みことば/2016,3,6(受難節第4主日の礼拝) № 49
◎礼拝説教 マタイ福音書 7:1-6 日本キリスト教会 上田教会
『自分の目の中の丸太を』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
7:1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。3
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。5
偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。6 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。(マタイ福音書 7:1-6)
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主イエスは山に登りました。腰を下ろすと、弟子たちが近くに寄ってきました。大勢の群衆も主に従ってきて、そのまわりを取り囲みました。そこで主は口を開き、教えはじめました(5:1-2)。神がどんな神であるのか、その神の御前にどんな私たちであるのか、どのように生きることができるのかということを。こうして、5-7章へと続くひとかたまりの長い長い説教に耳を傾けつづけています。その同じ主は今も私たちに語りかけ、教えつづけておられます。
「人を裁いてはならない」と主はおっしゃいます。「自分が裁かれないためである。あなたがたが裁くその裁きで、自分も裁かれ、あなたがたの量るその量りで、自分にも量り与えられるであろう。なぜ、兄弟の目にあるチリを見ながら、自分の目にある梁(=屋根を支えるために横に渡した、太くて長い材木)を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟に向かって、あなたの目からチリを取らせてくださいと言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からチリを取りのけることができるだろう」(1-5節)。またもや痛い所を突かれました。兄弟の目にあるほんの小さなチリやゴミははっきりと見えるのに、なぜ自分の目の中のその大きな大きな太い丸太に気づかないのか。まず自分の目からその丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からも小さなおが屑も塵もゴミも取り除くことができる。まったく、その通り。「自分のことを棚上げして、よく人のことが言えるもんだなあ」と私たちは互いに言い合います。しかも、自分自身の目の中から丸太を取り除くことは、けっこう難しかったのです。国語辞典を開きますと、裁くことは『良い悪いを区別して、決まりをつけること』と説明しています。良いことは良い、悪いことは悪い。言っていいことと悪いことがあり、して良いことと、してはいけないことがある。そのことを腹に収めて一日ずつを生きること。すると、それは裁判官や検察官や陪審員たちがしているだけではなく、私たちが普段の生活の中で、ごく日常的にしていることです。5~6歳の小さな子供たちもしますし、父さん母さんたちは自分の子供に、なんとかして『良い悪いを区別して、決まりをつけること』を習い覚えさせたいと努力します。そういうことのできる大人になってもらいたいと願って。して良いこととしてはいけないこと。言って良いことといけないこと。それを判断し、区別し、弁え知る人間でありたいのです。また、自分が心の奥底で密かに弁えているだけではなく、「あなたはそんなことを言ってはいけない。そんなことをしてはいけない。それは悪いことだ」と口に出し、態度にも示すべき時もあります。さて聖書自身は2種類の裁きがあると告げます。人間が人間を裁くこと。そして、神ご自身が私たち人間をお裁きになること。
「人を裁いてはならない」と主はおっしゃいます。それはもちろん、「別にィ。どっちでもいいんじゃないの。私には関係のないことだし」と知らんぷりしていなさいと勧めているわけではないでしょう。軽々しく人を判断し、うかつな間違ったやり方で善悪や物事を区別しては困ると言いたいのです。それでもなお私たちの人生は、朝も昼も晩も、家にいても道端を歩いていても、自分自身で良い悪いを判断し、区別し、裁かねばならない事柄の連続です。避けて通ることなどできなかったのです。だからこそ、目の前の一つ一つの出来事に、中学生も小学生も、幼稚園や保育園に通う小さな子供たちまで、頭を抱え、胸を痛めます。一個の人間として日々の生活生きる上でのその裁きの務めの重さは、最高裁判所判事や陪審員たちとほぼ同等、いいえ、しばしばそれ以上です。なにしろその一つ一つの裁定の結果は、具体的に自分自身の身に返ってくるのですから。裁かねばならない材料は、それぞれの口から出る何気ない言葉もそうです。一つ一つの行動や態度も、腹の思いもそうです。けれどそれらはまず、自分自身の目の中から始まるのでしょう。曇りなくはっきりと見定めるために、丸太もおが屑も取り除きたい。自分自身の目の中からも、そして大切な家族や友人や兄弟の目の中からも、それをぜひ取り除いてあげたい。目の中にどんなゴミが溜まっているのか、その点検はまず自分自身の目玉から始められていきます。「自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」。その通りです。自分が持って使っているいつもの秤、それは、いつ頃どこで誰にもらった、どんな秤なのかも詳しく念入りに調べてみる必要がありますね。
ソロモンが若くしてイスラエル王国の王とされたとき、彼は、最高裁判所長官の役割を委ねられたのです。もちろん、若くて未熟な、人生経験も何もない彼は悩みました。ただ神を信じる信仰だけしか、彼は持っていませんでしたから。それで、浅学で若くて未熟な彼は、ただ一つのことを願い求めて、祈りました;「わが神、主よ・・・・・・聞きわける心をしもべに与えて、あなたの民をさばかせ、わたしに善悪をわきまえることを得させてください。(そうでなければ)だれが、あなたのこの大いなる民をさばくことができましょう」(列王記上3:7-)。その願いは、聞き届けられました。立派なソロモンだったから? いいえ! 願い求めた相手が、すご~く立派で、とても良い神さまだったからです。
主の弟子パウロも、同じ一つのことを願い求めて、その願いを聞き届けられました。自分自身と他の人々、自分の発言や仕事や振る舞いと他の人々の発言や仕事や振る舞いを区別し、聞き分けて量るための格別な秤を、この人も贈り与えられました。コリント手紙(1)4:3-です。「わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない」。100歩200歩譲って、もし仮にやましい所が一つもないとしても、それで私が正しいとされたわけではない、と彼はよくよく知っています。この私を悪く思う人たちからあれこれとやかく言われようが、自分の発言や態度や振る舞いの一つ一つに難癖をつけられようが、全然平気。何の問題もない。「自分で自分を裁くことさえしない」と言うのです。どういうわけでしょうか? 図に乗っているんでしょうか。あまりに無神経で、厚かましく図々しく、身勝手なのでしょうか。自信満々な、断固とした、信念の塊のようなパウロ大先生だから、こう言えるのでしょうか。そして私たちはまたもや、「元々出来が違う。われわれ一般庶民には、とうてい及びもつかない聖人君子と達人の境地だ」と羨ましがったり、溜め息をついたり、あこがれたりするほかないのでしょうか。いいえ、すご~く立派で、とても良い神さまが、とてもよい秤とモノサシを贈り与えてくださったのです。「わたしを裁くのは主なのです」。これが、パウロだけでなく、クリスチャンとされた全員がもれなく手渡されている秤です。これが、自分自身と世間様と世の常識とすべて一切を量るための私たちの秤であり、モノサシです。「自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」。その通り。私たちがどこに行くにも持ち歩き、いつもいつも使っている『わたしを裁くのは主である』という秤とモノサシ、それは、いつ頃どこで誰にもらった、どんな秤とモノサシだったでしょうか。問うまでもありません。洗礼を受けて、キリスト者とされたとき、初めてあの格別なパンと杯を受け取って、口に入れたとき秤とモノサシを受け取りました。ちょうど今日も聖晩餐のある礼拝ですから、パンと杯の食卓で同じ一つの秤とモノサシを改めて受け取ります。「だれでもまず自分を吟味し、それからパンと杯を飲むべきである。主のからだを弁えないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分に裁きを招くからである」(コリント手紙(1)11:28-29)。しかもクリスチャンとしていただいた兄弟姉妹たち、目の前にパンと杯があってもなくても、いつでもどこでも誰に対しても同じ弁えと心得です。
折々に、私たちは問いただされました。「あなた、クリスチャンなの。本当に、証拠は?」と。職場の同僚や親戚や自分の夫や妻から、子供たちから、「あれれ」と疑わしげな眼差しを向けられ「お母さん、本当にクリスチャンなの?」と。だってその時のボクは、人から誤解されたり悪く思われる度毎に、クヨクヨしたり腹を立てたり、ひどく気に病んだりしています。人から恥ずかしい思いをさせられたり見下されたらどうしようと尻込みしたり、おじけづいたりしています。それでは、《人からどう見られ、どう思われるか》という秤で物事を量っているではありませんか。また別の時のボクは、「私はそれをしたい、したくない。好きだ嫌いだ」と、《自分の考え。自分のやり方。自分の好み》という秤にすっかり心を奪われて、その秤の言いなりにされているではありませんか。別の時には、「○○さんがこうしろと言うので」などと、ついうっかりして、その人の召使いか使用人のように《その人の考え。その人の指図》という秤で、自分がすべきこと、してはいけないことという言動や態度を量っているではありませんか。しかも兄弟姉妹たち、その秤はあまり楽しくない。その秤は、あまり自分を幸せにはしてくれない。「せっかくクリスチャンとしていただいたのに、これじゃあ、どこがどうクリスチャンなんだか自分でもさっぱり判らない」と溜め息をつきました。そこでようやく、思い出しました。もう一つの全然違う素敵な秤を持っていたことを。「そういえば、たしか持っていたはずだ」。ポケットの中をゴソゴソ探しました。あった。何年も何年も使わないで放ったらかしにしていたおかげで、ずいぶん錆びついているけど、手入れをすればまだ使える。そして、使い始めました。この秤、このモノサシ。《私を裁くのは主なのだ》という秤とモノサシ。
その、私たちを裁くためにやがて来られる主。その方は、ポンテオ・ピラトのもので裁判にかけられ、唾を吐きかけられ、ムチ打たれ、あざけられ、なお口を閉ざしたまま十字架につけられた、あのナザレの人イエスです。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」(ルカ23:34)と私たちのために執り成しをし、また、そのためにこそ、ご自分の体を引き裂き、ご自分の血を流しつくしてくださった救い主イエスです。そのただお独りの方は、私たちを、つまらない惨めな秤やモノサシから自由にしてくださるために、みせかけやゴマカシばかりの虚しい裁きから自由にしてくださるために、来てくださいます。この秤、このモノサシ、この腹の据え方こそが、私たちを広々とした場所へと連れ出してくれるでしょう。晴れ晴れとした、さわやかな場所へと。キリスト者の自由(ガラテヤ手紙
5:1-)という名の素敵な場所へ。そこで私たちは、《して良いこととしてはいけないこと。言って良いことといけないこと》を判断し、区別し、心で聞き分けることができます。心の奥底で密かに弁えるだけではなく、「あなたはそんなことを言ってはいけない。それは悪いことだ」と口に出し、態度に示すことさえできます。この秤は、今まで聴いたことがないような、不思議な自由の歌を私たちに聴かせます。こんな歌です;「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。・・・・・・わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」(ローマ手紙8:31-)。