手紙(2)5:18-21)。それゆえ憐れみを受け取り、それを自分の手に掴んでおり、決して忘れないでいることが神の民であることの中身と生命を保たせる(ペテロ手紙(1)2:10,テモテ手紙(1)1:12-17)。また、受けた憐れみは、神を信じる者たちのうちに『憐れみの実』を結ばせることになる(コリント手紙(2)9:8-11)。神の憐れみを知り、その憐れみを受け取った者として、この私たち自身もまた生きて死ぬことができるのかどうか? なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです」(ヨナ4:2)と預言者ヨナは葛藤し、憐れみの神に苦々しく背を向け、遠く逃れ去ろうとする。彼の葛藤と紆余曲折は、この私たち自身のいつもの紆余曲折と反逆でもあるだろう。
      思い出した。不従順と反逆のヨナ、憐れみの神。この基本的な関係は、やがて主イエスご自身によって改めて新しく語り直される。二人の息子と父親の、家族の物語として(ルカ福音書 15:11-32)。弟が家を出ていったことも、やがて戻ってきた弟を父があまりに寛大に迎え入れてやることに腹を立てた兄の態度と心情も、この『不従順と反逆の人間、憐れみの神』をこそ描き出す。二つの物語のそれぞれの結末部分で、預言者ヨナと年上のほうの息子に語りかける『神=父』の声は驚くほど似通っていて、同じ一つの憐れみの心の表れである。もちろんそうだ。同じお独りの神なのだから。何回も何回も読んできた。読むたびに胸が締めつけられる。「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」「子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである」(ヨナ4:10-11,ルカ15:31-32)。これらの切実な語りかけに、ぼくらは何と答えようか。不機嫌なヨナたちよ、不平不満の兄たちよ。

                (*2)「まむしの子らよ」;創世記3章。とくに15節は『原・福音』と呼び慣わされてきた。人間の女から生まれた救い主がやがて蛇の頭である悪魔を打ち砕き、けれど救い主もまたその戦いの中で大きな痛手を受けると。もう一箇所、主イエスの受難予告に際してそれを拒もうとした弟子のペトロに向かって、主イエスは「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ福音書16:23)と厳しく叱責する。また、世界宣教へと送り出された弟子たちの中には、「しかし疑う者たちもいた」(マタイ福音書28:17)。主イエスの弟子である私たちもまったく同様だ。神さまからの祝福と保護を受けながら、しかし同時にサタンの誘惑にもさらされつづける。だからこそ私たちは、「神の慈愛と峻厳と」に目を凝らさねばならず、「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい」「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。心は熱しているが肉体は弱いのである」(ローマ手紙11:22,エペソ手紙6:10-,マタイ福音書26:41)とも戒められつづける。