2015年9月28日月曜日

9/27こども説教「だれが1番えらいか病」マタイ20:20-28

 9/27 こども説教 マタイ福音書 20:20-28            
 『だれが1番えらいか病』        牧師 かねだせいじ


20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。26 あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、27 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。28 それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。
(マタイ福音書 20:25-28)

  (* この箇所の最も大きな課題は、主イエスの発言や思いと弟子たちの思いとがまったく噛み合っていない点にある。17-19節で主イエスは3度目の受難予告をし、末尾の28節でも「生命を与えるために自分は来た」と念を押す。けれど弟子たちは聞き流して、自分たちの栄光や権威や支配力にばかり執着しつづける。弟子たちは『権威者のイス』を求め、主イエスは『身を屈めて仕える者』であれと促す。主のご命令とはまったく正反対な在り方を渇望しつづけ、しかも主イエスの受難のときが刻々と迫る。すべてのキリスト教会と個々のクリスチャンの今日的・「崖っぷち」的な課題でもある。「何が望みか」と主は、この私たちにも問いかける。では私たち自身は、何と答えようか?)

 「そのとき」(20)と始まります。え、どのとき? 主イエスが3度目の受難と復活の予告をなさった、まさに「そのとき、2人の弟子とその母親が主イエスの前に進み出る。「何が望みか」と主から問われ、母親が代表してこう答えました。「王さまのイスにお座りになるとき、この2人の息子の1人をあなたの右に、もう1人は左に座れると仰ってください」。この申し出は、弟子たちの中に大きな波風を呼び起こします。皆、カンカンに腹を立て、大騒ぎ。主イエスの言葉に耳を傾けましょう。25-28節。「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子(=主イエスご自身のこと)が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように』」。「あなたがたの中ではそうであってはならない」。主イエスは誰に向かって仰っているでしょう。主イエスの弟子たちに。すべてのキリストの教会に。そして、ここにいるこの私たちに対してです。わざわざそう仰るのは、そうなりやすいからであり、現にしばしば教会の中で、神を信じるクリスチャン同士の間で、支配したりされたり、権力を振ったり振るわれたり、振り回したり回されたりし合っているからです。せっかく受け取った恵みが、その度毎に台無しにされるからです。
『だれが1番えらいだろう』という病気をご存知でしょうか。ずいぶん長い間、この極めて恐ろしい病気は、雑草のように世界中に伸び広がり、私たち人間を苦しめつづけてきました。多くの人々がこの病気にかかり、深い悩みの中に置き去りにされています。「つまらない役に立たない人間だ」と周囲の人々から思われるんじゃないかと、彼らはいつも不安です。だから必死で背伸びをし、見栄を張り、体裁を取り繕いつづけます。心当たりがありますか? 
聖書は、只1つの治療法を提案しつづけます。《神の憐みを受け取る》という提案です。神さまがどんなに気前の良い神さまであり、あの救い主が私たちのために何を成し遂げてくださったのかを、思い起こすこと。救い主イエスがこの世界に降りて来られ、十字架について殺され復活なさったのは、「罪人を救うため」(テモテ(1)1:15)でした。罪人を救うため。どの程度の罪人を、でしょうか。善良な人や高潔で誠実で清らかな人々を救うことなら、あまりに簡単でした。罪人を救うとしても、ほどほどの罪人やそこそこの罪人を救うことなら、まだたやすいことでした。けれども、極めつけの罪人をさえ救う必要があったのです。例えば、ソドムとゴモラの人々よりも罪深い。どうしようもないニネベの人々よりももっと弁えていない。罪人の中の罪人を、その飛びっきりの頭であり最たる罪人たちをさえ、ぜひとも救い出したいと神さまは願ってくださった。あまりに生臭い、人間のことばかり思い煩い、自分の腹の思いの奴隷に成り下がりつづける、惨めな惨めな罪人たち。けれどその彼らは憐れみを受けました。キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた。ただそのためだけに来られました(創世記18:16-33,ヨナ書4:11,ローマ手紙7:13-8:11,テモテ手紙(1)1:15-16を参照)
では、憐れみを受けて救われた彼らとは、いったいどこの誰のことでしょう。誰と誰と誰のことでしょうか。……おめでとう、恵まれた方々。あなたも私も、主なる神さまから憐れみをいただきました。力ある方が、こんな私たちにさえ、偉大なことをなさりつづけています(ルカ1:28-55参照)。朝も昼も晩も。なんという恵み、なんという幸いでしょうか。
 ◎とりなしの祈り

 イエス・キリストの父なる神さま、だからこそ確かに私たちの本当の父になってくださり、主イエスをとおして私たちをあなたの本当の子供たちとして迎え入れ、養い、支え、守りとおしてくださる神さま。心から感謝をいたします。あなたを信じる信仰をますます私たちに与えてください。あなたの御心を思い、あなたの御言葉にますます聴き従って生きる私たちとならせてください。
  神さま。国と国のケンカを戦争というそうです。国と国も、大人同士も、夫婦も親子も、子供同士でも、外国の人とも誰とでも、ケンカをしないでいさせてください。「他の人からやっつけられないように、先に自分から相手をやっつけるんだ。誰かからいじめられないように、自分から誰かをいじめたり、そのいじめの仲間入りをしちゃおう」という私たち自身の言い訳や、なま狡い考えを乗り越えさせてください。自分たちさえよければそれでいいんだという自分勝手な理屈を、私たちにも自分の心の中から払い除けさせてください。神さま、この国の総理大臣や政府与党とすべての政治家に、そして親であり大人でもある私たちにも、何か良いことか悪いことかを見極める適切な判断力と、弁えと慎みとを与えてください。神さま。自衛隊員が誰一人も戦争とお金儲けの道具にされず、戦争が起こっている危ない場所に出かけていって人を殺したり殺されたりもせず、彼らもその家族も安心して安全に暮らせるようにさせてください。「職業訓練生」「研修生」などと呼ばれながら、アジア諸国から働きにきている貧しい隣人たちが粗末に不当に扱われつづけています。彼らが権利と人権を奪い取られないように、どうか守ってください。外国から出稼ぎに来ている労働者とその家族の心細い生活をお支えください。福祉施設や介護施設で働く人たちに、そこを利用する人たちの人権と人格を重んじる健全な判断力と公正さを増し加えてください。慈しみ深さと友愛の心を持ち続けさせてください。ですから神さま。まず、この私たちに勇気と優しい心を与えてください。戦争やケンカをはじめようとする人たちに、私たちも、大きな声で「やめて」と言うことができますように。やめて、やめて、やめてと何度でも何度でもずっと諦めないで、その人たちに、そして自分自身の心にも立ち向かう勇気と辛抱強さを与えてください。困っている人や、貧乏な人や、心や体を弱らせている人たちや、心細く暮らす人たちに、それが日本人でも外国の人たちでも、手を差し伸べる私たちにならせてください。
 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン。