2016年2月29日月曜日

2/28こども説教「少年イエス迷子事件」ルカ2:41-52

 2/28 こども説教 ルカ2:41-52
 『少年イエス迷子事件』

2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭には毎年エルサレムへ上っていた。42 イエスが十二歳になった時も、慣例に従って祭のために上京した。43 ところが、祭が終って帰るとき、少年イエスはエルサレムに居残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。・・・・・・48 両親はこれを見て驚き、そして母が彼に言った、「どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、おとう様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです」。49 するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。                  (ルカ福音書 2:45-51)

  これはルカ福音書だけが報告している出来事です。主イエスが12歳になったとき、毎年そうしてきたように、父さん母さんや親戚たちや近所の人々といっしょに過越の祭りを祝うために、エルサレムの都へ上っていきました。祭りが終わって帰るとき、少年イエスはどこかにいなくなっていて誰もそのことに気づかず、一日帰り道を歩いたころにようやく気づいて、大慌てで皆で探しました。探し回りながら引き返すと三日目に、神殿の中にいる少年イエスをとうとう発見しました。少年イエスは神殿の中でユダヤ教の教師たちの真ん中に座って、彼らの話を聞いたり、質問したり、何かを質問されて答えたりしていました。お母さんは少年イエスを叱りつけました。「どうしてこんなことをしてくれたんですか。ほら見てごらんなさい。私もお父さんも、親戚のおじさんたちも近所の人も皆心配して心配して、あなたのことをさんざん探し回ったんですよ。もオ」。49節、少年イエスは不思議な返事をしました。「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存知なかったのですか」。そんなこと言ったって、お母さんもお父さんもごく普通の人間で、そのときはまだ、この少年が救い主で神の独り子だなんてことは少しも知らなかったんですから。ずいぶん後になってから、そのことを知らされ、分かるようになります。今はただただビックリしてとても心配して、必死にその子を捜し回ったのは当たり前です。それでもお母さんは、よく分からないながらも、「これはどういうことだろうか」と、この不思議な出来事を心に留めて、思い巡らせつづけました。
 少年イエスが仰ったことは本当のことでした。私は自分の父の家にいる。ご存知のように、ここも主イエスがおられる、天の御父の家の一つです。ずいぶん後になって、十字架につけられて殺される数日前に、主イエスは神殿の境内で商人たちの店や商売道具をひっくり返し、たいへんな乱暴をしました。「わたしの家は祈りの家であるべきだと書いてあるのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」19:45-48。それを聞いて、主イエスをなおさら激しく憎む者たちがおり、また逆に、熱心に耳を傾けはじめる者たちも現れました。今でも キリストの教会はたびたび強盗たちの巣に成り下がったり、天の御父のものである祈りの家に立ち戻ったりをしつづけています。強盗の巣に成り下がってしまった神殿を、やがてこの主イエスがすっかり取り壊し、その三日目に、まったく新しく建て直してくださったからです。そのまったく新しい父の家に、こんな私たちをさえ 迎え入れてくださいました。しかも神さまの子供たち。この地上でそのとおりだというだけではなくて、やがて死んだ後でも、天の御父の家にこの私たちも迎え入れていただける約束です。主イエスは仰いました。「私の父の家にはすまいがたくさんある。あなたがたのために私が場所を用意しに行く。行って、場所の用意ができたなら、また来て、あなたがたを私のところに迎えよう」。誰の心にも思い浮かびもしなかった、あまりに不思議な出来事です(ヨハネ福音書14:2-3,コリント手紙(1)3:10-17,(1)6:19-20,(1)12:12-27,ヨハネ福音書2:19-22


           【割愛した部分の補足説明】
            (*)馬小屋のエサ箱の中でこの少年が生まれたとき、羊飼いたちが訪ねてきて不思議なことを告げたときも同じでした。ルカ2:19。あのときも母さんは、「これはどういうことだろうか」と、その不思議な出来事を心に留めて思い巡らせつづけました。心に留めて、「これはどういうことだろうか」と思い巡らせつづける人たちは、やがてその答えを受け取ることになります。また例えば、荒野の40年の旅が始まったばかりの頃、不平不満をつぶやく人々のために神さまは恵みによって天からパンを降らせてくださいました(出エジプト16:15,申命記8:3-10,ヨハネ6:48-58)見たこともない食べ物でした。「これは何だろう」と人々は互いに言い合いました。やがて、長い長い年月の末にとうとうその答えを私たちは教えられました。聖晩餐のある礼拝でも、切り分けられたパンと赤い飲み物が自分の目の前に差し出される度毎に、「これは何だろう。どうして、なぜ、私がこれを食べたり飲んだりしているのか。何のためか」と、自分自身をつくづく振り返り、十字架の上で引き裂かれた主の体について、流し尽くされた主イエスの血潮について、また主の体とされたキリスト教会とその肢々とされた同胞たちと自分について、熟慮するに値します。まったくふさわしくない、値しない、罪深い私たちが、にもかかわらず、そのパンと杯にあずかって生きる者たちとされました。「何だろう。どういうことか?」;そこから、いつもの信仰教育が始まり、だんだんと積み重なっていきます。



 ○とりなしの祈り
 イエス・キリストの父なる神さま。だからこそ真実に私たちをあなたの子供たちとして迎え入れ、養い、支えとおしてくださる御父。あなたにこそ十分な信頼を寄せさせ、あなたに願い求め、あなたに聴き従って生きる私たちとさせてください。
 排他主義と自分本位のあり方が世界中に広がり、その傾向はますます強く激しくなっていきます。私たちは心をどんどん狭く、貧しくさせられています。主よ、私たちを憐れんでください。政治家や官僚たちが健全に公正に働くことができますように。学校教育に携わる教師たち、医療や介護福祉の現場で務めを担う職員たちを守って、彼らに良い働きを十分にさせてください。弱さと悩みを抱える家族、年老いた家族の世話をして共に生きる者たちの生活と心をお支えください。どうか親たちを励まし、助けてくださって、精一杯に自分の子供たちを養い育てて暮らすことができるように導いてください。また私たち自身も、ただ自分の生活と自分の身近な事柄や人々のことばかりではなく、顔を上げて、世の中の人々にも目を向けることができるようにさせてください。沖縄と福島と東日本震災の被災地で暮らす人々にも、私たちも自分自身の心と手を差し伸べ、彼らを思いやることができますように。若者たちにも、年配の人々にも、この国で暮らす外国人とその家族にも、生きる希望と支えとが与えられ、大切な隣人として暖かく迎え入れられ、当然受けるべき配慮と権利が十分に保証されますように。片隅に押しのけられ、貧しく惨めに暮らす人々、また過酷で劣悪な労働環境で働かされ、使い捨てにさせられつづける多くの人々の毎日の暮らしと生命とをお守りください。

 ですからどうか私たちの魂をあなたが守ってくださり、共に生きる身近な人々を憎んだり見下したり、煩わしく思うことがないようにさせてください。軽はずみに喋って他人の感情を害したり、心を傷つけたりしないようにさせてください。短気であったり、私たちの目が人の欠点ばかりを見たり、私たちの口が人を非難したりしませんように。頑固で自分本位になって自分の考え方や感じ方以外のもの跳ね除けようとしたり、耳を塞いだりしませんように。あなたは、私たちが互いの交わりのうちに生きるように命じておられます。神さまから責任と務めを与えられたこの私たち自身が、自分たちのなすべき務めを誠実に、また謙遜に精一杯に果たしてゆくことができるように助けてください。あなたから祝福と復活の生命にすでにあずかっています私たちを、地の塩、世のための光として十分に用いてください。あなたからの憐れみの光を照らしだすための道具として、私たち自身とその毎日の生活とを用いてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン