2020年8月2日日曜日

8/2「神は罪人を憐れむ」ルカ12:8-12

              みことば/2020,8,2(主日礼拝)  278

◎礼拝説教 ルカ福音書 12:8-12                     日本キリスト教会 上田教会

『神は罪人を憐れむ』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

12:8 そこで、あなたがたに言う。だれでも人の前でわたしを受けいれる者を、人の子も神の使たちの前で受けいれるであろう。9 しかし、人の前でわたしを拒む者は、神の使たちの前で拒まれるであろう。10 また、人の子に言い逆らう者はゆるされるであろうが、聖霊をけがす者は、ゆるされることはない。11 あなたがたが会堂や役人や高官の前へひっぱられて行った場合には、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しないがよい。12 言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださるからである」。  

                 (ルカ福音書 12:8-12)


1:13 わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。14 その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。16 しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。          (1テモテ手紙1:13-16)


3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。21 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、3:24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、26 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。       (ローマ手紙 3:20-26)

 8-9節。救い主イエスが弟子たちに語りかけています、「そこで、あなたがたに言う。だれでも人の前でわたしを受けいれる者を、人の子も神の使たちの前で受けいれるであろう。しかし、人の前でわたしを拒む者は、神の使たちの前で拒まれるであろう」。キリシタン弾圧が解かれて長い歳月がすぎたはずの、何の足かせも口封じもないはずの今でも、ある人々は、「私は自分がクリスチャンであることを人前でわざわざ言い広めたりはしない。自分の心の中でだけ信じていればそれで十分で、自分の夫や妻にも子供たちにも、わざわざ礼拝に誘ったり、無理に勧めたりもしない。職場でも友人たちの間でも、自分がクリスチャンであることをわざわざ公言しない。それは人それぞれだし、個人の自由だし」などと言うかも知れません。

  私たちの愛する連れ合いや、子供たちや孫たちは、やがて神を信じることができるかも知れないし、それともどんな神なのかもよく知らないまま一生を終えてしまうかも知れません。神さまを信じる信じないは、自分自身でそれぞれに判断して、自分自身で決めます。たとえ親であろうと妻や夫であろうと、それを無理矢理に押し付けてはならないし、そんなことはできません。その通りです。それでも、この私たち自身は家族に向かって、神さまをどんなふうに紹介してきたでしょう。もし仮に、ほとんど何も知らせて来なかったというなら、それはあまりに無責任で薄情すぎます。神さまがあまり好きではないのか、あるいは、その家族のことをあまり大切には思っていないのか。例えば愛する連れ合いにも、自分の家族や子供たちにも、「聖書の神さまはこういう神さまです。信じた者たちには、こういう希望とこういう幸いと、こういう心強い生活が待っている」などと自分の力の及ぶ範囲で精一杯に信仰の中身を伝えます。口下手は口下手なりに、喋るのが苦手な人も苦手ななりに。神を信じて生きることについて十分に理解できるための判断材料を精一杯に手渡します。そうしたら、その後は、その人が自分自身で判断するのです。聖書の神さまを信じてもいいし、信じなくても構わない。「十分に分かった。けれど、この神は自分には要らない」と断られるなら、残念ですが、そこで諦めてもいいでしょう。それは、もうすでにその人自身と神さまとの一対一の問題だからです。せめて、その人が自分でちゃんと判断できるために、精一杯の材料を差し出す。もちろんです。なぜなら、その家族のことをとても大切に思っているし、しかも神さまによくよく愛していただいたクリスチャンだからです。

  兄弟姉妹たち。自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じる。それは、なかなか難しいことです。キリシタン弾圧のきびしい迫害の時代であっても、そうではなくたって。口で「イエスは主である」と告白することも、自分の心で「天の父なる神が死人の中から救い主イエスをよみがえらせたし、この自分をさえ必ずきっとよみがえらせてくださる」と信じることも、それら一切は神ご自身の恵みのお働きであるからです。ただただ恵みと憐れみの出来事でありつづけるからです。聖書は証言します、「聖霊によらなければ誰も『イエスは主である』とは言うことができない」(コリント手紙(1)12:3,ヨハネ手紙(1)4:1-3。例えばもし、あなたや私が人様の前でも何様の前でも、「イエスは私に対しても主であり、この世界全体に対しても主である。他に主人はいない。イエスを主とする私であるので、神に聞き従わず人間すぎない者どもに聞き従うわけにはいかない。神の御前に正しくはないし、間違ったことなので。この私としては、自分の見たこと聞いたこと、信じたことを語らないわけにはいかない」(使徒4:19-20。このように心に信じ、また自分自身の口でもはっきりと言い表すこともできたならば、それは神さまがさせてくださった。それこそが、神さまから私たちへの飛びっきりの格別な贈り物です。

  つまずいて挫けて、けれど憐れみを受けて連れ戻していただいた、あの幸いなペテロのことを語らねばなりません。ここまで語ったことはすべてすっかり掛け値なく本当のことです。つまり、『人の前で主イエスを受けいれる者を、主イエスもまた、天にいます御父の前で受けいれる。しかし、人の前で主イエスを拒み、主イエスを恥じる者を、主イエスも天にいます御父の前で拒む』。兄弟姉妹たち。これは神ご自身の真理ですが、真理の中の半分に過ぎません。残りの、負けず劣らずとても重要な真実は、『主を否みつづけ、逆らい、疑いつづけたあまりに不信仰な者どもを、にもかかわらず主イエスが否まない場合も有り得る』ということです。その貧しく弱く小さな罪人を、なお神は深く憐れんで止まないからです。滅びるままに捨て置くのはとても可哀そうで、しのびないからです。しかも幸いなことには、「主イエスなど知らない。何の関係もない」と拒み、退けた、あの大祭司の中庭の夜がペテロの生涯最期のときではありませんでした。まだまだペテロの時間がつづいて、主をはきりと否んだペテロを、神ご自身がひっくり返してくださるからです。主の弟子ペテロのつまずきと立ち直りとを、はっきりと思い出すことができますか。救い主イエスが十字架につけられ殺される前の晩に、大祭司の中庭で、主の弟子ペテロは人の前で主イエスを三度も重ねて否み、「ガリラヤの人イエスと一緒だった。あなたも彼らの仲間だ」と突きつけられて、「何を言っているのか分からない。そんな人は知らない。その人のことは何も知らない」と主を否み、恥じつづけました。ほんの数時間前に主イエス本人からはっきりと予告されていたとおりでした。鶏が鳴き、イエスの言葉を思いだし、ペテロは外の暗闇に出て激しく泣きました(マタイ福音書26:69-75を参照)。そのペテロを、けれど救い主イエスは拒まず、恥じることなく、再び改めて迎え入れました。迎え入れられて、ペテロは改めて、人様の前でも何様の前でも二度と決して主イエスを否まず、主イエスを恥じることのない新しい人間へとだんだんと造り替えられていきました。このことを、私たちは忘れてはなりません。例えば、アブラハムとサラ夫婦の場合もまったく同様でした。聖書は証言します、「望み得ないのに、なおも望みつづけた。彼の信仰は弱まらなかった。神の約束を不信仰のゆえに疑うことをしなかった」(ローマ手紙4:17-20を参照)。なんと寛大で憐れみ深い報告でしょう。神ご自身がこのように見なしてくださっています。アブラハムとサラ夫婦の実情をつぶさに確かめるなら、実際には、あの彼らは何度も繰り返してはなはだしい不信仰に陥り、神の約束を疑い、何度も神を裏切り、否み、神を恥じて背を向けつづけました(創世記12:10-20,17:15-17,18:9-15,20:1-18,26:1-11。それでもなお神は彼らを不信仰と疑いの薄暗がりの中に捨て置くことをせず、憐れんで連れ戻し、信仰が弱まる度毎に強くし、疑いと背きを拭い去り、ついにとうとう神ご自身の真実を確信させてくださった。ローマ手紙4:17-25、「望み得ないのに、なおも望みつづけた。彼の信仰は弱まらなかった。神の約束を不信仰のゆえに疑うことをしなかった」の中身は、ただただ神の憐れみの取り扱いでした。さて、つまずいたペテロを憐れんで連れ戻したとき、主イエスは、「私を愛するか。愛するか。愛するか」と三度も重ねて問い詰めました(ヨハネ福音書21:15-19。最後の晩餐のときにも、「たとい、みんなの者があなたにつまづいても、この私だけは決してつまづきません。あなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」(マタイ福音書26:31-35と自分自身の確かさや強さにこだわりつづけた彼でした。うぬぼれていたあの時のままなのかどうか、ほんの少しも成長していないのか、と問われています。まだまだ他人よりも自分を高く引き上げて誇ろうとしつづけるのか、それとも、あなたは自分自身の低さや弱さ、貧しさを、とうとう習い覚えたのかと。「この人たち以上に私を愛しているか」(ヨハネ福音書21:15)という最初の問いかけは彼の心の急所をギュッと掴んで、痛いところを突いています。この人たち以上に。そのこだわりが彼の心を貧しく愚かにしつづけました。このペトロも、ここにいるこの私たちと同じように、ついつい人と自分とを見比べてうぬぼれたり僻んだり、安心したり心配になったりすることに深く囚われて生きてきました。三度も問い重ねられて心を痛めたペテロですが、なおまだまだ全然、心の痛め方が足りません。なぜなら、「主よ、あなたはすべてをご存知です。わたしがあなたを愛していることは、(あなたが)お分かりになっています」などと、なおまだ言い張ってしまうのですから。ペテロ自身はまだまだ分かっていません。主を愛そうと願い、決心しながら、けれど愛しきれなかったペテロです。「知らない。何の関係もない」と主イエスを否み、主を恥じつづけたペテロではありませんか。

 

                         ◇

 

 心を痛めて、「主を十分に愛することができなかった私だ」と自分自身にすっかり絶望する必要があります。ただしく、ふさわしい自分だと思いあがっていたことが、愛する心を曇らせ、鈍くしていました。むしろ自分自身はとても貧しいものとして慈しみ深い主の憐みを受け取る必要がありました。深く病んだ死にそうな重病人として良い医者のもとに来る必要がありました。神によって立ち上がらせていただくために、自分自身としては身を屈めてへりくだる必要がありました。神によってふさわしいものとしていただくためには、自分自身のふさわしくなさを神の御前に差し出す必要がありました。それこそが憐みの神の御前での最善のふさわしさでありつづけるからです(「キリスト教綱要」41741-42節。Jカルヴァン 1559年)。それが、神の憐みによって生きるためのいつもの出発点だからです。主イエスは愛を問い、愛を差し出しながら、同時に、主を愛しきれず、なかなか従いきれなかったその不肖の、とてもいたらない弟子ペテロと私共にお命じになります、「わたしの小羊を飼え。彼らの世話をしなさい(ヨハネ21:15,16,17)と。「主を愛する。重んじる」と言いながら、身近な兄弟や家族や隣人を侮ったり軽んたり、「いい加減でだらしないわね」などと軽々しく裁いたりもできないはずでした。とても申し訳ないことです。もし、主をぜひ愛したいと願うなら、この私たち自身こそが主の小さな小さな羊を飼い、彼らの世話を精一杯にせよと。あなたのための主の小羊とは誰のことか。その羊は、あなたを、どこで待っているのでしょう。

 

 

     【補足/1テモテ手紙 1:13-

           1ページ目、第2の聖書箇所、1テモテ手紙 1:13-16の説き明かし。イエスは主であると信じることも、人前ではっきりと言い表すことも、悔い改めて神へと立ち返ることも、皆すべてとても大切です。しかも、これらは、神ご自身の恵みの働きによる他ありません。まず神が憐れんでくださって、その人に救い主イエスこそ主であると知らせ、信じさせ、悔い改めさせてくださるのでなければ、誰にも神を信じることなどできません。

  15節で、「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである」。「罪。罪人」とは、神を信じない、神に逆らいつづけて背を向けることであり、そういう人々です。つまり、神の恵みから最も遠くにいる人たち。そういう人たちをこそ救うために、救い主イエスはこの世界に来てくださった。そのことが分かって主の弟子の一人は、「この私こそが最低最悪の不信仰で、傲慢な、神に背きつづける者だ」と気づきました。それなのに神を信じて生きる者とされたのは、ただただ神の憐みによったと。だから、「神の憐みをこうむった」「憐みをこうむった」13,16節)と何度も何度もつぶやき、魂に刻み込みつづけます(1ペテロ手紙2:10「今は神の民であり、(神の)憐みを受けた者となっている」,ローマ手紙 9:16「(神の選びの計画は)ただ神の憐みによる」,11:30-32「神はすべての人を憐れむために~」,ルカ1:50「(主なる神の)憐みは、主をかしこみ恐れる者に及ぶ」)