2016年2月29日月曜日

2/28「思いわずらうな」マタイ6:25-34、詩篇127:1-2

                     みことば/2016,2,28(受難節第3主日の礼拝)  48
◎礼拝説教 マタイ福音書 6:25-34,詩篇127:1-2  日本キリスト教会  上田教会
『思いわずらうな』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

6:25 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。26 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。27 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。28 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。29 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。30 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。34 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。             (マタイ福音書 6:25-34)

 

 まず、誤解しやすい部分を確認しておきます。26節や30節、「空の鳥、野の草花よりも私たち人間がはるかに優れている。だから鳥よりも草花よりも、人間様をこそ神さまははるかに手厚く大切に養ってくださる。それらの何倍も、私たち人間には良いことをしてくださる」と言っているかのように聞こえるかも知れません。違います。優れているかどうか、役に立つかどうかなどと分け隔てをなさらない神さまですし、なにしろ神さまが天と地とすべてのものをお造りになったのですから(創世記1:31,9:10-17,ローマ3:21-27,8:19-25,マタイ福音書5:45,24:45-51。人間に負けず劣らず、鳥も草花も同じだけ大切に神さまは愛情深く守り、養っておられます。もう一つ、末尾の「明日のことは明日自身が思い煩う」はやや言葉足らずで、将来のことは私たち人間にも手に負えません。風の向くまま気の向くままという風来坊の生き様でもありません。神さまだけが将来も永遠も知り、今日も明日も変わることなくその手の中に収めておられます(ヘブル手紙13:8)。むしろ私たち自身の今日のことも明日や明後日のことも、すべてすっかり神さまの御心と御手のうちにある、真実な神さまにこそ信頼し、神さまにこそ委ねよ、ということです。
 さて、「思いわずらうな」と主はおっしゃいます。クリスチャンも含めて、誰も彼もがそれぞれの思い悩みを抱えています。それが人間です。だからこそ、「クヨクヨと思い悩むことのないあなたとしてあげよう」と招いてくださっているのです。「自由な、晴れ晴れとした心を、あなたにもう一度取り戻させてあげよう」と。本当でしょうか。もし、そうなれるならどんなに素敵でしょう。ここでは、まず空の鳥や野の草花と私たちとが見比べられています。その次に、この聖書の神を信じていない人々とこの私たちとが見比べられています。それぞれに、よく似ている所と違う所があります。空の鳥、野の草花。そして私たち。「よくよく注意して見てごらん」と主はおっしゃいます。空の鳥がどんなふうに養われているのか。野の草花がどんなふうに装われているのか。そして私たちは。「彼らは種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。働きもせず、紡ぎもしない」(26,28)。ここでの主イエスの言い方は、とても挑戦的で、私たちの心を波立たせます。「それじゃあ、私たちとはだいぶん違うじゃないか。だって私たちは、一日中汗水流して働いている。朝早くから夜遅くまで、人に言えないような苦労を背負いながら、懸命に精一杯に働いている。食べるために、生きてゆくために。ぜひしたいと願ったことも諦めてきたし、したくない嫌なことも我慢してやりとげてきた。だから私たちと空の鳥では、生き方が全然違う。私たちと野の草なんかを比べられても見当違いだ」と言いたくなります。「それじゃあ、働くのをやめたら、明日からいったい誰が私たちを養ってくれるというのか。誰が家のローンを払い、電気代水道代を払ってくれるというのか。誰が米を買ったり、月々の生活費を出してくれるというのか。まさか、天の御父が、空の鳥を養うように私たちを養ってくれるなんて、そんな夢のようなことを言うんじゃないだろうな。まさか、天の父が、野の草を装うように、私たちに服を着せ、食べ物を与え、生命を与えてくださるなんて、そんな馬鹿げたことを本気で考えているんじゃないだろうな」などと言いたくなりますね。けれど、その通りです。

             ◇

  それで、詩127篇をご一緒に読みました。「本当にそうなんだ」と皆でよくよく腹に収めたいと思いましたから。ここに集まった私たちのほとんどは、大工さんでもなく建築設計師でもありません。けれどなお私たち全員は、《家を建てる者》たちです。それぞれに、また力を合わせて自分たちの家を建てつづけている者たちです。図面を引き、釘を打って柱を組み立て、土台にコンクリを流し込んだり壁にペンキを塗ったり、そのような作業だけが家を建てることではなく、建物だけが家なのではありません。家の中身、そこに住む人々とその様々な営みもまた、《家》です。○○家、△□家などというように。
 『一家の大黒柱』といいますね。父親が、あるいは母が、その家が揺るぎなく建つための肝心要と。けれど聖書は、それとは違う大黒柱を指し示します。1節です。主ご自身が建ててくださる。そうであるならば、その限りにおいて、家は建つ。主ご自身が守ってくださる。そうであるならば、その限りにおいて、町はうれしく堅固に守られる。どんなことがあっても断固として心強く守られる。一人のクリスチャンも、一握りの家族も。その家庭の日々の営みも。主ご自身が建て、守る。それが、私たちが受け取っている戒めであり、祝福です。家を建てることも町を守ることも。クリスチャンがクリスチャンとして自由に喜ばしく、また堅固に立っていることも、いつも、それをきびしく脅かすものに直面しており、揺さぶられつづけます。《そうであるならば、その限りにおいて》という神さまの絶対条件を私たちがうっかり忘れてしまうときに、直ちに、いとも簡単に、その家は崩れ去ってしまいます。だからこそ、「主ご自身が建ててくださるのでなければ、むなしい。主ご自身が守ってくださるのでなければ、むなしい。それは虚しい」と執拗に繰り返されます。心配して、ハラハラしながら見つめてくださっている方が、「大丈夫か。肝心要のことを分かっているか。虚しくなってしまうぞ。あなたたちのせっかくの労苦が水の泡になってしまうぞ」と警告してくださっています。主ご自身が建てる。主ご自身が守る。その一点を、あなたは何としても、どこまでも死守せよと。主ご自身が建ててくださるとしても、なお、家を建てる私たちは労苦します。思い悩み、心を痛める日々もあります。それぞれの家の父さん母さんも、大切な家族を支え、自分たちの家庭を築き上げていくために「朝早く起き、夜遅く休み、私のあの大切な娘はどうやって生きていくだろうか。この息子は、どうするつもりなのか。私たち夫婦は」と心を砕きます。「手に負えない。どうしたらいいのか分からない」と頭を抱えて溜め息をつくばかりの夜もあります。その懸命で必死な営みの中で、どうにか今日1日分の、家族皆が食べる分の米と味噌を手にします。がんばってきたが何のためだったか、とガッカリする日々もありますね。「むなしくはない」と言いたい。虚しくはない、という揺るぎない信頼と喜びを掴み取りたい。そうであるなら、ぜひとも《主ご自身が建て、ちゃんと守ってくださる》と知りたいのです。他の誰彼が、皆が、という以前にこの私自身こそ、この魂に骨身にしみて刻み込みたい。《主ご自身が建て、ちゃんと守ってくださる》ことを、よくよく弁えた、そこに足を踏みしめた建て方・守り方をがっちりと掴み取りたい。ぜひとも。何としてでも。
  マタイ福音書に戻りましょう。『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』、『どうやって働き、どんなふうに毎月毎月の生活を立てて生きてこうか』。それらは大事なことです。神も仏も信じていない他の人たちが切に求めているだけでなく、私たちクリスチャンもやっぱりそれを心から求めています。他の人たちにとって必要なことは、同じくやっぱり私たちにも必要です。クリスチャンになったからといって、雲や霞を喰らって仙人のように生きているわけではないのですから。生活の具体的な様々な必要品も、健康も生命も月々の収入もお金も、私たちにとっても、とても大事です。そこまでは、聖書の神を信じる私たちもそうでない他多くの人々も、まったく同じです。
  違うのは、ただ一点。私たちは、生きて働いておられます神を知り、その神に信頼し、その神に委ねています。すべて一切を委ねるに足る、十分な神さまと、すでに決定的に出会っているのです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(33)とは、その助けと支えとを、まず何しろ神にこそ求めなさいという意味です。「生きて働いておられます主よ、どうかぜひ、この私のためにも、私のこの必要と困難のためにもあなたこそが働いてくださいますように」と。そうです。だからこそ、「あなたはあまりに思い煩いすぎてはならない」と戒められ、釘を刺されつづけました。もちろん誰もが思い煩いを抱えています。「どうしたらいいだろう」と頭を抱えるべき難問が次々に行く手を塞ぎます。そのとき、思い煩いの只中で、神さまへの信頼や神に委ねることが重くなったり、軽くなったりしました。色濃く鮮やかになっていく場合もあり、かと思うと逆に影がどんどん薄くなり、ぼやけていくこともありました。ですから、いつでも、ここが信仰をもって生きてゆくことの分かれ道であり続けます。それはちょうど天秤ばかりの右と左の皿にそれぞれの荷物を載せたときのようです。あるいは、どこにでもある児童公園のシーソーの遊技台のようです。神さまへの信頼や期待。そして神ではないモノへの信頼や期待。それは重くなったり軽くなったり、上がったり下がったりし続けました。人間のことばかり思い煩ううちに、いつの間にか、神さまを思う暇がほんの少しもなくなって、神さまのことも、信仰を持って生きることが一体どういうことなのかもすっかり分からなくなっていくこともありました(マタイ福音書16:23参照)。だからこそ、呼びかけられています。悩みと思い煩いの只中にすっかり飲み込まれてしまってはならない。そうではないあなたにしてあげよう、と。神さまに信頼するためにです。神さまに信頼し、より頼み、委ねて生きていきたいのです。思い煩いや心細さや恐れの中にすっかり飲み込まれてしまわないために。主イエスは、はっきりと断固としておっしゃいます。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられる」(32-33)。添えて与えられる。肉やハンバーグの大皿の隅に添えられたジャガイモやトウモロコシのように、です。食堂のテーブルに並べられた小鉢の中のお浸しや漬物のように、それら必要な一切もまた、肉やハンバーグのような『神の国。神ご自身の義』の傍らに、添えて与えられるという約束です。なにしろ、十分なコックであり、ちゃんとした店です。そのコックご自身が太鼓判を押し、店自身が保障している。なにしろ飛び切り上等な肉やハンバーグなのだから、その料理にはもちろん付け合せのジャガイモやトウモロコシも必ず決まって添えられている。甘く煮た人参のカケラも、小鉢のお浸しも漬物も、ちゃんと添えられている。味噌汁もつけてある。心配するな」と。この約束を信じました。信じて一日一日を生きることを積み重ねてきました。
  だからこそ、讃美歌2882節は、この飛びっきりのコックと料理店への信頼を高らかに歌いました;

♪ 行く末遠く見るを願わじ。
主よ、わが弱き足を守りて、
ひと足、またひと足、
道をば示したまえ。

このコックの料理を食べたことのない異邦人たちと同じく、私たちも、「5年先、10年先の私たちの生活はどうなっているだろう。息子や娘たちは、ちゃんと暮していけるだろうか。私たち自身の老後の暮らしは、はたして健やかで晴れ晴れしたものでありつづけるだろうか」と案じました。けれど、どうしたことでしょう。朝から晩まで思い煩っていたはずの、その心細さの塊のような人々さえも、この安らかな信頼の歌を口ずさみはじめました。5年先、10年先、いいえ半年後1年後どうなっているか分からない。分からないけど、それでも十分。将来設計も見通しも全然立たない、それでも大丈夫。この一個のキリスト教会も、あの息子たち娘たちも私たち自身も、あまりによろめく歩み。ひどく危うい足取り。足腰、膝もガクガク。それでも何の不足もない。だって、主が私と共にいてくださり、主が私のおぼつかない歩みをも導いてくださるのだから。手を引くようにして、ひと足、またひと足と連れていってくださるのだから。
  「主ご自身が家を建て、主ご自身こそが町をきっと必ず守ってくださる」(127:1-2参照)と知る者はどんなに幸いでしょう。どんなに心強いことでしょう。それならば私たちも、安心して晴々として、与えられた分を担うことができます。朝早く起きて、夜遅くまで労苦することもでき、懸命に精一杯に働くことも出来ます。それは決して虚しくないからです。主ご自身が私たちを支え、担い、どこからでも救い出してくださり、導き行く。それを知り、「ぜひそうであってください」とそれを願い求める人は、なんと幸いでしょうか。その人たちは天を受け継ぐのみならず、この世界をも受け継ぐことでしょう。天の国は、そして他一切も、その人たちのものです。