2/7 こども説教 ルカ2:22-35
『神さまのものとされて、神さまのために生きて死ぬ』
+執事任職式の勧告『いつでも、どこで何をしていても、
そこでそのようにして、主なる神さまにこそ仕えている』
2:22 それから、モーセの律法による彼らのきよめの期間が過ぎたとき、両親は幼な子を連れてエルサレムへ上った。23
それは主の律法に「母の胎を初めて開く男の子はみな、主に聖別された者と、となえられねばならない」と書いてあるとおり、幼な子を主にささげるためであり、24 また同じ主の律法に、「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定めてあるのに従って、犠牲をささげるためであった。25
その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。 (ルカ福音書 2:22-25)
救い主イエスさまがお生まれになった出来事を、クリスマスに皆で読み味わいました。その続きです。生まれて8日目に、赤ちゃんのイエスさまを父さん母さんは神殿に連れていってささげものをしました。献げもので大事なことは2つです。(1)献げものをする意味は、その人が自分自身を神さまにささげて、神さまのものとされて生きることです。いつもの礼拝の中でも、「み前に集めましたささげものを、私たちの体と魂とともにお受け取りください。こうして私たちが、あなたに真心からお仕えし、この世界と隣人とに仕え、あなたの御心にかなって生活することができますように」などと献金の度毎にそうやって祈っています。誰でも安心して喜んで献げものを神さまにできると嬉しいですね。最初には、羊一匹を献げる約束でした。でも、羊一匹も献げられない貧乏な家族もいます。その場合には山鳩のオスメス、合わせて二羽。それも献げられない貧乏な家族は、家鳩のヒナ二羽。それも献げられないほどとても貧乏な場合には小麦粉を小さな鍋一杯分ほど(レビ記5:7-11、約2リットル)。もっともっと貧乏な場合にも、どこまでもどこまでも少なくしてもらえます。それでも神さまはちゃんと喜んでくださいます(マルコ12:41-参照)。感謝と願いの献げものだからです。(2)23節で、「その家で初めて生まれた男の子が主に聖別された者となる」と書いてあります。神さまのものとされて、神さまのために生きて死ぬ者とされること。それが『聖別』です(*)。神さまのものとされて、神さまのために生きて死ぬ者とされる。それはとても嬉しいし、幸せな人生ですね。じゃあ、家族の中で最初に生まれた男の子だけがそんな幸せを独り占めするんじゃ不公平だし、もったいないし、他の家族たちがかわいそうです。いいえ、安心してください。最初に生まれた男の子は『家族皆がそうやって生きるための目印』なのです。娘たちも、次男も三男も、父さんも母さんもお爺ちゃんもお婆ちゃんも皆が神さまのものとされて、神さまのために生きて死ぬ者となることができます(使徒16:31)。それを家族皆で覚えて生きるための目印です。
でも、神さまのものとされて、神さまのために生きて死ぬ。それは、あなた自身にとって素敵で嬉しいことでしょうか。それとも、嫌~なことでしょうか。世界中の多くの人たちは「嫌だ」って言うかも知れません。「意地悪な神さまで、したくないような嫌な苦しいことばかり無理矢理にさせられて、ただ働きばかりさせられて、嫌な思いをして疲れるばっかりだから」などと思う人もたくさんいるでしょう。それは仕方ありませんね。素敵な、とてもよい、やさしい親切な神さまだと知っている人しか、「わあ嬉しい。ぼくも神さまのものにしてもらって、神さまのために生きて死んでみたいものだなあ」と思えません。クリスチャンとは、そういう人々なのです。
『主なる神さま』というでしょ。神さまと私たちは主人と召使いという関係です。神さまを自分のご主人さまとしている私たちです。主イエスを信じて、神さまのおっしゃることによくよく聴き従って、「こういうことをしなさい」「はい分かりました」「けれど、こういうことはしてはいけませんよ」「はい」と、主に従って生きてゆく。それは、とても嬉しくて心強い人生だと。この一つの家族も、そういう嬉しい人生を選び取りました。もし良かったら、あなたもどうぞ。
(*)『聖別』;神さまのものとすること、それを神さまのために用いること。人、物、場所、時など、神さま以外の何かを『聖なる~』と区別して呼ぶとき、そういう意味です。「それ自体が神聖であるとか、清らかで高潔である」という意味はありません。かつて、「聖書を拝読します」などと言い習わしていたのを、後に反省して止めました。神さまについての大切なことが書かれているし、神さまの御用に用いられるので大切に扱う。そこまでは良い。けれど、聖書を拝んでしまっては行き過ぎです。人も場所も物も特定の器具も、建物も、時間も、神さまのためのものなら大切に、神さまへの感謝と信頼をもって慎んで用います。けれど、度をすぎて神聖視したり、尊びすぎてはなりません。大切ではあっても、それらは人間やモノに過ぎません。拝んでいい対象は、ただただ神さまだけです。例えば『聖人』などと崇めて、特定の誰彼を拝んだり、祭り上げたりしはじめるなら、それは神さまへの反逆であり、大間違いです。
「召された聖徒一同へ」「聖徒として召された方々へ」(ローマ手紙1:7,コリント手紙(1)1:2)などとクリスチャン同士で呼びかけ合います。聖徒。ここにも高貴さ、清さ、高潔で信仰心篤くなどという意味をまったく少しも含みません。そんな人間は一人もいないのです(ローマ手紙3:9-20参照)。ただただ、「神のものとされた」「キリストに属する者とされている」という恵みの事実だけが想起されます。
2/7 執事任職式における勧告
『いつでも、どこで何をしていても、誰といっしょのときにも、
そこでそのようにして主なる神さまにこそお仕えしている』
(私たちの教会は執事を任職する場合、「再選以上の場合には任職式をするまでもなく、当選を公告すれば足りる」(規則第16条2項)と規定しています。つまり、「再選以上で任職式をしてはいけない」とは規定していません。たとえ規則に決められていても偉い誰々さんが仰ってもそのまま鵜呑みにせず、ただただ従うのではなく、道理が十分にあるのかどうか自分でよくよく考えてみなければなりません。確かに憲法・規則は教会が神の御心に従って歩むことを願って制定されていますが、それでもなお人間の作った法律に過ぎず、人間的な限界をも含んでいます。私たちの誰一人も神ではなく、また信仰告白や憲法・規則も聖書そのものではなく、神さまではないからです)
執事の職につこうとする大澤育子さんにたった今、3つの点について誓約していただきました――
(1)あなたがこの職につくのは、教会のかしらであり、大牧者である主イエス・キリストの召命によるものと確信しますか。
(2)その恵みにかなって、召された召しにかなって歩もうと決意しますか。
(3)日本キリスト教会信仰の告白、憲法・規則に誠実に従い、教会の一致、清潔、平和のために祈り、このために忠実に努めることを誓約しますか。
さて、3つの誓いは互いに同格で横並びで、同じだけの重さと中身をもっていると思いますか。いいえ、違いますね。(1)と(2)こそが飛び抜けて大切です。(3)は、そのことを肉付けし、支えるための補助的な内容です。「誠実に従うか」「忠実に努めるか」と問われました。誰に対しての誠実。忠実でしょうか? 牧師に対してでもなく、教会の皆さんに対してでもありません。人間に聴き従うのではなく、神さまにこそ聴き従う私たちです(使徒4:12,
19)。信仰告白や憲法・規則に対する誠実や忠実が問われたのではありません。ただただ神さまの御心に対する誠実が問われ、もっぱら、務めに召してくださった主イエスに対する忠実こそが問われつづけます。また教会員も誓約をしました。「彼女をこの教会の執事として受け、その職を尊び、彼女らを励まし、助ける」と。では、どうやって、どのようにして尊び、励まし、助けるのか。同じです。そこでも私たち全員は、「ただただ神さまの御心に対する誠実が問われ、もっぱら、務めに召してくださった主イエスに対する忠実こそが問われつづけます」。すると、新しく立てられようとする働き人も、その人を「尊び、励まし、助けようとする」私たちも共々に、主イエスとはどういう主であるのか。何をしてくださるのか。神さまの御心はどのようなものなのかをよくよく知っていなければなりません。だからこそ洗礼を受けたとき、私たち皆は、「主の日の礼拝を重んじ、主の晩餐にあずかることを重んじ、喜び、忠実に守るのか」と問われました。主イエスへの誠実と信頼と忠実の中身が、そこで差し出され、そこでこそ受け取られつづけるからです。
選挙の際に、それぞれの事情や家庭の状況なども必要な場合だけ十分に打ち明けていただきました。その日の『こども説教』でもはっきりお語りしましたように、すべてのクリスチャンは、『いつでも、どこでなにをしていても、誰といっしょのときにも、そこでそのようにして神さまにこそお仕えして生きる』者たちだからです。会社で働いている人は、そこでそうやって神さまにこそ仕えて働くようになる。子供を育て、ご飯支度をし、掃除や洗濯をして家族の世話をしているお父さんやお母さんは、そこでそうやって神さまにこそ仕えて働くようになる。年老いた親のお世話をして、オムツを替えてあげたりお風呂にいれてあげたりして一緒に暮らしている人は、そこでそうやってその人たちの世話をし、その人たちのために働いているというだけではなくて、そういうことを通して! 神さまにこそ仕えて働いているんだと自分でもはっきりと気がつくようになる。ああ、そうだったのかと(ルカ福音書1:67-80『主に仕えている。だから恐れはない』2016,1,31)。
しかも、この最重要事項もまた主イエス直伝です。いつもの自分の家で家族と相対しているとき、職場で働いているとき、道を歩いているときや近所の人たちと語り合っていた間、教会で兄弟姉妹たちとお喋りしている間にも、そこで自分がいったい誰を相手に何をしているのかと、はっきり気づいていましたか。姿形を変えて変装した主イエスご自身を相手に、私たちはそれをしていました。「私が空腹のときあなたは食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、裸であったときに着せかけてくれたね。ああ、ありがとう」。あるいは、「あなたは食べさせてくれなかった。コップ一杯の水も飲ませてくれなかった。見舞ってもくれず、訪ねてもくれなかった。あの貧しい姿の小さな者は、この私だった。よく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。しなかったのは、わたしに対して、してくれなかったのである」(マタイ25:31-46参照)(*)と。姿を変えて変装し、隠れた姿で私たちの目の前に来られていた救い主イエス。誰のことが語られているのか知っていましたか? あなたの愛する夫がそれです。あなたと、大切なお連れ合いの間に授けられた三人の子供たち一人一人がそれです。同居しているおじいちゃんがそのイエス・キリストご自身です。あんまり変装が上手なので、なかなか気づかなかったでしょう。自分の信仰や願いを家族や周囲の人々に十分に尊重してもらい、重んじてもらいたいと私たちは願います。もし、そうであるならば、その2倍も3倍も、その夫や子供たちやおじいちゃんの願いや考え方を精一杯に重んじてあげたいのです。最優先で、自分自身を重んじ尊ぶことの2倍も3倍も重んじ尊び、心を砕いて配慮してあげるべき隣人は、まず第一に、あなたの大切な家族です。執事職を嬉しく務めることができるかどうかは、ここにかかっています。もし、夫が渋い顔をして溜息をつくようになったら、もし、おじいちゃんや子供たちが困ったり悲しみはじめるようなら、たとえ任期途中でも何でも、執事職を退くことを真剣に考え始めねばなりません。その働きや熱心さがかえって教会にも家族にも災いを招くことさえ有り得るからです。だから、そういうわけで、「教会の奉仕を精一杯に十分にやりたくても、祈祷会に毎回毎回出席したくても、もし、夫や家族が快く送り出してくれるのでなければ、働いてはいけないし、祈祷会に来てもいけない」と何度も釘を刺しておきました。例えばケンちゃんが「お母さん、行かないで~」と泣くとき、とても大切な用事があったとしても出かけるのを止めて、家で一緒にのんびり楽しく過ごしてあげることもできます。もし、そこで、マタイ25:31-を思い出せるならば。そこでそうやって、主イエスにお仕えして働いているのだし、教会で行う奉仕や学びに負けず劣らず、主にお仕えしているのですから。しかも、その子供たちや夫やおじいちゃんにも、やがてぜひ主イエスを信じる幸いを贈り与えてあげたいからです。天に主人がおられます(使徒16:31,コロサイ4:1)。あなたのためにも、私たち全員のためにも。
祈りましょう。
御父よ。キリストのものであります教会に働き人を立ててくださってありがとうございます。召してくださったキリストの召しにかなって、あなたの御心にかなって生きることを願って働く私たちとさせてください。教会でさまざまな務めを担うときも、誰とどこで何をしていても、そこでそのように、主イエスへの誠実と信頼と忠実とをもって事に当たりつづけることができますように。キリストに仕える志しと決心を与えてくださったキリストご自身がこれを成し遂げるための力と慎みと信仰をも贈り与えつづけてくださいますように。この働きを通しましても、私たち自身と家族の一人一人もまた、あなたからの格別な祝福にあずかることができますように。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン
【割愛した部分の補足説明】
(*マタイ福音書25:31-)難解箇所の一つ。ここだけを読むならば、『善い行いをするかどうかで救いか滅びかが決定される』かのように誤解しやすい。『救われるのは善い行いによるのか。それとも、ただ主イエスを信じて、ただただ恵みによってだけ救われるのか』と、長く論争されつづけてきた悩みのタネです。けれど、聖書66巻全体からの答えは明確。もちろん、『ただ主イエスを信じて、ただただ恵みによってだけ救われる』(ヨハネ福音書3:16-18,ローマ手紙3:21-26,同5:6-11,同10:9-13,詩130:1-4)。
それにしても、この箇所は難しい。貧しい隣人への憐れみや施しをしなくてよいわけではない。私たちが慈しみ深くあるようにと神ご自身も願い、そうありたいと私たち自身も願う。けれど他方、親切な慈しみの業を何回行ったか、冷酷非情な業や不正や暴力・虐待をどれほど行ったかと厳しく問われるならば、誰もが失格であり落第である。正しい人は一人もおらず、誰も皆がとても罪深い。憐れみを受け、罪をゆるされて救われる他はない。しかもなお、ゆるされた罪人らは受け取った慈しみと憐れみの実を結び、善い行いをする者らへとやがて少しずつ変えられていく。つまりは、善行が救われるための前提条件なのではなく、救われた結果として! 私たちは善い行いをする者へとだんだんと変えられてゆく。憐れみ深い神ご自身が、それを成し遂げてくださる。きっと必ず。