2020年7月1日水曜日

われ弱くとも ♪神はわが力


われ弱くとも    (お試しサンプル品⑤/讃美歌286番) 
♪ 神はわが力  

  こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。1954年版讃美歌の286番、賛美歌21457番『神はわが力』。昔の言葉遣いにもだんだん慣れてきて、あまり苦にならなくなってきましたか。そうだと嬉しいんですけど。また少し整理しておきましょう。2節2行目、「我いかで恐れん」。どうして恐れることがあるだろうか。はいはい、例の質問しているようで全然質問じゃない言い方ですね。「どうして恐れることがあろうか、いや、あるはずもない」。4節2行目、「与えて尽きせじ」は、いくら与えても与えても、(その命も水も)尽きることがない。
 さて、楽譜の右下に小さい文字で詩46:1と記されています。むしろ詩編46編の全体がこの祈りの歌に生命を送り込んでいるようです。読んでいてまず気づきましたが、この歌の2節、3節、4節では水の様々な姿が次々と私たちの目の前に現れます。2節では、ノア時代の大洪水そのもののような、暴力的で圧倒的な力を帯びて荒れ狂う海。その海が地上のすべてを今にも飲み込んでしまおうとする。それなのに、「私はどうして恐れるだろうか、恐れるはずもない」。でも、なぜでしょう。その祈りの人より、海の水のほうが遥かに強いことはよくよく分かっている。それなのに彼は「へっちゃらだよ」と涼しい顔をしている。神さまに信頼しているからです。海よりも山よりも、他の何よりも主なる神さまご自身の権威と力こそが圧倒的である、本当にそうだと確信しているからです。世界を覆い尽くそうとする荒ぶる海に対して、主なる神はそれに限界を定め、海を押し止める扉にかんぬきを付け、「ここまでは来てもよいが超えてはならない。高ぶる波をここで止めよ」と命じました。「黙れ、鎮まれ」と波や風を叱りつける神さまだったのです(ヨブ記38:10-11,マルコ4:39)。3節、4節では一転してその水は人々を潤し、疲れを癒す恵みの贈り物となります。新しい生命を与え、それは尽きることがないと喜びにあふれて歌っています。また生命を与える水は『み言葉の水』であると。
 それにしても、1節、2節、3節で語りかけられている中身は少し抽象的で、漠然としている気がします。例えば1節、この人は苦しみの只中で神さまの力を感じ取っています。すごく身近で現実的なものとしてです。2節で、天変地異の恐るべき脅威にさらされながら、それら諸々の力を遥かに超えた神さまの力を実感させられている。5節も同じです。これまで自分を悩ませ続けてきた苦しみが跡形もなく消え去ってしまうほどの、神さまご自身からの平和をついに受け取って、その平和に包まれています。何かが起こった。その1人の祈りの人と神ご自身との決定的な出会いが。さて、これらすべてを説き明かす鍵は歌の1節2行目だと思えます、「苦しむとき、私のすぐ傍らにある助けだ」。どういうことでしょう。神さまからの助けは近づいたり遠ざかったりするのでしょうか。しかも苦しんでいるときには近づき、あまり苦しんでいないときには神さまからのその助けは遠く離れている。むしろ、神さまの力や助けに近づいたり遠ざかったりするのは、もっぱら私たち人間の側だったのではありませんか。苦しむとき、自分自身の弱さや危うさをつくづくと実感するとき、私たちは主なる神さまの御もとへと駆け戻り、そこでようやく「助けてください。どうか支えてください」と呼ばわりはじめます。『苦しい時の神頼み』と言います。普段は神も仏も拝まない信仰心のない人間が苦しい時や困難に出会ってそこで神に助けを求める姿を、「なんだ。あれは」と少し批判的に眺める人々がいます。けれど、そこにはかなりの道理も潜んでいました。じゃあ、日頃から神を拝んでいるはずの私たちは、苦しむとき悩むときにどうするのか。もちろん必死になって神さまを拝み、神の助けと慈悲を求めてしがみつきます。いや待ってください。何不自由なく暮らしている間は、私たちの信仰や祈りはどことなく他人行儀で形式的で、なんだか上っ調子になりました。だからこそ、「弱き我も力尽くし、わが主にすがらば力をぞ得ん」と歌いました。弱くて危うい私だとつくづく思い知らされ、そこでようやく主にすがり、主にしがみつき、主からの助けと力とを受け取りました(「主のまことは」讃美歌85)。また、「我弱くとも主は強ければ恐れはあらじ、ああ本当にそうだ」と分かったのは、やはり私自身の弱さを思い知った後のことでした。それまでは、主が強いなどとは思ってもいず、自分が強くてしっかりしているから大丈夫だと自惚れていました(「主われを愛す」讃美歌461)。とても苦しむまでは、「間に合っています。結構です」などと主の力を自分で遠ざけていました。
 この詩編46:10は、そのような私たちと神さまとのやりとりの姿をよく言い表しています。10節の直前で主なる神さまはまず弓を砕き、槍を折り、盾や戦車を焼き払う。そのうえで、「静まりなさい」「そして知れ」。文語訳聖書では、「なんじら静まりて、我の神たるを知れ」。新改訳では、「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」。口語訳では、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」。新共同訳では、「力を捨てよ、知れ、わたしは神」。元々の言葉では、「こだわって抱え込んでいたものを放棄し手放して、静かにすること」。そのようにして初めて、神が神であられることを知ることができる。ですから新共同訳の「力を捨てよ」は1歩踏み込んで、その意味を明らかにしようとしました。私たちの心をざわめかせていたものは、力への渇望でした。虚勢を張り、いつまでも鎮まることができなかったのは、自分自身の力に執着して、「自分が自分が」とどこまでもこだわっていたためでした。すると、神に敵対する諸国民に対して「力を捨てよ」と命じられていただけではなくて、むしろ神さまに信頼して生きるはずの私たち自身に対して同じく全く「力を捨てて鎮まれ」と命じられていました。そうでなければ、いつまでたっても神を知ることも信じることもできないだろうと。
 神の民イスラエルの歴史は、まさしく力に目の色を変えて右往左往し、心を惑わせつづけた歴史でした。今日でもまったく同じだと思えます。例えばモーセに率いられてエジプトを脱出する際、葦の海を渡ろうとしていたとき、追い迫ってくるエジプト兵の軍勢に圧倒されて人々はパニックに陥りました。主は語りかけました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」(出エジプト記14:13-14)。預言者イザヤも同じことを語りつづけました。「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。お前たちは言った。『そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう』と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない。また『速い馬に乗ろう』と言ったゆえに、あなたたちを追う者は速いであろう」。さらにこう言いました、「災いだ、助けを求めてエジプトに下り、馬を支えとする者は。彼らは戦車の数が多く、騎兵の数がおびただしいことを頼りとし、イスラエルの聖なる方を仰がず、主を尋ね求めようとしない。しかし、主は知恵に富む方。災いをもたらし、御言葉を無に帰されることはない。立って、災いをもたらす者の家、悪を行う者に味方する者を攻められる。エジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。主が御手を伸ばされると助けを与える者はつまずき、助けを受けている者は倒れ、皆共に滅びる」(イザヤ書30:5-16,31:1-3)。例えばギデオンと仲間たちがエン・ハロドのほとりに陣を敷いたとき、敵方のミディアン人の軍勢は圧倒的多数でした。けれど主は兵力の増員増強をではなく、それどころか逆に、「こちらの兵力を減らす」と仰る。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と」(士師記7:32-3)。こうして兵力は32000人から10000人へ、さらに300人へと減らされます。心がすっかり折れてしまいそうなほどの、驚くべき兵力削減。もし万一、これで勝てたとしたら、自分たちの力で勝利を勝ち取ったとはとうてい言えない、「ただ恵み。ただただ恵み」としか言えないような兵力でした。また例えば、大男のゴリアトと戦った1人の小さな羊飼いの少年は、晴れ晴れとして呼ばわりました、「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ」(サムエル記上17:45-17)。ずいぶん長い時間が過ぎて、主イエスの弟子たちは余分なものをすっかり脱ぎ捨てさせられ、丸裸にされて、新しく出直しました。見栄を張り体裁ばかりを取り繕っていたはずのあまりに生臭い彼らが、やがてこんなことを言い始めるのです;「私たちを見なさい。私には金や銀はないが持っている飛びっきりに素敵なものをあげよう。ナザレの人イエスの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒3:6参照)
 兄弟姉妹たち。恵みのときは、この私たちのためにはいつ訪れるでしょうか。「神ご自身の力こそ、苦しみのときの近き助けである。ああ本当にそうだ」と喜びと感謝にあふれるときは、いつ来るでしょうか。自分自身の力への渇望を、主はこの私たちのために、いつ打ち砕いてくださるでしょう。悩みと苦しみの中で、主の恵みは十分であるととうとう受け止めることができた兄弟がいました。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(コリント手紙(2)12:9-10)。本当でしょうか、それともただの社交辞令に過ぎないのでしょうか。満足しているって言うのですから、本当に、いま現に満足しているのです。なぜ。神さまが満足させてくださったからです。神さまご自身が彼を打ちのめし、「参りました」と彼を屈服させ、弱くされたあの彼の内に、ついにとうとうキリストの力を宿らせてくださったからです。キリストの力を、彼自身の弱さの中で、いよいよ十分に発揮させはじめてくださったからです。だから今現に、彼は大いに喜んでいます。それはもはや「誇り」となどではなく、むしろ感謝です。ただただ感謝です。なにしろ、「こんなに素敵でご立派な私だぞお」ではなく、「こんなに素敵な神さまだあ」と。「神ご自身の力こそ、苦しみのときの近き助けである。ああ本当にそうだ」。「弱き我も力尽くし、わが主にすがらば力をぞ得ん」「我弱くとも主は強ければ恐れはあらじ、ああ本当にそうだ」。この飛びっきりに難しい1つの心得は、神さまご自身が直々に授けてくださるほかありません。私たちにも、ぜひ授けていただきたい。とても良い素敵な神さまがいてくださるからです。この私のためにも、あなたのためにも。しかも私たちは、その神さまと出会いました。その出会いを今日まで積み重ねてもきました。