2020年8月10日月曜日

8/9「いのちの道」詩篇16:5-11

 

            みことば/2020,8,9(召天者記念礼拝)  279

◎礼拝説教 詩篇 16:5-11                               日本キリスト教会 上田教会

『いのちの道』

 

 

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

16:5 主はわたしの嗣業、またわたしの杯にうくべきもの。

あなたはわたしの分け前を守られる。

6 測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。

まことにわたしは良い嗣業を得た。

   7 わたしにさとしをさずけられる主をほめまつる。

夜はまた、わたしの心がわたしを教える。

   8 わたしは常に主をわたしの前に置く。

主がわたしの右にいますゆえ、

わたしは動かされることはない。

   9 このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。

わたしの身もまた安らかである。

  10 あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、

あなたの聖者に墓を見させられないからである。

  11 あなたはいのちの道をわたしに示される。

あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、

あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。  

                     (詩篇 16:5-11

                                               

8:31 もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。32 ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。

                                      (ローマ手紙 8:31-32)

 

 5-6節、「主はわたしの嗣業、またわたしの杯にうくべきもの。あなたはわたしの分け前を守られる。測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た」。「嗣業(しぎょう)」とは、親や先祖から受け継いだ、家、土地や田畑、財産などのことです。それらを踏まえたうえで、なにしろ神さまご自身こそが神からの良い贈り物であり、私たちのための格別な財産です。「杯の中に受けるべきもの」と言い表し、杯の中の飲み物のように私の体と生命を養ってくれるものである。また、「あなたは私の分け前を守られる」と言い、そのように分け与えられた良いものを神ご自身が私のために守ってくださると告白し、自分自身と家族の幸いを神に感謝し、神を喜んでいます。これが、私たちの信仰の中身です。神さまから様々な祝福と幸いを受け取っているとしても、その幸いの一番の中身は神さまとの深く堅い結びつきであり、神さまが御自分自身を私たちに贈り与えてくださったことこそが、私たちのための最大の祝福であると。聖書は、この同じ一つの幸いを何度も何度も言い表し、私たちの心に刻ませます。例えば、「主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう」。また、「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか(詩27:1,ローマ手紙8:31-32。神が私たちの救いと幸いのために御自分自身を贈り与えてくださった。そのことは、神の独り子であられる救い主イエスの出来事に集中します。救い主イエスが十字架にかかって死なれ、その三日目に死人の中からよみがえってくださったことです。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。御子イエス・キリストと共に、必要なすべて一切を私たちに必ずきっと贈り与えてくださる。そのことをはっきりと知らされ、信じて、よくよく習い覚えさせられている私たちです。私たちの希望の中身は、ここにあります。

 7-9節、「わたしにさとしをさずけられる主をほめまつる。夜はまた、わたしの心がわたしを教える。わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである」。「私は動かされることはない」と、神を信じて生きてきたこの人は言います。動かされない。びくともしない。うぬぼれて、自分を過信しているのではありません。現実の厳しさを知らないのでもありません。この人は、神を信じて生きることの勘所をすでに手にしているのです。たしかに弱い私であり、危うい私である。手ごわく厳しい現実が次々と私の前に立ちふさがります。たとえそうであるとしても、それでもなお、この私は動かされない。つまり、たびたび揺さぶられるとしても、なお決して揺らいだままでは終わらないと言っているのです。それは、この人が見出し、受け取ってきた根本の土台にこそかかっています。(1)「私は主をほめまつる」;主をたたえ、讃美の歌を歌うことの真の意味は、《神さまの恵みと支えを受け取る》ことです。「さあどうぞ」と差し出され、「ありがとうございます」と受け取った良いモノに目を凝らし、味わい、自分の魂に刻み込もうとすること。それこそが主をたたえ、讃美の歌を歌うことの本質です。兄弟姉妹たち。神を喜ぶことや神に感謝することを忘れてしまった1人の淋しい人を思い浮かべてみてください。その人の足元には、いくつもの高価な贈り物が乱雑に放り捨てられ、けれどただ虚しく踏みつけられ、ちっとも顧みられません。「これ、本当に貰っていいんですか。わあ、嬉しい。ありがとう」と喜ぶ中で、その贈り物はその人のものとなります。(2)「夜はまた、わたしの心がわたしを教える」。主によって励まされ、主から諭しを受け取る大事な嬉しい出来事は、《夜》に起こります。それは夜にこそふさわしい。夜ごと夜ごとに。なぜなら日中、私たちはそれぞれとても忙しく、騒がしく、気もそぞろであり、バタバタと立ち働いています。もし誰かが励まそうとしても諭そうとしても、聞く耳を持ちません。夕暮れになり、夜になってようやく、私たちはそこで立ち止まり、鎮まって身を横たえ、耳を澄ませはじめます。夜、それは神さまからの恵みと祝福を受け取るべき時であり、豊かな収穫の時でもあります。若くて健康で生命にあふれ、忙しくバタバタ立ち働いている私たちはいま、《昼。日中の時》を過ごしています。やがて年を取り、体も心も衰え弱り、いくつかの病気を抱えるようになり、「そう無理もできないなあ」としみじみ思い、そこでようやく私たちは耳を澄ませはじめます。それは、私たちの《夜の時間》です。ついにとうとう私たちは神さまからの励ましを聞き分け、神さまからの諭しを受け取りはじめます。(3)「わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ」;長年連れ添って、けれどいつの間にか心が互いに離れてしまった夫婦のように、「一緒にいる。一緒にいる」と言いながら、知らん顔をして互いにそっぽを向いているようならば、それは少しも共にいることになりません。向き合って、この人は何を考えているんだろうか、どういう人だろうかと言葉や心を交わしはじめて、そこでその2人はいっしょにいることをしはじめます。耳を澄まし、主からの諭しを受け取りはじめた私たちは、そこでようやく、生まれて初めてのようにして、主をいつでも自分の前に置き、主と向き合って生きる者とされます。主を自分の前に置き、主と向き合って生きる者とされて、そこでようやく主からの祝福と恵みと平安とを受け取る私たちです。このように願い求めます。「主が私たちを祝福し、あなたや私を守られるように。主がみ顔をもって私たちを照し、私たちを恵まれるように。主がみ顔を私たちに向け、それだけでなくこの私たち自身も自分の顔も心も神ご自身へと向け返し、そこで主なる神さまからの平安を贈り与えられますように」(民数記6:24-26参照)と。さて、「右」はすべての権能と力をもつ者の場所です。「救い主イエスが父なる神の右に座っておられる」と教えられてきました。父なる神から天地万物にかかわるすべて一切の権能を託されて、王としての職務を担って、父の右の座に座っておられます(マタイ11:27「すべてのことは父から私に任せられています」、同28:12「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を(御父から)授けられた」)。そのように、主こそが私の主であり王であられるかたとして傍らにいつづけてくださる。顔と顔を合わせるように相対し、向き合って初めて、そこでようやく主なる神さまと共にいることになります。

 10-11節。私たちそれぞれに、厳しく煮詰まった崖っぷちの日々があります。途方に暮れ、どんな解決策も見出せないように思える日々があります。今にも陰府に落ちようとする、自分自身の墓穴をまじまじと覗き込んでいるように思える日々が。ここで、「あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある」と、この人は深い信頼のうちに言い表しています。神さまへの信仰をもっていてもいなくても、私たちは誰でも病気にかかり、転んで怪我をし、やがていつの間にか年老いて、弱り衰え、それぞれの順番で死んでいきます。例外はありません。今まで簡単にできていたことが1つ、また1つと出来なくなり、衰えてゆく日々が来ることを。そのうえで、それでもなお、「主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう」と晴れ晴れとして胸を張っています。「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」と心は喜びにあふれます。ただ、信仰をもって生きる人間として私たちが知っていますことは、たとえ私たちが死んだ後でも、主なる神は、その私たちを忘れ去ることなく、私たちをそのまま放り捨てたままにすることは決してありえないことです。私たちの主であってくださる神は、再び私たちに新しい生命をもたらし、ご自身と共に喜ばしく生きさせてくださいます。この世界を造られた神がそれ以前から私たちを救いへと選び入れておられ、やがて終わりの日に死の川波を乗り越え、救い主イエスによる審判をへて、神の永遠の御国へと迎え入れられることになっている私たちです。そこで永遠に神さまと共に生きることになっている私たちです。これがいのちの道であり、私たちのための希望です。だからこそ彼らも私たちも、「主なる神さまの御顔を仰いで」満ち足ります。彼らも私たちも、「神の右の御手から」永遠の喜びを受け取ります。ご覧ください。死んでよみがえってくださった救い主イエスの御顔は、私たちのそれぞれの痛みと弱さと破れを知っていてくださる顔です。私たちをゆるし、憐れみの眼差しを惜しみなく注ぎかけてくださる顔です。厳しく責め立てられ、非難され、打ち叩かれるときに、私の右側に、そう弁護人の場所に立ってくださるのは、この方です。「主は右におられます」。この私に対しても、この世界に対しても、主であり、真実な王であってくださる方がおられます。ですから、今日ここに集まったこの私たちも、足を踏みしめて心強く立ちます。苦しみと悩み、痛みの只中にあっても、そこで喜びを見出します。私たちは支えられ、満たされます。なぜなら主なる神さまが、私たちを顧みつづけてくださいますので。