2016年1月26日火曜日

1/24こども説教「主は恵み深い(=ヨハネ)、という名前の子供」ルカ1:57-66

 1/24 こども説教 ルカ1:57-66
  『主は恵み深い(=ヨハネ)
という名前の子供』

1:57 さてエリサベツは月が満ち て、男の子を産んだ。58 近所の人々や親族は、主が大きなあわれみを彼女におかけになったことを聞いて、共どもに喜んだ。59 八日目になったので、幼な子に割礼をするために人々がきて、父の名にちなんでザカリヤという名にしようとした。60 ところが、母親は、「いいえ、ヨハネという名にしなくてはいけません」と言った。61 人々は、「あなたの親族の中には、そういう名のついた者は、ひとりもいません」と彼女に言った。62 そして父親に、どんな名にしたいのですかと、合図で尋ねた。63 ザカリヤは書板を持ってこさせて、それに「その名はヨハネ」と書いたので、みんなの者は不思議に思った。64 すると、立ちどころにザカリヤの口が開けて舌がゆるみ、語り出して神をほめたたえた。65 近所の人々はみな恐れをいだき、またユダヤの山里の至るところに、これらの事がことごとく語り伝えられたので、66 聞く者たちは皆それを心に留めて、「この子は、いったい、どんな者になるだろう」と語り合った。主のみ手が彼と共にあった。 (ルカ福音書 1:57-66)

  洗礼者ヨハネの父さん、母さんに起こった出来事です。その父さん母さん、ザカリヤとエリサベツには長い間こどもが生まれず、「どうか子供を贈り与えてください」と神さまにずっと祈り求めて暮らしていました。やがてとうとう神さまの御使いがザカリヤの前に現れて、その願いをかなえてあげると告げたとき、父さんのザカリヤは信じることができませんでした。それで口が聞けなくされました。口が聞けなくされたことは罰ではありません。神さまの約束を信じて生きるための準備だったのです。赤ちゃんが生まれて8日目に近所の人々や親戚たち皆が集まって、「神さまがこの夫婦をあわれんでくださった。私たち皆のことも同じくあわれんでくださる」と大喜びでお祝いをしました。子供の名前をつけようとしたとき、夫婦はおかしなことを言い張りはじめました。世間の人々皆がいつもしているように、親や親戚の名前をとってそれを付けようとしたとき、その母さんは「いいえ。ヨハネという名前にしなければなりません」。何を言ってるんだ。世間の人々皆はそんな名前のつけ方はしない。世間の皆がしていることを、世間様の流儀にしたがって、世間どおりに、人様が日頃やっているのと同じようにしたらいいだろう。「いいやダメです。どうしても必ず、ヨハネという名前にしなければなりません」。父さんにも聞きました。父さんは口が聞けなかったので「その名はヨハネ」と板に書きました。なんて強情で分らず屋な、なんて世間様や人様のご意見や風習やシキタリに従わない人々でしょうか。実は、神殿の聖所でお務めをしていて「子供が生まれる」と告げられたとき、「名前をヨハネと名づけなさい」と御使いから命令されていたのでした(1:13,マタイ1:21参照)つまりは神さまからの命令であり、神さまご自身からの直々の指図だったのです。人々の言うことに聴き従うよりも、どこの誰が何と言おうと、その場の空気も読まず人々の顔色も窺わず()、なにしろただただ神さまのご命令と指図にこそ本気で一途に従う。神さまを信じて生きているとは、そのことです(使徒4:19,エステル記3:8参照)。クリスチャンの中身は、これです。
  大事なことをおさらいしておきます。神さまから「こういう名前にしなさい」と命令されて生まれた赤ちゃんは3人だけです(もう1人はイサク。創世記17:1921:1-7参照(*))。その中の2人、洗礼者ヨハネと救い主イエス。名前には意味があり、どの名前にも親たちの願いが込められています。例えば、明という子供は「明るい子に育ってほしい」という願いが込められているように。ただ、救い主イエスと洗礼者ヨハネだけは、人間たちの願いや希望などではなく、神さまご自身の願いと決心と確かな約束が込められていました。イエスという名前の意味は、『主こそが救ってくださる』。ヨハネの意味は、『主は恵み深い』。ヨハネの父さん母さんも、ようやく神さまを本気で信じて生きてゆくための準備が整いました。父さんのザカリヤは口が開け舌がゆるみ、神さまを誉めたたえ、ただもっぱら神さまへの感謝と信頼をこそ語りはじめました。神さまを信じて生きるひと組のお父さんお母さんがここに新しく生まれたのです。66節、「この赤ちゃんはどんな者になるだろう」と人々は語り合いました。どんな者になるのか、私たちにはもうはっきり分かりますね。付けられた名前どおりの大人に育って、名前通りに生きて死ぬ人になってゆくのです。主なる神さまは恵み深い。ただ口で言うだけでなく、心でもつくづくと味わい、ただ自分が心の中で味わっているだけでなく、一緒に生きる人々とも「主は恵み深い。ああ本当にそうだ」と分かち合って生きる人に。『主は恵み深い』という名前の洗礼者ヨハネに指し示され、『主ご自身が救ってくださる』という名前の救い主イエスに導かれて、私たちも同じくそのように生きて死ぬ晴れ晴れした人生を歩むことができます。神さまご自身が、この私たち一人一人のためにも、その同じ一つの幸いを成し遂げてくださいます。
主ご自身が私たちを救ってくださる。そして、主は恵み深い。とてもとても恵み深い。

        【割愛した部分の補足説明】
(*)主なる神ご自身が直々に名前を決めたもう一人の子供、イサクについてもやはり触れておきましょう。創世記17:15-19,同18:9-15,同21:1-7参照。イサクの意味は、『笑い』です。彼の父母、アブラハムとサラ夫婦は共々に、「神の恵みによって子が贈り与えられる」という主の約束を信じられず、軽んじ、はねのけました。「そんなバカなことがあるはずがない。100歳と90歳の爺さん婆さんに子など生まれるはずがない」と、2人はそれぞれ、苦々しく物寂しく笑ったのです。私たちがしつづけている不信仰、不従順な行いや腹の思いとそっくり同じではありませんか。やがて『笑い』という名前の子が生まれたとき、夫婦も周囲の人々も大喜びに喜びました。「神は私を笑わせてくださった」(18:6)とサラは喜びと感謝に溢れました。つまり、その『笑い』には正反対の二重の意味が込められていました。(1)「神の言葉を疑い、拒んで、はねのけた」という神さまへの反逆、不信仰、不従順。(2)にもかかわらず、神さまが本当の喜びと幸いを贈り与えてくださったという、神の恵み。わが子の名を呼ぶ度毎にアブラハムとサラ夫婦は、この相反する二重の真実を心に刻まされつづけたでしょう。信仰の父母と、神を信じて生きる私たちとの根源的な出発点です。自分自身の罪深さとかたくなさ、不従順とをつくづく思い知らされ、なおかつ、その罪と悲惨から日毎に救い出されつづける。『主ご自身が私たちを救ってくださる』こと、『主は恵み深い』ということの真意も、キリストの教会が建てられてあること、私たちクリスチャンが幸いに生きて死ぬことの意味も中身も、同じくこの一点に集中しています。神に背く、心があまりに頑固で不従順な私たちを、にもかかわらず神は憐れんでゆるし、恵みを贈り与えてくださる。このような私共であり、このような神さまです。自らの魂に深く刻んでおくに値します。ローマ手紙 5:5-11参照。






 ◎とりなしの祈り

 主イエスの父なる神さま。だからこそ確かに私たちの親となってくださり、必要なすべてのものを恵みの贈り物として与えてくださいました。ありがとうございます。あなたに感謝をし、あなたにこそますます信頼を寄せ、あなたに聴き従って生きる私たちとならせてください。その分だけ、人間を恐がる臆病な生ズルい気持ちや、うらやましがって他人を妬む貧しい心を投げ捨てさせてください。
  私たちの目が他人の欠点ばかりを見たり、私たちの口が他人を非難したり悪口を言ったりしないように守ってください。自分本位になって自分の考え方ややり方を人に押し付け、自分とは違う考え方ややり方を押しのけようとしないようにお守りください。気難しくなって、腹を立てるのに早く、ゆるすことに遅くならないように、心を頑固にしないようにお守りください。あなたから多くを贈り与えられ、ゆるしがたい多くをゆるされています私共ですから、兄弟や家族や隣人らをもそのようにゆるし、尊び、暖かく迎え入れる私たちとならせてください。しかもなお誰かが間違った悪いことを言ったりしたりするとき、誰かが他の人を押しのけたり、小さな者を踏みつけようとするとき、「それは間違っていますから、してはいけません」と互いに注意し合い、立ち向かうことのできる勇気も与えてください。そのためにも神さまが生きて働いておられますことを、この私たち一人一人にもますますはっきりと気づかせてください。私たちのいつもの姿、口から出る何気ない言葉や人と接するときの態度を通しましても、神さまの御名が誉めたたえられ、神さまへの感謝が溢れ出ていきますように。
 そのようにして私共1人1人も、あなたの御心にかなうことを願い求めながら毎日の暮らしを生きることができますように。御心に反して神さまを悲しませる言葉を口に出し、行い、心に思ってしまったとき、その罪深さを本気で嘆き悲しむ私たちとならせてください。あなたのものでありますキリスト教会と、あなたのものであります私たち自身と家族を、あなたのあわれみの御心にかなって建て上げてゆくことができますように。どうか、この願いをかなえてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン