3/20 こども説教 ルカ福音書3:15-20
『水と聖霊と火で』
~洗礼者ヨハネ.(3)~
3:15 民衆は救主を待ち望んでいたので、みな心の中でヨハネのことを、もしかしたらこの人がそれではなかろうかと考えていた(*)。16 そこでヨハネはみんなの者にむかって言った、「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。17
また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。18 こうしてヨハネはほかにもなお、さまざまの勧めをして、民衆に教を説いた。(ルカ福音書 3:15-18)
洗礼者ヨハネは、「罪のゆるしを得させる悔い改めの洗礼」を宣べ伝え、またその洗礼を施していました。この彼の後につづいて、キリストの教会もまったく同じに、「罪のゆるしを得させる悔い改めの洗礼」(3節)を宣べ伝え、またその洗礼を施しつづけています。「罪」とは、神さまにも人さまにも逆らいつづけて、「私が私が」と強情になることです。「罪のゆるし」は、そういう強情さを拭い去っていただいて、ワガママ勝手さや自分自身の強情さの言いなりにされないようにしてもらうことです。そのために、自分自身やまわりの人間たちのことばかり思い煩っていた人間が、心の思いもあり方も神さまへとグルリと180度、向き直らせていただかねばなりません。それが、「悔い改め」です。とても難しいことで、しかも人間はとても頑固にできていますから、自分自身ではなかなか出来ません。じゃあ、どうしたら出来るのか。神さまご自身がしてくださるので、どんなに頑固な人でも、どんなにワガママで自分勝手な人にでも、神さまへとグルリと向き直って生きることができるのです。それは、とても晴れ晴れとした素敵な生き方です。洗礼を受けた日から、そういう新しい人生が始まっていきます(ローマ手紙6:1-23,同8:1-39,同10:1-13)。
16節でヨハネは言います、「わたしは水でお前たちに洗礼(=せんれい。バプテスマ)を授ける。私よりも力のある方がおいでになって、この方が、聖霊と火とによってお前たちに洗礼をお授けになるであろう」。これこそが、キリストの教会で2000年もの間ずっと起こっている、起こりつづけている、最も大切な出来事です。まず洗礼の出来事を説明しています。私たち人間が『ごく普通の水道の水』を用いて洗礼を授ける。そこに直ちに救い主イエスが『聖霊と火』を用いて、洗礼を確かな中身と生命のある十分な神さまの現実としてくださる。聖晩餐のパンと杯も同じです。「ただの儀式だろう。形だけのことだろう。そんなことをして何になる。だから何だっていうのか」と馬鹿にしたり、見下す人々も大勢いるでしょう。今までもそうでした。これからもそうです。主イエスを信じる信仰によってしか、神さまご自身のお働きを見ることも受け取ることもできないからです。洗礼がそうであり、聖晩餐のパンと杯がそうであるなら、キリスト教会と一人一人のクリスチャンの、いつもの毎日の働きも皆全部、それと同じです。ごく普通の私たちが、貧しさも弱さもだらしなさもワガママ勝手さも頑固さも抱えながら、けれど主イエスを信じて、願い求めながら働くとき、その一つ一つの働きを神さまがご自分の働きとして用いてくださって、よい働きとしてくださいます。それが、信じて生きる私たちのための神さまからの約束なのです。「種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである」(コリント手紙(2)9:10-11)。
【割愛した部分の補足】
(*)15節「民衆は救主を待ち望んでいたので、みな心の中でヨハネのことを、もしかしたらこの人がそれではなかろうかと考えていた」;かつても今も、目に見えない神さまを見えないままに信じつづけることは難しい。それで私たちは、『素敵そうに見える生身の人間』を、ついつい神を信じることの代用品としてしまう。そのほうが分かりやすい。そのほうが手軽で便利だし。「はるかに優れたかたが後から来る。私は、その彼の靴紐を解く値打ちもない」(16節)とヨハネ自身が彼らの誤りを修正しようとするが、人々は聞き入れようとしない。私たちの周囲にも、洗礼者ヨハネのような『燃えて輝くつかの間の灯火』のような素敵な人物たちがいるだろう。マザーテレサ、キング牧師、八重の桜、花岡青洲の妻、塩狩峠の青年、ほか色々。私たちも、その灯火で、ほんのつかの間楽しもうとするかも知れない。そのあまりに、神ご自身を脇へ脇へと押しのけ、神を捨て去ろうとするかも知れない。それこそが、陥りやすい典型的な偶像崇拝である。この聖書的な最初の事例は、金の子牛事件だった(出エジプト記32:1-)。偉大な指導者モーセが40日40夜、長期出張した。人々は、「モーセはもう帰って来ないかもしれない。どうしたらいいだろうか。これからは誰に信頼し、誰を頼みの綱としたらいいのか」と思い悩み、金の子牛の像を作った。「今日からは、これが我らの神だア」と高らかに宣言し、彼らはほしいままにふるまった。「モーセがいなくなったから新しい指導者を立てよう」ではなく、「新しい神さまを造っちゃおう!」。やがて長い歳月がすぎた後で「他の国々と同じく私たちにも人間の王が欲しい」と人々が願ったとき、神は苦々しく答えた。「彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしたように、あなたにもしているのである」(サムエル記上 8:7-8)。今日のキリスト教会でも、それは大いに有り得る。主なる神を捨て去って他の神々、他の人々に仕えてしまう虚しく愚かな反逆を、私たちは警戒し、恐れつづけねばならない。
★★★ 礼拝予告 ★★★
3月27日(日)『心を騒がせるな』
ヨハネ福音書 14:1-3
4月3日 『道、真理、生命』
ヨハネ福音書 14:4-6
10日 『死んで、それで終わりではない』
テサロニケ手紙(1) 4:13-5:10
17日 『明日も分からない生命?』
コリント手紙(1) 15:17-33
24日 『無から有を呼び出す神』
ローマ手紙 4:17-25
5月1日 『生きるにも死ぬにも』
ローマ手紙 14:4-9
8日 『私は動かされない』 詩 16:7-11