2016年2月2日火曜日

1/31「試練と悪から救い出してください」マタイ6:9-15

                                        みことば/2016,1,31(主日礼拝)  44

◎礼拝説教 マタイ福音書 6:9-15         日本キリスト教会 上田教会

『試練と悪から救い出してください』~祈り.7~

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

6:9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。11 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。13 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。14 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。15 もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。       (マタイ福音書 6:9-15)



2つのことを、神さまに願い求めています。『試みにあわせないでほしい』。そして、『悪しき者から救い出してください』と。また、このように願い求めつづけて生きるように、と神さまから命じられています。どういうことでしょうか? 弱く危うい私たち自身であることをよくよく知りながら、また、だからこそ神さまの助けと支えを受け取りつづけて生きるように、と私たちは神さまご自身から命じられているのです。このことを、私たちは受け止めましょう。
  (1)悪しき者から救い出してください。エペソ手紙6:10-は語りかけます;「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。・・・・・・神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい」。強くあるように、と励まされます。勇気と力を出すように。なぜなら私たちは、私たちを弱くしようとする様々なものたちに取り囲まれているからであり、しかも、私たち自身ははなはだしく弱く脆く、あまりに危うい存在であるからです。それならば、一体どうしたら私たちは強くあることができるでしょうか。何を支えとし、いったい誰の力添えと助けとを求めることができるでしょう。主なる神さまの助けと守りによってです。「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい」と勧められているのは、このことです。そうでなければ、他の何をもってしても私たちは強くはなりえません。しかも兄弟姉妹たち、そうでありますのに私たちは度々この単純素朴な真理から目を背け、脇道へ脇道へと道を逸れていきました。自分自身の弱さと危うさを忘れ、思い上がり、うぬぼれました。あるいは自分自身の弱さをつくづくと知った後でもなお、神さまからの助けと支えをではなく、ほかの様々なものの支えと助けを探して、ただ虚しくアタフタオロオロしつづけました。立ち返るようにと、預言者らは必死に警告しつづけました。葦の海とエジプト兵を前にしてモーセは語りかけました。「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。心を鎮めて静かにしているべきなのは、目を凝らして主の救いをはっきりと見て、それを魂に深々と刻み込むためです。そうでなければ恐れをぬぐい去ることも堅くしっかりと立つことも誰にもできません。預言者イザヤも同じことを命じました。「『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。かえって、あなたがたは言った、『否、われわれは馬に乗って、とんで行こう』と。それゆえ、あなたがたはとんで帰る。また言った、『われらは速い馬に乗ろう』と。それゆえ、あなたがたを追う者は速い」(出エジプト記14:13-14,イザヤ書30:15-16)神さまの御もとへと立ち返って、神さまご自身への信頼をなんとしても取り戻すのでなければ、落ち着くことも穏やかであることも誰にもできないはずでした。けれどあなたがたはそれを好まなかった。神をそっちのけにして、速い馬に乗ることばかりを求めつづけた。だから、あなたがたを追う者の足はさらにもっと速いだろう。その通りです。立ち返って、主ご自身に信頼しはじめるのでなければ、私たちは力を失い、ますます痩せ衰えてゆく。心に留めましょう。
 (2)さて、「試みにあわせないでください」という神への願い。おそらく、苦難と試練の事柄こそが人生最大の難問です。『試み。誘惑』は、ごく一般的には『罪に陥れようとする試み、誘惑』を意味します。けれど、神さまが私たちにそんなことをなさるでしょうか? ヤコブ手紙1:13以下は証言します;「だれでも誘惑に会う場合、『この誘惑は、神からきたものだ』と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない」。他の何者のせいにもできない。自分自身の欲望とむさぼりこそが原因ではないか、と突きつけられます。そこには大きな真理があります。けれど、これが知るべき真理の中の半分です。
 残り半分は、『神さまご自身が私たちを試みる場合もありうる』。それは、神さまへの信頼と従順に向かわせるための信仰の教育であり、恵みの取り扱いです()。例えば、モーセと仲間たちが旅した荒野の40年がそうでした。「主はあなたを苦しめ、あなたを試み、あなたの心を知ろうとなさった。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためだった。あなたはまた、人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練することを心に留めなければならない」(申命記8:2-3。十字架前夜のゲッセマネの園へと立ち戻りましょう。あのとき、主イエスはご自身の祈りの格闘を戦いながら、同時にご自分の弟子たちを気遣いつづけます。気がかりで、心配で心配でならないからです。何度も何度も彼らのところへ戻ってきて、眠りつづける彼らを励ましつづけます。「眠っているのか。眠っているのか、まだ眠っているのか。ほんのひと時も私と一緒に目を覚ましていることができないのか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。心は熱しているが肉体が弱いのである」(マタイ26:40-41参照)
 私たちそれぞれにも厳しい試練があり、それぞれに、背負いきれない重い困難や痛みがあるからです。それぞれのゲッセマネです。あなたにも、ひどく恐れて身悶えするときがありましたね。悩みと苦しみの時がありましたね。もし、そうであるなら、あなたも地面にひれ伏して、体を投げ出して本気になって祈りなさい。耐え難い痛みがあり、重すぎる課題があり次々とあり、もし、そうであるなら主イエスを信じる1人の人は、どうやって生き延びてゆくことができるでしょう。病気にかからずケガもせず、自分のことをよくよく分かってくれる良い友だちにいつも囲まれていて、元気で嬉しくて。いいえ そんな絵空事を夢見るわけではありません。わたしは願い求めます。がっかりして心が折れそうになるとき、しかし慰められることを。挫けそうになったとき、再び勇気を与えられることを。神さまが生きて働いておられ、その神が真実にこのわたしの主であってくださることを。主イエスはここで、父なる神にこそ目を凝らします。「どうか過ぎ去らせてください。しかしわたしの願いどおりではなく、あなたの御心のままに」。御心のままにとは何でしょう。諦めてしまった者たちが平気なふりをすることではありません。祈りの格闘をし続けた者こそが、ようやく「しかし、あなたの御心のままに」「どうぞよろしくお願いします」という小さな子供の、自分の父さん母さんに対する愛情と信頼に辿り着くのです。わたしたちは自分自身の幸いを心から願い、良いものをぜひ手に入れたいと望みます。けれど、わたしたちの思いはしばしば曇ります。しばしば思いやりに欠け、わがまま勝手になります。何をしたいのか、何をすべきなのか、何を受け取るべきであるのかをしばしば見誤っています。けれど何でも出来る真実な父であってくださる神が、このわたしのためにさえ最善を願い、わたしたちにとって最良のものを備えていてくださる。わたしたちは知っています。父なる神さまの御心こそがわたしたちを幸いな道へと導き入れてくれる。きっと必ず、と。
 主イエスご自身から祈りの勧めがなされます。「目覚めていなさい。気をしっかり持って祈りなさい」と。なぜでしょう。「目を覚ましていなさい。眠っちゃダメ。起きて起きて」。なぜでしょう。雪山で遭難したときと同じだからです。眠くて眠くて瞼が重くて目をつぶってしまいたくても、「しっかりして。眠っちゃダメ、起きて起きて」。だって、そのまま眠りこんでしまったら、その人は凍えて冷たくなって死んでしまうからです。またそれは、わたしたちに迫る誘惑に打ち勝つためであり、それぞれが直面する誘惑と試練は手ごわくて、また、わたしたち自身がとても弱いためです。「しっかりしていて強いあなたを特に見込んで、だから祈れ」と言われていたのではありません。そうではありません。あなたはあまりに弱くて、ものすごく不確かだ。ごく簡単に揺さぶられ、惑わされてしまいやすいあなただ。そんなあなただからこそ、精一杯に目を見開け。本気で、必死になって祈りつづけなさい。主イエスはご自身の祈りの格闘をしつつ、しかし同時に、弟子たちをなんとかして目覚めさせておこうと心を砕きます。あの彼らのことが気がかりでならないからです。「私につながっていなければ、あなたがたは実を結ぶことができない。私を離れては、あなたがたは何もできないからである」と主はおっしゃいました(ヨハネ15:4-5)。悩みと思い煩いの中に、私たちの瞼は耐え難いほどに重く垂れ下がってしまいます。この世界が、私たちのこの現実が、とても過酷で荒涼としているように見える日々があります。望みも慰めも支えもまったく見出せないように思える日々もあります。ついに耐えきれなくなって、私たちの目がすっかり塞がってしまいそうになります。神さまの現実がまったく見えなくなり、神が生きて働いておられることなど思いもしなくなる日々が来ます。しかも、私たちは心も体も弱い。とてもとても弱い。どうやって主の御もとを離れずにいることができるでしょうか。主を思うことによってです。どんな主であり、その主の御前にどんな私たちであるのかを思うことによってです。思い続けることによって。あの時、あの丘で、あの木の上にかけられたお独りの方によって、どんなことが成し遂げられたでしょう。

 讃美歌294番も、同じ1つのことを私たちの心に語りかけつづけました。「み恵み豊けき主の手に引かれて、この世の旅路を歩むぞ嬉しき」と自分自身に言い聞かせ言い聞かせ、そのようにして、私たちは目覚めます。何が嬉しいというのでしょう。また、何が足りなくて不十分だと嘆くのでしょうか。何がどうあったら、私たちは満ち足りて安らかで喜んでいられるのでしょう。私がやりたいことをし、やりたくないことをしないで済んでだから嬉しい、というのではありませんでした。私のことを皆が分かってくれて、皆が喜んで賛成してくれて、だから嬉しい、というのでもありませんでした。私がどれほど足腰丈夫で、どれほど働けて役に立てて、それで。あるいは、体も心も弱って皆様のお役に立てず、足手まといでああでもないこうでもない、などということでもなく。そんなこととは何の関係もなく 「主の手に引かれて歩いている。その御手はとても恵み豊かだ。だから嬉しい」と歌っていました。主ご自身にこそ、必死に一途に目を凝らしています。いつもの私共とだいぶん違います。目の付けどころがずいぶん違うのです。「けわしき山路もおぐらき谷間も、主の手にすがりて安けくすぎまし」と歌いながら、そのようにして、私たちは目覚めます。平らで歩きやすい道を友だちとワイワイガヤガヤ言いながら歩く日々もありました。またさびしい野っ原や、けわしい山道や、薄暗い谷間をこわごわビクビクしながら歩く日々も、やっぱり私たちにはありました。頼りにしていた家族や友達からはぐれて、ただ独りで歩かねばならないときもありました。そのとき、どうしましょう? どうしたらいいんですか。何がどうあったら、私たちは安らかになれたのでしょう。あの294番は、いつもの私たちとはずいぶん違うことを思っています。だって、「けわしき山路もおぐらき谷間も、主の手にすがりて安けくすぎまし」なんて言うんですから。ただただ、主の手にすがって、そこで安らかに歩みとおしたい。それが私の願いであり、希望なのだと。ああ。つまりこの歌のクリスチャンは、目を覚ましていたのです。「あの人がこの人がその人が。私が私が私が」という疲れと思い煩いの眠りから、もうすっかり目を覚ましていました。目覚めて、そこで、生きて働いておられる神さまと出会っています。そこでついにとうとう、神さまからの憐れみと平和とゆるしを受け取っています。なんという幸いでしょうか。


         【割愛した部分の補足】
          ()神さまが私たちを試みる場合もありうる 申命記8:2以下が典型的事例。他にも、救い主イエスの荒野での4040夜の誘惑。「イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである」(マタイ4:1)。つまり悪魔による誘惑と試練は、神ご自身の主導と御意志のもとでなされた。また信仰者に対しても、悪魔からの試練と誘惑を神さまが許可し、許容なさる場合がありました。聖晩餐の食卓で主イエスはシモン・ペトロに語りかけ、「サタンはあなたがたを小麦のようにふるいにかけることを願って(御父から)許された」(ルカ22:31-32)。ヨブに対して試練を与えることを悪魔は願い出て、主なる神はその願いを受け入れます。「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる」(ヨブ記1:6-12)と。また例えば、神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」(コリント手紙(1)10:13)。
    これらの証言は、ヤコブ手紙1:13以下と矛盾するように見えます。他にも聖書には互いに矛盾し、相容れないように見える証言を数多く発見できます。だからこそ1つの聖書箇所だけでなく、「聖書全体としては、どう証言されているだろうか」と見渡す必要が生じます。それが、1つには教理的な理解であり、世々の教会が聖書をどのように読んで、受け止めてきたのかと問う作業です。また、そうした矛盾や不合理を孕む中で、神はどういう神であられるのか、その真意はどこにあるのかと熟慮しつづける必要もあります。そのための判断材料は、これまでの礼拝生活の中で聴き重ね、習い覚えてきたはずの基本的な『神理解。福音理解』です。どんな神さまだと、どんな福音だと、あなた自身は習い覚えてきましたか?