2019年3月25日月曜日

3/24こども説教「エジプトへ」使徒7:9-16


 3/24 こども説教 使徒行伝7:9-16
 『エジプトへ』 (ステパノの証言③)

     7:9 族長たちは、ヨセフをねたんで、エジプトに売りとばした。しかし、神は彼と共にいまして、10 あらゆる苦難から彼を救い出し、エジプト王パロの前で恵みを与え、知恵をあらわさせた。そこで、パロは彼を宰相の任につかせ、エジプトならびに王家全体の支配に当らせた。11 時に、エジプトとカナンとの全土にわたって、ききんが起り、大きな苦難が襲ってきて、わたしたちの先祖たちは、食物が得られなくなった。12 ヤコブは、エジプトには食糧があると聞いて、初めに先祖たちをつかわしたが、13 二回目の時に、ヨセフが兄弟たちに、自分の身の上を打ち明けたので、彼の親族関係がパロに知れてきた。14 ヨセフは使をやって、父ヤコブと七十五人にのぼる親族一同とを招いた。15 こうして、ヤコブはエジプトに下り、彼自身も先祖たちもそこで死に、16 それから彼らは、シケムに移されて、かねてアブラハムがいくらかの金を出してこの地のハモルの子らから買っておいた墓に、葬られた。
(使徒行伝7:9-16

 主イエスの弟子として新しく立てられたステパノが議会で証言しつづけています。それは救いの歴史と、やがて救い主イエスが成し遂げた救いの御業についてです。
  神さまからの祝福の約束を信じて旅立ったアブラハムとサラの子はイサク、イサクの子はヤコブ、ヤコブには12人の息子があって、その下から2番目がヨセフ。一番下の弟はベニヤミン。さて兄さんたちはヨセフをねたんで、エジプトに売りとばしました。けれど神さまがヨセフと一緒にいて助けてくださったので、ヨセフはエジプトの国全部を治める大臣にされました。大きな飢饉が世界中を襲って、食べるものがなくなった兄弟たちと父さんはエジプトに引っ越して、ヨセフと一緒に暮らすことになりました。ヨセフは兄さんたちに言いました、「兄さんたちは私に対して悪いことをたくらみましたが、神はそれを良いものに変えて、多くの人々の命を救おうとしました。だから私が仕返しするだろうなどと恐れなくてもいいし、他の誰のことも恐れなくてもいいんですよ。やがて私は死にますが、それでも何の不都合もなく、何の恐れも心配もいりません。神さまが必ずあなたがたを見守って、養いつづけてくださいますから」(創世記50:19-25。しかも神さまが初めから決めておられたとおりに、「エジプトで四百年のあいだ、奴隷にされ」(使徒7:6,創世記15:13、その後、神さまが可哀想に思ってくださり救われて、幸せになります。助け出されたことをよくよく覚えつづけて、だから神に感謝し、信頼し、よくよく聴き従って生きるようにと。それこそが神を信じて生きる人たちの大きな心構えになるように。もし、そうなったら、とても素敵です。だって、次々と困ったことや心細い恐ろしいことが起こっても大丈夫で、いつも嬉しい気持ちで安心していられるようにされるからです。



3/24「年老いた母のため」ルカ4:38-41


            みことば/2019,3,24(受難節第3主日の礼拝)  207
◎礼拝説教 ルカ福音書 4:38-41                    日本キリスト教会 上田教会
『年老いた母のため』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
4:38 イエスは会堂を出てシモンの家におはいりになった。ところがシモンのしゅうとめが高い熱を病んでいたので、人々は彼女のためにイエスにお願いした。39 そこで、イエスはそのまくらもとに立って、熱が引くように命じられると、熱は引き、女はすぐに起き上がって、彼らをもてなした。40 日が暮れると、いろいろな病気になやむ者をかかえている人々が、皆それをイエスのところに連れてきたので、そのひとりびとりに手を置いて、おいやしになった。41 悪霊も「あなたこそ神の子です」と叫びながら多くの人々から出ていった。しかし、イエスは彼らを戒めて、物を言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスはキリストだと知っていたからである。       (ルカ福音書 4:38-41)

【口止め】本題に入る前に一つ整理しておきます。41節で悪霊が救い主イエスに「あなたこそ神の子です」と叫びながら出て行くとき、救い主は悪霊を戒めて、物を言うことを許さなかった。先週の箇所の34-35節でも同じことがありました。汚れた悪霊が「ナザレのイエス。あなたがどなたであるか分かっています。神の聖者です」と言うと、これを叱って、「黙れ」と。救い主イエスはご自分が何者であるのかをいうことを禁じて、口止めしています。その相手は、(1)まず悪霊。汚れた霊。悪霊や悪魔の手先などから宣伝してもらわなくてよいからです。(2)病気を癒してもらったり救われた人々、またその家族に対する口止めは緩やかな取り扱いでした。誰にも言うなと口止めされましたが、彼らはその嬉しい出来事を隣人たちに知らせないではいられませんでした。噂は広がり、けれどそれで厳しく叱られたりはしませんでした。(3)弟子たちも最初の頃に「誰にも言うな」と何度も口止めされました。これは期間限定。主イエスを信じる弟子たちが主についての証言をすることはとても大切な役割です。告げ知らせるための準備が整うまで、期限付きで口止めされました。もちろん今は、救われた人々とその家族と、主イエスを信じる弟子たち(=すべてのクリスチャン)には、それらの口止めはすっかり解除されています。救い主イエスが何者なのか、何をしてくださるのかを、この私たちは、今では誰にでも知らせてよいのです。

  さて、38-39節。「イエスは会堂を出てシモンの家におはいりになった。ところがシモンのしゅうとめが高い熱を病んでいたので、人々は彼女のためにイエスにお願いした。そこで、イエスはそのまくらもとに立って、熱が引くように命じられると、熱は引き、女はすぐに起き上がって、彼らをもてなした」。たまたま偶然にシモンの家に立ち寄ったのではありません。シモンの義母が高い熱を出して寝込んでいるのをあらかじめ知っておられ、だからこそ、その彼女をめがけて、わざわざ彼女のためにこそ家を訪問しました。熱を引かせて、元気に起き上がらせてあげようとしてです。よくよく覚えている必要があります。家族を大切にさせない、薄情で冷淡な神ではありません。その人と共に家族もまた健やかに暮らしていることが、もちろん神にとってもとても大切です。そうであってこそ、心安らかに晴れ晴れとして神に仕えて生きることができます。だからこそ、ごく最初のころから、「あなたの父母を敬え。そうすれば」(出エジプト記20:12,申命記5:16とお命じになり、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われる」(使徒16:31と約束なさいました。「神を信じる一人の人がその家庭にいるために、今はまだ聖書の神を信じていない夫も、その子供らもまたすでに清められ、神の恵みの領域に据え置かれている。だから、できることなら別れてはいけない」(コリント手紙(1)7:12-参照と。
 こうしたことでやや理解しづらいのは、例えば創世記12:1、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」。また例えばマルコ福音書1:14-20、わたしについてきなさいと漁師たちを弟子にしたとき、彼らは「網を捨て、父と雇い人たちと舟を後に残して」付いてきました。大切な親族や家族や父をどうするつもりかと首を傾げたかも知れません。網と舟と父をあとにおいて、てぶらで、主イエスに従いました。どうしてだか分かりますか? 網も舟もお父さんも、とても頼りになるからです。「網を捨てて」(18)従ったこと。「舟と父親と仕事仲間たちを後に残して」(20)従ったこととが報告されています。神さまに従う人々の出発点であるアブラハムとサラ夫婦の場合にも、よく似た同じような従い方が報告されていました。創世記12章の冒頭。彼らに向かって主は仰いました;「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」。彼らは、主の言葉に従って旅立ちました(創世記12:1-4。つまり、「手ぶらで。裸一貫で」です。弟子たちの場合と、アブラハム、サラ夫婦の場合と。捨てられた『網』、後に残された『舟と父親』。また、彼らがそこから離れて旅立った『生まれ故郷、親族たち、父の家』。それらは、生活していくための大切な道具ですし、心強い後ろ盾です。網や舟があって、それでようやく日々の生活を支え、営んでいくことができました。経験豊かな父親がいてくれて、また故郷や父の家周辺には、困ったことがあれば助けてくれたり面倒を見てくれる頼もしい親兄弟や、親族や友人たちがいて、だから彼らは安心して暮らしていくことができました。それらを後に残し、離れ去って旅に出ていかねばならないとしたら、ずいぶん心細いでしょう。ね、分かりますか? 「とても心細い。手ぶら」であることが鍵、分かれ道です。この信仰は、なにしろ主イエスを信じる信仰です。また主イエスの福音を聞いて、信じて、主イエスにこそ付いていくことです。想像してみてください。あの漁師たちも、もし、網や舟を担いで、そのまま主に従っていくことにしたならば。アブラハム、サラ夫婦も、もし生まれ故郷で父の家にそのまま留り、頼もしい叔父さん叔母さん連中に取り囲まれて、そこで、それなりに主に従いなさいと指図されたのだとしたら、どうなったでしょうか。生活も心構えも何一つ変わりません。それまでと同じく相変わらず、舟と網とが頼みの綱であり、生活の拠り所でありつづけます。それまでと同じく相変わらずに、頼もしい父親がいてくれて、また故郷や父の家には、困ったことがあれば助けてくれたり面倒を見てくれる親兄弟や、叔父さん叔母さんや友人たちの助言や勧めに耳を傾け、彼らの意見や判断に聴き従って、だからこそ安心して暮らしていくことができます。ほらね? 主に信頼し、主にこそ聴き従うのではなく、彼らは相変わらず自分たちの『舟や網』に信頼し、『父親や親戚の叔父さん叔母さん』に聴き従って生きることになるでしょう。湖の周辺にしがみついて、頼りになる父親と叔父さん叔母さん連中の判断や指図に「はい。分かりました。はいはい、その通りにします」と聴き従いつづけて、そこから一歩も離れずに生活しなければなりません。主に信頼し、聴き従うのではなく、『父とその家の親兄弟や親戚たち、頼りになる仲間や先輩たち』に従うことになるでしょう。神の民とされ、主イエスの弟子たちとされた人々よ。捨て去るべきものは、それぞれ後生大事に抱えていた後ろ盾です。これがあるから大丈夫という、安心材料、頼みの綱。さらにもう一つの安心材料は、自分自身でした。これまでこうやって世の中を渡ってきたというそれぞれの小さな誇りであり、プライドでした。「しっかりしている。取り柄も見所も社会経験も見識もたっぷりある、なかなかたいした自分だ」という自負心でした。自分に頼って生きてきた優れた人物たちも、けれど信仰をもって生きる中で、その自信も小さなプライドも粉々に打ち砕かれ、大恥をかかされました。なぜ。何のために? 自分を信じるのではなく、主なる神さまをこそ信じるようにと。自分を誇り、自分を頼りとするのではなく、主をこそ誇り、主を頼みの綱として生きるようにと(コリント手紙(1)26-31,(2)1:8-10,ローマ手紙3:21-27。だからこそ、やがて彼らが道端で貧しい小さな人と出会ったとき、「さあほら、素敵でとても立派な私を見なさい」とは言いませんでした。この私が人様・世間様から見て素敵なのかそうでもないか、どんな見所と取り柄があるのか、そんなことと福音伝道とは何の関係もなかったのです;「さあ、私たちを見なさい。この私をよくよく見なさい。金銀は私にはないが、見所や取り柄があるわけでもないが、持っている飛びっきりに素敵なものをあなたにあげよう。ナザレ人イエスの名によって歩きなさい」(使徒3:4-6参照)と。だからこそ、その同じまったく新しい安心材料を受け取り、踊りあがって大喜びしながら生きる者たちが一人、また一人と、呼び出されていったのです。
 その日から、神の慈しみによって生きることが始まりました。「わたしが示す地に行きなさい」と命じられ、「はい。分かりました」と主が命じられたとおりに出発しました。私たちはよくよく習い覚えてきました。神と私たちとの関係で最も大事な肝心要は、それが『主従関係』であることです。神さまがご主人さま、私たちはその主人に仕える召し使いであり、配下の者です。「主なる神」と申し上げ、「主イエス」と呼ぶ弟子であるとは、このことです。「~しなさい」と命じられ、「はい。分かりました」と主が命じるとおりに、行い、聞き従って生きてゆくことです。聖書の別の箇所では、「それに従い、行く先を知らないで出ていった」(ヘブル手紙11:8と報告しています。その通りです。行く先を知らないで出ていっては、何か不足や不都合があるでしょうか? いいえ、何も困りません。それで十分です。なぜなら「わたしが示す地に行きなさい」と指図され、「はい」と出発したからです。いつごろ、どんな場所に辿り着くかは、はっきりとは知らされていません。けれど、なにしろ主に従って歩んでゆくと決めています。主が先立って導いてくださり、見捨てることも見放すこともなさらないと約束されています。なにしろ神に全面的にすっかり信頼を寄せています。神さまのご意思に服従し、神にこそお仕えし、どんな困難や窮乏の中にあっても神にこそ呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めると決めています。すべての幸いと良いものはただ神から来ると知らされているからです。先々週お話しましたが、神さまに十分な信頼を寄せて生きるために知るべきことは二つです。(1)神には何でもでき、しかもまったく善意のお方であること。さらに、(2)神が私たちを愛し、助けと支えを贈り与えつづけてくださるとしても、そうしていただくだけの価値が私たち自身には何一つもないということです。ふさわしくない、神さまからの恵みに価しない私たちなのに、にもかかわらず愛していただき、助けと支えをいただきつづけているということ。この両方ともがよく分かっていなければ、神に十分に信頼を寄せることができません。「価値がない。ふさわしくない」と言われれば、ただ嫌な気がして、それを受け入れるのは至難の業です。それじゃあ言い換えれば、「私たち自身に価値があるのかないのか、ふさわしいかどうかとは何の関係もなく」、神は愛し、助け、支えてくださる。これなら受け入れることができますか。お腹を痛めて産んだ、苦楽を共にして一緒に暮らして愛しつづけてきた我が子なので、親がその子を愛するようにです。その子が親孝行で老後の面倒をよくみてくれるかどうか、素直で優しい、仕事もできる優秀な子なのかどうかと何の関係もなしに、なにしろ手塩にかけて養い育ててきた愛する子供なのでと。私たちを愛する神の愛は、そういう親の愛によく似ています(ローマ手紙3:21-27,5:6-10,8:31-32,11:30-32,エゼキエル書18:23-32。なぜなら、自分自身のふさわしさや価値とはなんの関係もなく神が愛してくださると知るまでは、「自分はふさわしいかふさわしくないか。恵みに値する私かどうか」などと自分と周囲の人間たちのことばかりを、ただ虚しく思い煩いつづけてしまうからです。それでは、いつまでたっても、神を知ることも信じることもできないからです。それまでは、いつまでたっても、神を知ることも信じることもできないからです。(3)それらは聖書によってはっきりと証言されており、救い主イエスによって、神は罪人を憐れんで救うからです。そのように救い主イエス・キリストのうちに神を知るなら、神に十分に信頼を寄せることができます。そうでなければ、神を知ることも、信じて十分に信頼を寄せて生きることも誰にも決してできません(テモテ手紙(1)1:12-16,『ジュネーブ信仰問答 問7-141542年)。さて、父ゼベダイを後に残して主イエスに従ってきたヤコブとヨハネ兄弟ですけれど、父親は後に残しながら、けれど母親は一緒に旅についてきていたことが後で分かります。後ろ盾や頼みの綱である権威者としては、その人が主イエスとの旅路に同行してくることには大いに差し障りがあります。けれど、一人の家族としてなら、主に従って生きる旅路を一緒に歩むことができるなら、それはお互いにとってとても幸いなことです。息子たちの新しい旅路に同行したあの母親はそれを自分自身で選び取ったのです。
39節、「イエスはそのまくらもとに立って、熱が引くように命じられると、熱は引き、女はすぐに起き上がって、彼らをもてなした」。汚れた悪霊たちも、「この人から出ていけ。立ち去れ」と救い主から命じられて、立ち去っていきました。義母を苦しめていた熱も、「熱よ引け」と命じられると、引いていきました。やがて湖の上では、「波よ風よ、鎮まれ」と命じられて、波も風もしんと鎮まりました。「波も風もこのお方に従うではないか」(ルカ福音書8:25と弟子たちは驚いて目を見張りました。やがて、この救い主イエスのもとにあらゆるものが膝を屈め、すべての舌がイエス・キリストは主であると告白し、栄光を父なる神に帰することになります(ピリピ手紙2:10-11参照)。主イエスに信頼し、主イエスにこそ聴き従って生きることが積み重なっていきます。まず、この私たち自身から。



2019年3月18日月曜日

3/17こども説教「アブラハムへの招き」


 3/17 こども説教 使徒行伝7:1-8
  『アブラハムへの招き』
~ステパノの証言②~

7:1 大祭司は「そのとおりか」と尋ねた。2 そこで、ステパノが言った、「兄弟たち、父たちよ、お聞き下さい。わたしたちの父祖アブラハムが、カランに住む前、まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れて3 仰せになった、『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』。4 そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住んだ。そして、彼の父が死んだのち、神は彼をそこから、今あなたがたの住んでいるこの地に移住させたが、5 そこでは、遺産となるものは何一つ、一歩の幅の土地すらも、与えられなかった。ただ、その地を所領として授けようとの約束を、彼と、そして彼にはまだ子がなかったのに、その子孫とに与えられたのである。6 神はこう仰せになった、『彼の子孫は他国に身を寄せるであろう。そして、そこで四百年のあいだ、奴隷にされて虐待を受けるであろう』。7 それから、さらに仰せになった、『彼らを奴隷にする国民を、わたしはさばくであろう。その後、彼らはそこからのがれ出て、この場所でわたしを礼拝するであろう』。         
(使徒行伝7:1-8

  3節で「あなたに指し示す地に行きなさい」と神さまから命じられてアブラハムとサラ夫婦は旅立ちました。それにつづけて実は、「あなたによって地上の生き物たちは神の祝福に入れられるのだから」(創世記12:3と約束されました。つまり、アブラハムとその家族親戚、仲良しの友だちのためだけの祝福ではなくて、神によって造られたすべての生き物たちのための祝福であり、彼らをその出発点としようというとても素敵な大きな目標があるということ。また6節で、「エジプトで四百年のあいだ、奴隷にされて虐待を受ける」(創世記15:13-15という予告にもつづきがあって、その後、神さまが可哀想に思ってくださり救われて、幸せになることです。ちょっと考えてみてください。辛い嫌な思いをしただけなら、その嫌な思い出はその人たちの役に立ちません。けれどもし、そこから助け出されて、だから神に感謝し、信頼し、神さまにこそ聴き従って生きるようになったのなら、それはその人たちを支え、生き方を導く大きな背骨になります。さあ、いいですか。特に旧約時代には、(1)奴隷の家エジプトから助け出されたことと、(2)遠いバビロンの土地に連れ去られて、けれど神さまが可哀想に思って下さり、故郷へ連れ戻してくださったこと。この2つをよくよく覚えているようにと教えられつづけました。神さまに感謝し、信頼し、よくよく聴き従って生きるようにと。そうしたら、次々と困ったことや心細い恐ろしいことが起こっても大丈夫で、いつ、どんなに困ったことが起こっても、それでもいつも嬉しい気持ちで、安心していられるからです。





3/17「権威と力をもつ者」ルカ4:31-37


             みことば/2019,2,17(受難節第2主日の礼拝)  206
◎礼拝説教 ルカ福音書 4:31-37                         日本キリスト教会 上田教会
『権威と力によって』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
4:31 それから、イエスはガリラヤの町カペナウムに下って行かれた。そして安息日になると、人々をお教えになったが、32 その言葉に権威があったので、彼らはその教に驚いた。33 すると、汚れた悪霊につかれた人が会堂にいて、大声で叫び出した、34 「ああ、ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。35 イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。すると悪霊は彼を人なかに投げ倒し、傷は負わせずに、その人から出て行った。36 みんなの者は驚いて、互に語り合って言った、「これは、いったい、なんという言葉だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じられると、彼らは出て行くのだ」。37 こうしてイエスの評判が、その地方のいたる所にひろまっていった。              (ルカ福音書 4:31-37)
 
 救い主イエスはふたたびガリラヤの町カペナウムに戻って、安息日には人々に神の国の福音を教えました。神の国の福音。神はどういう神であり、その神を信じてどのように生きることができるかについてです。語られるその言葉には、神からの権威があって、聴いた人々は驚きました。驚きながらも、その教えを喜んで受け入れる者もおれば、そうではなく拒んで嫌な気持ちになる者たちもいました。いつも、その正反対の二種類の反応が起こされつづけます。
 その会堂に汚れた悪霊につかれた人がいて、大声で叫びだしました。34節、「ああ、ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言いました。すると悪霊は彼を人々の中に投げ倒し、傷は負わせずに、その人から出て行きました。そこに集まっていた人々は皆が驚いて、互いに語り合って言いました、「これは、いったい、なんという言葉だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じられると、彼らは出て行くのだ」。聖書の中に「汚れた霊」「悪霊」の存在がたびたび報告され、それは悪の力をもっており、人間の中にとりついて様々な苦しみをもたらします。主イエスはそれらを何度も追い出しつづけます。主イエスが弟子たちを町や村へと遣わす際に、「すべての悪霊を制し、病気をいやす力と権威をお授けになり、神の国を宣べ伝えさせた」(ルカ福音書9:1-2と報告されています。
  32節で、「その言葉に権威があった」と報告されています。神の国の福音を宣べ伝え、それを教える権威であり、神ご自身からの権威です。やがて復活の主イエスが弟子たちを世界中へと遣わすとき、こう仰いました。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ福音書28:18-20 天の御父から授けられた権威をもって、主イエスは弟子たちを遣わします。その権威は神の国を宣べ伝えて、教える神ご自身の権威であり、聴いた人々がそれによって神を信じて生きることができる権威です。主イエスは弟子たちを励まして語りかけました、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。また、こう仰いました、「あなたがたは、わたしが語った言葉によってすでに清くされている」(ヨハネ福音書8:31-32,15:3と。その約束と共に神の言葉が語られ続け、救い主イエスを信じる弟子たちに神の真理によって自由を得させ、御心に従って毎日の暮らしを生きることができるように、御言葉を聴きつづける弟子たち一人一人を清くしつづけています。それが、キリスト教会とクリスチャンの中で起こっている出来事の中身です。
 聖書は証言しました、「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ書55:8-11と。神の言葉は、天から降る雨や雪のように地を潤して、植物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、主なる神の口から出る言葉も、むなしく神のもとに帰らない。神の喜ぶところのことをなし、神が命じ送った事を果す。主なる神が喜ぶところのことをなし、主が命じ送ったことを成し遂げる。それは、その言葉によって、神を信じる芽を人間の心に芽生えさせ、成長させ、根をその大地に張り巡らさせ、幹や枝を茂らせ、神を信じて生きるという実を結ばせることです。「私の口から出る私の言葉」と言われます。聖書の一言一言が「主なる神の口から出る神ご自身の言葉」です。それを説き明かす伝道者たちの一つ一つの言葉もまた、「主なる神の口から出る神ご自身の言葉」です。神さまがそのようにし、そのように取り扱いつづけると約束なさっているからです。神学生のとき、そのように教えられ、励まされました。ほか多くのおびただしい数の伝道者たちと共に、ぼくもそれを信じて語り続けています。生身の貧しい伝道者たちの語る説教の一言一言もまた、粗末で乏しいながら、それでもなお「私の口から出る私の言葉」とされている。神ご自身からの約束です。それならどうぞ、天から降る雨や雪のようにこの大地と人々の魂を潤して、そこに植物を生えさせ、芽を出させて、その言葉の種によって、神さまを信じる芽を人々の心に芽生えさせ、すくすくと成長させ、根をその大地に張り巡らさせ、幹や枝を葉を茂らせ、神を信じてその御心にかなって生きるという実を結ばせてくださいますように。どうぞ、よろしくお願いたしますと。
 さて、神からの権威と力は、見たり聴いたりして「ああ、そうか」とすぐ簡単に分かる場合もあれば、そうではなく、それが果たして神からの権威と力なのか、それともただ人間から出た人間の権威と力にすぎないのかがなかなか区別できない場合もあるでしょう。主イエスの弟子の一人が、伝道者としての自分自身の働きの中で神ご自身の権威と力がどのように発揮されたのか、どんなふうに実を結んでいったのかを打ち明けています、「わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった」(コリント手紙(1)2:3-5。パウロという名前の弟子で、その彼の働きの最初の頃のことです。実は、この人は人一倍有能で、口も達者で頭もよく回る切れ者でした。しかも何年も何十年も他の誰よりもよく学んで、学識もたっぷりで。ところがその町に辿り着いて神の国を宣べ伝えようとしはじめたとき、それまで味わってきた苦しいことや辛いことが積もり積もって、もうボロボロでした。本人が打ち明けているとおりに、弱くかつ恐れ、はなはだしい不安にとりつかれていました。いつもの彼なら立て板に水とペラペラペラ福音の道理を断固として、美しく格調高く、厳かに語りきかせるはずが、そうしたくても出来ませんでした。巧みな知恵の言葉など、どこを探しても何一つ出てきませんでした。すきま風のようにモゴモゴモゴモゴと、突っかかり突っかかり、しどろもどろになって喋りました。だからこそ彼自身の知恵と力によってではなく、ただただ神ご自身の知恵と力によったのだと誰にでも分かりました。つまり そのために、神さまの側で、わざわざ彼を打ち叩いて弱くし、恐れさせ、はなはだしい不安にとりつかれさせました。そんな中で、一人また一人と神を信じて生きはじめる者たちが出てきました。雨や雪に潤された大地から芽が出たようにです。さすがの彼にも、もう私のおかげでなどと口が裂けても言えません。信じたその人々も、「ご立派なパウロ大先生のおかげで、こんな私もクリスチャンになれましたあ」などと言いません。その代わりに、「全部、何から何まですっかり神さまのおかげで~す」と、皆共々に大喜びに喜び合いました。皆共々に、「人の知恵や力などによらないで、ただただ神ご自身の権威と力によって、神を信じて生きる者とされた」と喜び合いました。神を信じて生きはじめたその最初の出来事は、神への信頼として彼らの魂に深々と刻まれました。
 しかも私たちはたびたび弱くされました。恐れさせられ、はなはだしい不安にとりつかれさせられました。何度も何度も何度も。「しっかりした自分が頼りだ」と自信をもって、自分自身に信頼できるくらいでは全然足りません。だって、何が起こっても平気だと胸を張れるような、本当に心底からしっかりした人など一人もいないからです。頼りになる○○さんがいてくれるから安心だ。いえいえ、それもあんまり当てにできません。親兄弟も、誰も彼もほどほどの助けでしかありません。だって、たかだか生身の人間にすぎないのですから。強がって見せても、誰でも心細くて心配で心配で仕方がない生き物なんですから。けれど、もし神さまに十分に信頼できるなら、それなら、ついにとうとう安心です。しばらくして、あの彼がふたたびはなはだしい恐れに取り付かれたとき、するとある夜、主が彼に語りかけました、「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる」(使徒18:9-10。あなたには私が付いているじゃないかと、何度も何度も語りかけていただいて、恐れを一つ、また一つと取り除いていただいて、そのようにして、神に十分に信頼を寄せて生きるようにされてゆく私たちです。だんだんと、少しずつ。

             ◇

  「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに」と救い主イエスが私たちに命じておられます。神ご自身の権威の下に立って、神にこそ十分に信頼を寄せ、聞き従って生命を得よ。受け取りつづけよと。汚れた悪霊さえ救い主に従って、その権威に服従しました。それなら、このお独りの方を信じる私たちはどうしましょう。神を知ろうとしても自分自身の知恵や力や賢さが邪魔して、なかなか神を知ることが出来ずにいる私たちに、神は働きかけます。後の者を先にしながら。力を奪って弱くしながら、富める者を追い返しながら。賢くて知恵あるつもりだった者たちに恥をかかせながら。「偉くなりたい。誉められたい、支配したい」と渇望する人々を引き下ろして皆に仕える者とさせながら。小さな子供のようになれ、と諭しながら。この同じ主旋律が、聖書66巻をとおして響き続けます(申命記7:6-8,8:11-18,9:4-6,士師記7:2-4,イザヤ書10:12-16,マタイ福音書18:1-5,19:30,20:16,ルカ福音書1:47-55,72-79,コリント手紙(1)26-31,2:1-5,(2)12:7-10)伝道者パウロ自身にとっても、人一倍うぬぼれの強い、ついつい図に乗って高ぶりやすい優秀な彼が「誇る者は主を誇れ」と福音を告げ、ただ人にそう告げるだけでなく自分自身でもそれを「ああ。本当にそうだ」とよくよく心に噛みしめ味わうことは至難の業でした。自分自身が打ちのめされ、低く身を屈めさせられ、そこでようやく福音を語り、福音に生きる準備が整えられたのでした。その後も、高ぶる思いは折々に鎌首をもたげました。しばらく後になってから、彼はこう告白します;「主が仰った、『わたしの恵みはあなたに十分である。(神の)力は(私たち人間の)弱さの中でこそ十分に発揮される。(自分自身のおごり昂ぶりと)強さの中では、邪魔されて、なかなか発揮しにくい』と。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(コリント手紙(2)12:9)。かつては神の民でなかった彼であり、私たちです。今、神の民とされていることの本質は『憐れみを受けて、受けたその憐れみをしっかりと抱えている』ことにあります(ペトロ手紙(1)2:10)。道端に座り込んだ貧しい乞食の心です。そして、良い恵みの贈り物を受け取って喜ぶ幸せな乞食の心。これです。これが、神の国の福音に生きるクリスチャンのための「イロハのイ」です。






2019年3月14日木曜日

3/10こども説教「ステパノの証言①」使徒6:8-15


 3/10 こども説教 使徒6:8-15
 『ステパノの証言①』
                ~救い主イエスの最重要証言について~

     6:8 さて、ステパノは恵みと力とに満ちて、民衆の中で、めざましい奇跡としるしとを行っていた。9 すると、いわゆる「リベルテン」の会堂に属する人々、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤからきた人々などが立って、ステパノと議論したが、10 彼は知恵と御霊とで語っていたので、それに対抗できなかった。11 そこで、彼らは人々をそそのかして、「わたしたちは、彼がモーセと神とを汚す言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。12 その上、民衆や長老たちや律法学者たちを煽動し、彼を襲って捕えさせ、議会にひっぱってこさせた。13 それから、偽りの証人たちを立てて言わせた、「この人は、この聖所と律法とに逆らう言葉を吐いて、どうしても、やめようとはしません。14 『あのナザレ人イエスは、この聖所を打ちこわし、モーセがわたしたちに伝えた慣例を変えてしまうだろう』などと、彼が言うのを、わたしたちは聞きました」。15 議会で席についていた人たちは皆、ステパノに目を注いだが、彼の顔は、ちょうど天使の顔のように見えた。
(使徒行伝6:8-15
 
主の働き人ととして新しく立てられたステパノは「モーセと神とを汚す言葉を吐いた」と言いがかりをつけられ、議会に連れてこられました。13-14節、「この人は、この聖所と律法とに逆らう言葉を吐いて、どうしても、やめようとはしません。『あのナザレ人イエスは、この聖所を打ちこわし、モーセがわたしたちに伝えた慣例を変えてしまうだろう』などと、彼が言うのを、わたしたちは聞きました」。救い主イエスが仰ったことと成し遂げようとしたことは、このとおりです。古い神殿を打ち壊し、人間の手で造ったのではない神が造るまったく新しい神殿を三日で建てると約束し、その通りにイエスご自身が神の新しい神殿を造ってくださいました(ヨハネ福音書2:19-22,マタイ福音書26:61,27:40。この上田教会も、その新しい神殿の一つです。死んで復活なさった救い主イエス・キリストを土台として建てられた神殿であり、建物だけでなく、救い主イエスを信じるクリスチャンの体さえも神が住まう神殿とされました。この私たち一人一人もまた、神が住んでくださる神殿の一つ一つです(コリント手紙(1)3:16-17,6:6:19-20。それはまた、神を信じる人々が心を頑固にして神に従わなかったからでした。神からの律法を捻じ曲げて、ただ形ばかりの中身のない偽物の律法にしてしまったからです。ただただ人間同士のためだけの、ただ都合が良いだけの慣例にすり替えてしまったからでした。「そのとおりか」と議会で問われて、ステパノの証言がいよいよ始まります。


3/10「つまずく人々」ルカ4:22-30


             みことば/2019,3,10(受難節第1主日の礼拝)  205
◎礼拝説教 ルカ福音書 4:22-30                       日本キリスト教会 上田教会
『つまずく人々』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
4:22 すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、「この人はヨセフの子ではないか」。23 そこで彼らに言われた、「あなたがたは、きっと『医者よ、自分自身をいやせ』ということわざを引いて、カペナウムで行われたと聞いていた事を、あなたの郷里のこの地でもしてくれ、と言うであろう」。24 それから言われた、「よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。25 よく聞いておきなさい。エリヤの時代に、三年六か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった際、そこには多くのやもめがいたのに、26 エリヤはそのうちのだれにもつかわされないで、ただシドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。27 また預言者エリシャの時代に、イスラエルには多くのらい病人がいたのに、そのうちのひとりもきよめられないで、ただシリヤのナアマンだけがきよめられた」。28 会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ち、29 立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした。30 しかし、イエスは彼らのまん中を通り抜けて、去って行かれた。   (ルカ福音書 4:22-30)

 救い主イエスは、自分の故郷であるナザレ村の礼拝堂で、聖書を読み上げ、その説き明かしをしました。主の恵みである福音を告げ知らされる相手には、この時ばかりではなく、いつもはっきりした特徴があります。貧しい人々、囚人、目が見えない人、打ちひしがれている者たち。あの故郷の人々は貧しい人々そのものであり、牢獄に囚われている囚人であり、目が見えない人であり、背負いきれない重荷を負わされて打ちひしがれている者たちです。あの彼らばかりではなく、今日ここに集められた私たち自身こそがとても貧しい人々そのものであり、牢獄に囚われている哀れな囚人であり、目が見えない人であり、背負いきれない重荷を負わされて打ちひしがれている者たちです。神の国の福音を差し出され、神さまからの恵みを受け取るべきこの私たち一人一人は、だからこそ同時に、罪深さと悲惨さを抱えもった、憐れまれるべきとても惨めで可哀想な存在でもあります。救い主イエスは、「罪人を救うために世に来られた」(テモテ手紙(1)1:15、マタイ福音書1:21からです。その自分自身の罪と悲惨さを認めることは、苦しく、また自分の性分にも合わない、とても気に入らない嫌なことでもあります。
 だからこそ、「無学で貧しい大工ヨセフの子にすぎないのに、どうして」22節)と彼らは救い主を見下しながら驚き、「自分の故郷の私たちには、他の人々に対してよりももっと親切に、多くの幸いを与えてくれるだろう。その権利がある」23節)などと思い上がってもいました。つまり、自分が貧しいなどとは少しも思っていませんでした。物質的にも精神的にも、かなり豊かで、優れていて、格式も高くて立派だと思い込んでいたのでしょう。彼らの密かな自尊心がかなり傷つけられました。こうして神の国の福音を聴く人々の中にはいつも二種類の反応が呼び起こされます。「ワァ~嬉しい」と大喜びで喜ぶ者たちと、もう一方には嫌な気持ちになって顔を背ける者たちと。なぜなら、告げ知らされる救いの言葉は貧しい人々には福音の良い知らせ、けれどその同じ知らせが豊かな者には何の意味もないからです。重い病気を患っている人々には格別に良い医者からの薬、けれど自分は正しくて健康でと思い込み、言い張りつづけている人々にはいつまでもただ虚しい戯言として聞き流されつづけます。この自分自身こそが「貧しく、大切なものが見えておらず、罪深さと肉の欲望、腹の思いにがんじがらめに縛られ、その牢獄に囚われている。ああ本当に」と気づくことから、そこから、この私たちのための恵みのときが始まっていきます。さらに救い主イエスは語り続けます。24-27節、「よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。よく聞いておきなさい。エリヤの時代に、三年六か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった際、そこには多くのやもめがいたのに、エリヤはそのうちのだれにもつかわされないで、ただシドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。また預言者エリシャの時代に、イスラエルには多くのらい病人がいたのに、そのうちのひとりもきよめられないで、ただシリヤのナアマンだけがきよめられた」。旧約聖書の時代の二つの実例を出して、彼らの思い違いについて、主イエスはさらに説き明かします。まず預言者エリヤの時代にイスラエル全土に3年6ヶ月に及ぶ飢饉が起こり、皆が飢え乾き、大きな苦難を味わった。けれどイスラエルの多くの未亡人たちがいたのに、その誰でもなく、どのユダヤ人でもなく、外国人の一人の未亡人だけが神の憐れみに預かった。また預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病にかかった多くの人がいたのに、そのユダヤ人の誰一人も癒されず、ただ外国人の一人の人だけが癒された(列王記上17:9,列王記下10:10参照)。要点は明らかです。自分たちは神の民イスラエルであり、神を信じて生きている。しかも偉大な預言者であるらしい救い主イエスの故郷の人間たちだ。だから当然、恵みをたくさん受け取る権利があるなどと思い込んでいました。とんだ大間違いです。もしかしたら今日のクリスチャンも、この私たち自身も、全く同じ心得違いをしているかも知れません。
 大切なことを、ここでお話しておきましょう。もし神を信じて生きていきたいと願うのならば、神さまに十分な信頼を寄せる必要があります。そのために知るべきことは二つです。(1)神には何でもでき、しかもまったく善意のお方であること。さらに、(2)神が私たちを愛し、助けと支えを贈り与えつづけてくださるとしても、そうしていただくだけの価値が私たち自身には何一つもないということです。ふさわしくない、価しない私たちなのに、にもかかわらず愛していただき、助けと支えをいただきつづけているということ。この両方ともがよく分かっていなければ、神に十分に信頼を寄せることができません。「価値がない。ふさわしくない」。言い換えれば、「私たち自身に価値があるのかないのか、ふさわしいかどうかとは何の関係もなく」、神は愛し、助け、支えてくださる。これなら受け入れることができますか。皆さんは、父さん母さんからどんなふうに愛されてきたでしょうか? また、自分の子供たちをどんなふうに愛してきましたか? お腹を痛めて産んだ、苦楽を共にして一緒に暮らして愛しつづけてきた我が子なので、だから愛しています。そのように、親がその子を愛するようにです。その子が親孝行で老後の面倒をよくみてくれるかどうか、素直で優しい、仕事もできる優秀な子なのかどうかと関係なしに、なにしろ手塩にかけて養い育ててきた愛する子供なのでと。私たちを愛する神の愛は、そういう親の愛によく似ています(ローマ手紙3:21-27,5:6-10,8:31-32,11:30-32,エゼキエル書18:23-32。なぜなら、自分自身のふさわしさや価値とはなんの関係もなく神が愛してくださると知るまでは、「自分はふさわしいかふさわしくないか。恵みに値する私かどうか」などと自分と周囲の人間たちのことばかりを、ただ虚しく思い煩いつづけてしまうからです。(3)それらは聖書によってはっきりと証言されており、救い主イエスによって、神は憐れんで私たち罪人を救うからです。救い主イエス・キリストのうちに神を知るなら、神に十分に信頼を寄せることができます。そうでなければ、神を知ることも、信じて十分に信頼を寄せて生きることも誰にも決してできません(『ジュネーブ信仰問答 問7-141542年)。これこそが、あの故郷の人々が救い主イエスを軽んじたり、あなどったり腹を立てたり、はなはだしい不信仰に陥ってしまった理由であり、その中身です。また私たちが、「信じている。信じている」と言いながら、なお度々不信仰に陥って、十分に神に信頼を寄せることができなくなって、その結果、心細くなったり惨めになったりしつづけている理由と中身も同じです。ここです。ここが、神を信じて生きることの肝心要の急所です。
  貧しい人々、囚人、目が見えない人、重すぎる重荷を背負わされて打ちひしがれている者たちに、神の国の福音が告げ知らされ続けます。これまでもそうでした。今も、これからもそうです。貧しい人のその貧しさは、『乞食』の心です。ボロを着て地べたに座り込んで、明日の食べ物にも事欠いて、「哀れな乞食にお恵みを~」などと施しを求めます。自分の力や甲斐性など当てにできません。神さまからの憐れみと恵みだけが頼りです。そのへりくだった低い心こそが、「ありがとうございます。ありがとうございます」と神さまからの良い贈り物を受け取らせます。牢獄に囚われている囚人のその牢獄は、魂の牢獄です。欲望や肉の思い、自分の腹の思いという牢獄です。まわりの人たちからどう思われるだろう、どう見られているだろうかと評判や世間体を気に病み、自分自身とまわりにいる人間たちのことばかりウジウジクヨクヨと思い煩いつづける牢獄です。目が見えない人は、心細く惨めな暗闇の中をさまよいつづけています。本当のものは何なのか、何があれば満たされて幸せになれるのかが分からずにいます。それは心の目のことです。惑わせるものに取り囲まれて、ぜひとも見るべきものが見えなくされています。打ちひしがれている者たちとは、背負いきれない重荷を負わされて、その重荷で今にも押しつぶされそうになっている者たちです。だからこそ、「すべて重荷を負うて苦労している者は来なさい」(マタイ福音書11:28)と招かれるのです。どこに住んでどんな暮らしぶりの何をしている、どんな人であっても構わない。けれど、背負いきれない重荷を背負わされ、今にも押しつぶされそうにうなっている者たちです。もし、そうでもなく、何も困っていないなら、ちょうどいい荷物をラクラク持ち運んでいるだけなら、別に、来ても来なくてもどっちでもいいと言わんばかりに。なぜでしょう? なぜなら「わたしのもとに来なさい」と神が私たちを招くのは、私たちを休ませるためだからです。私たちの重荷を降ろさせてあげたいからです。救い主イエスのもとにやって来た牛たち馬たちよ。ここは、《すべて疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物は軽い》という王国です。もちろん私たちは主イエスのクビキを負っています。主イエスの荷車を引いて歩いています。それぞれの荷車には、《主イエスが十字架にかかって、死んで復活してくださった。それは私の救いのためだった》という荷物が載せられています。《私の罪をあがなうために、主は十字架を負ってくださった。私の罪のゆるしと救いをこの方こそが約束し、保証してくださっている》という荷物が載せられています。だから軽いのです。この私自身の罪深さという荷物。悲しみという荷物。心配事や悩みや思い煩いという名前の様々な荷物。「だめな私だ。どうしようもない私だ」という卑屈さや自責の念や後悔という荷物。「失敗したり、間違ったところを人に見せてはいけない。弱いところも愚かなところも見せてはいけない」という荷物。さまざまな使命や責任や役割という名前の荷物。それら一切、今では主なる神ご自身が私の代わりに背負ってくださっている。だから軽いのです。救い主イエスご自身がはっきりと太鼓判を押してくださっています、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。おさらいです;(1)神には何でもでき、しかもまったく善意のお方であること。さらに、(2)神が私たちを愛し、助けと支えを贈り与えつづけてくださるとしても、そうしていただくだけの価値が私たち自身には何一つもないということです。ふさわしくない、価しない私たちなのに、にもかかわらず愛していただき、憐れんで助けと支えをいただきつづけているということ。(3)聖書によって、救い主イエスを知ることによって神を知る。その神は、罪人を憐れんで救う神です。神さまに全信頼を寄せて生きることを、この私たちはだんだんと習い覚えてゆく私たちです。

              ◇

  28-30節、「会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ち、立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした。しかし、イエスは彼らのまん中を通り抜けて、去って行かれた」。人々はみな憤りに満ちて、イエスを町の外へ追い出し、丘のがけまでひっぱって行って突き落そうとしました。彼らの罪深さがすっかりあばかれてしまったからです。それは、救い主をさえ殺してしまいたくなるほどの激しい怒りとして燃え上がりました。故郷の人々のように、また弟を殺したカインのように、この私たちもまた隠していた罪深さをあばかれて、激しい怒りに顔を伏せるときがあります。何度も何度も。そのとき、こう語りかけられます、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」(創世記4:6-7罪が私たちを慕い求めて、私たちを待ち伏せしています。しかももちろん、それを治めたり飼い慣らしたりなど誰にも決してできません。だからこそ、苦々しい思いを噛み締めてうつむくとき、私たちは顔を上げねばなりません。そのときこそ顔を上げて、ゆるしと憐れみを求めて、神さまにこそ助けを願い求めねばなりません。今度こそ本気になって、心を絞り出して。