2/21 こども説教 ルカ2:36-40
『この一人のおばあさんも、
神を信じ、神に仕えて、生きて死んだ』
2:36 また、アセル族のパヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。彼女は非常に年をとっていた。むすめ時代にとついで、七年間だけ夫と共に住み、37
その後やもめぐらしをし、八十四歳になっていた。そして宮を離れずに夜も昼も断食と祈とをもって神に仕えていた。38 この老女も、ちょうどそのとき近寄ってきて、神に感謝をささげ、そしてこの幼な子のことを、エルサレムの救を待ち望んでいるすべての人々に語りきかせた。39
両親は主の律法どおりすべての事をすませたので、ガリラヤへむかい、自分の町ナザレに帰った。40 幼な子は、ますます成長して強くなり、知恵に満ち、そして神の恵みがその上にあった。
(ルカ福音書
2:36-40)
赤ちゃんイエスとその父さん母さんは神殿で、シメオンじいさんと出会ったあと、アンナという名前のおばあさんの預言者とも出会いました。この一人のおばあさんを、よく見ておきましょう。若い頃に結婚して7年間、その夫と暮らした。長生きして84歳になった。ずっと神殿にいて、そこで神さまに仕えて暮らした。赤ちゃんイエスと出会って、「ありがとうございます」と神さまに感謝をし、この救い主イエスのことを皆に語りきかせた。その後、このおばあさんがどれくらい生きて死んだのか、どんなことを味わったのかは書いてありません。やがて死んでいきました。
アンナおばあさんについて、もし私たちが誰かから聞かれたら、これくらいのことを教えてあげることができます。「なんだ。あまり詳しくは知らないんだな」とガッカリする人もいるかも知れません。けれど、彼女について知るべき大切なことを、私たちは十分に知らされました。しかも私たちがくわしく細々とその人のことを知っていてもいなくても、主なる神さまは、よくよく知っていてくださいます。私たちの千倍も万倍も。だから、これだけで十分なのです。聖書の中にも外にも、このように神さまを信じて生きて死んでいったたくさんの人々がいます。そのほとんどの人たちのことを私たちはよくは知りません。けれど神さまこそがその一人一人のことを、その喜びや悲しみを、その心細さや恐れや、神さまへの願いや感謝の一つ一つをよくよくご存知だ、と覚えておきましょう。この一人のおばあさんも、神さまを信じ、神さまに仕えて、生きて死んでいきました。
37節に、「宮を離れず、神に仕えていた」と書いてありました。主イエスのことをまわりの人々に語り聞かせてあげた、とも書いてありました。私たち一人一人も、アンナおばあさんと同じくらい幸せな、とても心強くて嬉しくて安心で慰め深い人生を、生きて死ぬことができます。「ずっと宮を離れなかった」と聞いて、私たちは羨ましがるには及びません。どうして? アブラハムの息子のイサクの息子のヤコブが夜逃げをして山の中で野宿をしたとき、彼は驚いてこう叫びました。「まことに主がこの所におられるのに、私は知らなかった。ここはなんという安らかで安心で心強い場所だろうか。ここは神の家である。ここは天の門だ」(創世記28:16-17,コロサイ手紙4:1参照)。あのとき以来、世界中どこもかしこも主の神殿とされ、天へと通じる門とされているのです。もちろん、あなたや私の家も道端も、にぎやかな街角も、人っ子ひとりいない淋しい荒野も。この私たちもよくよく教えられてきましたように、天に主人がおられます(*)。そうだ。ずいぶん前に、一人のおばあさんの友だちがいました。クリスチャンでした。そのおばあさんの息子があるときハガキをくれました。「母は礼拝を守っています。いいえ本当は、その一回一回の礼拝が朝も昼も晩も、次の日もまた次の日も、私のお母さんを守ってくれています。神さまに、心から感謝をいたします」。
【割愛した部分の補足説明】
(*)もう少し詳しく丁寧に説明することもできます。(1)まず、この創世記 28:16-17と詩篇139:1-10。神さまのご支配こそが、陰府のどん底の底の底を含めて、そもそもの初めから世界の隅々にまで及んでいること。「わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます」。この他、(2)洗礼を授けられたとき以来、私たちクリスチャン一人一人の身体の中に聖霊なる神さまが住んでくださり、私たちはその神殿とされたこと(コリント手紙(1) 3:16-17,同(1) 6:19)。(3)主イエスご自身が、貧しく小さな一人の姿をとって、私たちの目の前にたびたび来ておられること。喉をカラカラに渇かせ、腹を空かせ、着るものもない裸の惨めな姿で。また牢獄に囚われた囚人や、ベッドに横たわる病者の姿で。「その小さな一人にしてくれたことは私にしくれたこと。してくれなかったことは、私にしてくれなかったことである」(マタイ25:31-46)。それだからこそ、「何をするにも人に対してではなく、主に対してするように心から行いなさい」「だから飲むにも食べるにも、何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」(コロサイ手紙 3:22-4:1,コリント手紙(1)10:31)。しかもその神さまは忍耐深く、慈しみと憐れみに富み、罪をゆるす神であったのです。何をどう行ったら神の栄光と御心にかなうことであるのかは、すでに明白です。これこそがクリスチャンに対する飛び切りの戒めであり、祝福です。