1/17 こども説教 ルカ1:46-56
『あわれみ、あわれみ、あわれみ。』
1:46 するとマリヤは言った、
「わたしの魂は主をあがめ、
47 わたしの霊は救主なる神をたたえます。
48 この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。
今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、
49 力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。
そのみ名はきよく、
50 そのあわれみは、代々限りなく
主をかしこみ恐れる者に及びます。
51 主はみ腕をもって力をふるい、
心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、
52 権力ある者を王座から引きおろし、
卑しい者を引き上げ、
53 飢えている者を良いもので飽かせ、
富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。
54 主は、あわれみをお忘れにならず、
その僕イスラエルを助けてくださいました、
55 わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを
とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。 (ルカ福音書 1:46-55)
マリアさんも、それまでは「ご立派な方々。ご立派な方々。それに比べてこの私は」と周りの人間たちと自分自身を見比べてばかりいました。それで、神さまのことがちっとも分かりませんでした。けれど神さまがこんな私のためにさえも格別な素敵なことをしてくださったと知らされ、信じさせられて、するとすっかり分かりました。1つは、神さまが生きて働いておられること。2つ目は、その神さまには出来ないことは何一つもないこと。3つ目には、神さまは憐れみ深い、ということをです。格別な、飛びっきりに素敵なことをしていただくには到底ふさわしくない自分だと分かりましたし、それなのにとても良いことをしていただいたとも、はっきりと分かりました。彼女が受け取った幸いの中身は、これです。
そうすると、そこまで分かれば、あとはどんどんどんどん分かりました。神の民とされたイスラエルも、マリアさんと同じ扱いを受けたのだということも。難しい本をたくさん読んで、いっぱいお勉強して、それで分かったのではありません。神さまがこの自分に何をしてくださったかが分かったので、それで、「ああ、あの人たちも同じだったんだア」と分かりました。50節で「そのあわれみは代々限りなく、主をかしこみ恐れる者に及びます」。限りない憐れみなのですが、主をかしこみ恐れるのでなければ、その憐れみはその人を素通りして通りすぎつづけていくばかりです。それで、権力や富や名誉や賢さのせいでおごり高ぶってしまった者たちを追い散らしたり、引き下ろしたり、わざと腹ペコのまま追い返したりもなさいます。逆に、バカにされていた者たちを引き上げ、お腹を空かせている者たちにたっぷり食べさせ、貧しい者たちに豊かな良いものをどっさり与えました。後のものを先にし、先の者を後にし、上の者を下に、下の者たちを上に(*)。それは、皆で神さまをこそかしこみ恐れ、感謝し、神さまをこそ誉めたたえるためにです。また、54節と55節で「主はあわれみを忘れず、そのしもべイスラエルを助けてくださった。アブラハムとその子孫をずっといつまでも、何があっても憐れむと約束し、約束どおりにしてくださっている」と。つまり、神さまの救いの御業はなにもかも、初めから終わりまですっかり全部あわれみでありつづけます。神さまはその憐れみを忘れず、だから! しもべイスラエルを助けてくださったし、これからも助けつづける。じゃあ、イスラエルである私たちはどうしたらいいでしょう? 主なる神さまのしもべであることと、憐れんでいただいたので助けていただいていることを、ちゃんとよくよく覚えておくのが良いのです。自惚れすぎたりイジケすぎたり、また気もソゾロすぎるせいで、せっかくの神さまからの憐れみが、この私たちを、素通りして通りすぎていかないように。ちゃんと憐れみを受け取ることができるように。
では、おさらいをしておきましょう。何でもできるのも、とてもご立派なのも神さまだけ。しかもその神さまは、こんな私にも、あんなあの人たちにさえ(!)格別に良いものを贈り与えて、幸いにしてくださる。なぜなら神さまは、とてもとても憐れみ深いので。以上です。
【割愛した部分の補足】
(*)「あわれみ」;これが、全聖書中の最重要のカギです。これが分かれば全部分かる。分からなければ、なにもかも分からない。「後のものを先にし、先の者を後にし、上の者を下に、下の者たちを上に」(本箇所,ルカ1:67-79,マタイ19:30,同20:16,ローマ手紙11:30-32,テモテ手紙(1)1:12-17)。偏屈でアマノジャクな、意地悪な神さまかと誤解していましたか? 救いの道筋は、『救いに値しない罪人を憐れんで救う』というこのただ一筋の道だったのです。「あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている」(ペテロ手紙(1)2:10)。この証言こそ決定的ですね。以前は神の民ではなかった者たちが神の民とされた。では、何がどう変わったのか。以前に無かったもので、今は身に帯びている新しいものは何か? 神さまからの憐れみです。『あわれみ』という祝福の中身を受け取り、がっちりと掴み取り、抱えている。だからこそ今では、私共は神の民とされました。おめでとう、恵まれた人々よ。
◎とりなしの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。「わたしの思いではなく、御心のままになさってください」と主イエスはあなたに向けて祈られました。ですからどうか、救い主イエスのその心を私たちの心とさせてください。この私たち自身のためだけではなく、生命あるすべての者たちが生きるために必要なすべて一切を、どうぞ贈り与えてください。神さまがすべて善いものの唯一の源泉であることを教えてください。私たちの心遣いも互いへの配慮も、汗水たらして労苦して働くことも、もし、あなたの祝福がなければ私たちの益とならないことを弁え知ることができますように。こうして私たちが、神によって造られたにすぎない人間や他すべての被造物(ひぞうぶつ=神によって造られたすべての生き物、天地万物)に度を越して信頼しすぎることを止めて、ただ思い煩い、ただただ恐れつづけることをキッパリと止めて、あなたにこそ全幅の信頼を寄せ、あなたにこそ願い求め、あなたから受け取り、それゆえあなたにこそよくよく聴き従って生きることができるようにならせてください。
世界中で、またこの国の中でも、私たちは大きな苦難の中に据え置かれています。ですからどうか、あなたの御心を行うために立てられた責任あるすべての者たちを正しく導いてください。また同時に、この私たちを世のための光、地上のための塩として用いてください。すべてのキリスト教会とクリスチャン一人一人を、この私たちを、あなたのご委託とご命令にかなって働く忠実なしもべとなさせてください。片隅に置かれ、貧しく身を屈めさせられて心細く暮らす人々に、どうか、この私たちの目と心を向けさせてください。
そのためまず、この私たち自身の祈りと生活とを十分に整えさせてください。ただ口で美しく祈るだけでなく心でも祈り、毎日の生活や行いや普段の在り方としても、祈るように生きることができますように。礼拝の中でも外でも、一人で祈る時にも仲間たちの間でも、その1つ1つの祈りをただ人間たちに向かってではなく、ただ人間たちに聴かせようとしてでもなく、あなたにこそ向けさせてください。あなたに向かう祈りがそうでありますように、朝も昼も晩も、誰とどこにいても、自分自身や周囲の人間たちの心や計画や欲求にかなうことなどではなく! ただただ主なる神さまご自身の御心にかなうことをこそ願って生きる私たちとならせてください。あなたの御言葉と救いの約束とを信じて生きる私たちとならせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。 アーメン