2020年8月21日金曜日

われ、弱くとも ♪いつくしみ深き

 

われ、弱くとも      (お試しサンプル品⑫ 讃美歌 312番)

 ♪ いつくしみ深き

 

  こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。1954年版讃美歌312番、賛美歌21493番、『いつくしみ深き』です。1954年版と賛美歌21、ほぼ同じです。よかった。150年も前から愛され、親しまれつづけてきた讃美歌ですね。びっくりです。それは素敵なメロディーとか言葉が美しいなどということを越えて、やっぱり「ああ、こういう救い主だし、こういう神さまだった」と私たちの心に刻ませるからだと思います。「慈しみ深き友なるイエス、慈しみ深き友なるイエス、慈しみ深き友なるイエス」と噛みしめ、噛みしめしています。本当に、このとおりの救い主ですね。

 さて先週読み味わいました讃美歌191番、「いとも尊き主はくだりて」の2節で「望みも1つ、業も1つ、1つの御糧ともに受けて、ひとりの神を拝み頼む」と歌っていました。それこそがキリスト教会と1人1人のクリスチャンが踏みしめて立っている土台です。ひとりの神を拝み頼んでいる私たちである。その中身と心は、父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神、1つ思いになって働く3つの神さまを拝み頼んでいるという心です。三位一体なんて難しい言葉をわざわざ使わなくたっていい。なにしろ聖書自身がこの3つの神さまを証言しています。前にも話しましたが、ぼくに教えてくれた先生は、「縦並びに並んでいる神さまだよ、金田君。先頭に父なる神さま、次その後ろに子なる神イエス・キリスト、その後ろに聖霊なる神さま。主イエスも聖霊なる神さまもとても謙遜な、へりくだった低い心をもっておられる神さまで、自分が自分がとは仰らない。主イエスは、『父は父は』ともっぱら父のことを指し示す。『父から命じられたことだけを私はする』とまで仰る。聖霊なる神さまも、『主イエスは、主イエスは』と主イエスがどういうお方なのか、何を教え、何を成し遂げてくださったのかを教え、私たちに主イエスを信じる信仰を与えてくださる。父なる神さまもまた主イエスを指し示して、『これは私の心にかなう者。これに聞きなさい』と」。このように思いを合わせ、1つ心になって働く神さまです。ですから、この312番によって、私たちがもし救い主イエスの心がよく分かり、受け止め、このお方に全幅の信頼を寄せることができるとするなら、私たちは直ちにこの1つ思いになって働かれる3つの神さまの心を分かり、受け止め、この3つの神さまに全幅の信頼を寄せることができるということになります。聖書は証言しました;「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた。いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された」、また主イエスご自身が仰います;「あなたがたが私を知っているなら、私の父をも知ることになる。今からあなたがたは父を知る。いや、すでに父を見ている。私を見た者は父を見たのだ」(ヨハネ福音書1:17-18,14:7-9)

  それでもやっぱり、「主イエスは親しみやすくて好きだけど、旧約聖書の父なる神はなんだか気難しくて怒りっぽくて近づきがたい」と言う人たちがいます。でもせっかく主イエスを好きになり、信頼を寄せはじめたのなら、「私を見た者は父を見た。私を知っているなら、父を知っていることになる」と約束してくださったこのイエスさまの言葉にも信頼しましょう。主イエスだって、けっこう厳しいことを折り折りに仰った。父なる神は昔は気難しくて怒りっぽかったけど、今は角がとれて丸くなり、優しくなった? いいえ、まさか。最初から十分に慈しみ深かったのです。主イエスが太鼓判を押すように、また聖書自身が証言するように。もし旧約時代の神さまの心が頑固に見えたのなら、それは神を信じる人間たちの心や在り方のせいでしょう。彼らの了見の狭さや頑固さを、神ご自身の頑固さだと誤解したかもしれません。預言者ヨナの物語を読んだことがありますか。神を信じて生きる私たち皆を代表して、あの彼こそ飛びっきりに心が頑固で、了見が狭くて、意固地で分からず屋でした。「悪の都ニネベに出かけていって神の怒りと裁きを告げよ」と命じられたのにヨナは逃げました。捕まって、嫌々渋々ニネベに着いて、裁きと滅びを告げて回りました。貧しい人々から王に至るまで都の人々皆が悔い改め、神さまは彼らをゆるしてやりました。ここでようやくヨナの本心が暴かれました。4:1です、「ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。彼は、主に訴えた。『ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです』。主は言われた。『お前は怒るが、それは正しいことか』。……最後の最後に主は言われました。『お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから』。ニネベの都を惜しむ理由に、ぼくは耳を疑い、ギョッとして目を見張りました。本当にそう書いてあります。「反省したし、ちゃんとした人々だから」ではなくて、「右も左も弁えない人たちなので、それで惜しまずにいられない」。なんてことだろう、こういう神さまだったのかとつくづく嬉しかった。僕もニネベの人たちと同じだ。右も左も弁えないのに、滅びるままに捨て置くことなどできないと生命を惜しんでいただいたと分かりました。長々と紹介してしまいました。だって、父なる神さまの慈しみ深さが誤解されたままだとあまりに残念なので。

 さて、慈しみ深き友なるイエス。友だちだとはっきりと約束してくださったのは、ヨハネ福音書15:12以下です。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。こう語られたことを僕はもう二度と決して忘れたくない。もちろん主人に従う僕だし、一生涯ず~っと、主イエスという先生に教わりつづける弟子なんだけど、でもその上であなたも僕も友だちにしてもらっちゃったんですよ。書いてあったとおりに、主イエスの友だちにしていただいてる理由と中身は3つです。(1)愛してもらっているし、友だちである私たちのために主イエスはご自分の命を捨ててくださったこと。(2)友だちなので、主イエスの命じる命令を私たちも行うし、行うことができるということ。(3)単なる僕ではなく友だちだという理由は、父から聞いたことを主イエスはすべてすっかり私たちに教えてくださっていること。このヨハネ福音書15章の後半部分は、「友だちだ」という言い方と少し噛み合わない、矛盾する中身を含んでいます。選んだし、任命した、私が命じることをあなたがたは行いなさいという命令。つまり、主イエスから委ねられ、任されている、なすべき仕事があるということです。へええ、クリスチャンってそういうものなんだ。主人に従う僕だし、主イエスという先生に教わりつづける弟子であり、その上で格別な友だちにもしていただいた。さらに、担うべき役割があり仕事を任せられている。12節と17節、読み上げたはじめと終わりに、「互いに愛し合いなさい」と命じられています。これが、選ばれ任命された仕事の中身です。不思議だし、とても面白いですね。こんな仕事、聞いたことがない。会社や職場の仕事や役割なんかとはだいぶん違う。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。はい、分かりました。よろしくお願いします、精一杯に務めさせていただきます。

 歌の1節の中に、1つだけ古い言葉が混じっていました。「などかは下ろさぬ、負える重荷を」。背負っている重荷をいったいどうして下ろさないんだね。はいはい、しばらくぶりでまた出てきました。例の、質問しているようでいて全然質問じゃない。その心は、「背負っている重荷を下ろせばいいじゃないか。なんでいつまでも大事そうに背負っているんだ。やめときなさい。さあ、降ろしなさい」という心です。マタイ福音書11章の末尾で、主イエス自身が勧めていました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。重荷をおろしなさいと勧めておきながら、その代わりに私の荷物を背負いなさい。その荷物はとても軽いし、そのおかげで楽~ゥに休むこともできるから。うまいこと言って騙してこき使おうとしていると思いますか。タチの悪いサギ師のペテンみたいに聞こえますか。矛盾しているし、つじつま合わないんですけれど本当のことです。ぼくも、そうしてもらった1人です。疲れはてていたし、どうしていいか分かりませんでした。背負いきれない重い荷物を背負っていました。主イエスのもとにきました。休ませていただきました。それは他のどこにもない、格別な安らぎでした。主イエスの荷物は軽くて軽くて安らかでした。うまく説明できませんけれど、本当でした。

 さて2節、3節。信頼していた友人に裏切られることはあります。家族や親兄弟からも見放される、それもあります。自分で自分にすっかり失望して、「なんてダメな自分なんだろうか」とガッカリすることもあります。多い昔に、はっきりと約束されました;「主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない」(申命記31:8)。その通りで、ず~っとそうです。主イエスが十字架前夜、ゲッセマネの園で逮捕されたとき。、弟子たち皆が主イエスを見捨てて、散り散りバラバラに逃げ去りました。けれど主イエスご自身は、その弟子たちを見捨てることも見放すこともなさいませんでした。大祭司の中庭で、ペトロの挫折を主イエスは見ていました。「ペトロは、『あなたの言うことは分からない』と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペトロを見つめられた」(ルカ福音書22:60-61)。どんな気持ちでペトロを見つめていたのか、私たち1人1人を主イエスがどう見つめてくださっているのかも、そこには書いてありません。書いていないけど、書いてある。しかも後から、それが誰の目にもはっきりと分かる時が来ます。私たちも、よくよく知っています。「慈しみ深き友なるイエスは我らの弱きを知りて憐れむ」。だからこそ、私たちは信じています。信頼を寄せ、このお独りの方の言葉に、朝も昼も晩も耳を傾けつづけます。幸いなときにも、思い煩いに飲み込まれてしまいそうな心細い日々にも。