2016年1月26日火曜日

1/24こども説教「主は恵み深い(=ヨハネ)、という名前の子供」ルカ1:57-66

 1/24 こども説教 ルカ1:57-66
  『主は恵み深い(=ヨハネ)
という名前の子供』

1:57 さてエリサベツは月が満ち て、男の子を産んだ。58 近所の人々や親族は、主が大きなあわれみを彼女におかけになったことを聞いて、共どもに喜んだ。59 八日目になったので、幼な子に割礼をするために人々がきて、父の名にちなんでザカリヤという名にしようとした。60 ところが、母親は、「いいえ、ヨハネという名にしなくてはいけません」と言った。61 人々は、「あなたの親族の中には、そういう名のついた者は、ひとりもいません」と彼女に言った。62 そして父親に、どんな名にしたいのですかと、合図で尋ねた。63 ザカリヤは書板を持ってこさせて、それに「その名はヨハネ」と書いたので、みんなの者は不思議に思った。64 すると、立ちどころにザカリヤの口が開けて舌がゆるみ、語り出して神をほめたたえた。65 近所の人々はみな恐れをいだき、またユダヤの山里の至るところに、これらの事がことごとく語り伝えられたので、66 聞く者たちは皆それを心に留めて、「この子は、いったい、どんな者になるだろう」と語り合った。主のみ手が彼と共にあった。 (ルカ福音書 1:57-66)

  洗礼者ヨハネの父さん、母さんに起こった出来事です。その父さん母さん、ザカリヤとエリサベツには長い間こどもが生まれず、「どうか子供を贈り与えてください」と神さまにずっと祈り求めて暮らしていました。やがてとうとう神さまの御使いがザカリヤの前に現れて、その願いをかなえてあげると告げたとき、父さんのザカリヤは信じることができませんでした。それで口が聞けなくされました。口が聞けなくされたことは罰ではありません。神さまの約束を信じて生きるための準備だったのです。赤ちゃんが生まれて8日目に近所の人々や親戚たち皆が集まって、「神さまがこの夫婦をあわれんでくださった。私たち皆のことも同じくあわれんでくださる」と大喜びでお祝いをしました。子供の名前をつけようとしたとき、夫婦はおかしなことを言い張りはじめました。世間の人々皆がいつもしているように、親や親戚の名前をとってそれを付けようとしたとき、その母さんは「いいえ。ヨハネという名前にしなければなりません」。何を言ってるんだ。世間の人々皆はそんな名前のつけ方はしない。世間の皆がしていることを、世間様の流儀にしたがって、世間どおりに、人様が日頃やっているのと同じようにしたらいいだろう。「いいやダメです。どうしても必ず、ヨハネという名前にしなければなりません」。父さんにも聞きました。父さんは口が聞けなかったので「その名はヨハネ」と板に書きました。なんて強情で分らず屋な、なんて世間様や人様のご意見や風習やシキタリに従わない人々でしょうか。実は、神殿の聖所でお務めをしていて「子供が生まれる」と告げられたとき、「名前をヨハネと名づけなさい」と御使いから命令されていたのでした(1:13,マタイ1:21参照)つまりは神さまからの命令であり、神さまご自身からの直々の指図だったのです。人々の言うことに聴き従うよりも、どこの誰が何と言おうと、その場の空気も読まず人々の顔色も窺わず()、なにしろただただ神さまのご命令と指図にこそ本気で一途に従う。神さまを信じて生きているとは、そのことです(使徒4:19,エステル記3:8参照)。クリスチャンの中身は、これです。
  大事なことをおさらいしておきます。神さまから「こういう名前にしなさい」と命令されて生まれた赤ちゃんは3人だけです(もう1人はイサク。創世記17:1921:1-7参照(*))。その中の2人、洗礼者ヨハネと救い主イエス。名前には意味があり、どの名前にも親たちの願いが込められています。例えば、明という子供は「明るい子に育ってほしい」という願いが込められているように。ただ、救い主イエスと洗礼者ヨハネだけは、人間たちの願いや希望などではなく、神さまご自身の願いと決心と確かな約束が込められていました。イエスという名前の意味は、『主こそが救ってくださる』。ヨハネの意味は、『主は恵み深い』。ヨハネの父さん母さんも、ようやく神さまを本気で信じて生きてゆくための準備が整いました。父さんのザカリヤは口が開け舌がゆるみ、神さまを誉めたたえ、ただもっぱら神さまへの感謝と信頼をこそ語りはじめました。神さまを信じて生きるひと組のお父さんお母さんがここに新しく生まれたのです。66節、「この赤ちゃんはどんな者になるだろう」と人々は語り合いました。どんな者になるのか、私たちにはもうはっきり分かりますね。付けられた名前どおりの大人に育って、名前通りに生きて死ぬ人になってゆくのです。主なる神さまは恵み深い。ただ口で言うだけでなく、心でもつくづくと味わい、ただ自分が心の中で味わっているだけでなく、一緒に生きる人々とも「主は恵み深い。ああ本当にそうだ」と分かち合って生きる人に。『主は恵み深い』という名前の洗礼者ヨハネに指し示され、『主ご自身が救ってくださる』という名前の救い主イエスに導かれて、私たちも同じくそのように生きて死ぬ晴れ晴れした人生を歩むことができます。神さまご自身が、この私たち一人一人のためにも、その同じ一つの幸いを成し遂げてくださいます。
主ご自身が私たちを救ってくださる。そして、主は恵み深い。とてもとても恵み深い。

        【割愛した部分の補足説明】
(*)主なる神ご自身が直々に名前を決めたもう一人の子供、イサクについてもやはり触れておきましょう。創世記17:15-19,同18:9-15,同21:1-7参照。イサクの意味は、『笑い』です。彼の父母、アブラハムとサラ夫婦は共々に、「神の恵みによって子が贈り与えられる」という主の約束を信じられず、軽んじ、はねのけました。「そんなバカなことがあるはずがない。100歳と90歳の爺さん婆さんに子など生まれるはずがない」と、2人はそれぞれ、苦々しく物寂しく笑ったのです。私たちがしつづけている不信仰、不従順な行いや腹の思いとそっくり同じではありませんか。やがて『笑い』という名前の子が生まれたとき、夫婦も周囲の人々も大喜びに喜びました。「神は私を笑わせてくださった」(18:6)とサラは喜びと感謝に溢れました。つまり、その『笑い』には正反対の二重の意味が込められていました。(1)「神の言葉を疑い、拒んで、はねのけた」という神さまへの反逆、不信仰、不従順。(2)にもかかわらず、神さまが本当の喜びと幸いを贈り与えてくださったという、神の恵み。わが子の名を呼ぶ度毎にアブラハムとサラ夫婦は、この相反する二重の真実を心に刻まされつづけたでしょう。信仰の父母と、神を信じて生きる私たちとの根源的な出発点です。自分自身の罪深さとかたくなさ、不従順とをつくづく思い知らされ、なおかつ、その罪と悲惨から日毎に救い出されつづける。『主ご自身が私たちを救ってくださる』こと、『主は恵み深い』ということの真意も、キリストの教会が建てられてあること、私たちクリスチャンが幸いに生きて死ぬことの意味も中身も、同じくこの一点に集中しています。神に背く、心があまりに頑固で不従順な私たちを、にもかかわらず神は憐れんでゆるし、恵みを贈り与えてくださる。このような私共であり、このような神さまです。自らの魂に深く刻んでおくに値します。ローマ手紙 5:5-11参照。






 ◎とりなしの祈り

 主イエスの父なる神さま。だからこそ確かに私たちの親となってくださり、必要なすべてのものを恵みの贈り物として与えてくださいました。ありがとうございます。あなたに感謝をし、あなたにこそますます信頼を寄せ、あなたに聴き従って生きる私たちとならせてください。その分だけ、人間を恐がる臆病な生ズルい気持ちや、うらやましがって他人を妬む貧しい心を投げ捨てさせてください。
  私たちの目が他人の欠点ばかりを見たり、私たちの口が他人を非難したり悪口を言ったりしないように守ってください。自分本位になって自分の考え方ややり方を人に押し付け、自分とは違う考え方ややり方を押しのけようとしないようにお守りください。気難しくなって、腹を立てるのに早く、ゆるすことに遅くならないように、心を頑固にしないようにお守りください。あなたから多くを贈り与えられ、ゆるしがたい多くをゆるされています私共ですから、兄弟や家族や隣人らをもそのようにゆるし、尊び、暖かく迎え入れる私たちとならせてください。しかもなお誰かが間違った悪いことを言ったりしたりするとき、誰かが他の人を押しのけたり、小さな者を踏みつけようとするとき、「それは間違っていますから、してはいけません」と互いに注意し合い、立ち向かうことのできる勇気も与えてください。そのためにも神さまが生きて働いておられますことを、この私たち一人一人にもますますはっきりと気づかせてください。私たちのいつもの姿、口から出る何気ない言葉や人と接するときの態度を通しましても、神さまの御名が誉めたたえられ、神さまへの感謝が溢れ出ていきますように。
 そのようにして私共1人1人も、あなたの御心にかなうことを願い求めながら毎日の暮らしを生きることができますように。御心に反して神さまを悲しませる言葉を口に出し、行い、心に思ってしまったとき、その罪深さを本気で嘆き悲しむ私たちとならせてください。あなたのものでありますキリスト教会と、あなたのものであります私たち自身と家族を、あなたのあわれみの御心にかなって建て上げてゆくことができますように。どうか、この願いをかなえてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン



1/24「ゆるしてください」マタイ6:12-15、18:21-35

                                        みことば/2016,1,24(主日礼拝)  43
◎礼拝説教 マタイ福音書 6:12-1518:21-35  日本キリスト教会 上田教会
『ゆるしてください』~祈り.6~

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


18:21 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。22 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。23 それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。24 決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。25 しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。26 そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。27 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。28 その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。29 そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。30 しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。31 その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。32 そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。33 わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。34 そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。35 あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。
                                                  (マタイ福音書 18:21-35)


  《罪のゆるし》の教えこそ、キリスト教信仰の肝心要です。クリスチャンとは何者なのかと問われて、私たちは答えます。『それはゆるされた罪人です。ゆるされて、それで罪人でなくなったのではなく、依然として罪人であり、その罪深さをゆるされつづけて生きる者たちである』と。その祝福に満ちた中身は、《この私は、人に対しても主に対しても罪を犯した》と告白し、《主があなたの罪をゆるし、その罪を取り除いてくださったし、憐れみによって取り除きつづけてくださる》と、ゆるしの現実を聴くことの中にあります。聴きつづけるなら、やがてそれが私たち自身のいつもの普段の暮らしの現実となるでしょう。ゆるしてあげたり、ゆるしていただいたり、誰かをあわれんであげたり、あわれんでいただいたりし合う私たちとなれるかも知れません。そのようにして、あわれみと慈しみの実が結ばれてゆくかも知れません。その私たちはまた、自分に対してなされた他者の罪や過ち、無慈悲、冷淡さをもゆるすようにと促されます。けれど、これは難しい。ひどく誤解されたり、ねじ曲げられ、不当な扱いに傷つけられることは日常茶飯事です。「どうして分かってくれないのか。なぜそんなふうに」と、私たちは度々打ちのめされ、心を痛めつづけます。人との関わりはしばしば私たちの手に余ります。もし、「なにしろ許すべきだ。ゆるさなければ、あなたはクリスチャンではない」と突きつけられるならば、私は頭を抱えます。それとも逆に、「あなたがゆるされていることが十分に分かっているなら、それでいい。後は、あなた自身は人を許そうが許すまいが、温かく迎え入れようが冷たく退けようが、それはあなたの自由だ。好きにしなさい」と言われるでしょうか。
  18:23-33、主イエスが直々にお話くださったたとえ話です。1人の男は王様に対して莫大な借金がありました。返済することなどとうてい出来ませんでした。自分自身も家族全員も身売りして奴隷になり下がり、家も土地も持ち物全部も売り払うほかありませんでした。「どうか待ってください」としきりに願い、すると王様は、少し待つどころか、借金をすべて丸ごと帳消しにしてくれたのです。何の交換条件もなく、ただただ彼を憐れに思ったからでした。ゆるされたその男は晴れ晴れとした気持ちで王様のもとから下がり、町の通りに出て、自分に借金をしている1人の友人に出会いました。ゆるされたその男は、自分に対するわずかな借金をゆるしませんでした。捕まえて首をしめ、「借金を返せ」。友人もまた彼に、「どうか待ってくれ」としきりに願いました。あの時の彼とそっくり同じに。「どうか待ってくれ。あれれ? どっかで聞いたことがあるなあ。まあ、いいか」。男は承知しませんでした。無理矢理に引っ張ってゆき、借金を返すまではと牢獄に閉じ込めました。その冷酷で無慈悲なやり方は、王様の耳に届きました。王はその男に言います。「悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」。
 「わたしの天の父もまた、あなたがたに対してそのようになさるであろう」(35)。つまりあなたが兄弟を扱うのとそっくり同じやり方で、同じく厳しく、同じく情け容赦なく、あなたを扱う。それをよくよく覚えておきなさい。かの日には、ゆるそうとしない人々にはゆるしは決して与えられない。憐れもうとしない人々には憐れみは与えられない。その人々は、神の国にふさわしくない。なぜなら、かの国は憐れみの国であり、そこで歌いつづけられる歌は《差し出され、受け取りつづけてきた恵み》という歌であるからです。兄弟姉妹たち。私たちが神さまとの間に平和を得ているということは、どうやって分かるでしょうか。恵み深い神にうちに深い慰めを与えられているということは、どうやって分かるでしょうか。主イエスの十字架の上で流された尊い血潮によって洗い清められていることは、どうやって分かるでしょうか。新しく生まれ、ただただ恵みによって、まったくの無償で、何の条件も資格も問われずに神の憐れみの子供たちとされているということは、いったい何によって、はっきりそうだと分かるでしょうか。自分自身にも、私と共に生きる人々にも、「ああ。本当にそうだ。この人は神の恵みと憐れみを豊かに注がれている。それがこの人の血となり肉となって、生き生きと息づいている」と。何によって、それと分かるでしょうか。このたとえ話を思い出したい。朝も昼も晩も、他の誰彼がというのではなくこの私自身こそが ぜひとも思い起こしつづけたい。
 なにがしかの良い働きをしたいと、あなたは願うでしょうか。この世界に対して、あるいは身近にあるあなたの大切な友人たちに。あなたの職場の同僚たちに。あなたの夫に対して。あなたの大切な息子や娘たちに対して。親として、友人として、1個のクリスチャンとして、ほんのわずかでも良いものを贈り与えたいと、あなたは願うでしょうか。「なるほど。これがキリスト教の信仰か。これがクリスチャンというものか」と、いつかあの人が心に思い、あなた自身が受け取っている豊かなものを分かち合えるようになるならと、あなたは願うでしょうか。私は願っています。どうやって出来るでしょう。難しい神学用語やキリスト教信仰の理屈はよく分からなくても、改まった話をすることが苦手でひどく口下手であっても、愚かで、世間知らずでも、たとえそうであっても、せっかく受け取っているこの豊かさと心強さを、晴れ晴れとした安らかさを、この揺るぎなさをあの1人の人にも差し出してあげたいと、あなたは願うでしょうか。このたとえ話を思い起こしていただきたいのです。
 《ゆるすべきだ》と、頭では理解できます。問題なのは、《どうしたら、ゆるすことができるのか》です。頭でだいたい分かるだけではなく、心底から分かり、よくよく腹に据えることができるかどうか。できることなら許したい。ぜひ許したい。その人を温かく優しく迎え入れ、心を開いていっしょにいることができるようになりたい。なかなか、それが出来ないので苦しんでいます。私は、私自身が深く抱えもってしまった憎しみによって誰かを苦しめているだけではありません。自分の憎しみや怒りによって、他の誰をでもなく自分自身をこそ苦しめています。負債のある人々を牢獄に閉じ込めるばかりでなく、そうする自分自身が暗く狭い魂の牢獄に閉じ込められています。あの、白雪姫を憎んだおきさきのように。怒り、ねたみ、苛立ちが茨のように芽を出し、ツタや小枝を伸ばし、葉を茂らせ、いつの間にか私の魂の庭を埋めつくしてしまいます。日差しもすっかり遮られ、じめじめと湿った薄暗がりに覆われます。おきさきもこの私も、すると心の休まるときがなくなってしまいます。できることなら許したい。それができないので、私たちは苦しみ、私たちは自分自身を貧しくしてしまうのです。神さま、罪深い私たちを憐れんでください。

 《主の祈り》の6つの祈願の第5番目は、「私たちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」。どうかゆるしてくださいと、なぜ願うのでしょうか。なぜ、そう祈り求めるようにと命じられているのでしょう。私たちがいまだに罪を許されていない、ということではありません。主イエスの、あの丘の上の十字架上で成し遂げられた罪の贖(あがな)いの出来事を、「それは、この私のためだった」と信じ、受け入れたときに、私たちはすでに何の留保もなく、すっかり決定的に罪をゆるされました。その罪がどんなに数多くても、最低最悪の罪であっても、すっかり丸ごとゆるされています。そこには、ほんの少しの疑いをも差し挟む余地がありません。けれども、《我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく》とは、いったい何でしょうか。この一句があるために、私たちはたじろぎます。自分のための罪のゆるしと神の憐れみとを願い求めようとする度毎に、「お前はまだゆるしていない。まだゆるしていない。どうしたわけだ?」と、私たちは突きつけられるようなのです。自分に対する他者の負い目をゆるしてあげることが、自分自身がゆるされるための前提条件なのでしょうか。ゆるすなら、その見返りとしてその報酬として、ゆるされるのでしょうか。いいえ、そうではありません。私たちが罪をゆるされることは、神からの恵みのできごとでした。それは一方的な贈り物でした。何の条件もなく、ただただ恵みによって、ただ憐れみによって、まったくの無償でゆるされた私たちです。確か、そうだったはずですね?
 このたとえ話を思い起こしてください。この男は、10,000タラントの借金を、どんなふうにゆるされたでしょうか。返すことなど、とうてい出来ませんでした。自分自身も妻も子供たちも身売りして奴隷になり下がり、家も土地も持ち物全部も売り払うほかありませんでした。それを全部、すっかり丸ごと帳消しにしていただきました。何の条件もなく。人に親切にしたからではなく、熱心に働いたからではなく、感謝したからでもなく、見所と取り柄があったからではなく、服従を約束したからでもなく。それは、ただひとえに王様がかわいそうに思ってくださったからでした。王様の憐れみによったのです。徹底的に大きなゆるしが先にあり、その恵みの只中に据え置かれた私たちです。他人の欠点や貧しさは、まるで手に取るように、よく見えます。「なんて身勝手な、思いやりのない人だなあ」と私たちは他人の素振りを見て渋い顔をします。「そんなことがよく平気でできるものだ。どういう神経をしているんだろう」と呆れます。その一方で、自分がどんなふうに人を扱っているか、人に対して何をしているのかは、私たちはあまり気づきません。しかも自分が受けた傷や痛みには、私たちはひどく敏感です。「あんなことをするなんて、ひどい。我慢できない」と私たちは腹を立て、涙も流します。もちろん、あなたは不当な扱いを受けてきたでしょう。誤解され、冷淡で無慈悲な仕打ちをされ、心を痛めたことでしょう。その通りです。それでも。あなたはもう忘れてしまっているかも知れないけれど、私たち自身が《ゆるされること》を必要とし、現にゆるされ続けています。毎日毎日、様々な場面で様々な事柄に対して、私たちはひどくいたらない。ぜひともすべきことをせずにおり、してはならないことをしてしまいます。怠惰さや無責任さから、臆病さや、あるいは独りよがりな身勝手さから。言ってはならない言葉を口から出し、ぜひとも語りかけてあげるべき言葉を言い出せずにいます。朝も昼も夜も、私たちは神の憐れみとゆるしを必要としています。わたしの隣人が私に対してする過ちや背きは、この私自身が神と隣人たちに向けてしてしまった過ちと背きに比べるなら、わずかなものでした。ほんの些細な、取るに足りない、無いも同然のものでした。まことに憐れみ深い神はそれでもなお、そんな私たちをさえ見捨てることも見離すこともなさらなかったと、私たちも知りたいのです。神の憐れみを受け取り、「本当にそうだ」と心底から味わうために、そのためにこそあなた自身が他者に対して憐れみ深くあるようにと神はお招きになります。神の偉大さ、神の気前のよさをあなたが受け取ることができるためにこそ、神は、あなた自身が他者に対して寛大に気前よくあるように、心低く慎み深くあるようにと促すのです。
 罪深く貧しく愚かな兄弟への私の憐れみの眼差しは、同じく罪深い、いいえ彼よりもっと貧しく、もっと愚かでかたくなな私自身への、神の憐れみの眼差しを、この私にも思い起こさせました。弱く小さな、そしていたらない小さな1人の人へ向けられた私の心の痛みは、この私に向けられていた神の痛みを、この私にも気づかせてくれました。備えがなく、貧しく身を屈めていたのは、お互い様でした。かたくなさはお互い様でした。弱さも小ささも、ふつつかさも、お互い様でした。罪深さも、礼儀や慎みを知らず、ひどく身勝手で自分のことしか考えないことも、それはお互い様でした。とうとう許してあげたときに、ゆるされてある自分を見出しました。与えたときに、折々に山ほど良いものを受け取ってきた自分を思い起こしました。有り余るほど、満ち足りるほどに、あふれてこぼれ落ちるほど豊かに受け取りつづけてきたことに。嫌々ながら渋々と手を差し伸べたとき、「そうだ。この私も手を差し伸べられ、抱え起こされた。担われてきた。あの時もそうだったし、あの時も。あの時も、あの時も」と。受け入れたとき、そこでようやく、そこでまるで生まれて初めてのようにして、この私こそが、受け入れがたいところを受け入れられ、許しがたいところをなお許されてきたことに気づかされました。兄弟たち。あなたも私も、ゆるされてきました。7回どころか770倍、どこまでも際限なくゆるされてきました。支えられてきました。助けてくださいと願うこともできなかったのに。願い求める資格も、そのふさわしさも、自分自身のうちには何1つ見出すことができなかったのに。ゆるしていただいたとき、とてもビックリしました。嬉しかった。本当に本当に嬉しかった。ああ、嬉しかった。嬉しかった。
     
主なる神さま。「けれども憐れみ深いあなたは」と、この私にも驚きと感謝を魂に深々と刻ませてください。あなたへの感謝と信頼とを、この私にも覚えさせてください。物忘れのひどい私たちです。肝心要のことを、うっかり忘れてしまう私たちです。10,000タラントの借金の全額丸ごとの帳消しを、受け取ってきたあの憐れみを、この私たちにも思い起こさせてください。朝も昼も晩も。そしてその驚きを私たちの血とし、肉としてください。救われた喜びを、この私たちにも再びはっきりと思い起こさせてください。

主イエスのお名前によって、祈ります。         アーメン

2016年1月17日日曜日

1/17こども説教「あわれみ、あわれみ、あわれみ。」ルカ1:46-56

 1/17 こども説教 ルカ1:46-56
 『あわれみ、あわれみ、あわれみ。』


1:46 するとマリヤは言った、
「わたしの魂は主をあがめ、
47 わたしの霊は救主なる神をたたえます。
48 この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。
今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、
49 力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。
そのみ名はきよく、
50 そのあわれみは、代々限りなく
主をかしこみ恐れる者に及びます。
51 主はみ腕をもって力をふるい、
心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、
52 権力ある者を王座から引きおろし、
卑しい者を引き上げ、
53 飢えている者を良いもので飽かせ、
富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。
54 主は、あわれみをお忘れにならず、
その僕イスラエルを助けてくださいました、
55 わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを
とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。  (ルカ福音書 1:46-55)

 マリアさんも、それまでは「ご立派な方々。ご立派な方々。それに比べてこの私は」と周りの人間たちと自分自身を見比べてばかりいました。それで、神さまのことがちっとも分かりませんでした。けれど神さまがこんな私のためにさえも格別な素敵なことをしてくださったと知らされ、信じさせられて、するとすっかり分かりました。1つは、神さまが生きて働いておられること。2つ目は、その神さまには出来ないことは何一つもないこと。3つ目には、神さまは憐れみ深い、ということをです。格別な、飛びっきりに素敵なことをしていただくには到底ふさわしくない自分だと分かりましたし、それなのにとても良いことをしていただいたとも、はっきりと分かりました。彼女が受け取った幸いの中身は、これです。
 そうすると、そこまで分かれば、あとはどんどんどんどん分かりました。神の民とされたイスラエルも、マリアさんと同じ扱いを受けたのだということも。難しい本をたくさん読んで、いっぱいお勉強して、それで分かったのではありません。神さまがこの自分に何をしてくださったかが分かったので、それで、「ああ、あの人たちも同じだったんだア」と分かりました。50節で「そのあわれみは代々限りなく、主をかしこみ恐れる者に及びます」。限りない憐れみなのですが、主をかしこみ恐れるのでなければ、その憐れみはその人を素通りして通りすぎつづけていくばかりです。それで、権力や富や名誉や賢さのせいでおごり高ぶってしまった者たちを追い散らしたり、引き下ろしたり、わざと腹ペコのまま追い返したりもなさいます。逆に、バカにされていた者たちを引き上げ、お腹を空かせている者たちにたっぷり食べさせ、貧しい者たちに豊かな良いものをどっさり与えました。後のものを先にし、先の者を後にし、上の者を下に、下の者たちを上に()。それは、皆で神さまをこそかしこみ恐れ、感謝し、神さまをこそ誉めたたえるためにです。また、54節と55節で「主はあわれみを忘れず、そのしもべイスラエルを助けてくださった。アブラハムとその子孫をずっといつまでも、何があっても憐れむと約束し、約束どおりにしてくださっている」と。つまり、神さまの救いの御業はなにもかも、初めから終わりまですっかり全部あわれみでありつづけます。神さまはその憐れみを忘れず、だから しもべイスラエルを助けてくださったし、これからも助けつづける。じゃあ、イスラエルである私たちはどうしたらいいでしょう? 主なる神さまのしもべであることと、憐れんでいただいたので助けていただいていることを、ちゃんとよくよく覚えておくのが良いのです。自惚れすぎたりイジケすぎたり、また気もソゾロすぎるせいで、せっかくの神さまからの憐れみが、この私たちを、素通りして通りすぎていかないように。ちゃんと憐れみを受け取ることができるように。
では、おさらいをしておきましょう。何でもできるのも、とてもご立派なのも神さまだけ。しかもその神さまは、こんな私にも、あんなあの人たちにさえ格別に良いものを贈り与えて、幸いにしてくださる。なぜなら神さまは、とてもとても憐れみ深いので。以上です。


        【割愛した部分の補足】
         (*)「あわれみ」;これが、全聖書中の最重要のカギです。これが分かれば全部分かる。分からなければ、なにもかも分からない。「後のものを先にし、先の者を後にし、上の者を下に、下の者たちを上に」(本箇所,ルカ1:67-79,マタイ19:30,20:16,ローマ手紙11:30-32,テモテ手紙(1)1:12-17)。偏屈でアマノジャクな、意地悪な神さまかと誤解していましたか? 救いの道筋は、『救いに値しない罪人を憐れんで救う』というこのただ一筋の道だったのです。「あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている」(ペテロ手紙(1)2:10)この証言こそ決定的ですね。以前は神の民ではなかった者たちが神の民とされた。では、何がどう変わったのか。以前に無かったもので、今は身に帯びている新しいものは何か? 神さまからの憐れみです。『あわれみ』という祝福の中身を受け取り、がっちりと掴み取り、抱えている。だからこそ今では、私共は神の民とされました。おめでとう、恵まれた人々よ。



◎とりなしの祈り
 イエス・キリストの父なる神さま。「わたしの思いではなく、御心のままになさってください」と主イエスはあなたに向けて祈られました。ですからどうか、救い主イエスのその心を私たちの心とさせてください。この私たち自身のためだけではなく、生命あるすべての者たちが生きるために必要なすべて一切を、どうぞ贈り与えてください。神さまがすべて善いものの唯一の源泉であることを教えてください。私たちの心遣いも互いへの配慮も、汗水たらして労苦して働くことも、もし、あなたの祝福がなければ私たちの益とならないことを弁え知ることができますように。こうして私たちが、神によって造られたにすぎない人間や他すべての被造物(ひぞうぶつ=神によって造られたすべての生き物、天地万物)に度を越して信頼しすぎることを止めて、ただ思い煩い、ただただ恐れつづけることをキッパリと止めて、あなたにこそ全幅の信頼を寄せ、あなたにこそ願い求め、あなたから受け取り、それゆえあなたにこそよくよく聴き従って生きることができるようにならせてください。
 世界中で、またこの国の中でも、私たちは大きな苦難の中に据え置かれています。ですからどうか、あなたの御心を行うために立てられた責任あるすべての者たちを正しく導いてください。また同時に、この私たちを世のための光、地上のための塩として用いてください。すべてのキリスト教会とクリスチャン一人一人を、この私たちを、あなたのご委託とご命令にかなって働く忠実なしもべとなさせてください。片隅に置かれ、貧しく身を屈めさせられて心細く暮らす人々に、どうか、この私たちの目と心を向けさせてください。
そのためまず、この私たち自身の祈りと生活とを十分に整えさせてください。ただ口で美しく祈るだけでなく心でも祈り、毎日の生活や行いや普段の在り方としても、祈るように生きることができますように。礼拝の中でも外でも、一人で祈る時にも仲間たちの間でも、その1つ1つの祈りをただ人間たちに向かってではなく、ただ人間たちに聴かせようとしてでもなく、あなたにこそ向けさせてください。あなたに向かう祈りがそうでありますように、朝も昼も晩も、誰とどこにいても、自分自身や周囲の人間たちの心や計画や欲求にかなうことなどではなく ただただ主なる神さまご自身の御心にかなうことをこそ願って生きる私たちとならせてください。あなたの御言葉と救いの約束とを信じて生きる私たちとならせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。      アーメン


1/17「私たちに必要な糧を今日も」マタイ6:11-13、出エジプト16:1-31

                                        みことば/2016,1,17(主日礼拝)  42
◎礼拝説教 マタイ福音書 6:11-13,出エジプト記16:1-31   日本キリスト教会 上田教会
『私たちに必要な糧を今日も』~祈り.5~

  牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


わたしたちの日ごとの食物を今日もお与えください。 (マタイ福音書 6:11)

16:3 イスラエルの人々は彼らに言った、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」。4 そのとき主はモーセに言われた、「見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう。民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない。こうして彼らがわたしの律法に従うかどうかを試みよう。5 六日目には、彼らが取り入れたものを調理すると、それは日ごとに集めるものの二倍あるであろう」。6 モーセとアロンは、イスラエルのすべての人々に言った、「夕暮には、あなたがたは、エジプトの地からあなたがたを導き出されたのが、主であることを知るであろう。7 また、朝には、あなたがたは主の栄光を見るであろう。主はあなたがたが主にむかってつぶやくのを聞かれたからである。あなたがたは、いったいわれわれを何者として、われわれにむかってつぶやくのか」。8 モーセはまた言った、「主は夕暮にはあなたがたに肉を与えて食べさせ、朝にはパンを与えて飽き足らせられるであろう。主はあなたがたが、主にむかってつぶやくつぶやきを聞かれたからである。いったいわれわれは何者なのか。あなたがたのつぶやくのは、われわれにむかってでなく、主にむかってである」。9 モーセはアロンに言った、「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたは主の前に近づきなさい。主があなたがたのつぶやきを聞かれたからである』と」。10 それでアロンがイスラエルの人々の全会衆に語ったとき、彼らが荒野の方を望むと、見よ、主の栄光が雲のうちに現れていた。11 主はモーセに言われた、12 「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』と」。                  (出エジプト記 16:1-12) 



  主の祈りの中の6つの願い。最初の3つは神さまについての願いであり、残りの3つは私たち自身についての願いです。私たちについての最初の願い;「日毎の食物を今日もお与えください」。それは具体的に現実的に、例えば三度三度飯を喰い、月々の家族の生活費を工面し、生きてゆく暮らしの一つ一つです。「おい 誰のおかげで飯を喰わせてもらっていると思ってるんだ? 誰に養ってもらっている」とある父親は家族に問いただします。俺様が汗水たらして働いて、そのおかげでお前たちは暮らしている。だから俺様の言う事を聞き、命令に従え、と言いたいのです。本当にそうでしょうか? もし本当にそうなら、その夫や父親の言うまま命じるままになんでもハイハイと従う他ありません。けれど少なくとも私たちクリスチャンは、ずいぶん違う腹の据え方をします。ねえ。「神さまのおかげで生きている。神さまに三度三度飯を食わせていただいているし、神さまにこそ養っていただいている」と教わり、そのように本気で信じています。だから神さまにこそ従って、神さまを自分のご主人さまとして生きることができます。一日一日健やかに生きてゆくために必要な一切を日毎に神さまにこそ求め、神から受けること。必要なものは様々あります。生命や健康、家族や仲間たち、働き場所、お金、そして食べ物。それらすべて一切を私たちは「どうぞ恵みによって与えてください」と願い求め、「ありがとうございます」と喜び感謝し、神さまご自身から、ただただ恵みによってだけ受け取ります。

 さて、出エジプト記16章。神の民とされたイスラエルの人々は、エジプトの国で400年もの長い間、奴隷にされていました。『奴隷』とは、人間ではない品物や道具のように、ただ他の人たちの思うままに、ただ便利に都合よくコキ使われつづける存在です。今の日本には、まるで「奴隷」などいないかのように思われています。けれど、「奴隷のように扱われつづける弱い立場の人々」は大勢います。例えば、原子力発電所で働いている、下請けの下請けの下請けの労働者たち。例えばアジア諸国から出稼ぎにきて「職業研修生」「農業実習生」などと呼ばれて安く便利にコキ使われ、搾取されつづける多くの労働者たち、アルバイトやパートや派遣や非正規雇用で働く労働者たち。大人ばかりでなく、小学校や中学校にも、他の子供たちからまるでモノや道具のように扱われる子供たちがいます。踏みつけにされつづける心細く貧しいその人たちがどんな気持ちで暮らしているか、嬉しいか悲しいかと誰にも気にかけてもらえない。なんと危うく、心細く惨めなことでしょう。私たちの先祖は、奴隷の国エジプトでそういう扱いを受けつづけた人々でした(出エジプト3:7-10)。神さまが憐れんでくださって、そこから連れ出してくださいました。助け出していただいて、とても嬉しかったのです。ありがとうございますありがとうございますと大喜びしていたはずの人々は、けれどエジプトから出て荒れ野の旅をしはじめて2カ月ほどたったとき、今度は、嫌な顔をして文句を言い始めました。「腹が減った。ああ、嫌んなった嫌んなった。こんなことならエジプトの国で奴隷だったほうが良かった。あのまま死んでしまってたほうが、よっぽどましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋があり、パンも腹いっぱい食べられたのに。神さまのせいだな。神さまの言うことなんか聞かなければ良かった。ああ、ヤダヤダヤダ」って。
  ブツブツ文句を言う彼らの声は、もちろん神さまの耳に届きました。12節;「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』と」。ビックリですね。不平不満ばかりを言う心のねじ曲がった人々を、けれども神さまは厳しく叱りつけたり、懲らしめたり、追い払ったりしません。それどころか正反対に、パンも肉も腹いっぱい食べさせ、『神さまが本当に主であってくださり、責任をもってちゃんと養ってくださる方だ』とよくよく分からせてあげる。こういう神さまです。神さまは、私たちをこういうふうに取り扱いつづけています。よくよく覚えておきましょう。「それぞれ必要な分だけ、それぞれ自分と家族がその日に食べる分だけ、1日分ずつ集めなさい。次の日にも、ちゃんと集めることができる。だから、次の朝まで残しておいてはいけませんよ」(16,17節参照)と命じられました。そうそう、6日目と7日目には、特別なことが命じられ、不思議なことが起こりました。6日目には2日分のマナを集めることが出来ました。それは、神さまから命令されたとおり、煮たり焼いたりして、次の日まで残しておいて、次の7日目に食べることができました。それで7日目の安息日(あんそくび)は、もっぱら神さまのためにだけ使うことができたのです。礼拝をして、神さまがどんな神さまで、私たちをどんなふうに取り扱ってくださるかを教えられ、「ああ本当にそうだ」と喜びと感謝を心に刻んで(22-26)。生きてゆくために、自分と家族のために生活の糧を得るために、この彼らが6日間くりかえしていることをご覧ください。夕方には、飛んできたうずらを集め、朝には「これは何だろう」とマナを集めます。自分と家族が暮らしてゆくために必要な分ずつを、毎日、神さまから受け取って拾い集め、そのまま食べたり、煮たり焼いたりして食べたりし、おなかいっぱいに食べて満たされ、神さまに感謝する。そのようにして、「神さまが本当に私たちのご主人さまだ。本当にそうだ」とお父さんもお母さんも、おじいさんもおばあさんも、はっきり知るようになる(12)
  「これはいったい何だろう。どうして神さまはこんなにも手厚く、こんなにも慈しみ深く親切に世話してくださるのか。どうしてだろう」(15節参照)と目を丸くして驚きながら、うずらやマナを自分と家族がその日必要な分だけ集め、水を汲み、煮たり焼いたりして食べる。欲張って必要のない分まで掻き集め、自分勝手にむさぼり食べようとするとそれは腐ったり、嫌な臭いがしはじめ、神さまからも厳しく叱られる。彼らの1週間の暮らしぶりと今日の私たちの暮らしぶりは、よく似た所があるでしょうか? それとも、かなり違うでしょうか。神さまに対する彼らの信頼や感謝と、神さまに対する私たちの信頼や感謝は、よく似ているでしょうか。それとも、いつの間にか、ずいぶん違ったものになってしまったでしょうか。あの人たちの暮らしは、今日の私たちから見ると、ずいぶん単純で、気楽で、素朴すぎるような気もします。時代遅れで古臭すぎる、今では通用しない考え方なのでしょうか。例えばここで、ぶどう園で朝早くから雇われて夕方まで働いた労働者たちは、腹を立てはじめます。「何を言っている。暑い中を私たちは一日中汗水流して働いた。嫌な思いも我慢して、ストレスも山ほど溜め込みながら、くたくたになるまで働いた。したいことも我慢してしなかった。したくない仕事も嫌々渋々やらされた。ただニコニコして拾い集めただけの彼らと、この私たちとを同じに扱うとは。うずらとパンの彼らの取り分を減らせ。それとも、私たちの賃金をもっと多く支払え。えこひいきじゃないか」(マタイ福音書20:12参照)と。ああ、確かにそうです。当時の彼らと今日の私たちとでは、ずいぶん違います。今では私たちは、それぞれにいろいろな種類の仕事をしています。複雑で難しい仕事や責任をたくさん抱えて働いている人もいるでしょうし、骨の折れる、ストレスがいっぱい溜まる辛い仕事をしつづけている人もいるでしょう。その結果として、人の5倍も6倍もうずらやマナを集めて、何不自由なく豊かに快適に暮らしている人々もおり、その一方では、ほんの少ししかうずらやマナを集められない、自分の子供たちのが食べる食料品や衣類や学用品や給食費さえも満足に支払えない貧しい父さん母さんたちもいます。おかげで、神さまのことがすっかり分からなくなりました。有り余るほど手に入れて豊かに贅沢に暮らす人々も、ほんの少ししか集められない、追い詰められて貧しく困窮する人々も、それぞれに、神さまに感謝したり信頼したりすることがますます難しくなりました。
  あなた自身の腹の据え方はどうでしょうか? たしかに、現実の生活こそが重大問題です。毎日のいつもの現実を、どう現実的に理解するのか。三度三度の飯を食べていけるかどうか。毎日毎日の生活費を工面できるかどうか。子供や家族やわが身を養っていけるかどうか。かつて三波春夫さんが言ったように、お客様や経営者が神様でしょうか? われわれシモジモの者がおり、他方には上に立つお偉くてご立派なカミガミがおられて、畏れ多いそのオカミは本当に神様でしょうか。いいえ、とんでもない。たかだか生身のごく普通の、神さまから土の塵をこね合わせて造られた人間にすぎません。天皇陛下やお国を守って死んでいった兵隊さんたちも、真田幸村も武田信玄も、死んでも神になどなりません。また例えば父親や夫が主人であり、大黒柱でしょうか。いいえ、それは配偶者、それは夫。(大切な愛する家族ですけれども)一家の父親や夫に飯を食わせてもらっているわけではありません。それは大黒柱ではありません。(敬うべき人々ですけれども)会社の経営者から月々の生活費を貰っているわけではありません。(それぞれ精一杯に働いていますけれども)自分自身の甲斐性と働きで、自分で自分と家族を養っているわけでもありません。彼らも私たち自身も神様ではなく、主人でも大黒柱でもなかったのです。だから神さまは、あの彼らに「私こそがあなたに食べさせ、満足させる。そうしたら、そこでようやく神こそが主であることを、あなたも知るようになる」(出エジプト記16:12,申命記8:9-10参照)と。本当でしょうか。ここにいる私たちの多くは何不自由なく十分にパンを食べ、満ち足りて暮らしています。じゃあ私たち自身は、神さまに十二分に感謝し、神さまにこそ全幅の信頼を寄せて生きる者とされたでしょうか。
  16章末尾の32-36節は、神さまへの信仰と信頼を自分自身が受け取り、子供や孫たちにも手渡してゆくための良い手本です。壺に1人が1日食べる分のマナを保存し、代々に渡って蓄える。なぜか。何のために? 災害時のための非常用保存食料としてではありません。素敵な博物館をやがて建てるときのための展示品としてでもありません。連れ合いや、自分の大切な子供や孫や、その子供の子供の子供に見せるためである。「これは何?」とその子たちが興味津々に質問するなら、そこで、あなたとその人との間で信仰の手ほどきが始まるでしょう。ご存知でしたか。今でも、わたしたちの手元に、この壺は残されています。『わたしたちが一日一日と生きてゆくために必要な糧を、神さまどうぞ今日も与えてください』という名前の同じ壺が、1人1個ずつ手元に与えられています。受け取っている糧の具体的・日常的な1つ1つを、家族や子供らと共に「これはいったい何だろう」(15)と驚きつつ、吟味してみましょう。あなたのためにも贈り物は必要かつ十分であり、しかも豊かだったのです。「暑い中を一日汗水流して働いた。それなのに」と腹を立てたあの淋しい労働者たちは、ですからとても残念でした。「私がいただく分の財産の分け前をください」と受け取って家を出ていき、天からのうずらもマナも使いつぶしてしまったあの放蕩息子は、とても残念でした。「何年もあなたに仕えて働きました。それなのに」と、父の家にいながら不平不満をくすぶらせつづけた兄さんも残念でした。「私だけに働かせて、何とも思わないんですか」と渋い顔をしていたマルタ姉さんも残念でした(マタイ6:31-33,20:1-16,ルカ10:35-42,15:11-32)。あのうかつな彼らは、出エジプト記16章を読んだことがなかったらしいのです。申命記8章も、うっかり読み飛ばしていました。箴言317-9節の手ほどきをしてくれる人も、そばにただの1人もいませんでした。ときどき『日用の糧を今日も』と皆と一緒に口ずさんでも、あまりピンと来ませんでした。
 けれどもしかしたら、その淋しい人々の中から、天からの恵みの肉と天からの恵みのパンを慕い求めて父の家に返ってくる者たちが1人また1人と起こされるかも知れません。いなくなっていたのに見つかり、死んでいたのに生き返る放蕩の息子や娘たちが。そのとき、その1人のために、天に大きな喜びがあります。神さまご自身の喜びです。わたしたちの日毎の食物を今日もお与えください。私たちが普段生活していく上で必要なものを、どうぞこの日も私たちに与えてください、と祈ります。祈る度毎に、「必要な糧を神さまが、私たちに、この私にも贈り与えてくださった。ありがとうございます」と私たちは神さまに感謝し、神さまに願い求め、神さまにこそ一途に信頼を寄せします。では最後の質問。あなたは、神さまからどんな良い贈り物をいただいているでしょう?  朝ごはん、昼ごはん、晩ごはん。子供たちの学費、養育費、電気代ガス代、家族。友だち。職場の仲間たち。神への信頼と感謝。1日分ずつの生命。健康。どれもこれもが一切合財、神さまからの恵みの贈り物です。祈りと、神さまを信じる信仰さえもが 「ああ本当にそうだ」と、あなた自身も心底から了解できますか? なんという恵み、なんという喜びでしょう。



2016年1月11日月曜日

1/10こども説教「主の言葉を信じた者の幸い」ルカ1:39-45

 1/10 こども説教 ルカ1:39-45
 『主の言葉を信じた者の幸い』

1:39 そのころ、マリヤは立って、大急ぎで山里へむかいユダの町に行き、40 ザカリヤの家にはいってエリサベツにあいさつした。41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。エリサベツは聖霊に満たされ、42 声高く叫んで言った、「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。43 主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。44 ごらんなさい。あなたのあいさつの声がわたしの耳にはいったとき、子供が胎内で喜びおどりました。45 主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。     (ルカ 1:39-45)

  マリアさんは、神さまご自身のお力によって救い主イエスを産むとされました。はじめは信じられませんでした。「どうしてそんな事がありえましょうか。いいや、あるはずない」と。マリアさんだけではなく、ザカリヤもアブラハムもサラも皆「いいや、あるはずない」と、最初には神さまの言葉を拒んで、跳ね除けようとしました。そう言えば、主イエスの弟子トマスもそうでした。誰もが皆、神さまの言葉よりも自分たちの知恵や賢さを頼りにして、神さまよりも自分たちのほうがよっぽどよく分かっているなどと、うっかり思い込んでしまいます。けれどその疑い深い頑固な人々の頑固な心を、神さまが力づくでねじ伏せて、信じさせてくださいました。どんなに賢い人よりも神さまのほうが断然賢いからです。どんなに強くしっかりした人よりも、神さまのほうがその千倍も万倍も強くしっかりしているからです。その神さまが、マリヤさんの心を打ち砕き、ねじ伏せて、信じる素直な心を彼女の中に造り出してくださいました()。それでとうとう、頑固なマリヤさんも降参して言いました。「今までは私こそが主人でありボスだと思い込んでいました。自分には何でも分かるし何でもできると思い込んでいました。けれど大間違いでした。やっと分かりました。わたしは主の召使ですし、その下っ端の下っ端の下っ端です。神さまこそが私のご主人さまです。お言葉どおりこの身になりますように。どうぞよろしくお願いいたします」(38節参照)。そうやって晴れ晴れして身を屈めて神さまの御前にひれ伏すことができたのは、一から十まで、すべてすっかり神さまご自身のおかげだったのです。分かりますか? 洗礼者ヨハネの父ザカリヤも、アブラハム、サラ夫婦も同じでした。どんなに頑固で、神さまを信じる心の乏しい人であっても、神さまがその頑固な心をねじ伏せてくださるなら、誰でも皆、神さまの言葉を信じる者とされていきます。この私たちもそうでした。
  45節を見てください。「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんと幸いなことでしょう」。この通りです。この一人の人が幸いである理由は「信じた」という、ただ一点です。マリヤにこう語りかけているエリサベツさんも、同じく信じた一人でした。自分のこととしてよく分かったので、だから、マリヤさんの幸いもはっきりと分かりました。「ああ、私たちと同じだわ」と。この同じ神さまが、ここにいる私たち一人一人のためにも恵みの約束を語りかけつづけておられます。聖書を読んでいて、また聖書の説き明かしを聴いていて、「ああ。これは私のことだ。ぼくのことが語られている」と気づくことがありますね。そこでもし、その主の言葉がきっと必ず成し遂げてもらえると信じることができるなら、その人はとても幸いです。マリアさんやザカリヤやアブラハムとサラ夫婦や疑い深い弟子のトマスに負けず劣らず、その人もまた、飛びっきりの幸いをそこで受け取ります。この同じ一つの幸いを、私たちも、ぜひ何としても贈り与えられ、受け取りつづけたいものです。

     【割愛した部分の補足】
           () コリント手紙(1)1:18-31。私たちは、しばしば神よりも賢いつもりになってしまいました。浅はかで薄っぺらな教養と一般常識と、根拠薄弱なプライドと、いつもの「分かっているつもり」という気分が、神の恵みを跳ね除けさせました。大いに恥をかかされ、辱められるのでなければ、神さまの御前に心安く膝を屈めることのできない私たちです。「誇る者は主をこそ誇れ」という神の真理が、やがてとうとう、この私たちの只中でも確かな現実となりますように。



 ◎とりなしの祈り

 イエス・キリストの父なる神さま。あなたのものであります小さな子供たちをこの礼拝に招き、あなたのそば近くに引き寄せてくださいまして、本当にありがとうございます。「わたしの思いではなく、御心のままになさってください」と主イエスはあなたに向けて祈られました。ですからどうか、救い主イエスのその心を私たちの心とさせてください。世界中で、またこの国の中でも、私たちは大きな苦難の中に据え置かれています。原子力発電所の事故はまったく収束しておらず、震災からの復興は足踏み状態となって仮設住宅に多くの人々が置き去りにされつづけています。ですからどうか、あなたの御心を行うために立てられた、責任あるすべての者たちを正しく導いてください。国家とすべての政治家と官僚職員を、また裁判所裁判官と検察官と警察職員たちを正しく導いてください。社会福祉と医療に携わるすべての職員たち。保育所と幼稚園の職員とすべての学校教師たちと、子供の父親母親たちの働きを健やかに保ってください。18歳以上のすべての大人たちに、健全な判断力と寛容さを与え、他者を思いやる慈しみ深い心を与えてください。この国に暮らす外国人労働者とその家族をお守りください。主よ、私たちを憐れんでください。心と体に痛みをもつ人々のために祈ります。あなたからの慰めと癒しをお与えください。その家族と友人たちを、あなたの慈しみの御手をもって心強くお支えください。また私たち自身の手と心をも、その彼らに向かって差し伸べさせてください。私たちを、すべての生命ある者らを、主よ、どうか憐れんでください。
 主なる神さま、この私たちを世のための光、地上のための塩としてください。すべてのキリスト教会とクリスチャン一人一人を、あなたのご委託とご命令にかなって働く忠実なしもべとなさせてください。そのためまず、この私たち自身の祈りと生活とを十分に整えさせてください。ただ口で美しく祈るだけでなく心でも祈り、毎日の生活や行いや普段の在り方としても、祈るように生きることができますように。礼拝の中でも外でも、一人で祈る時にも仲間たちの間でも、その1つ1つの祈りをただ人間たちに向かってではなく、ただ人間たちに聴かせようとしてでもなく、あなたにこそ向けさせてください。同じ一つの大切な願いにしがみついて2030回祈ったというだけでなく、何年でも何十年でも祈り求めつづけさせてください。あなたに向かう祈りがそうでありますように、朝も昼も晩も、誰とどこにいても、自分自身や周囲の人間たちの心にかなうことなどではなく ただただあなたご自身の御心にかなうことをこそ願って生きる私たちとならせてください。あなたの御言葉と救いの約束とを信じて生きる私たちとならせてください。あなたの御言葉と救いの約束とを信じて生きる私たちとならせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン

1/10「神さまの御心をこの地上に」マタイ6:5-10

                                  みことば/2016,1,10(主日礼拝)  41
◎礼拝説教 マタイ福音書 6:5-10                 日本キリスト教会 上田教会
『神さまの御心をこの地上に』~祈り.4

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

6:5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。6 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。7 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。8 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、
天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
10 御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。 (マタイ福音書 6:5-10)


神さまに向けてどう祈るのか。それは祈りの形式や体裁や作法をどうするのかということをはるかに超えています。神さまの御前で、神さまに向かって、信仰をもってどのように生きて死ぬことができるのかという問いであります。『天におられます父よ。あなたの名前を誉めたたえさせてください。あなたの国を来らせてください。あなたが心に思い、願っておられますことを、私たちが生きるこの地上の世界で、私たちのいつもの生活の場所で成し遂げさせてください』。それらの願いは、直ちに、天におられます父なる神への全幅の信頼です。神さまにこそ十分な信頼を寄せ、願い求め、聴き従って生きることです。天におられます父なる神さま。あなたの御心こそが成し遂げられますように。およそ500年前の古い信仰問答は、この願いの心をこう説き明かしています;「これは、私たちとすべての人間が自分自身の思いを捨てて、唯一善であるあなたの御心にいっさい抗弁することなく従うことができるようにしてください、ということです。こうして、すべてのものが自分の務めと使命とを、天にいる御使いのように喜んで、また忠実に果たすようにさせてください、ということです」(『ハイデルベルグ信仰問答,問1241563)。まず、この私たち自身こそが「私が私が」と我を張りつづけることをキッパリと止め、自分の思いをかなぐり捨てて、神さまの御心にこそ従うことができるようにさせてください。救い主イエス・キリストご自身からの、直々の教えです。

  キリスト教の信仰はこういう願いであり、こういう生き方であると、はっきりと告げられます。すると、2種類の反応がありえます。1つは、「嬉しい。じゃあ、私もそういう生き方をさせてもらいましょう」。もう1つは、「嫌だ。気が進まない。そういうことなら、私は止めておきます」と立ち去っていく場合。「嬉しい。じゃあ、私もそういう生き方をさせてもらいましょう」とは、そう簡単には思えません。なにしろまず、どんな神さまなのかを十分に知らなければ、「嬉しい。私もぜひそうしたい」などと思えるはずもありません。人間同士の付き合いもまったく同じです。出会ってすぐに、「この人を信頼する。いっしょに生きていきたい」などとは思えません。ろくに付き合いもしないうちから、そんな大事なことを決められるはずがありません。長い時間を共に過ごし、苦楽を共にし、腹を割ってよくよく語り合い、その相手のさまざまな姿に触れる中で、少しずつ少しずつ信頼や愛情が育まれていきました。神さまとの付き合いもまったく同じです。「誠実であり、裏表なく正しく、慈しみ深く、とてもよい神さまだ。信頼に足る相手だ」と骨身にしみて味わって、人はようやく、その神さまを本気で心底から信じるようになっていきます。ですから、「さあ、どうだろう? まやかしや偽りか、それとも信頼に足る本物なのか」と首をかしげている方々は、いつまででも気が済むまで、よくよく観察しつづけるとよいでしょう。例えば私たちのそれぞれの家族もまた、この神さまを観察しつづけています。どうやって? 神を信じて生きる私たちの日頃の姿をとおして、口から出る普段の何気ない言葉や、ちょっとした態度や腹の据え方にふれて、「ただ見せかけだけの嘘っぱちか、それとも神さまが本当にいるのか」と。
 しかもこれは、『だれを自分の主人として私は生きるのか』という私たちの根源的な腹の据え方の問題でもあります。聖書の神さまを信じて生きることは、この神さまこそが自分の主人であり、私たちは主のしもべにすぎない、という弁えです。救い主イエスご自身からの直伝です;「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである」(マタイ福音書6:24)いったい何を自分の主人として生きるのか。それは、何を頼みの綱として、何を支えや依り所として生きるのかという問いかけです。私たちの周りにはさまざまなモノがあり、その中の何かを選んで、私たちはそれを自分の主人とします。神や仏を拝まない人々であっても、何かを拝み、何かを頼みの綱として生きています。例えば『拝金主義』といって、お金や財産が十分に沢山あれば幸せになれると考える人々もいます。彼らはお金を拝み、財産や富を自分の主人として生きていきます。例えば『健康で若くて、今のところは元気ハツラツとしている。だから安心』と、健康や若さや、今のところは元気ハツラツとしていることを拝んで、それらを自分の主人として生きる人々もいます。例えば、『自分自身の能力や才能や地位、築いてきた人々からの評判や名声』を拠り所とする人々もいるでしょう。また例えば、「最後の最後は自分が頼りだ」と苦しそうな顔をし、「自分は誰の命令も指図も受けない。したいように思い通りに生きてやる」と頑固に強情を張りつづける人々もいます。それを聖書は、『自分の腹の思いを神とする』(ローマ16:18,ピリピ3:19)と見抜き、それこそが「捨て去るべき自分自身の思い」だと指摘します。兄弟姉妹たち。あなたの腹の思いは、あなたを幸せにしません。かえってあなた自身を困らせ続けます。その時々の気分や好き嫌いや腹の思いや腹の虫を主人とするのと、神さまに従って生きるのと、どちらが幸せでしょう。それは自分自身で選ぶことです。せっかく頼みの綱とし、支えとするなら、必要なだけ十分に長持ちする、頼り甲斐のある支えのほうがよいでしょう。「自分自身のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである」(マタイ福音書6:20-21と勧められています。神を信じ、神さまをこそ自分の主人として生きよという招きです。
 十字架にかけられて殺されてしまうその前の夜、救い主イエスは苦しみながら、ただ独りで祈りの格闘をなさいます。ゲッセマネと呼ばれている所で、エルサレムの都のすぐ裏にある小さな山の中です。お弟子さんたちは、小石を投げれば届くくらいの少し離れた場所で、待っていました。どんなふうに祈っているのかを見てみましょう。マルコ福音書14:32-36;「一同はゲツセマネという所にきた。そしてイエスは弟子たちに言われた、『わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい』。そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、『わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい』。そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、『アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください』」。「アバ、父よ」と天のお父さんに向かって呼びかけています。アバ。その地方の方言ですが、2、3歳くらいのまだほんの小さな子供が父親に向かってこのように呼びかけます。「お父ちゃん。おっとう」などと。生まれて1年くらいすると、赤ちゃんは喋りはじめます。でも、あまり色々は喋れなくて、あばばば、まままま、だだだとか。そのうちお腹がすいてご飯が食べたくなったら、マンママンマ。おしりがウンチで汚れて気持ちわるいときに、マンママンマ。疲れて眠いときに、マンママンマ。淋しくて心細いときに、マンママンマ。やがて、その子はお父さんお母さんの名前を呼び始めます。そしたらお父さんやお母さんがやってきて、「どうしたの。お腹がすいたのかい。お尻をきれいきれいにしてあげようか。眠たいのかい。ほら、ねんねしなさい。大丈夫大丈夫」などと。私たちの救い主は、この時、小さな子供の心に返って天のお父さんに向けて、「トウチャン。オットウ」と呼ばわっています。相手に対するわずかな疑いも恐れもなく、すっかり信頼して。感謝や愛情、素朴な願いを込めて、一途に「おっとう。とうちゃん」と。不思議です。主イエスはもちろん、もうすっかり大人なのですけれど、このお父さんの前では、このお父さんに向かっては、本当に小さな子供なのです。主イエスは「死ぬばかりに悲しい」とひどく恐れて身悶えしながら、「この苦しみのとき、この苦い杯」と噛みしめながら、しかしそこで、ユダヤ人の指導者たちやローマ提督や役人や兵隊たちを見回すのでありません。この崖っぷちの緊急事態の局面で、ここで、一途に父なる神にこそ目を凝らします。「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。「御心のままに。御心にかなうことが」とは何でしょう。どういう意味で、どういう腹の据え方でしょうか。自分を愛してとても大切に思ってくれるお父さんやお母さんといっしょにいるときの、小さな子供の心です。小さな子供にも、もちろん困ったことや悲しいことや嫌なことがあります。辛く苦しいことも。私たちに負けず劣らず、それは次々とあるのです。
  「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこに入ることは決してできない」(マルコ10:15)と告げられていました。「お父ちゃん。おっとう」と天の父に向かって呼ばわる子供です。そのように一途に神さまに信頼し、願い求め、手を差し伸べて神さまに近づこうとする小さな子供です。そう言われて、ある人々は渋い顔をします。何十年も生きてきて、これまで身につけてきた色々なものに囚われ、凝り溜まり、頭も心もすっかり固くなってしまった老人たちが反論します;「年をとった者が、どうしてまたオギャアオギャアと生まれたり、おっとう、トウチャンなどと口に出せるだろう。いいや、決してできるはずもない」(ヨハネ福音書3:4-9参照)。あなたもそう思いますか? いいえ私たちは新しく生まれることができます。天の御父に向かって、救い主イエスがしたように、「おっとう、トウチャン」と心底から親しく呼ばわることができます。もし、そうなりたいと願うならば。この祈りの格闘を弟子たちに語り聞かせ、告げ知らせてくださったのは、私たちそれぞれにも悲しくて惨めで辛くて、とてもとても困ったことがあるからです。あなたにも、おっかなくて苦しくて心細い日々がありますね。小さな子供にも、中学生や高校生の大きなお兄さんお姉さんたちにも、お父さんお母さんにも、おじいさんおばあさんたちにも、それぞれに次々とあります。それぞれのゲッセマネの園です。もし、そうであるなら、あなたも地面にひれ伏し、身を投げ出して必死に祈りなさい。神さまを信じる一人の人は、どうやって生き延びてゆくことができるでしょう。病気にかからずケガもせず、誰からも意地悪をされず、嫌な思いをすることもなく、いつも皆がニコニコして親切にしてくれて。――そんな絵空事を夢見るわけではありません。私は願い求めます。本当に困ってガッカリするときに、しかし慰められ、心を挫けさせるとき、再び勇気を与えられ、心細くてひどく惨めな気持ちのとき、なお支えられることを。そのことをこそ心から望んでいます。
 主の祈りの中の6つの願いのうち、1番目と2番目と3番目の願いを味わってきました。御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく地にもなさせたまえ。つまり、神さまが本当に神さまらしく、ちゃんとご自分の務めを果たしてくださっている。私たちが喜んだり悲しんだり、安心したり困って心細かったりすることの1つ1つに対して、神さまこそが全責任を負って、ちゃんと世話して助けつづけてくださる。そういう神さまがちゃんと生きて働いてくださって、この私のためにもちゃんと助けてくださる。それを知って、私たちも安心して晴々として暮らしていけること。小さな子供の信頼や愛情や感謝を心に深く刻み込んだ、素敵な大人になることだってできます。この私たちにさえも 「しかし私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように。おとうちゃん。おっとう」と主イエスは呼ばわります。この私たちでさえ、「どうぞよろしく。オットウ、とうちゃん、頼みますよ」と同じくそう呼ばわることができます。呼ばわりつつ生きるに値する父親が、あなたにもいてくださるからです。なぜなら天におられます父と救い主イエスを、とうとう本気で信じて、毎日毎日の暮らしを生きはじめたからです。だから今では、私たちは神さまの子供たちです。