2016年2月16日火曜日

2/14「自分の正しさを、見られるために人の前で行ってはならない」マタイ6:1-8、16-18

                    みことば/2016,2,14(受難節第1主日の礼拝)  46
◎礼拝説教 マタイ福音書 6:1-8, 16-18            日本キリスト教会 上田教会

『自分の正しさを、
見られるために人の前で行ってはならない』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
6:1 自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。2 だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。3 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。4 それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。6 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。7 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。8 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。                  (マタイ福音書 6:1-8)

 
  1-8節。16-18節。「自分の正しさを、見られるために、人にわざと見せつけるために、人の前で行わないように注意しなさい」。けれど、何のためでしょう。なぜ、よくよく注意していなければならないのでしょうか。願っているその『自分の正しさ。自分の優秀さ、立派さ』はすでに他人と周囲の人々の目から見た正しさ、世間的な立派さに過ぎないからです。もうすでに頭の中では、ただただ「人からどう見られるか。どう評価されるか」と人間のことばかり思い煩って、神さまを思う暇がほんの少しもないからです(マタイ16:23参照)他人から良く思われたいという願い、悪く思われたらどうしようという恐れが度を越してその人の心を支配し、左右しはじめるとき、その人は、『人様がどう思うか。世間様にどう見られるか病』にかかっています。すでにかなり重体で、放っておけばその人は死んでしまいます。世間の多くの人々もクリスチャンも、ほとんどすべての人がこの病気にかかります。『人様がどう思うか。世間様にどう見られるか病』。症状が急激に悪化し、ついには死に至ります。具体的な実例が3つ挙げられています。貧しい人々への施し。祈り。そして断食。この3つには共通点があります。神さまへの感謝のささげものであるし、神へと向かうはずの祈りであるという点です。けれど、そうであるはずのものが道を逸れて、似ても似つかない、まったく別のものに成り下がってしまう危険があると警告されています。つまり、他人と周囲の人々の目から見た正しさ、世間的な立派さを願い求める欲望。はっきり言うなら、虚しく愚かな見せびらかしです。「人からよく見られたい。よい評価をされたい。周囲の人々から誉めてもらいたい、感謝されたり、尊敬されたりしたい」と。貧しい人々への施し。祈り。そして断食。もし、この3つが虚しい見せびらかしに成り下がってしまう危険をうちに含んでいるとするならば、私たちの普段の暮らしのすべて一切もまたまったく同じです。国語辞典でおさらいをしておきました。「うわべを飾って、心や行いが正しいかのように見せかけること。それが偽善です。そういうことをする人間たちを、偽善者」と言います。その代表例として折々に当時のパリサイ人や律法学者たちの振る舞いや言動が手厳しく批判されつづけます。どういうことでしょうか。彼らを見下したりバカにして良い気分になるためではありません。あの彼らは、私たち自身の普段のいつもの姿をはっきりと映し出す鏡です。主イエスはおっしゃいました。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:12-13)。格別に良い医者である神さま。その医者のもとに生命からがら辿り着いた重病人である私たち。救い主イエスに聞き、このお独りのお方から学ぶならば、この厄介な病気を治していただけます。健全な魂を、ふたたび取り戻すことができます。
  神さまは隠れたことを、ちゃんと見ていてくださる。だから、あなたもそこに目を凝らしなさい、と勧められています。「誉められたら嬉しい。けなされれば悔しい。感謝されたり、尊敬されたりされれば鼻高々になり、誰にも見向きもされなくなったら寂しいし、悲しい」。もちろん、そうです。それでもなお、人間たちに誉められたりけなされたり、周囲の人間たちから喜ばれたりガッカリされたりする以上に、その千倍も万倍も 神さまこそがあなたをご覧になって、喜んだりガッカリしたりしておられます。「偽善者め。不届きなしもべだ」と叱られたり、ガッカリされたりもします。あるいは天の主人から、「良い忠実なしもべよ、よくやった。私も嬉しい」と喜んでいただけるかも知れません。ぼくは、それを願っています。ぜひ、なんとかして、この僕もそうでありたい。「あなた、本当にクリスチャンなの? 証拠は?」と。職場の同僚や親戚や自分の夫や妻から、子供たちから、「あれれ」と疑わしげな眼差しを向けられ「お母さん、本当にクリスチャンなの?」と。だってその時の私は、人から誤解されたり悪く思われる度毎に、クヨクヨしたり腹を立てたり、ひどく気に病んだり、よけいに意固地になるからです。人から恥ずかしい思いをさせられたり見下されたらどうしようと尻込みしたり、おじけづいたりしています。ちょっと待ってください。それでは、《人からどう見られ、どう思われるか》という秤で物事を量っているではありませんか。また別の時にのボクは、「私はそれをしたい、したくない。好きだ嫌いだ」と、《自分の考え。自分のやり方。自分の好み》という秤にすっかり心を奪われて、その秤の言いなりにされているではありませんか。

         ◇

  このあと、讃美歌Ⅱ編195番をごいっしょに歌います。1節2節をとおして読みましょう;「1節。キリストには代えられません、世の宝もまた富も、このお方が私に代わって死んだゆえです。世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、行け。キリストには代えられません、世のなにものも。2節。キリストには代えられません、有名な人になることも、人の誉める言葉も、この心を惹きません」。「キリストには代えられません」と私たちは、どんな顔つきで、どんな気持ちで、どんな時に歌うのでしょう。まあ、いろいろですね。涼しく、晴々して歌うときもあるでしょう。感謝と喜びに溢れて歌うときもあるでしょう。けれど、この歌の心はそれだけではありません。むしろ、信仰の危機に直面して、崖っぷちに立たされて、そこで必死に呼ばわっているように思えます。「キリストには代えられません。代えられません」と繰り返しているのは、ついつい取り替えてしまいそうになるからです。惑わすものにそそのかされ、目も心も奪われて。キリストの代わりに、富や宝を選んでしまいたくなる私たちです。キリストの代わりに、様々な楽しみに手を伸ばしてしまいたくなる私たちです。キリストよりも、目を引く素敵で美しいものを。人から誉められたりけなされたりすることを。うっかり取り替えてしまいたくなるほど、それらが私たちの心を引きつけて止まないからです。なぜ、そうだと分かるのか。繰り返しの部分に目を凝らしてください。あまりに過激です;「世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、どこかへ行ってしまえ」。とても切羽詰っていて、緊急事態のようです。ここまで彼に言わせているものは何なのか。世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、どこかへ行ってしまえ。そうでなければ、私は目がくらみ、今にもキリストをポイと投げ捨ててしまいそうなので。救い主イエス・キリストを主とすることと、それに加えて様々な宝や楽しみをもつこと。趣味とか娯楽とか。それらは大抵の場合、ごく簡単に両立するように思えます。クリスチャンになったからって、世捨て人みたいに仙人か修行僧のように何もかもを捨て去って裸一貫にならなきゃならないとは普通は思わない。ぼくも、思っていませんでした。要するにバランスの問題で、ほどほどに要領よく付き合っていればいいじゃないかと。主を主とすることもほどほどに、楽しみや娯楽や趣味もほどほどに、人付き合いもほどほどにと。けれど兄弟たち、主イエスご自身は仰るのです、「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(ルカ16:13)。そして気がつくと、心が2つに引き裂かれた、ほどほどのクリスチャンが出来上がっていました。あのイソップ童話のコウモリのようなクリスチャンです。動物たちの間では、「私も動物です。仲良くしましょう」。鳥たちの間では、「ほら見てください。私も鳥です、羽根を広げてパタパタ飛ぶこともできますから」。お前はいったいどっちなんだ。何者なのか、誰を自分の主人として生きるつもりなのかと厳しく問い詰められる日々がきます。あれも大切、これも大切、あれもこれも手放したくないと山ほど抱えて生きるうちに、主イエスを信じる信仰も、主への信頼も、主に聴き従って生きることもほどほどのことにされ、二の次、三の次に後回しにされつづけて、気がつくととうとう動物でも鳥でもない、どっちつかずのただ要領がいいだけの生ずるいコウモリが出来上がっていました。心を鎮めて、よくよく考え、自分で自分に問いただしてみなければなりません。何が望みなのかと、何を主人として私は生きるつもりのかと。
  さて、「救い主イエス・キリストが私に代わって死んでくださった。私が神の子供たちの1人とされるためだったし、こんな私をさえ罪と悲惨さから救い出すためだった」と私たちも知りました。それならば、救い出された私たちはどこへと向かうのか。どこで、どのように生きるのかとさらに目を凝らしましょう。代わって死んでいただいた。それなら私たちは、もう死ななくていいのか? あとは、それぞれ思いのままに好き勝手に生きていけばいいのか。いいえ、そうではありません。やがていつか寿命が来てそれぞれに死んでゆくというだけではなくて、クリスチャンとされた私たちは毎日毎日、死んで生きるのです。古い罪の自分を葬り去っていただいて、新しい生命に生きる者とされた。毎日毎日、死んで生きることが生涯続いてゆく。洗礼の日からそれが決定的に始まりました(ローマ手紙6:1-18参照)実は、『毎日毎日、死んで生きる』というその大事なことは、これまであまり十分には語ってくることができませんでした。いいえ、よく語ってこなかっただけではなくて、うっかり見落としていたのだと思えます。『古い罪の自分を殺していただき、葬り去っていただき、そのようにして新しい生命に生きる』ことが苦しすぎて、嫌だったので、わざと見ないふりをしていました。まったく申し訳ないことです。救い主イエスが代わって死んでくださったので、それでまるで自分は死ななくていいことにされたかのように、そこで救いの御業がすっかり完了して、終わってしまったかのように、だから後はそれぞれ好き勝手に自由気ままに生きていってよいかのように、勝手に思い込んでいました。だから、私たちはたびたび煮詰まりました。たびたび途方にくれて、道を見失いました。誰かが私の身代わりとなって死んでくれた。それだけでは、力も勇気も希望も湧いてくるはずがありません。私のために苦しんで死んでくださったその同じお独りの方が、ただ苦しんで死んだだけじゃなくて、この私のためにもちゃんと復活してくださった。やつれて、息も絶え絶えになって死んでいこうとする方に共感や親しみを覚えることはできても、けれど信頼を寄せたり、その方に助けていただけるとは誰にも思えません。死んで三日目に復活させられた方をもし信じられるなら、そのお独りの方に全幅の信頼を寄せることができます。この自分自身も、主イエスに率いられて、古い罪の自分自身と死に別れ、新しい生命に生きることになる。そこに大きな希望があり、喜びと平和と格別な祝福がある。これが、起こった出来事の真相です。十字架の上のやつれて息も絶え絶えのその同じ主が同時に、復活の主でもあると信じられるかどうか、それがいつもの別れ道です。
「このお方が私に代わって死んだ。私に代わって死んだ」と今後も同じく歌いつづけていいのです。そしてその歌の心は、「私に先立って」です。この救い主イエス・キリストというお方が私に先立って死んで、私に先立って復活してくださった。今も生きて働いていてくださる。やがて再び来てくださるし、今も共にいてくださる。だから、もうどんなものもキリストには代えられない。世の宝も富も、楽しみも、人から誉められたりけなされたりすることも、良い評判を得ることも冷たく無視されることも、有名な人になることも、どんなに美しいものも。この私たち一人一人もついにとうとうキリストに固着し、死守する秘訣を体得しました。やったあ。このお方で心の満たされている今は、と。私に先立って死んで復活してくださったキリストで、今この瞬間は、私の心はいっぱいに満たされている。父なる神さまはキリストと共にこの私たちをも死者の中から復活させることができるし、現に復活させつづけてくださる。だから今もこれからも、揺らぎ続ける危うい私であっても、キリストから二度と決して離れないでいることができる。明日も明後日も、死ぬまでず~っと同じく変わらず、ま日毎日、古い罪の自分と死に別れて新しく生きる私でありつづけたい。生きて働いておられます神さまの御前で。