みことば/2016,1,3(主日礼拝) № 40
◎礼拝説教 詩篇 130篇 日本キリスト教会 上田教会
『自業自得、ではない。』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
130:1 主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。
2 主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。
3 主よ、あなたがもし、もろもろの不義に
目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。
4 しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。
5 わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。
そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。
6 わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。
7 イスラエルよ、主によって望みをいだけ。
主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。
8 主はイスラエルを そのもろもろの不義からあがなわれます。
(詩篇 130篇 1-8節)
まず1-2節に目を向けましょう。この人は、主なる神さまに向かって祈っています。「主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。助けてください。助けてください」と、まるで深い海の底に沈められているかのように感じながら、その苦しみと悩みの場所から、この人は主に向かって呼ばわっています。
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祈りとは、いったい何でしょう? 祈るとき、そこで何が起こっているのでしょうか。信仰をもっていてもいなくても、神さまを信じていてもいなくても、人は深く大きな苦しみと悩みに襲われます。次から次へと襲われつづけ、心が折れそうになります。するとそのとき例えば、「私には何もできません。ただ、祈ることくらいしかできなくて」などと寂しそうに、申し訳なさそうに心細そうに言う人がいます。せいぜい祈ることしか? いいえ、もし本気で祈ることができるなら、それで十分です。むしろ、ほとんどの人々は「こんなときに祈ってなどいられない」と、ただただアタフタおろおろし続けます。その通り。原因はそこにあります。祈ることができないので、それで、その結果として自分がただただアタフタおろおろし、落胆し、嘆いたり悲しんだり、苛立ったりしている。しかも、そのことに当人は気がつきません。居ても立ってもいられず、心を惑わせる日々に、そのようにして私たちはたびたび神さまをすっかり忘れ果ててしまいました。そのときこそ、本気で、主に向かって祈ることができればよかったのに。例えば救い主イエスの弟子たちも、やはりそうでした。主イエスが十字架におかかりになる前の晩、あのゲッセマネの園で。主イエスは血の汗をしたたらせ、身悶えしながら祈りつづけておられました。弟子たちは眠っていました。主は弟子たちを気遣い、何度も何度もあの彼らの所へ立ち戻ってきました。思い煩いと悩みが彼らの心をますます鈍くさせ、その瞼はどんどん重くなってゆき、彼らは眠りつづけました。「眠っているのか。眠っているのか、眠っているのか。あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである。いいや、心も肉体も何もかも、あまりに弱く脆いのだから!」(マタイ26:40-41参照)。ぜひ何としても神さまへと向かうべきときに、あの彼らも私たちも、けれど祈ることを見失い、神さまご自身を見失いつづけました。それだからこそ、思い煩いと悩みの薄暗がりの只中へと眠り込んでしまいました。だから130篇のこの人の祈りは、深く驚いて目を見張るに値します。なぜなら深い海の底に沈められ、なおかつそこで、主に向かって呼ばわっているからです。「主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。助けてください。助けてください、助けてください」と。
なぜ、この人は祈りつづけることができたのか。――どんな神なのかを知らされていたからです。また、その神さまの御前に自分が何者であるのかもはっきりと教えられていたからです。3-4節をご覧ください。「主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう」。罪ともろもろの不義のはじまりは、「自分が自分が」と我を張りつづけ、神さまに逆らうことでした。しかも、誰も彼もが神に逆らい、神さまから離れ去りました。そこから、すべて一切が破綻しはじめました。罪をゆるす神である。罪をゆるされ、私たちを縛り付けるもろもろの不義から解き放たれるのでなければ、私たちは生きることができません。誰もがそうです。神さまと自分自身と、すべての人間について知るべきすべてがこの3-4節に言い尽くされている、と思えます。しかも兄弟姉妹たち、もし、いまだに私たちが彼のように祈ることができずにいるならば、それは、『ゆるす神であり、ゆるされるべき罪人たる私である』と受け止めきれずにいるせいかも知れません。聖書自身は、『ゆるす神であり、ゆるされるべき罪人たる私である』と、ただこの一点を語りかけつづけました。けれど私たちは、聞き流しつづけてきました。例えば世界を飲み込んだ大洪水の後、生き延びたノアと家族とすべての生き物たちに対して告げられた神の言葉は驚くべきものでした;「わたしはもはや二度と人のゆえに地を呪わない。人が心に思い図ることは幼い時から悪いからである」。また、こう証言されます。「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである」。さらに、「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない」(創世記8:21,ローマ手紙3:22-26,ヨハネ手紙(1)1:8-10)。ある一人のクリスチャンは、こういうことを自分ではよく分かっているつもりでした。他の人たちにも、『ゆるす神であり、ゆるされるべき罪人たる私である。すべての人間がそうであり、キリストの教会もクリスチャンも例外ではない。罪人の集団にすぎない。分かりますか』などと偉そうに説明したりもしていました。でも、当の自分自身こそがちっとも分かっていませんでした。クリスチャンでもあるその人の家族が重い病いに苦しんでいたとき、訳知り顔の偉そうなそのクリスチャンは、苦しむその家族を(それは彼の実の父親でしたけれども)可哀そうに思ってあげることができませんでした。それどころか、「いやいや、あれは自業自得だから。因果応報だ」(*)などと涼しい顔をしていました。なんということでしょう。しばらくして、ようやく彼はハッと気づきました。この自分こそが何も分かっていなかった。苦しむあの哀れな彼に負けず劣らず、この自分もうしろめたいことを山ほどしでかし、不義と悪行を散々積み重ねてきたではないか。神さまの恵みとゆるしを、この自分こそが台無しにしていた。自分を欺き、神さまを偽り者としつづけていたのは他の誰でもなく、この自分自身だったと。因果応報? 自業自得? いいえ、とんでもありません。『もし仮に、以前に自分がしてしまった悪い行いの報いを自分自身で受けなければならない』のでしたら、誰一人もその罪と不義を背負いきれず、とうてい生きることなどできません(創世記4:13-16参照)。誰かに殺されるか、絶望のあまりに自分で自分の命を絶ってしまうかどちらかでしょう。けれど確かに、ゆるしが主のもとにあったのです。救い主イエス・キリストというゆるしです。このお独りの方を信じる者に無条件で分け隔てなく贈り与えられる、罪のゆるしです。
5-6節。「わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます」。町を脅かす危険は夜の闇に紛れて忍び込みます。その町の平安を願い、家族や友人たちが無事に生き延びることを願う見張り番たちは、だからこそ差し迫ってくる危険を恐れ、城壁の門に立ち、物見の塔から目を光らせ、また辻々を夜通し巡り歩きます。しかもなかなか夜が明けない。なぜでしょう。暗闇の中を私たちは歩んでいたからであり、暗黒の地にこの私たちは住んでいるからです。「わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。主を待ち望みます」と自分自身に繰り返し言い聞かせつづける。大いなる光が上から、あわれみ深い主のもとから私たちに臨むのを見たからです。しかもなおどうして、心挫けてしまわずに見張り番たちが来る日も来る日も町を守りつづけていられるでしょうか。それは、「主ご自身が町を確かに守りつづけ、建てつづけておられる。だから、町を守る者が目覚めていることは虚しくはない」(詩127:1-2参照)と知っているからです。主への信頼こそが、夜の見張りに立つ彼らの働きをその土台のところから支えています。
7-8節「イスラエルよ、主によって望みをいだけ。主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。主はイスラエルを、そのもろもろの不義からあがなわれます」。とうとう彼らは、自分たちが主を待ち続け、主に望みをいだくばかりではなく、隣人や仲間たちに向かって、大切な家族のものたちに向かっても呼ばわりはじめています。「あなたも主によって望みをいだきなさい。主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。主はイスラエルを、あなたをさえ、そのもろもろの不義からあがなわれます」と。神さまへと向かう望みとは何でしょう。神を信じる者たちがどのような土台の上にこの望みを置くことを、彼らは願っているでしょうか。主には憐れみがあり、主は慈しみ深くあってくださるというただ一点の土台です。「豊かなあがない。もろもろの不義からのあがない」もまたただ主の憐れみと慈しみからだけ溢れ出てくることを、彼らは今や知らされています。ゆるしが主のもとにある。救い主イエス・キリストの犠牲によって成し遂げられたゆるしです。イエス・キリストが罪人の救いのために死んで、墓からよみがってくださったからには、この方を信じる私たち罪人らもまた古い罪の自分と死に別れ、その自分勝手さや頑固さを葬り去っていただき、この方から新しい生命を受け取りつづけて生きる、という罪のゆるしです。このお独りの方を信じる者に無条件で分け隔てなく贈り与えられる、罪のゆるしです。また、「豊かなあがない。もろもろの、すべての不義からのあがない」であるという中身は、あわれな罪人がたとえどれほどの多くの、また最低最悪の罪と不義が自分自身にあると痛感するとしてもなお、その罪深さから必ずきっと救い出してくださることです。だからこそ、そのあがないはあまりに豊かであり、その光はすべての者を照らす大きな光であるのです。
おさらいをしておきます。私たちの教会の『こどものための交読文3』は、このように問いかけ、また答えます;「あなたはすでに救われていますか」「はい、救われています」「どうしてですか。あなたは罪人ではないのですか」「はい。わたしは罪人ですし、いまも神に背きますが、主イエスを信じる信仰によって、ただ恵みによって救われているからです」「神は正しいかたで、罪を憎むのではありませんか」「そのとおりです。神は罪を憎みますが、罪人であるわたしたちを愛することを決してお止めになりません」・・・・・・「主イエスは、なんのために神でありながら人間になられたのですか」「人間として、わたしたちのすべての悲しみと苦しみがお分かりになり、神として、わたしたちをすべての罪から救い出すためです」「主イエスは、父なる神に逆らったことはないのですか」「神に逆らう罪を一度も犯しませんでした。主イエスに導かれて、私たちも神に逆らうことを止めて、神に素直に従うものとされてゆきます」。これが、慈しみの神さまへと向かう私たちの望みです。約束どおりに、神さまは私共を取り扱ってくださいます。
主イエスの弟子たちよ。ご覧ください。暗闇の中に座り、そこで呻き声をあげているおびただしい数のイスラエルが私たちの目の前にいます。それはあわれな罪人たちであり、「因果応報であり、自業自得である」と思い込まされ、しかもなお「自分の罪と不義は重すぎてとても担いきれない」と嘆いている者たちです。主の弟子とされた私たちは出かけていって、その彼らにこう告げます。「さあ、私たちを見なさい。私たちに金銀はない。ただ、担いきれない罪と不義とがあるばかりだった。自分自身の罪と不義とはあまりに重すぎて担いきれないと、私たちもただただ嘆いていた。もちろん、あなたにも担えるはずがない。私たちにも他の誰にも、とうてい担えない。人間にできることではないからだ。けれど、神さまにはできる。神にできないことは何一つない。しかも、重すぎるそれらの重荷をすべてすっかり肩代わりしてくださったお独りの方がおられて、多くの人のあがないとしてご自分の命を与えてくださったただお独りの方が確かにおられて、それで、そこでようやく、私たちもまた立ち上がって歩くことができた。今も、同じく歩いている。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩いている。もし良かったら、あなたもそうなさってはいかがですか」(創世記4:13-16,マタイ20:28,使徒3:6参照)と。
(*)「自業自得」;すべての災いや不都合な結果は、以前に自分が行った良くない行為の報いに基づくとする考え方。「因果応報」;過去や前世の行いの善悪に応じて、悪い報いを自分自身が受け取る、という考え方。