1/31 こども説教 ルカ1:67-80
『主に仕えている。だから恐れがない』
1:71 わたしたちを敵から、またすべてわたしたちを憎む者の手から、救い出すためである。72
こうして、神はわたしたちの父祖たちにあわれみをかけ、その聖なる契約、73 すなわち、父祖アブラハムにお立てになった誓いをおぼえて、74 わたしたちを敵の手から救い出し、75
生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださるのでる。・・・・・・77 罪のゆるしによる救をその民に知らせるのであるから。 (ルカ福音書
1:71-75)
前の前の日曜日には、46-55節の『マリヤが神さまを讚美する歌』を読み味わいました。そこでも、神さまからの憐れみ、憐れみ、憐れみと歌いつづけていました。救いの中身は神さまからの憐れみだったので、へりくだった低い心でしかそれを受け取ることも、受け取って喜ぶこともできませんでした。自分は低くて小さくて貧しくて弱々しい、誇れるものは何一つないとつくづく分かって、そこでようやく贈り物を受け取ることができます。マリアさんもそうだったし、神の民とされたイスラエルの全員もまったく同じだったのです。洗礼者ヨハネのお父さんザカリヤも、この同じ一つのことを歌います。神さまからの憐れみ、憐れみ、憐れみと。
77-79節をもう一度読みます。『罪のゆるしによる救い』だと、はっきり語りかけています。ザカリヤが神さまから教えていただいた、一番大事なことです。神さまにも周りにいる人間たちにも逆らいつづけて、「私が私が」とわがまま勝手になり、強情を張りつづけることが『罪』の正体でした。そのおかげで、私たちは暗闇と死の陰の中に閉じ込められていました。そのおかげで、他の人々を悲しませたり苦しませたりし、自分自身もなんだか満たされず、物寂しく、心がどんより曇りつづけました。そのわがまま勝手さや強情さは、厳しく叱りつけても治りません。罰を与えて懲らしめても治りません。ゆるしてあげるほか、その寂しく悲しい場所から救い出してあげることができなかったのです。救い主イエスこそが、この私たちのためにもそれをしてくださいます。78-79節で、「神さまの憐れみによって日の光が私たちの上に照って、私たちを平和の道へと導く」と約束されているのは、そのことです。74-75節にも目を向けましょう。「敵の手から救い出し、みまえに、恐れなく仕えさせてくださる」。敵の手から救い出されてという「敵の手」とは何でしょう。恐ろしい敵は、実は私たち自身の一人一人の心の中に住んでいました。神さまにも周りにいる人間たちにも逆らいつづけて、「私が私が」とわがまま勝手になり、強情を張りつづける、あの『罪』のことです。私たち自身のなかに住んでいる、悪い、ねじくれた心です。その悪い、ねじくれた心の言いなりにされないで、これからは、主なる神さまにお仕えして生きるようにしていただける。これが、神さまを信じて生きる人々への神さまからの救いの約束です。救いの中身です(*)。じゃあ私たちは、いつ、どうやって、神さまに仕えて生きることになるのでしょうか? 『いつでも、どこでなにをしていても、誰といっしょのときにも、そこでそのようにして神さまにこそお仕えして生きる』というのです。会社で働いている人は、そこでそうやって神さまにこそ仕えて働くようになります。子供を育て、ご飯支度をし、掃除や洗濯をして家族の世話をしているお父さんやお母さんは、そこでそうやって神さまにこそ仕えて働くようになります。年老いた親のお世話をして、オムツを替えてあげたりお風呂にいれてあげたりして一緒に暮らしている人は、そこでそうやってその人たちの世話をし、その人たちのために働いているというだけではなくて、そういうことを通して! 神さまにこそ仕えて働いているんだと自分でもはっきりと気がつくようになります。ああ、そうだったのかあと。ベッドに寝たきりになって何日も何年も過ごす病人も、「神さま助けてください。よろしくお願いします。ありがとうございます」と祈りながら、助けを求めながら感謝しながら、そこでそうやって神さまにこそ仕えて働くようになります。だから、その人たちには恐れることも心細がることもだんだんとなくなって、「私が私が」とわがまま勝手になり、強情を張りつづける、あの悪い、ねじくれた心も少しずつ小さく弱くされていって、だんだんと一歩また一歩と、きよく正しく生きることもできるようにされていきます。神さまがその人たちを憐れんでくださったからですし、その人たちがとうとう神さまからの憐れみを受け取って、神さまへの感謝の生活を、一日また一日と生きはじめるからです。
(*)『主に仕えて生きること』;聖書66巻全体をとおして、これが神さまと私たちとの基本的な関係です。「主なる神」「主イエス」といいます。つまり、神と私たちは主従関係として結びつきあっており、「主に従って日々を生きる私たち」です。