2020年8月6日木曜日

われ、弱くとも ♪神はその独り子を

われ、弱くとも    (お試しサンプル品⑩/賛美歌21-69番)

 ♪ 神はその独り子を

 

 

  こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。賛美歌21-69番、こども讃美歌20番『神はその独り子を』です。1つだけ説明させてください。繰り返し部分で、「神はその独り子を十字架につけて、招かれる私たちすべての子供を」。神さまの独り子である救い主イエスさま。そして、神さまの子供たちとされた私たち。神さまの子供は救い主イエスただお独りだけということと、今ではたくさんの人たちが神さまの子供たちとされているし、これからもされつづけること。最初には、ただお独りの神の子がおられた。その方の十字架の死と復活によって、その方の救いの働きをとおして、今では私たちも神さまの子供たちとされた。少し回りくどい言い方なんですが、ここの所がとても大切なんです。はじめには、私たちの誰一人も神の子供たちじゃなかった。あとから、主イエスのお働きを通して神さまの子供にしていただいた(ローマ手紙8:14-16,ガラテヤ手紙4:5-7参照)僕が30歳で教会に立ち戻ってきたとき、導いてくれた牧師が祈りの心を教えてくれました。先生は、いつも同じ言葉で祈っていました。こうです、「イエス・キリストの父なる神さま。だからこそ確かに、主イエスの救いの御業を通して、私たちをあなたの子供たちとして迎え入れてくださった神さま。感謝をいたします」と。もちろん、手短にただ「神さま」とか「父よ」「主なる神」などと呼ばわってもいいのです。けれど、その心はこういうことです。独り子なる神イエス・キリスト。だからこそ、このお独りの方のおかげで、私たちもまた今では神の子供たちとしていただいた。さて、繰り返して歌われつづけるように、「神はその独り子を十字架につけて、私たちを招く」。そうでなければ、誰一人も神の子供になどしてもらえませんでした。ビックリするような出来事が起こったのです。

 まず1節。「罪のなか苦しむ主の子供たちよ、あわれみとゆるしを願おう、いま」。罪の現実がすでに小さな子供たちの生活環境をも包み込んでいて、その中で小さな子供たち自身もまた互いに誰かを苦しめたり、誰かから苦しめられたり、恐れたり恐れさせたり、恥じたり恥じ入らせたりして暮らしている。「子供は無邪気でいいわね」などと言うのは、自分が子供だったときのことをすっかり忘れてしまった老人たちだけです。子供には子供の、生き延びることの難しい手厳しい現実があります。彼らなりの悩みがあり、恐れと心細さがあります。例えば幼稚園や保育所にもすでに他の子供よりもほんの少し大きくて強いボスがいて、他の子供たちの上に力をふるい、幅を利かせ、思いのままに振舞おうともします。そういう人々との共存の仕方を問われつづけます。小中学校、高校からはじまって、大人たちの職場にさえ権力をもたされた目上の者たちが言葉や態度で暴力をふるい、弱い者たちを圧迫して苦しめるなど悪質で陰湿ないじめがあちこちに横行しているとも聞きます。了見の狭い、生きることが難しい社会の中で、私たちは暮らしています。小さな子供たちも例外ではなかったのです。さて創世記8章の末尾、ノアの大洪水のしめくくりは意外なものでした。箱舟から出て、ノアと家族と生き物たちがまっさきにしたのは神さまへの礼拝でした。そこで主は語りかけました;「人が心に思うことは幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは二度とすまい」(創世記8:21)。幼いときから悪いと言われているのは、ノアを含めた生き残りの者たち全員です。「人が心に思うことは幼いときから悪い」。きびしすぎる言い方のように聞こえるかもしれません。もちろん朝から晩まで悪いことばかり思い計っているというわけではありません。良いことも思うし、悪いことも思う。どんなに善良そうに見える人であっても、また小さな子供でさえ意地悪で自分勝手な、またむごく冷たいこともついつい心に思い浮かべてしまうということです。いずれにしても、善良で心の清らかな者たちだけが生き残った、というのではない。いいえむしろ、善良で心の十分に清らかな人間などただの1人もいません(ローマ手紙3:9-20,テモテ(1)1:15)。すっかり反省してこれからは悪いことをいっさいしませんと約束したからゆるしてもらえた、ということでもなかったのです。『悪い。けれどもゆるす』。これが、世界と神さまとの再出発でした。ぼくが教会から長いあいだ離れてまた戻ってきたとき、最初に聞いた福音の中身はルカ福音書15章の放蕩息子のたとえ話と、この創世記8章の『悪い、けれどゆるす』という大洪水後の再出発の言葉です。とても嬉しかった。悪いけれどもゆるす。そうだったのかあ。それなら、僕もここにいられる、こんな自分でもここにいていいのか、と喜びました。ノアの大洪水の出来事を、それで繰り返し読み味わってきました。その発端は創世記6章でした。主なる神さまが見渡すと、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている。神さまは地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。人だけでなく家畜も、地を這うものも、空の鳥もぬぐい去ろう。ただしノアとほんのひと握りの者たちだけを残す。それが箱舟の計画でした。だから、神さまに従って生き延びたノアたちは無垢で清らかで正しい者たちのはずでした。けれど、そうではなかった。なぜ。これが6-9章にかけて語られた大洪水の出来事の中の最大の難問でした。

 空にかけられた虹を見据えながら、神さまとすべての生き物との間に改めて救いの契約が結ばれます。これが9章の前半17節まで。その後、ノアはぶどう酒を飲みすぎて、子供たちや他の家族の前で恥ずかしい醜態をさらしてしまいます。酔いつぶれ、すっかり正体をなくし、自分の住んでいるテントの中で丸裸になって眠っていました。もしかしたら自分の吐いたゲロにまみれて。なんという恥さらしなことでしょう。面目丸つぶれです。どうしてノアがそこまで酔いつぶれてしまったのか、うっかり気がゆるんでしまったのかもしれません。とても嬉しいことがあったのか。あるいは人に言えないような、とうてい抱えきれない辛さや悩みがあったのか。ともかく彼は、いつのまにか一線をこえ、踏み超えてはならないはずの限度を超えて、とんでもない醜態をさらしています。もし世間の人がこの無様な姿を見たら何と言うでしょう。「品格に欠ける。ふさわしくない」などと騒ぎ立てるでしょう。その通りです。粗野で無作法で、見苦しく品格に欠け、ノアは正体もなく酒に溺れています。あの、正しく無垢で、神に一途に従う人のはずだったノアが(6:8-9)。それを見ることはとても辛いことです。「この部分の記事さえ無ければ良かったのに」と誰もが思います。

 けれども兄弟たち。「ノアがぶどう酒をしこたま飲んで、すっかり正体をなくし、自分の吐いたゲロにまみれて、丸裸になって酔いつぶれていた」。それは聖書の中にちゃんと記され、皆によくよく読まれる必要があります。そのことを、神さまはよくご存知です。なぜなら人間は自己を神格化し、自分自身や他の者たちを崇めたてる傾向があります。キリストの教会も、クリスチャンも例外ではありません。いいえ、教会と私たちこそ、より一層その傾向があると言わねばなりません。ごく一握りの優れた人々を取り上げて、「あの偉大で高潔で、潔癖で正しい、心の清い人たちは、元々私たちとはデキが違い、毛並みも大いに違うのだ」と。例えばアブラハム、ヤコブ、モーセ、ダビデ、ペトロ、パウロ様々は。そして、あの正しい人ノアも。とんだ赤っ恥をかかされて、しかも、それをこんな所に記録されて、ノアはガッカリしているかも知れません。「世間様に会わせる顔がない。私の面目丸つぶれだ」と。ああ良かった。ノアと私たちに神さまからの恵みがありますように だって、そうでなければ、二宮金次郎の銅像のように、うっかりしてノアの銅像が建てられてしまいます。『ノアの箱舟教会』という名前の教会が建てられてしまうのです。そこは、神に従う正しく無垢な人々の集まりになるでしょう。例えばその正しく潔癖な教会の中では、「牧師や長老たちは皆の手本にならねばならない。他のクリスチャンたちよりも、もっともっと信仰深く、熱心で高潔で、いつも人に親切にし、誰よりも思いやり深く」と、どこにもいないはずの理想像と絵空事を思い浮かべてしまうでしょう。そうではない姿を、ほんの少しでも互いの姿の中に発見すると、「ふさわしくない。なまぬるい。失格だ。落第だ。あなたには資格がない」などと互いに非難し、責め立てあいはじめるでしょう。だから危ない所でした。兄弟たち。神は生きて働いておられます。箱舟に乗り込んで大洪水を生き延びた人々はどんな人々だったでしょうか。「ついて来なさい」と主イエスから招かれ、湖に浮かぶキリストの小舟に乗りこんだのは、どんな人々だったでしょうか。無垢で、正しく潔癖な人々でしょうか。悪いことをほんの少しも心に思い計ることのない、天使のように清らか~な人々でしょうか。そして、あなた自身は?  『キリストの教会に、誰が、どのように、ふさわしいとされたでしょうか。クリスチャンとは、いったい何者でしょうか?』。このことを問いかけつづけます。自分自身や兄弟姉妹たちのふさわしくなさや、欠点や、汚れた貧しい姿を、何回、大目に見てあげたらいいでしょう。7の70(マタイ18:21-)。悔いて立ち帰るなら、その度毎にゆるして、迎え入れてあげたいのです。父さんや母さんたち、子供たちに対しても。信頼していた友人や同僚や職場の上司に対しても。彼らもまた、してはならないはずのことをしでかし、決して見せてはならないはずの醜態をさらすかも知れません。それはあり得ます。だって人間だもの。そのとき、私たちはどうしましょうか。時には、「それは悪い。間違っている」と断固として諌めなければなりません。けれどその上でゆるし、大目に見て、迎え入れ合いたいのです。なぜなら神さまは、「心に思い図ることは幼いときから悪い」と私どもを見極め、つくづくと思い知った後で、なおその私たちに対してあまりに寛大であられるから。いいえ、「幼いときから悪い」と思い知ったからこそ、その私たちを見放さずにいるためには、あまりに寛大で、徹底して忍耐深くあらねばならなかったのです。そうでなければ、契約は直ちに何度も何度も破綻しかけるはずだったし、現に、そうでありつづけました。あわれみとゆるしを願おう、と呼びかけられています。願い求め、神さまからのあわれみとゆるしを受け取り受け取りしながら生きてゆく。それが、クリスチャンの全生涯です。

 2節。「新しく生まれる約束を信じ、祈りつつ、洗礼を受けよう、今」。

 3節。「暗闇も恐れず、進み行こう、共に。罪と死に打ち勝つ主がおられる」。神はその独り子を十字架につけて、私たちを招く。そうでなければ、誰一人も神の子供になどしてもらえませんでした。ビックリするような出来事が起こりました。独り子なる神イエス・キリストの十字架の死と復活によってしか、私たち人間を神さまのもとへと招くことも、神の子供たちとしてくださることもありえませんでした。そう言えば、「新しく生まれることなんか出来るはずがない」と言い張ったおじいさんがいました。ニコデモという名前のおじいさんです。その通り、私たち人間には逆立ちしても無理でしょう。けれど神さまが、こんな私たちをさえ新しく生まれさせてくださると約束してくださった。その神さまの約束を、私たちは信じた。不安材料が山ほどある中で、けれども恐れず進んでいくことができます。罪と死に打ち勝つ主が、私たちと共におられ、私たちに先立って進んでくださるからです。「キリストの十字架の死と復活、それは私が救われて神さまの子供の1人として生きるためだった」と受け止め、信じた者たちが洗礼を受けて、クリスチャンとされます。また聖餐式のパンと杯を受け取って飲み食いする度毎に、同じく、「キリストの十字架の死と復活、それは私が救われて神さまの子供として生きるためだった。本当にそうだ」と受け止め、噛みしめつづけます。

 

 

       《これからの放送予定》

       われ弱くとも⑪ 812日 ♪主の食卓を囲み

       ⑫ 819日 ♪いつくしみ深き

       ⑬   26日 ♪おどり出る姿で

       ⑭ 9 2日 ♪わが身の望みは 

       ⑮   9日 ♪キリストには代えられません

       ⑯   16日 ♪祈ってごらんよ分かるから

       ⑰   23日 ♪安かれ、わが心よ

       ⑱   30日 ♪主はわが飼い主(最終回)

       

       107日より、『嘆きに応える神の御言』が再開されます。