3/13 こども説教 ルカ3:7-14
『まむしの子らよ!』
~洗礼者ヨハネ.(2)~
3:7 さて、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出てきた群衆にむかって言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。8
だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。9
斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」。10 そこで群衆が彼に、「それでは、わたしたちは何をすればよいのですか」と尋ねた。 (ルカ福音書 3:7-10)
洗礼者ヨハネの、そのヨハネという名前は『主は憐れみ深い』という意味でした。主の憐れみ深さを指し示すはずのその彼の説教の言葉は、まるで正反対のように、とてもきびしい恐ろしい口調で語りはじめられます(*1)。7-9節、「まむしの子らよ(*2)、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」。「まむしの子らよ」とは、とても厳しい語りかけです。まむしは毒蛇の一種ですが、それだけではなく創世記3章、エデンの園で人間たちを唆して神さまに背かせたあの蛇の子孫。つまり、「悪魔の手下にされている者たちよ」という容赦ない非難です。自分たちはアブラハムの子孫だと自惚れて安心している人々に、「いいやそれどころか、むしろ、お前たちは悪魔の手下にされてしまっているじゃないか」と叱りつけています。なんということでしょう。ところで、あなたのお父さんお母さんはどういう父さん母さんですか? いつでも、あなたが何をしても、ただニッコリして「いいんだよいいんだよ。かわいい子だね。好きなようにしていていいからね」と、ちっとも叱ったり、恐い顔一つしないようなら、もしかしたらその父さん母さんは、あなたのことをもうあまり愛してはいないのかも知れません。だって、本当に大切な子供なら、してはいけないことをするとき、本気で叱ります。とても憐れみ深い、私たちのことをとても大切に思って、本気で愛してくださっている神さまです。だから、本気で叱りつけています。「まむしの子らよ。迫ってきている神の怒りから逃れられると、おまえたちにだれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ」。そこには、聞くべき大きな道理がありました。
また、彼ら自身も、自分がまむしの子に成り下がろうとしていることに自分で気づきはじめてもいました。「神さま、神さま」と口先では信仰深そうな美しい言葉を並べ立てながら、けれど普段のいつもの自分の口から出る何気ない言葉や行いや腹の思いはどうだろうか。自惚れて他人を見下して高い山や丘のようになっていた。いじけて僻んで、低くて薄暗い谷間のようにジメジメしていた。意固地で、わがままで頑固で、なんだか険しい曲がりくねった道のようになっていた。ああ、どうしたらいいだろうかと。だから彼のところにやってきたのです。平らな、晴れ晴れ広々とした道に直していただきたくて。悔い改めにふさわしい実を結べ。そのとおりではありませんか。もし、本気で神さまを大切に思い、神さまの御心になかって生きていきたいと願うなら、私たちのその願いは実を結ばないはずがない。人々は洗礼者ヨハネに質問しました。「それでは私たちは何をすればいいのですか」。11-14節、「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい」。取税人もバプテスマを受けにきて、彼に言った、「先生、わたしたちは何をすればよいのですか」。彼らに言った、「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」。兵卒たちもたずねて言った、「では、わたしたちは何をすればよいのですか」。彼は言った、「人をおどかしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足していなさい」。
ビックリです。誰も手が届かないようなとても難しいことが命じられたのではありませんでした。しようと思えば誰にでもできそうな、ごく普通の、当たり前のことが命じられました。神さまへと、あなたの思いもあり方も、180度グルリと向け返しなさい。どんな神さまなのかを、あなたもよく知っていますね。それじゃあ、神さまが喜んでくださることをしよう。神さまが悲しんだりガッカリするはずのことはしないでおこうと、あの彼らはついにとうとう思い直しました。新しい生き方が、そこから始まっていきました。うわおっ。
【割愛した部分の補足】
(*)「憐れみ深い。憐れみ」;たぶん、これこそ聖書全66巻中の最重要のキーワード(=謎を解くカギ)であると思える。神ご自身の本質について。救いの中身と道筋について。神によって救われた者たちが何者であり、どのように生きて死ぬことができるのかについて。例えばルカ福音書中の、神さまへの二つの讃歌(1:46-55,67-79)は、異口同音に「憐れみ、憐れみ、憐れみ」と連呼していた。神は一人の卑しい女性を憐れみ、神の民をも同様に憐れみつづける。その憐れみを忘れず、彼らを救い出す。『罪のゆるしによる救い』という契約はこうして、神の憐れみから始まり、その憐れみを内容とする。「神はすべての人を憐れむために、すべての人を不従順の中に閉じ込めた。不従順にされた者たちもやがて憐れみを受けるようになる」(ローマ手紙11:31-32,コリント手紙(2)5:18-21)。それゆえ憐れみを受け取り、それを自分の手に掴んでおり、決して忘れないでいることが神の民であることの中身と生命を保たせる(ペテロ手紙(1)2:10,テモテ手紙(1)1:12-17)。また、受けた憐れみは、神を信じる者たちのうちに『憐れみの実』を結ばせることになる(コリント手紙(2)9:8-11)。神の憐れみを知り、その憐れみを受け取った者として、この私たち自身もまた生きて死ぬことができるのかどうか? 「なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです」(ヨナ4:2)と預言者ヨナは葛藤し、憐れみの神に苦々しく背を向け、遠く逃れ去ろうとする。彼の葛藤と紆余曲折は、この私たち自身のいつもの紆余曲折と反逆でもあるだろう。
思い出した。不従順と反逆のヨナ、憐れみの神。この基本的な関係は、やがて主イエスご自身によって改めて新しく語り直される。二人の息子と父親の、家族の物語として(ルカ福音書 15:11-32)。弟が家を出ていったことも、やがて戻ってきた弟を父があまりに寛大に迎え入れてやることに腹を立てた兄の態度と心情も、この『不従順と反逆の人間、憐れみの神』をこそ描き出す。二つの物語のそれぞれの結末部分で、預言者ヨナと年上のほうの息子に語りかける『神=父』の声は驚くほど似通っていて、同じ一つの憐れみの心の表れである。もちろんそうだ。同じお独りの神なのだから。何回も何回も読んできた。読むたびに胸が締めつけられる。「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」「子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである」(ヨナ4:10-11,ルカ15:31-32)。これらの切実な語りかけに、ぼくらは何と答えようか。不機嫌なヨナたちよ、不平不満の兄たちよ。
(*2)「まむしの子らよ」;創世記3章。とくに15節は『原・福音』と呼び慣わされてきた。人間の女から生まれた救い主がやがて蛇の頭である悪魔を打ち砕き、けれど救い主もまたその戦いの中で大きな痛手を受けると。もう一箇所、主イエスの受難予告に際してそれを拒もうとした弟子のペトロに向かって、主イエスは「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ福音書16:23)と厳しく叱責する。また、世界宣教へと送り出された弟子たちの中には、「しかし疑う者たちもいた」(マタイ福音書28:17)。主イエスの弟子である私たちもまったく同様だ。神さまからの祝福と保護を受けながら、しかし同時にサタンの誘惑にもさらされつづける。だからこそ私たちは、「神の慈愛と峻厳と」に目を凝らさねばならず、「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい」「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。心は熱しているが肉体は弱いのである」(ローマ手紙11:22,エペソ手紙6:10-,マタイ福音書26:41)とも戒められつづける。