2019年8月26日月曜日

8/25こども説教「神の霊が贈り与えられて」使徒10:44-48


 8/25 こども説教 使徒行伝10:44-48
 『神の霊が贈り与えられて』
             ~外国人のための救い④~

10:44 ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞い ていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。45 割礼を受けている信者で、ペテロについてきた人たちは、異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。46 それは、彼らが異言を語って神をさんびしているのを聞いたからである。そこで、ペテロが言い出した、47 「この人たちがわたしたちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、だれがこばみ得ようか」。48 こう言って、ペテロはその人々に命じて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けさせた。それから、彼らはペテロに願って、なお数日のあいだ滞在してもらった。(使徒行伝10:44-48

 アブラハムとサラ夫婦と、その子供たち孫たち、その親戚一同などをユダヤ人と言い、神の民とされたイスラエル人と言います(注)。聖書の神さまはそのユダヤ人のためだけの神だと、人々はずっと長い間、思い込んでいました。そう教えられ、習い覚えてきたからです。でも、その教えは間違いでした。
ユダヤ人ではなかった外国人でも、どこの誰でも、神を信じて生きることができます。神さまがそのように、彼らをあらかじめ選んでおられました。ペテロの説教を聞いている途中で、神の霊がくだって、彼らの中に留まりました。すると彼らは神を信じ、神の子供たちとされました。「あれれ?」と思いましたね。私たちが知っているいつものやり方や順番と少し違うことがされました。全部すっかり語ってからではなく、「語り終えないうちに」。聴いた人たちのうちの何人かではなく、「聴いていたみんなの人たちに」。神の霊が贈り与えられ、信じる者たちとされ、それを見て「洗礼を授けた」。「神を信じ、神の子供たちとされたからには、洗礼を授けなければならない」と気がついて、大急ぎで洗礼も授けられました。いつもと違う順番です。みな、とても驚きました。けれど、「ユダヤ人ではないぞ」とか「順番が違う」などと文句を言う人は誰もいません。なにしろ神さまご自身が彼らを神の子どもたちとなり、神を信じて生きるように選び取ってくださいました。ですから私たちは、神さまにこそ従わねばならないからです。これで、誰でも分かります。どこの誰でも神を信じて生きることができる。神さまご自身がそうしてくださると。

(注)出エジプト記12:38「また多くの入り混じった群衆」「種々雑多な人々もこれに加わった」「さらに多くの入り混じってきた外国人と」など。血筋ではなく信仰の共同体であり、この神を信じて生きる人々こそが『神の民イスラエル』と呼ばれる。さらに遊女ラハブ、ルツ、ギベオン人らがこの群れに加わってくる。創世記12:1-3で約束されていたとおりに。



8/25「多くゆるされたので、多く愛することができる」ルカ7:36-50


                      みことば/2019,8,25(主日礼拝)  229
◎礼拝説教 ルカ福音書 7:36-50                         日本キリスト教会 上田教会
『多くゆるされたので、
多く愛することができる』



牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 7:36 あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。37 するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、38 泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。39 イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」。40 そこでイエスは彼にむかって言われた、「シモン、あなたに言うことがある」。彼は「先生、おっしゃってください」と言った。41 イエスが言われた、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。42 ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。43 シモンが答えて言った、「多くゆるしてもらったほうだと思います」。イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。44 それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。45 あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。46 あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。47 それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。48 そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。       (ルカ福音書 6:22-23)

  救い主イエスが食事の席についているとき、神に逆らい、「自分が自分が」と言い張りつづけて生きてきた一人の罪深い女性が入ってきました。彼女は主の足元に近寄り、泣きながらその足を自分の涙で濡らしはじめ、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗りました。長い旅路を歩んできて、主イエスの足は疲れ、土埃と泥に汚れていました。イスラエルの土地一体は乾燥して埃っぽい地方でしたから、その当時も今も、旅人の足を水で洗ってあげることが格別なもてなしとされます。彼女は水ではなく、自分の涙で主の足を洗い、足に接吻し、自分の髪の毛で主の足の泥をぬぐいました。彼女は、主イエスを愛し、とても大切に思っていました。その愛には理由がありました。いいえ、むしろ愛さずにはいられなかったのです。
 39-43節です。主イエスを家に招いたパリサイ人のシモンは、心に思っていました;「彼女は罪深い女だ。あんな悪いことも、こんな恥ずかしいこともしている。神さまにも世間の人々にも顔向けできない、価値のないつまらない汚れた存在だ。それなのにこのイエスという方は、自分にふれている女が誰でどういう人物なのか気がつかないのだろうか。それじゃあ、預言者失格だな」。「それは罪の女なのだ」と考える彼はもちろん、それと一組にして「けれど自分こそは信仰深く正しく立派な人間だ」と堅く思い込んでいます。そのようにあの彼も、神の義も憐みも知らず、ただ自分の義を立てようと努めるばかりで、神の義に背きつづけます(ローマ手紙10:1-4参照)。そこで主イエスは、たとえ話で語りかけます。41-43節、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。シモンが答えて言った、「多くゆるしてもらったほうだと思います」。イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。
 44-46節。この女の姿に照らして、あなたは自分自身を振り返ってみなさい、と主イエスは促しています。「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。彼女は主なる神さまを多く愛しており、その主をとても大切に思っている。主を愛さずにはいられないこの一人の人を見なさい。あなた自身を振り返って、あなた自身の姿と普段のいつものあり方をつくづくと見てごらんなさい。
  すべての人間は罪深く、ほかの誰に対してよりも何しろ神ご自身に対して大きな負い目があります。その罪を、聖書は『借金』と言い表しました。神が私たちの罪をゆるす。それは、あまりに気前のよい金持ちが、自分に多くの借金をしている者たちに同情して、あわれんで、その借金をすべて帳消しにしてやることに似ています。罪のゆるしは、神さまから私たちへの借金帳消しの恵みだったのです。「イエス・キリストは罪人を救うために世に来られた」(テモテ手紙(1)1:15)と聖書は証言します。それは「救い主イエスは、神に対して莫大な借金を負っている私たちのその借金を帳消しにしてくださるために、来られた」ということです。じゃあ、あなたは、いくらくらい神さまに借金しているでしょうか? 500日分の労働賃金(=500デナリ)? それとも、ほんの1日分か2日分の労働賃金(=1デナリか、2デナリくらい)でしょうか? あるいは「神に対しても人様に対しても、私には何の負い目もない」と答えましょうか。「どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」と問われました。つまり、どちらが多く主なる神さまを愛するか。帳消しにしてもらった借金の額の多い方です。多くをゆるされた。だからその結果、あの彼女は多く愛する。「愛しなさい」と命じられても、「愛するべきだ」と教えられても、私たちは愛することなどできません。それは理屈ではなく、知識でもなく、責任でも義務でもないからです。
 なぜなら兄弟たち。あのパリサイ人のシモンだって、主イエスと出会いたいと心の底では願っていたからです。神はどんな神なのかを、あのシモンはすでに聞いていました。人間はみな罪深い、とも教わってきました。そこまではあの彼にも理解することができ、受けとめることができたのです。「なるほど一般論としては分かる。それはそうだろう」と。けれど残念なことにシモンは、この自分自身がとてもとても罪深く、この自分もまた主なる神さまに対してあまりに沢山の借金を負っている、とは知りませんでした。多くの借金を帳消しにしていただいている、とも知りませんでした。主なる神さまがこの自分をさえあわれんでくださったことも、あわれみを受けた自分であることも、あの彼は知りませんでした。信仰深くとても正しい私だと思うばかりで、そんなこと思ってもみませんでした。この信仰は、『多くの借金をすべて帳消しにしていただいた。皆がそうだというだけではなく、この私こそが本当にまったくそうだ』と知る信仰です。
 さて、主イエスに香油を注ぐことには、意味がありました。別の福音書では主イエスご自身が直々に説き明かします、「この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」(マタイ福音書26:12-13。神さまが私たちを多く愛し、多くゆるしてくださったことは、御子である救い主イエス・キリストが私たちのために死んで復活してくださったことによって分かります。そのようにして神は私たちに対する愛を示されたからです。父なる神がご自身の御子をさえ惜しまず私たちすべての者のために死に渡し、葬ってくださったことによって分かります。だからこそ御子だけでなく、御子イエス・キリストと共に万物をも贈り与えてくださらないはずがないと(ローマ手紙5:8,8:31-32。御子キリストの死と葬りと復活によって、この私もまたたしかに神さまから多く愛され、多くゆるされていると知ります。
 たとえ主イエスを信じる信仰が私に足りなくても、主を愛する愛が私に乏しくても、ゆるすことも受け入れることも少ない私だとしても、身勝手で心の狭い冷淡な私であるとしても、それでもなお主は、そんな私をさえ愛してくださっている。私たちのための神の愛が、いつ、どんなふうに注がれたのかを、聖書ははっきりと証言しています。それは、私たちが弱かったときにです。信じる信仰がなお乏しく、不確かであったとき、神に逆らいつづける罪人であり、神の敵でさえあったときに、すでに神は私たちを愛したのです。イエス・キリストによってその愛が決定的に示されています(ローマ手紙5:5-)
 兄弟たち。神の民とされたイスラエルは、たびたび手痛い打撃を受け、瓦礫の中に放り出されました。この私たちは、どうやって立ち上がるでしょうか。どうやって、ふたたび平和を、慰め深い心強い生活を取り戻すでしょうか。私たちは。私の夫や妻は。息子や娘たちは、どんなふうに新しい一歩を踏み出してゆけるでしょうか。神の民である私たちにとって、それは、聖書に養われた世代が育つかどうかにかかっています。例えば聖餐式のとき、なぜ私たちは主の食卓からパンを食べ、主の杯から共々に飲み干すのか。「あなたは取って食べなさい。これは私の体である」と命じられているからです。「この杯から飲みなさい。私の血による新しい契約である」と命令されているからです。「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」(コリント手紙(1)11:27-29)とも戒められていますから、だから私たちは自分自身をつくづくと振り返って確かめてみます。この自分はいったい何者なのか。あまりに罪深い。このような恵みを受け取るのに値しない、まったくふさわしくない私。その通りです。しかも、そんなことを百も承知の神さまが、よくよく分かったうえでそのあなたや私を招いてくださっている。それならば、キリストの教会とその兄弟姉妹たちと、また自分自身とを、この私たちはいったいどう取り扱うことができるだろうか。どうやって慎み弁えていようかと本気になって思い悩み、考え込むこともします。自分自身に対する裁きを飲み食いするばかりでなく、命と幸いを受け取りつづけるために、どうやってこの一日一日を暮らしていこうかと。
  目の前に聖晩餐のパンと杯があってもなくても、家にいても学校や職場にいても道を歩いているときにも、誰といっしょのときにも、ただただ主の御心にかなうことをなしたいと願い、御心に背くことを決してしないでおこうと肝に銘じているからです。キリストの律法をもっているからですし、その律法にこそ従って生きてゆこうと腹をくくっているからです。なにしろ私たちは、ゲッセマネの園での主イエスの祈りの格闘をさえ詳しく告げ知らされ、自分自身の魂によくよく刻み込んでいるからです。もちろん私たちもまた生身の、自己主張があまりに強すぎる人間に過ぎません。他の人たちとだいたい同じように、「好きだ嫌いだ。~したい、したくない」と自分自身の気分や好き嫌いを先立てたくなります。ですから、そこからいよいよクリスチャンとしての悪戦苦闘が始まっていきます。

            ◇

「思いやり深く、寛大で、心やさしい目で人を温かく受け止めてあげることが私にはどうしてかなかなか出来ない。どうも苦手だ。ついつい他人を冷淡に厳しく評価し、欠点をあげつらい、不平不満を言い立てたくなる。どうして私はこういう人間なんだろうか」と、悩んでしまいます。まるで、ほんのわずかしか愛されず、ほんのわずかしかゆるされてこなかった人のように、物寂しく傲慢な気分に取りつかれつづけるのは、いったいどういうわけなのかと。どうして私たちはあの女性のようではなく、度々くりかえしてパリサイ人のシモンのようなのでしょうか。実は、それにははっきりした理由があります。あの女性と同じくらいに、とても多く愛され、ゆるしがたい多くの罪と咎をゆるされつづけてきた私たちです。だから本来ならば、どこの誰をもとても多く愛し、どこまでもどこまでもゆるすことができるはずの私たちです。けれど、ゆるされたことも愛されたこともすっかり忘れてしまいました。おかげで、心がかたくなになり、冷え冷えとし、了見がとても狭く貧しくなりました。神の憐みのもとへと立ち返るためには、愛され、ゆるされてきた一つ一つを思い出すことです。聖書は語りかけます、「わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを墓からあがないいだし、いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもってあなたを飽き足らせられる。こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる」(詩103:1-5。主から与えられたすべての恵みを、私たちはなんとしても心に留めねばなりません。せっかく与えられてきた主なる神さまからの恵みを、この自分自身が受け取るためにです。すでに十分に与えられてきた良いもので満ち足り、喜び祝い、感謝にあふれるためにです。あのとき、あの罪深い一人の女性は、実は、与えていたのではなく、受け取っていたのです。貧しく膝を屈めながら、なお豊かに満たされました。涙を流しながら、自分のために注がれていた主の涙を思い起こしました。注がれていた主のあわれみによって、自分の足も手も頭も全身すっかり洗っていただいたのでした。身をかがめて足の泥をぬぐってあげたとき、自分もまた、そのように罪深さもいたらなさも、貧しさも汚れも拭っていただいたことを思い起こしました。しもべのように身を低くかがめて下さった主と、そこで、そのようにして出会ったのです。主への感謝と、主への信頼と、主イエスへと一途に向かうはずの願いを、そこで、しみじみと噛みしめていました。
  48節で、「あなたの罪はゆるされた」。神に逆らって生きることが罪の中身です。ですから、神に逆らうことを止めて、神の御心と指図に素直に従って生きはじめることが救いの中身です。彼女も私たちも、それができるようにしていただきました。
 主イエスはこの女の人に最後に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と。その信仰は、神さまから自分がしていただいた良いことを「あのことと、あのことと、あのことと」と、ちゃんと覚えていて、喜んで感謝している信仰です。それこそがその人を救いつづけ、幸いをもたらしつづけます。だから、この人も私たちも安心して一日ずつを暮らすことが出来ます。

2019年8月18日日曜日

8/18こども説教「救い主イエスによる救い」使徒10:34-43


 8/18 こども説教 使徒行伝10:34-43
 『救い主イエスによる救い』
~外国人のための救い③~

10:34 そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、35 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました。36 あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。37 それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。38 神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回されました。39 わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。40 しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、41 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。42 それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。43 預言者たちもみな、イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
(使徒行伝10:34-43

 神さまはどの人間に対しても、「この人は素直で真面目で良い人で。でもこの人と、この人とこの人たちは意地悪で」などと区別も分け隔てもしない。だから私たちも誰かを簡単に決めつけたり、えこひいきしたり除け者にしたり、誰かに意地悪したりせず、同じに扱うようにと教えられました。主イエスの弟子ペテロが語り聞かせた内容は、救い主イエスが神の国の福音を宣べ伝え、人々をいやしたこと。十字架の木にかけられて殺され、三日目によみがえらされ、その復活の体を人々に見せたあとで天に昇っていかれ、やがて生きている者と死んだ者を裁くためにふたたび来られること。そして43節。「救い主イエスの名によって罪のゆるしが得られること」も。「罪のゆるし」。罪は神に逆らって、「自分は自分は」と自分の考えややり方、願いをどこまでも言い張り、先立てようとすること。罪のゆるしは、「いいよいいよ。ずっと、わがままで自分勝手で良いからね」と放置されることではありません。それでは、自分も周囲の人たちも少しも幸せになれないからです。そうではなく、「罪のゆるし」は、罪の奴隷状態から自由にされ、神に逆らうことを止めて、神の御心に素直に従って新しく生きることです。主イエスを信じる者たちはそのように新しく生きることができる。これが救いの中身であり、神さまからの約束です。
 この同じ一つのことが、もう2000年もの間、ずっと同じく語られつづけています。


8/18「神の国でもっとも小さい者も」ルカ7:28,18:15-17


                        みことば/2019,8,18(主日礼拝)  228
◎礼拝説教 ルカ福音書 7:28,同18:15-17         日本キリスト教会 上田教会
『神の国で
もっとも小さい者も』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 7:28 あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。       (ルカ福音書 7:28)
                                               
18:15 イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちはそれを見て、彼らをたしなめた。16 するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。17 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。             (ルカ福音書 18:15-17)

  ルカ福音書7:28、「あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい」。そしてルカ18:17「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。これこそ、救い主イエスご自身から直々に言い渡されている最も重要な教えの1つです。他の誰々さんと比べて大きいか小さいか、中くらいか、何番目に偉いのか、人々からどう評価されるかなどというとても小さなつまらない問題ではなく、そんなことではなく 神の国に入れていただけるか、それとも門の外に締め出されてしまうのかという死活問題の、緊急事態が突きつけられています。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない。よくよく思いを凝らし、考え巡らせつづけなければなりません。

1815-17節、「イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちはそれを見て、彼らをたしなめた。するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。つまり、「身を低くかがめ、心も低く屈めて、小さな子供のように神の憐れみを受けるのでなければ、主イエスの弟子になることも神の国に入れていただくこともできない」と主イエスは仰る。しかも、すでに主イエスの弟子とされているはずの者たちに向かって。この私たちはこのままでは、主イエスの弟子になれないかも知れないし、神の国に入り損ねてしまうかも知れないと。恐ろしいことが語られています。幼子のような低さとは、弱く小さく無力であり、無防備であり、それゆえもし、支えも助けもなくただ独りで放り出されるなら生き延びてゆくこともできない。だからこそ神からの助けと支えを願い求め、確信し、神に信頼を寄せ、一途に聴き従う。これこそが、主イエスの弟子であることの根本的な性質でありつづけます。そうであるからこそ、自分自身の力や知恵や働きなどを誇り、「大きくて強くて仕事がよくできてとても役に立って、だから」と人間的な業績、取り柄や働きの多い少ないにばかり心を奪われつづける代わりに、そうではなく、ただただ神の憐れみをこそ願い求めて、受け取ることもできるのです。
  主イエスは、ご自身を信じる弟子たち同士の互いの付き合い方について警告しつづけています。「これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。小さくされた人々が主イエスのところに来ることを決して止めてはならない。邪魔してはいけない」と。「小さな一人の者」とは、ここでは、無力な小さな幼子のように身を低く屈めている主の弟子たちです。聖書は証言します、「兄弟たちよ。これらのことをわたし自身とアポロとに当てはめて言って聞かせたが、それはあなたがたが、わたしたちを例にとって、『しるされている定めを越えない』ことを学び、ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないためである。いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。あなたがたは、すでに満腹しているのだ。すでに富み栄えているのだ。わたしたちを差しおいて、王になっているのだ。ああ、王になっていてくれたらと思う。そうであったなら、わたしたちも、あなたがたと共に王になれたであろう」(コリント手紙(1)4:6-8痛いところを突かれました。ひとりの優れた大きく賢そうに見える人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないため。これが世の中の人々のほとんど全部と私たちが普段いつもの暮らしの中でお互いにいつもやっていることです。何人かの人々がいる。その中の誰かを「たいしたものだ。立派だ、すばらしい」などと誉めたり、あがめたり、尊敬したり見上げたりする。その一方で、そうでもないように見える他の誰かを「たいしたことないなあ。つまらない人だ」と見下したり、侮ったり軽んじたりしている。そうしながら、周囲の人々に対しても神さまに対しても侮り、高ぶっている。コリント教会で起きていたことは、この私たちの間でもたびたび有りつづけています。やがて同じ手紙の中で、主の弟子はこう語りかけます。「神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか」(コリント手紙(1)4:6-8,同(1)11:22。主に仕えて生きている一人の小さな者を軽んじ、辱め、侮るとき、それは直ちに、主イエスご自身と神の教会を軽んじ、辱め、侮っているではないかと。
  身を低くかがめ、心も低く屈めて神の憐れみを受けること。神を信じて生きはじめる前には、私たちは自分自身の努力と甲斐性で自分の立場を獲得し、それを強く大きく高くしていこうとあくせくし続けていました。今では、その代わりに、天の国の贈り物として生命を受け取りはじめました。神に願い求め、神から受け取り、神にこそ感謝をしながら。するといつの間にか、大きいとか小さいとか賢いとか愚かだとか役に立つとかそうでもないとか、偉いとか偉くないなどと得意になったりいじけて僻んだりする虚しさをようやく手離しはじめていました。受け取った恵みの大きさに比べて私たち自身は小さい。受け取った恵みの豊かさに比べて、私たちは貧しい。恵みの賢さ、力強さに比べて、私たちはあまりに愚かであり、弱々しく、その恵みにまったく値しない者たちであると。値しないにもかかわらず、それなのに受け取った。だから、ただただ恵みなのだと。
  身を低くかがめ、心も低く屈めて神の憐れみを受けること。神を信じて生きはじめる前には、「他人よりも偉くありたい。もっと賢く強く大きく立派な人間だと思われたい」と渇望して、周囲の人々と虚しい競争をしつづけていました。今では、その代わりに、兄弟や家族や連れ合いや友人たち、隣人たちに身を屈めて仕える者とされはじめました。その人々の益となり、互いの徳を高めるために。神さま御国の御用のためにこんな私をさえぜひ用いていただきたいと願いながら。「どちらが偉いだろう。誰がいちばん大きく賢くて役に立つだろう」と目の色を変えて競争し合い、他人よりも自分を高くあげようとして、その生臭い魂胆は、私たちの互いの結びつきやつながりを粗末で貧しいものにしつづけました。身を屈め、自分を低くし、幼子のようになるのでなければ誰も決して天国に入ることはできないと、救い主イエスご自身からキッパリと宣言されています。しかも主イエスこそが、『幸いな幼な子である』ことの手本を、それがいったいどういうことであるのかを、私たちに見せ、差し出してくださいました。十字架にかかる前の晩、ゲッセマネの園で。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と。その幸いな幼な子の心をこの私たちも贈り与えられ、子である身分と中身を受けました。聖霊なる神を受け、その御霊に導かれつづけて。聖書は証言します;「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる」(マルコ14:36,ローマ8:14-16と。神の国に入り、そこで幸いに暮らすために授けられた『幼な子の身分と中身』はこれです。そのようにしてだけ天国に入れていただけるので、私たちは同じように、小さな一人の子ども同士として、互いに守り、支え、養い合う者たちとされました。
ずいぶん昔、国を滅ぼされて遠い外国に捕虜として連れて行かれた人々が何十年も経ってようやくエルサレムの都に戻ってきました。神殿も町も打ち壊されてガレキの山です。その廃墟の中の何もない広場で、神の民はずいぶん久しぶりに礼拝をささげました。ともに祈り歌い、聖書朗読とその説き明かしを聴きました。「この日はあなたがたの神、主の聖なる日です。嘆いたり、泣いたりしてはならない。あなたがたは去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのないものには分けてやりなさい。この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ記8:9-10すべての民は去って自分たちの村に帰り、告げられたとおりに飲み食いし、食べ物の備えのない者たちには分け与えて、大いに喜びました。「これは読み聞かされた言葉を、彼らが理解し、悟ったからである」と記されています。備えのまるで全然なかった私たちが、にもかかわらず肥えた良い肉と格別な甘い飲み物に預かっている。受け取って、それを味わっている。備えのまるで全然ない、ちっとも弁えない誰かに分け与えてあげるとき、「こんな私がいただいていいんですか。本当ですか。ありがとう。嬉しい」と、その驚いたような恐縮したような、恥ずかしそうな嬉しそうな顔に見覚えがあります。それは、ほんの少し前の私たち自身の驚きであり、喜びの顔だったのです。思い起こしました。主を喜び祝うことの中身は、主への感謝です。感謝は、主が惜しみなく分け与えてくださる方であることへと深い認識であり、信頼です。あなたも私自身も今まで、何か他のことを喜んだり失望したりしてきました。自分自身や周囲の人々のあれこれを。けれどこれからは主ご自身の豊かさ、主の慈しみ深さへと思いを向け返される。主にこそ期待し、主に信頼し、主に願い求めて生きることをしはじめる。それを、この日から、ここから、改めてしはじめましょう。ずいぶん手間取り、あっちこっちで道草を食ってしまいましたが、それでもまだ遅すぎることはありません。恵みによって与えられた豊かなものの一つ一つをもって、あなたは、主を喜び祝いなさい。それこそ、私たちにとっての力と喜びの源です。力と喜びそのものです。




2019年8月12日月曜日

8/11こども説教「どんな人間をも清いとか汚れていると区別してはならない」使徒10:17-33


 8/11 こども説教 使徒行伝10:17-33
 『どんな人間をも清いとか汚れていると
区別してはならない』
~外国人のための救い②~

10:25 ペテロがいよいよ到着すると、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝した。26 するとペテロは、彼を引き起して言った、「お立ちなさい。わたしも同じ人間です」。27 それから共に話しながら、へやにはいって行くと、そこには、すでに大ぜいの人が集まっていた。28 ペテロは彼らに言った、「あなたがたが知っているとおり、ユダヤ人が他国の人と交際したり、出入りしたりすることは、禁じられています。ところが、神は、どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、わたしにお示しになりました。29 お招きにあずかった時、少しもためらわずに参ったのは、そのためなのです。そこで伺いますが、どういうわけで、わたしを招いてくださったのですか」。30 これに対してコルネリオが答えた、「四日前、ちょうどこの時刻に、わたしが自宅で午後三時の祈をしていますと、突然、輝いた衣を着た人が、前に立って申しました、31 『コルネリオよ、あなたの祈は聞きいれられ、あなたの施しは神のみ前におぼえられている。……それで、早速あなたをお呼びしたのです。ようこそおいで下さいました。今わたしたちは、主があなたにお告げになったことを残らず伺おうとして、みな神のみ前にまかり出ているのです」。   (使徒行伝10:17-33

 ペテロは、神さまによって幻を見させられました。大きな布が降りてきて、その中にいろいろな生き物が入っている。「料理してたべなさいと」声が語りかけた。「みな、神が清めてくださったものだから、これは清いとか汚れているなどと区別しないで、どれでも食べなさい」と。ユダヤ人だけでなく、どんな人間も神が清めてくださり、神を信じて生きることができるようにしてくださることを、この幻を使って神が教えてくださいました。100人の兵隊のための隊長であるコルネリオのところから使いが迎えに来て、ペテロはついて行きました。コルネリオの家には大勢の人々が集まっていました(注)28節。ペテロは彼らに言います、「あなたがたが知っているとおり、ユダヤ人が他国の人と交際したり、出入りしたりすることは、禁じられています。ところが、神は、どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、わたしにお示しになりました」。26節。家について、コルネリオがペテロの足もとにひれ伏して拝もうとしたとき、「神ではないものを拝むのは止めなさい。立ち上がりなさい。私も同じ人間です」と、とうとうペテロも、当たり前のことを、当たり前に語りかけることができました。
       (注)31節、「あなたの祈りは聞き届けられ」と、100人隊長のコルネリオに主の御使いが告げます。「ユダヤ人のための神だ」と聞いていた。けれど自分もその神を信じて暮らしたいと彼は願いつづけていました。それが彼の祈りです。自分だけでなく、家族や親戚や友人・知人たちにも、この神を信じて生きるための良いチャンスを作ってあげたい。それで誘って、大勢が待ち構えていました。また、「私たちは神の御前にいる」(33節)とはっきり彼は分かっていました。

【*本番。聖書と説教原稿をいったん離れて、
やさしい言葉だけで、できるだけ簡単に話しかけてみます】
「ユダヤ人のための神だ」と皆が思っていました。ユダヤ人も他の人たちも。けれどそれは間違いでした。もともとユダヤ人ではなかった他の国の人々を神さまが招き、神を信じる信仰を誰にでも贈り与えようとしています。
救い主イエスの弟子のペテロさんは、お昼ちかくになって皆がご飯支度をしていて、自分はおなかが空いて眠くなりました。夢を見ました。神さまが、夢で教えてくださいます。おおきな布が空から降りてきて、そこにいろいろな生き物がはいってて、「料理して食べなさい」と声が聞こえました。食べてよいものと食べてはいけない汚れたものがあると教えられていたので、困りました。「どれもみな神が清めてくださった。だから区別しないで、どれでも同じに食べなさい」。何度も何度も同じことが起こました。この夢の教えは、私たち人間のことです。神がどの人間も誰でも清めてくださる。だれでも神さまを信じて生きることができるし、だから、どの人間も区別しないで同じに扱うべきことを、神さまがこうやって教えてくださいました。その家に着いたら、皆がひれ伏してパウロを拝もうとしました。「ひれ伏して拝んでいいのは、ただ神さまだけ。私もあなたがたと同じ、ただの人間です。だから、ひれ伏したり拝んだりしてはいけません」とペテロは話しかけました。

8/11「終わりの日の希望」ヨハネ14:1-6


                       みことば/2019,8,11(主日礼拝)  227
◎礼拝説教 ヨハネ福音書 14:1-6                    日本キリスト教会 上田教会
『終わりの日の希望』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 14:1 「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。3 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。4 わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。5 トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。  (ヨハネ福音書 14:1-6)
1節、「あなたがたは心を騒がせないがよい」。救い主イエスがわざわざそう語りかけるのは、目の前にいる弟子たちが心を騒がせ、ひどく動揺し、ザワザワソワソワしつづけているからです。救い主イエスが十字架につけられて殺されてしまう、その前の晩のことです。「十字架につけられ、殺され、墓に葬られ、その三日目に墓からよみがえることになっている」と主イエスはご自分の弟子たちに繰り返し繰り返し、あらかじめ知らせていました。けれど、弟子たちはそれが本当のことなのか、またどういうことなのかを、なかなか理解することも受け入れることも出来ませんでした。本当に救い主イエスが殺され、どこかへいなくなってしまうとするなら、その後、自分たちはどうしたらいいのか。いったい何を頼りや支えとして、何にすがって生きてゆけるのかと。いよいよその時が迫って、弟子たちの心は騒ぎ立ち、激しく揺さぶられています。その弟子たちのうろたえぶりと、心細さ、惨めさ、あまりの恐れを思いやって、主イエスは彼らに語りかけます。「あなたがたは心を騒がせないがよい。ビックリしたり怖がったり心細がったりしないで安心していることが、あなたにも出来るから」と。
  「父なる神を信じ、そしてこの私を信じなさい。よくよく信じなさい」と主イエスは、すでにちゃんと十分に信じているはずのその弟子たちに、わざわざ念を押しています。そうする必要があるからです。信じているはずの信仰は、けれど他のいろいろなことに紛れてしまいやすいからです。例えばガリラヤの湖の上で小舟に乗っていて、弟子たちがアタフタオロオロした時がありました。それも2回も(マタイ8:23-27,14:22-。主イエスが小舟の片隅で眠り込んでおられたときと、そこに主イエスがおらず弟子たちだけで小舟に乗り、大波や風にあおられて舟が沈んでしまいそうになったとき。1回目、主イエスが風と湖を叱りつけると風も波も鎮まりました。「この方はどういう方なのだろう。風も湖も従わせてしまうとは」と弟子たちはとても驚きました。2回目、主イエスは水の上を歩いて弟子たちのところに来てくださいました。弟子の一人ペテロは「自分も同じように水の上を歩かせてください」と願い、「来なさい」と命じられ、歩き始めました。最初の一歩二歩くらいは、なんとか水の上を歩けました。けれどすぐに、ザブーン、ザブーンと打ち寄せる大波や強い風が怖くなり、それが気になって気になって、するとブクブクブクと沈みはじめて、危うく溺れかけました。「主よ、お助けください」とペテロは叫びました。主イエスは彼を助けて、舟に乗せ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と仰いました。だいたい皆、これくらいのものです。信じていないわけではない。けれど全然足りないし、薄すぎる。すぐに、ザブーン、ザブーンと打ち寄せる大波や強い風が怖くなり、それが気になって気になってアタフタソワソワしはじめて、するとブクブクブクと沈みはじめ、危うく溺れかける。大波が打ち寄せても、強い風が吹いても、いいえ 大波がザブーン、ザブーンと打ち寄せれば打ち寄せるほど。風がビュービューと吹き付ければ吹き付けるほど、それだけますます主イエスにこそ目を凝らさねばなりませんでした。例えば神の民とされたイスラエルの歴史も、気もそぞろなこのペテロとだいたい同じでした。信じていないわけではない。けれどその信仰は全然足りないし、薄すぎる。その証拠に、そよ風がほんの少しそよそよ吹いて、ほんのちょっと波がチャプチャプ、パシャパシャと小舟を揺らしただけで、その途端すぐ他のアレコレが気にかかって気にかかって、するとブクブクブクと沈みかける。助けてもらって、舟に乗せていただく。また心が騒いでブクブク沈みかけて、その繰り返しです。「風も波も従わせてしまうとは、この方はどういう方なのだろう」と驚きながら、何度も何度も驚きを味わいながら、それでも救い主イエスがどういう方なのかがなかなかピンと来ない。預言者たちは口を酸っぱくして、同じことを語りかけつづけました。「『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』」(イザヤ書7:4,30:15-16,出エジプト記14:13-14,116:7。もし、『私もあの彼らと似たようなものだ。信仰がないわけじゃないが足りなすぎるし薄すぎる』と気づくなら、「神さま。どうか私の信仰を増し加えてください」と願い求めることができます。「神さまによって救われ、力を得たい。格別な安らぎと確かさを私も受け取りたい」と、もし願うなら、その願いはきっと必ずかなえていただけます。しかも、この私たちも彼らと同じです。強がって見せても、誰でも本当はとても心細いのです。恐ろしいことや心配事が山ほどあって、次々とあって、あの彼らのようにたびたび激しくうろたえながら、心を騒がせ、激しく揺さぶられながら、私たちも暮らしています。小さな子供たちもそうです。中学生高校生、大学生も、世の中で働きはじめた若者たちもそうです。子供を育てている若いお父さんお母さんたちも、そればかりではなく、ずいぶん長く生きてきたはずの年配の方々も実は、子供たちや若い者たちに負けず劣らず、それぞれの心細さを抱えて毎日毎日の暮らしを生きています。 
 さて2-3節、「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、また来て、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」。このことを、よく覚えておいてください。小さな子供も、このまえ、この飛びっきりに大切な問題を質問していました。「ねえねえ、お母さん。死んだらどうなるの。どこに行くの?」。その大切な子供にもぜひ教えておいてあげなくちゃ。これが答えです。しかも主イエスご自身からの答えですから、十分に信用できます。詳しく聞き分けましょう。「わたしの父の家」。救い主イエスにとっての父は、私たちにとっても父です。主イエスを信じる私たちは、イエスをとおして父なる神さまの子供たちとしていただいたからです。だから、私たちの父の家です。そこは私たちにとっても自分の故郷であり、自分の実家であり、自分たちの家です。この父から決して忘れられることもなく、いつでも大歓迎で迎え入れられ、くつろいで安心してそこにいることが出来ます。自分たちの家なんですから。救い主イエスを信じて、ただそれだけで神の子供たちとしていただいた私たちです。ですから、神の子供たちのうちで最も弱々しい子供も、とても礼儀知らずな乱暴な子供も、神に背いてばかりいる不届きな子供も、つまりは最低最悪の、罪人の中の頭であり罪人中の罪人でさえ、その家から締め出されることがありません。「こんなつまらない、ちっぽけな私の居場所なんか無いかもしれない」などと誰も恐れたり怖じける必要もない。
  「あなたがたのために、場所を用意しに行く。行って、場所の用意ができたならば、また来て、あなたがたをわたしのところに迎える。わたしのおる所にあなたがたもおらせる」と主イエスは仰る。ビックリです。主イエスが、父の家の中に私たち一人一人の場所を用意してくださる。主イエスが迎えに来てくださり、ご自身がおられる所に私たちをもおらせてくださる。なんと何から何まで、至れり尽くせりです。「彼のところに私たちが行くのを待っている」というのではなく、迎えに来てくださり、連れて行ってくださる。最初のクリスマスの夜、一回目に主イエスがこの世界に来てくださったとき、それは私たち罪人を神の子供たちとし、神さまと共に生きる新しい喜ばしい生命を贈り与えてくださるためでした。二回目に、やがて再び主イエスが来られるとき、それは主イエスを信じて生きる私たちにとって、一回目に負けず劣らずに慰め深い出来事となります。なぜなら天にある私たちの父の家、自分の故郷、自分の実家、自分たちの家に迎え入れていただく時となるのですから。
5-6節、「トマスはイエスに言った、『主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう』。イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない』」。弟子のトマスはとても良い質問をしました。おかげで、大事な答えを聴くことが出来ました。救い主イエスが仰いました。『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない』。「救いとすべての幸いを用意して父なる神さまが待ち構えておられます。その父の御もとへと辿り着くためのただ一本の道があり、その父なる神さまを信じて幸いに生きて死ぬことが出来るために知るべき真理があり、そのようにして受け取る格別なただ一つの朽ちない生命がある。それが私だ」と救い主イエスは仰る。このことを私たちクリスチャンとすべてのキリスト教会は信じています。「だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」、つまり、主イエスという一本道を歩き、主イエスから学び、主イエスから生命を受け取り続けて生きるならば、誰でも、必ずきっと父なる神さまのみもとに辿り着くことができる。そして、用意されている救いとすべての幸いを受け取りつづける。
では、これらのことについて何と言ったらよいでしょうか。神さまが私たちの味方です。いつ? もちろんいつでもです。生まれる前から、今までも今も、死んだあとでも。それならいったい誰が私たちを困らせたり、悪さをしたり、苦しめたりできるでしょう。誰が私たちを訴えたり、「こんな悪いことをした悪い人間だ」などと悪口を言ったりできるでしょう。誰にも何一つも手出しができません。なぜ? 神さまが私たちの味方ですから。御父がご自身の独り子イエスをさえ惜しまず死に渡し、墓に葬り、三日目によみがえらせてくださったからです。その御父が御子イエスと共に私たちをも新しい生命に生きさせてくださるからです。御子イエス・キリストを贈り与えてくださった父なる神さまが、御子イエスとともに、すべて何でも私たちに贈り与えてくださらないはずがないからです。キリスト・イエスは死んで、いいえ、ただ十字架につけられて死んだだけではなくて 葬られ、その三日目に墓からよみがえって、父なる神さまの右にある王様のイスに座り、世界全部、生き物たち全部とともに私たちのためにも、力を存分に働かせてくださるからです。だからもう私たちは今でははっきり信じています。はっきりと知っています。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他、神さまに造られたにすぎないどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示され、手渡された神の愛から、わたしたちを引き離すことは決してできないのだということを(ヘブル手紙11:13-16,ピリピ手紙3:20-21,ローマ手紙 8:31-39参照)
  これで私たちも今では、湖で溺れかけたペテロよりも安心です。風も波も従わせ、私たちの揺さぶられやすい危うい心をさえ鎮めることのできるただお独りの方を、主イエスを知っているし、そのお方をこそ本気で信じてもいるからです。『生きていても死んだ後でも、なにしろ主イエスが一緒にいてくださる。一緒にいるだけでなく、ちゃんと守って助けてくだる。どこからでも何があっても、だから大丈夫』と太鼓判を押されているからです。この私たちは主なる神さまのもとに立ち返って、そこで落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば、力を得る。力を得つづける。なぜ? 主なる神さまを喜び祝うことこそ私たちの力の源であり、力そのものであるからです(イザヤ30:15-17,マタイ28:18-20,ネヘミヤ記8:10を参照)。しかも、今ではとうとう、そのように生きて死ぬことを本気で願い求めてもいるからです。なんという恵み、なんという幸いでしょう。

2019年8月6日火曜日

8/4こども説教「神が清めたものを」使徒10:1-16


 8/4 こども説教 使徒行伝10:1-16
 『神が清めたものを』
         ~外国人のための救い①~

10: 7 このお告げをした御使が立ち去ったのち、コルネリオは、僕ふたりと、部下の中で信心深い兵卒ひとりとを呼び、8 いっさいの事を説明して聞かせ、ヨッパへ送り出した。9 翌日、この三人が旅をつづけて町の近くにきたころ、ペテロは祈をするため屋上にのぼった。時は昼の十二時ごろであった。10 彼は空腹をおぼえて、何か食べたいと思った。そして、人々が食事の用意をしている間に、夢心地になった。11 すると、天が開け、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、地上に降りて来るのを見た。12 その中には、地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生きものがはいっていた。13 そして声が彼に聞えてきた、「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」。14 ペテロは言った、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。15 すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。16 こんなことが三度もあってから、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。        (使徒行伝10:7-16

 天と地とその中にあるすべてのものを造られた神さまです。その神さまからの祝福は、もちろん神さまがお造りになった天と地とその中にあるすべてのものに差し出されます。それなのに、神の民とされた先祖と私たちは勘違いをしてしまって、自分たちだけの祝福だと思い込んでいました。主イエスの弟子たちのほとんども、この頃までは同じく勘違いしていました。自分たちのためだけの神さまであり、自分たちのためだけの救いであり、祝福だと。主イエスの弟子たちも、いつの間にか心が頑固になって、神とその救いのお働きを狭く小さくしていました。ですから神さまは、ローマ帝国軍隊の中のイタリア人たちの100人の兵隊のための隊長だったコルネリオを使って、そのことを主イエスの弟子ペテロに教えさせます。教える道具はペテロが見た幻です。大きな布が降りてきて、その中には色々な生き物が入っていました。「それらを料理して食べなさい」と声が語りかけました。14-15節、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。ユダヤ人だけでなく、ほかすべての外国人も、すべての生き物たちをも、神さまが清めてくださっている。だから どの国の、どんな生まれ育ちのどんな人間でも、誰でも神を信じて生きることができる。そのことが、主イエスを信じる私たちにもはっきりと教えられようとしています。






8/4「来るべき方は」ルカ7:18-23

                みことば/2019,8,4(主日礼拝)  226
◎礼拝説教 ルカ福音書 7:18-27                      日本キリスト教会 上田教会
『来るべき方は』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 7:18 ヨハネの弟子たちは、これらのことを全部彼に報告した。するとヨハネは弟子の中からふたりの者を呼んで、19 主のもとに送り、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と尋ねさせた。20 そこで、この人たちがイエスのもとにきて言った、「わたしたちはバプテスマのヨハネからの使ですが、『きたるべきかた』はあなたなのですか、それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか、とヨハネが尋ねています」。21 そのとき、イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられたが、22 答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。23 わたしにつまずかない者は、さいわいである」。24 ヨハネの使が行ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。25 では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。きらびやかに着かざって、ぜいたくに暮している人々なら、宮殿にいる。26 では、何を見に出てきたのか。預言者か。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。27 『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。    (ルカ福音書 7:18-27)

 まず18-20節。洗礼者ヨハネはまもなく殺されます。自分に残された時間があとわずかだと知って、牢獄の中からヨハネは自分の弟子たちを救い主イエスのところへ遣わし、「来るべき方は、つまり神によって約束されていた救い主は。あなたなのですか?」と質問させました。約束された救い主がイエスご自身であると、ヨハネ自身は、そもそもの初めからはっきりと知っていました(イザヤ書40:1-5,エレミヤ書31:31-34,エゼキエル書34:1-24,マラキ書4:5他)。しかも彼は獄中にあって、自分自身の死がすぐ目の前に迫ってきています。自分が死んで世を去った後、残された弟子たちはどうなるでしょう。もし、洗礼者ヨハネという名前の一人の生身の人間に過ぎない伝道者に信頼して、その彼にだけ聞き従って生きることしかできないのならば、弟子たちは道に迷ってしまいます。あの彼も、ほかすべての伝道者も、『救い主イエスを指し示す指先』にすぎません。このことを、すべての伝道者たちとクリスチャンはよくよく分かっていなければなりません。『救い主イエスを指し示す指先』と、『指し示されている救い主イエスご自身』と。その『指先』は救い主イエスを指し示し、イエスがどういうお方であるのか、何をしてくださるのかを告げ知らそうとしています。それなのに弟子たちが、もし、いつまでたっても『指先』ばかりに目を凝らしつづけて、指し示されている救い主イエスご自身をちっとも見ようとせず、いつまでたってもイエスに聞き従おうとしないならば、その『指先』たちは神さまから委ねられた大切な役割と使命をちっとも果たしていないことになります。むなしく、むだに働いたことになってしまいます。
 洗礼者ヨハネだけではなく、ほかすべての伝道者も、『救い主イエスを指し示す指先』にすぎません。その一人の伝道者が委ねられた務めを精一杯に十分に果たしたかどうかは、どんなクリスチャンが育っていったかにかかっています。一つ一つの事柄についてどういう判断基準をもって選び取り、捨て去り、何を大事にして、どのように生きるクリスチャンが生み出されたのか。判断基準はただただ聖書であり、主イエスの福音です。神の御心にかなっているのか、そうではないのかという判断です。もし、「天に主人がおられる」とよくよく弁えて、「人間に聞き従うのではなく、神にだけ聞き従うべきだ」と腹をくくって生きるクリスチャンが育っていったならば、その伝道者はとても良い働きをしたことになるでしょう。




















グリューネバルト「イーゼンハイム祭壇画」(部分)



 洗礼者ヨハネは、そもそもの初めから、自分の弟子たちを救い主イエスのところに送り出しつづけていました。あるとき、ヨハネとその弟子たちが道を歩いていると主イエスがそこに通りかかりました。ヨハネはイエスを指さして、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。わたしのあとに来るかたは、わたしよりも優れたかたである。わたしよりも先におられたからである」とわたしが言ったのは、この人のことである。わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。「わたしは、御霊が鳩のように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。その翌日もイエスが歩いておられるのをヨハネとその弟子たちは見て、ヨハネはふたたび言います、「見よ、神の子羊」と。ヨハネの二人の弟子は、そのときからイエスについて行き、イエスの弟子とされました。そのうちの一人はシモン・ペテロの兄弟アンデレであり、アンデレは自分の兄弟シモン・ペテロを主イエスのもとに連れてきたと聖書は報告します(ヨハネ福音書1:29-42参照)
 洗礼者ヨハネは言いました、「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない。『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である』と言ったことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である。花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。彼は必ず栄え、わたしは衰える」。生身の人間であるすべての伝道者は、キリストの先に遣わされた使者です。花婿である救い主イエスこそが花嫁である私たちを迎え入れます。すべての伝道者は花婿の介添え人であり、やがてすべての者が花婿である救い主イエスの声を聴き、その声によって大いに喜ぶために働きます。花婿である救い主イエスの声を聴く者は救い主イエスを信じる者たちとされ、その花婿の声はますます大きくはっきりした声になって必ず栄えてゆきます。その分だけ、介添え人に過ぎない伝道者の声は小さくなってゆき、だんだんと衰え、弱まり、やがてはついに消え失せてゆかねばなりません。「すべての羊たちが導かれ、良い羊飼いである救い主イエスの御声にこそ聴き従うようになり、そのようにしてやがて、ついに一つの群れ、ただ独りの羊飼いとなる」ために(ヨハネ福音書10:16参照)。救い主イエスの声を皆が聴くことを邪魔しないように、イエスの声にこそ皆がよくよく聞き従うようにです。それこそが、伝道者の役割と使命だからです。
 救い主イエスご自身が、はっきりとこう仰います、「ヨハネは燃えて輝くあかりであった。あなたがたは、しばらくの間その光を喜び楽しもうとした。しかし、わたしには、ヨハネのあかしよりも、もっと力あるあかしがある。父がわたしに成就させようとしてお与えになったわざ、すなわち、今わたしがしているこのわざが、父のわたしをつかわされたことをあかししている。……あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」(ヨハネ福音書3:27-30,5:35-40。もちろん私たちは、目の前のその伝道者の言葉に聞きます。その教えを受け、その説き明かしに精一杯に耳を傾けます。ほんのしばらくの間だけは、その伝道者の声を喜び楽しんでもよいでしょう。けれど、ずっといつまでもそれでは大変に困ります。やがて、救い主イエスの御声にこそ精一杯に耳を傾け、イエスにこそすべての信頼を寄せ、救い主イエスにこそよくよく聞き従う者へと成長してゆくのでなければ困るからです。もちろんその伝道者に聞き従うためでなく、その彼に信頼するためでなく、ただただ神にこそ聴き従う自分となるためにです。その伝道者が語り教えた言葉や知識が、神から出たものであるのかどうか。どの伝道者に対しても、その一つ一つの約束事やルールが神の御心にかなうものであるのかどうかを熟慮し、なんとかして聞き分けなければなりません。御心にかなう教えや説き明かしならば、それを聞き入れたらよい。もし、そうではないのなら、それらの教えや説き明かしは、またその約束事やしきたりやルールは拒んで、退けねばなりません。救い主イエスのところに行こうとして、救い主イエスから生命を受け取ろうとして、救い主イエスを必要なだけ十分に信じる自分になろうとして、そのようにして、目の前に立っている一人の伝道者の言葉に耳を傾けつづけます。 
つまり、「来るべき方はあなたなのか」という質問は、弟子たちのためであり、彼らにはっきりと気づかせるためにです。主イエスを信じて生きる幸いの中へと、自分の大切な弟子たちをまっすぐに、はっきりと送りだしてあげるため。つまり自分の弟子たちがこれまではこの自分に信頼して従ってきたが、けれどもこれからはこの自分に聞き従ってではなく、『来るべき方』であり、すでに約束通りにこの世界に来てくださった救い主イエスにこそ信頼を寄せ、聞き従って、あの弟子たちが生きることを願ってです。21-23節。主イエスは答えます、「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者はさいわいである」と。
  ヨハネの弟子たちが帰った後で、主イエスは洗礼者ヨハネが果たした大きな役割について人々に語りきかせます。とくに27(=イザヤ書40:3,マラキ書3:1からの引用)、「『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである」。救い主に先立ってつかわされて道を整える使いである『この人』とは、洗礼者ヨハネです。天の父なる神さまが独り子イエスを救い主としてこの世界に送り出してくださる。それに先立って、使いをつかわし、救い主を迎え入れるための道備えをさせると。そのように自分の後から来られる救い主イエス・キリストをこそ指し示しつづけていたのですから。24節で、「あなたがたは何を見に荒野に行ったのか」と主イエスは問いかけます。もちろん植物観察のためでなく、ぜいたくに暮らす人々を見物するためでもありませんでした。その使者の声を聴いて、救い主イエスを信じて生きはじめるためにこそ、今日も私たちはこの礼拝の場に呼び出されています。

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 洗礼者ヨハネにつづく、世々の伝道者たちは、道を備えつづけます。「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。すべての谷は埋められ、すべての山と丘とは、平らにされ、曲ったところはまっすぐに、わるい道はならされ、人はみな神の救を見るであろう」。私たちの魂と腹の思いが言い表されています。薄暗い谷のような卑屈さ、臆病さや恐れは埋められて平らにされねばなりません。山と丘のような私たちの傲慢さや思い上がりはすっかり削り取られて、低く平らにされねばなりません。曲がった道や悪い凸凹道のような私たちの心のかたくなさや頑固さ、よこしまさは、ならされねばなりません。だからこそ、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」と厳しく突きつけられました。そのとおりです。人々は、ついにとうとう心を強く刺し貫かれて預言者にたずねました。「それでは、わたしたちは何をすればよいのですか」。きびしく脅かされたわりには、その指図はごく普通の、誰にでもできる当たり前の心得でした(ルカ福音書3:4-14参照)。それさえもわざわざ一つ一つ告げられねばならないほどに、神の御心にかなう歩みがどういうものであるのか、何が神の喜ばれる良いことであり、何が神を悲しませ嘆かせる悪いことであるのかも分からなくなり、そのようにして彼らと私たちの心は深く病んでしまっていたのです。
 だからこそ、「救い主イエスにこそ聴け。聴き従いなさい」(ルカ福音書3:22,9:35参照)と命じられています。「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られた」のだし、御子によってこそ語りつづけます。天と地のすべて一切の権威を御父から授けられた御子こそが、私たちを送り出し、教え、導きつづけるからです(へブル手紙1:1-2,マタイ福音書28:18-22。それでもなお、救い主イエスのこの唯一の権威は私たちの間でさえもいまだに十分には受け止められていません。今もこれからも、主イエスは教師たちをこの世界に送り出しつづけます。神の国の福音を伝える教師たち一人一人は、この唯一の先生から習い覚えたことをこそ誠実に忠実に語り伝えねばなりません。つまりは、その教師自身がキリストの弟子でありつづけ、他の者たちをキリストのもとへと連れてきて、ただキリストからこそ教えられつづける生徒とならせるように努力し、それよりも、なにしろ神にこそ願い求めつづけて働きます。