みことば/2016,1,24(主日礼拝) № 43
◎礼拝説教 マタイ福音書 6:12-15,18:21-35 日本キリスト教会 上田教会
『ゆるしてください』~祈り.6~
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
18:21 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。22
イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。23 それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。24
決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。25 しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。26
そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。27 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。28
その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。29 そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。30
しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。31 その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。32
そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。33 わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。34
そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。35 あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。
(マタイ福音書 18:21-35)
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《罪のゆるし》の教えこそ、キリスト教信仰の肝心要です。クリスチャンとは何者なのかと問われて、私たちは答えます。『それはゆるされた罪人です。ゆるされて、それで罪人でなくなったのではなく、依然として罪人であり、その罪深さをゆるされつづけて生きる者たちである』と。その祝福に満ちた中身は、《この私は、人に対しても主に対しても罪を犯した》と告白し、《主があなたの罪をゆるし、その罪を取り除いてくださったし、憐れみによって取り除きつづけてくださる》と、ゆるしの現実を聴くことの中にあります。聴きつづけるなら、やがてそれが私たち自身のいつもの普段の暮らしの現実となるでしょう。ゆるしてあげたり、ゆるしていただいたり、誰かをあわれんであげたり、あわれんでいただいたりし合う私たちとなれるかも知れません。そのようにして、あわれみと慈しみの実が結ばれてゆくかも知れません。その私たちはまた、自分に対してなされた他者の罪や過ち、無慈悲、冷淡さをもゆるすようにと促されます。けれど、これは難しい。ひどく誤解されたり、ねじ曲げられ、不当な扱いに傷つけられることは日常茶飯事です。「どうして分かってくれないのか。なぜそんなふうに」と、私たちは度々打ちのめされ、心を痛めつづけます。人との関わりはしばしば私たちの手に余ります。もし、「なにしろ許すべきだ。ゆるさなければ、あなたはクリスチャンではない」と突きつけられるならば、私は頭を抱えます。それとも逆に、「あなたがゆるされていることが十分に分かっているなら、それでいい。後は、あなた自身は人を許そうが許すまいが、温かく迎え入れようが冷たく退けようが、それはあなたの自由だ。好きにしなさい」と言われるでしょうか。
18:23-33、主イエスが直々にお話くださったたとえ話です。1人の男は王様に対して莫大な借金がありました。返済することなどとうてい出来ませんでした。自分自身も家族全員も身売りして奴隷になり下がり、家も土地も持ち物全部も売り払うほかありませんでした。「どうか待ってください」としきりに願い、すると王様は、少し待つどころか、借金をすべて丸ごと帳消しにしてくれたのです。何の交換条件もなく、ただただ彼を憐れに思ったからでした。ゆるされたその男は晴れ晴れとした気持ちで王様のもとから下がり、町の通りに出て、自分に借金をしている1人の友人に出会いました。ゆるされたその男は、自分に対するわずかな借金をゆるしませんでした。捕まえて首をしめ、「借金を返せ」。友人もまた彼に、「どうか待ってくれ」としきりに願いました。あの時の彼とそっくり同じに。「どうか待ってくれ。あれれ? どっかで聞いたことがあるなあ。まあ、いいか」。男は承知しませんでした。無理矢理に引っ張ってゆき、借金を返すまではと牢獄に閉じ込めました。その冷酷で無慈悲なやり方は、王様の耳に届きました。王はその男に言います。「悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」。
「わたしの天の父もまた、あなたがたに対してそのようになさるであろう」(35節)。つまりあなたが兄弟を扱うのとそっくり同じやり方で、同じく厳しく、同じく情け容赦なく、あなたを扱う。それをよくよく覚えておきなさい。かの日には、ゆるそうとしない人々にはゆるしは決して与えられない。憐れもうとしない人々には憐れみは与えられない。その人々は、神の国にふさわしくない。なぜなら、かの国は憐れみの国であり、そこで歌いつづけられる歌は《差し出され、受け取りつづけてきた恵み》という歌であるからです。兄弟姉妹たち。私たちが神さまとの間に平和を得ているということは、どうやって分かるでしょうか。恵み深い神にうちに深い慰めを与えられているということは、どうやって分かるでしょうか。主イエスの十字架の上で流された尊い血潮によって洗い清められていることは、どうやって分かるでしょうか。新しく生まれ、ただただ恵みによって、まったくの無償で、何の条件も資格も問われずに神の憐れみの子供たちとされているということは、いったい何によって、はっきりそうだと分かるでしょうか。自分自身にも、私と共に生きる人々にも、「ああ。本当にそうだ。この人は神の恵みと憐れみを豊かに注がれている。それがこの人の血となり肉となって、生き生きと息づいている」と。何によって、それと分かるでしょうか。このたとえ話を思い出したい。朝も昼も晩も、他の誰彼がというのではなくこの私自身こそが! ぜひとも思い起こしつづけたい。
なにがしかの良い働きをしたいと、あなたは願うでしょうか。この世界に対して、あるいは身近にあるあなたの大切な友人たちに。あなたの職場の同僚たちに。あなたの夫に対して。あなたの大切な息子や娘たちに対して。親として、友人として、1個のクリスチャンとして、ほんのわずかでも良いものを贈り与えたいと、あなたは願うでしょうか。「なるほど。これがキリスト教の信仰か。これがクリスチャンというものか」と、いつかあの人が心に思い、あなた自身が受け取っている豊かなものを分かち合えるようになるならと、あなたは願うでしょうか。私は願っています。どうやって出来るでしょう。難しい神学用語やキリスト教信仰の理屈はよく分からなくても、改まった話をすることが苦手でひどく口下手であっても、愚かで、世間知らずでも、たとえそうであっても、せっかく受け取っているこの豊かさと心強さを、晴れ晴れとした安らかさを、この揺るぎなさをあの1人の人にも差し出してあげたいと、あなたは願うでしょうか。このたとえ話を思い起こしていただきたいのです。
《ゆるすべきだ》と、頭では理解できます。問題なのは、《どうしたら、ゆるすことができるのか》です。頭でだいたい分かるだけではなく、心底から分かり、よくよく腹に据えることができるかどうか。できることなら許したい。ぜひ許したい。その人を温かく優しく迎え入れ、心を開いていっしょにいることができるようになりたい。なかなか、それが出来ないので苦しんでいます。私は、私自身が深く抱えもってしまった憎しみによって誰かを苦しめているだけではありません。自分の憎しみや怒りによって、他の誰をでもなく自分自身をこそ苦しめています。負債のある人々を牢獄に閉じ込めるばかりでなく、そうする自分自身が暗く狭い魂の牢獄に閉じ込められています。あの、白雪姫を憎んだおきさきのように。怒り、ねたみ、苛立ちが茨のように芽を出し、ツタや小枝を伸ばし、葉を茂らせ、いつの間にか私の魂の庭を埋めつくしてしまいます。日差しもすっかり遮られ、じめじめと湿った薄暗がりに覆われます。おきさきもこの私も、すると心の休まるときがなくなってしまいます。できることなら許したい。それができないので、私たちは苦しみ、私たちは自分自身を貧しくしてしまうのです。神さま、罪深い私たちを憐れんでください。
《主の祈り》の6つの祈願の第5番目は、「私たちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」。どうかゆるしてくださいと、なぜ願うのでしょうか。なぜ、そう祈り求めるようにと命じられているのでしょう。私たちがいまだに罪を許されていない、ということではありません。主イエスの、あの丘の上の十字架上で成し遂げられた罪の贖(あがな)いの出来事を、「それは、この私のためだった」と信じ、受け入れたときに、私たちはすでに何の留保もなく、すっかり決定的に罪をゆるされました。その罪がどんなに数多くても、最低最悪の罪であっても、すっかり丸ごとゆるされています。そこには、ほんの少しの疑いをも差し挟む余地がありません。けれども、《我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく》とは、いったい何でしょうか。この一句があるために、私たちはたじろぎます。自分のための罪のゆるしと神の憐れみとを願い求めようとする度毎に、「お前はまだゆるしていない。まだゆるしていない。どうしたわけだ?」と、私たちは突きつけられるようなのです。自分に対する他者の負い目をゆるしてあげることが、自分自身がゆるされるための前提条件なのでしょうか。ゆるすなら、その見返りとしてその報酬として、ゆるされるのでしょうか。いいえ、そうではありません。私たちが罪をゆるされることは、神からの恵みのできごとでした。それは一方的な贈り物でした。何の条件もなく、ただただ恵みによって、ただ憐れみによって、まったくの無償でゆるされた私たちです。確か、そうだったはずですね?
このたとえ話を思い起こしてください。この男は、10,000タラントの借金を、どんなふうにゆるされたでしょうか。返すことなど、とうてい出来ませんでした。自分自身も妻も子供たちも身売りして奴隷になり下がり、家も土地も持ち物全部も売り払うほかありませんでした。それを全部、すっかり丸ごと帳消しにしていただきました。何の条件もなく。人に親切にしたからではなく、熱心に働いたからではなく、感謝したからでもなく、見所と取り柄があったからではなく、服従を約束したからでもなく。それは、ただひとえに王様がかわいそうに思ってくださったからでした。王様の憐れみによったのです。徹底的に大きなゆるしが先にあり、その恵みの只中に据え置かれた私たちです。他人の欠点や貧しさは、まるで手に取るように、よく見えます。「なんて身勝手な、思いやりのない人だなあ」と私たちは他人の素振りを見て渋い顔をします。「そんなことがよく平気でできるものだ。どういう神経をしているんだろう」と呆れます。その一方で、自分がどんなふうに人を扱っているか、人に対して何をしているのかは、私たちはあまり気づきません。しかも自分が受けた傷や痛みには、私たちはひどく敏感です。「あんなことをするなんて、ひどい。我慢できない」と私たちは腹を立て、涙も流します。もちろん、あなたは不当な扱いを受けてきたでしょう。誤解され、冷淡で無慈悲な仕打ちをされ、心を痛めたことでしょう。その通りです。それでも。あなたはもう忘れてしまっているかも知れないけれど、私たち自身が《ゆるされること》を必要とし、現にゆるされ続けています。毎日毎日、様々な場面で様々な事柄に対して、私たちはひどくいたらない。ぜひともすべきことをせずにおり、してはならないことをしてしまいます。怠惰さや無責任さから、臆病さや、あるいは独りよがりな身勝手さから。言ってはならない言葉を口から出し、ぜひとも語りかけてあげるべき言葉を言い出せずにいます。朝も昼も夜も、私たちは神の憐れみとゆるしを必要としています。わたしの隣人が私に対してする過ちや背きは、この私自身が神と隣人たちに向けてしてしまった過ちと背きに比べるなら、わずかなものでした。ほんの些細な、取るに足りない、無いも同然のものでした。まことに憐れみ深い神はそれでもなお、そんな私たちをさえ見捨てることも見離すこともなさらなかったと、私たちも知りたいのです。神の憐れみを受け取り、「本当にそうだ」と心底から味わうために、そのためにこそあなた自身が他者に対して憐れみ深くあるようにと神はお招きになります。神の偉大さ、神の気前のよさをあなたが受け取ることができるためにこそ、神は、あなた自身が他者に対して寛大に気前よくあるように、心低く慎み深くあるようにと促すのです。
罪深く貧しく愚かな兄弟への私の憐れみの眼差しは、同じく罪深い、いいえ彼よりもっと貧しく、もっと愚かでかたくなな私自身への、神の憐れみの眼差しを、この私にも思い起こさせました。弱く小さな、そしていたらない小さな1人の人へ向けられた私の心の痛みは、この私に向けられていた神の痛みを、この私にも気づかせてくれました。備えがなく、貧しく身を屈めていたのは、お互い様でした。かたくなさはお互い様でした。弱さも小ささも、ふつつかさも、お互い様でした。罪深さも、礼儀や慎みを知らず、ひどく身勝手で自分のことしか考えないことも、それはお互い様でした。とうとう許してあげたときに、ゆるされてある自分を見出しました。与えたときに、折々に山ほど良いものを受け取ってきた自分を思い起こしました。有り余るほど、満ち足りるほどに、あふれてこぼれ落ちるほど豊かに受け取りつづけてきたことに。嫌々ながら渋々と手を差し伸べたとき、「そうだ。この私も手を差し伸べられ、抱え起こされた。担われてきた。あの時もそうだったし、あの時も。あの時も、あの時も」と。受け入れたとき、そこでようやく、そこでまるで生まれて初めてのようにして、この私こそが、受け入れがたいところを受け入れられ、許しがたいところをなお許されてきたことに気づかされました。兄弟たち。あなたも私も、ゆるされてきました。7回どころか7の70倍、どこまでも際限なくゆるされてきました。支えられてきました。助けてくださいと願うこともできなかったのに。願い求める資格も、そのふさわしさも、自分自身のうちには何1つ見出すことができなかったのに。ゆるしていただいたとき、とてもビックリしました。嬉しかった。本当に本当に嬉しかった。ああ、嬉しかった。嬉しかった。
主なる神さま。「けれども憐れみ深いあなたは」と、この私にも驚きと感謝を魂に深々と刻ませてください。あなたへの感謝と信頼とを、この私にも覚えさせてください。物忘れのひどい私たちです。肝心要のことを、うっかり忘れてしまう私たちです。10,000タラントの借金の全額丸ごとの帳消しを、受け取ってきたあの憐れみを、この私たちにも思い起こさせてください。朝も昼も晩も。そしてその驚きを私たちの血とし、肉としてください。救われた喜びを、この私たちにも再びはっきりと思い起こさせてください。
主イエスのお名前によって、祈ります。 アーメン