みことば/2016,2,21(受難節第2主日の礼拝) № 47
◎礼拝説教 マタイ福音書 6:19-24
日本キリスト教会 上田教会
『二人の主人に仕える?』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
6:19 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。20
むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。21 あなたの宝のある所には、心もあるからである。22
目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。23 しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。24
だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。 (マタイ福音書 6:19-24)
まず19-21節。ここまでは、いつになく分かりやすいですね。誰でも簡単に理解できます。大切にしている宝物をいくつもたくさん持っている私たちです。けれどせっかく大切にしている宝物なら保管場所に気をつけなさい、と語りかけられます。もし、当てにならない悪い保管場所に蓄えておくと、虫が食い、サビがつき、泥棒たちも押し入ってきて盗み出すから大切な宝をすべてすっかり失ってしまうことになる。「ああ、そうか。じゃあ大手の有名銀行の、空気清浄機付きの頑丈な大金庫にあずけておけばいいんだな」。いいえ、そういう話じゃないんです。その有名銀行もたいして当てにはできない。地上に宝を積んでも、それらは危うい。だから、大切な宝は天にこそ積みなさい。しかも、天に持って行ったり積み上げたりできる宝物などごく限られていました。それらは目に見えない、手で触れることもできない宝物に限られました。ほぼ手ぶらで裸のままで、もう間もなく向こう岸へとそれぞれに渡っていきます。「私は裸でこの世にやってきた。だから来たときと同じに、裸で帰っていこう」(ヨブ1:20参照)。ヨブと共に、そのとき私たちも神さまに感謝を申し上げましょう。
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それよりも何よりも、21節に目を向けましょう。「あなたの宝のある所には、あなたの心もあるのだ」。この短い一言で、主イエスははっきりと告げています。地上に宝を積み、それゆえ地上に心を縛り付けられて生きる他ない人々はとても不幸せで、心細く、あまりに惨めであると。なぜなら、彼らの幸いは脆く不確かであり、長続きせず、すぐにも失われ、奪い取られてしまうからです。主イエスのこの発言を受け止めて、やがて主の弟子は語りだします。「もし私たちがこの世の生活の範囲内でだけキリストに望みを抱いているだけだとすれば、私たちはすべての人の中で最もあわれむべき存在となる」「キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである」「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。・・・・・・キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」(コリント手紙(1)15:19,ピリピ手紙3:18-19参照,コロサイ手紙3:1-17)。
22-23節。「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう」。目が澄んでいたり、曇っていたりします。見るべきものがそのせいで、よく見えたり、あるいはまったく見えなかったりします。もちろん見えにくいものを見るための、魂の目です。主イエスは当時の宗教的指導者たちを痛烈に批判して、「偽善者よ。目のよく見えない案内者たちよ」と呼びかけつづけました。見るべき神さまの真理、福音の道理に目を向けず、かえって脇道へ脇道へと道を逸れていく。自分がそうなるだけではなく、後に従う者たちをも福音の道理から遠ざけさせてしまうと。主イエスご自身の声に耳を傾け、ごいっしょに味わいましょう;「盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである」。信仰の事柄を理解できない心の鈍さ、あるいは不信仰、かたくなさこそが、『目が澄んでいる。濁っている』という言い方で指し示されています。私たち自身を映し出す鏡として、パリサイ人たちに主イエスが語りかけます。「そこでイエスは言われた、『わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである』『それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか』『もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある』(ヨハネ9:39-41,ルカ24:13-43参照)。当時の主イエスの当時の弟子たちも私たち自身も、心が鈍くなって目が見えなくなったり、あるいは見えるようになったり、また見えなくなったりと繰り返しつづけます。例えば、復活の主イエスと、主イエスを信じる二人の弟子たちとがエマオ村への旅をした出来事を覚えておられますか。弟子たちの目は遮られたり、開けたり、また遮られて見えなくなったり、見えたりしつづけます。私たちとそっくり同じに、度々、心が鈍くなってしまうからです。ですから主イエスはずいぶん丁寧に弟子たちと付き合い、手とり足取り手引きをし、語り聞かせ、見せたり聞かせたり、その手で触れさせたりしつづけます。弟子たちのための信仰の教育が、そのように今日に至るまでつづいています。こうした発言を受けて、やがて弟子たちも、目を凝らして見るべき神さまの現実について語りかけます。「『わたしは信じた。それゆえに語った』としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。それは、主イエスをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共にみまえに立たせて下さることを、知っているからである。すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。それを着たなら、裸のままではいないことになろう。この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである」(マタイ福音書23:23-28,コリント手紙(2)4:13-5:4)。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。「見えないもの」とは、もう少し親切に言いますと、まったく見えないものや有りもしない絵空事ということではなく、「よくよく目を凝らさなければ見落としてしまいそうな、ごく見えにくいもの。しかも確かに存在するもの」という意味です。信仰の目によってしか見ることも捕らえることもできないもの。例えば、聖晩餐の度毎に差し出され、私たちが現に確かに食べたり飲んだりしている『十字架上で引き裂かれた主イエスの体。主イエスの血潮』です。それこそが典型的に、また決定的に、「よくよく目を凝らさなければ見落としてしまいそうな、ごく見えにくいもの。しかも確かに存在するもの」です。主イエスを信じているクリスチャンにしか、『その体と血』とを見ることも受け取ることも、味わって、自分の血とし肉とすることもできません。なぜ私たちはクリスチャンであるのか。どこがどうクリスチャンなのか。主イエスをよみがえらせたかたが、私たちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共にみまえに立たせて下さることを知っているし、確かに信じてもいる。その復活の生命に日毎にあずかってもいる。だから、そういうわけで、私たちはクリスチャンなのです。だから、私たちは落胆しない。たとい私たちの外なる人は滅びても、目がかすみ、耳が遠くなり、足腰衰え、物忘れがひどくなり、きびしい痛みや苦しみにずいぶん長い間にわたって耐えつづけるとしても、それでもなお私たちの内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりに私たちに得させるからである。私たちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。とても大切なことなので、もう少し念を押しておきましょう。主イエスと親しく付き合ってきた3人の兄弟姉妹がいました。マルタ、マリア、ラザロという兄弟姉妹です。弟のラザロが死んだとき、主イエスは姉のマルタとこのように語り合いました、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」「あなたの兄弟はよみがえるであろう」「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。たとい死んでも生きる。それは、『死の只中でなお生きている』という意味です。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。信じるかと、私たち一人一人も問われています。問われつづけます。あなた自身は、何と答えることができるでしょうか(ヨハネ福音書11:21-26参照)。
24節。「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。神と富。『富』は、私たちの主人になろうとする様々なモノの中のほんの一例にすぎません。その他、私たちの主人になろうとする最も警戒すべき有力候補は『自分の腹の思い』(ローマ16:18,ピリピ3:19)です。腹の虫、好き嫌い、気が向く向かないなどという感じ方。気分。あるいはその同類で、自尊心や劣等感、体裁を取り繕うとする臆病さなどが私たちの主人になろうとし、私たちをそれらの言いなりに従わせられる奴隷にしようと狙っています。しかも兄弟姉妹たち、深呼吸をして心を鎮めて、よく考えてみると、それら「自分の思いどおりに何かをすること」「誉められたり功績が認められて良い気分を味わったり、ささやかな自尊心が十分に満たされること」などは、なぜかとても素敵なような気がしていただけで実際にはあまり良いものじゃなく、私たちを幸せにも豊かにもしてくれません。ねえ? かえって、それらのウズウズする腹の虫こそが私たちの魂を損ない、不自由に縛り付け、貧しくさせました。
『主なる神さま』を自分のご主人さまとできるか、それとも『神以外のナニモノカ』の召使に成り下がってしまうか。ただお独りの主人にしか、私たちは仕えることができません。これこそ、私たちが何を自分自身の宝物とするか。どこに宝と自分の心とを据え置くのか、という究極の問いかけです。自分自身で判断し、自分の心でそれぞれに選び取らねばなりません。神さまは私たちをご自分の宝の民としてくださいました。私たちも、神さまを自分のご主人として仕えることを何よりの宝とし、神さまご自身をこそ自分の宝とすることができます。私たちがよくよく教えられてきたように、天に主人がおられます。唯一の、ただお独りのご主人が。私たちは、その主人に仕えるしもべ同士です(ヨシュア記24:12-15,申命記7:6,ローマ手紙14:4,コロサイ手紙4:1,コリント手紙(1)12:3参照)。なんという恵み、なんという幸いでしょう。