2015年10月7日水曜日

10/4「夫婦であること。離婚問題」マタイ19:1-8,コリント(1)7:12-16

                                         みことば/2015,10,4(主日礼拝)  27
◎礼拝説教 マタイ福音書 19:1-8,コリント手紙(1) 7:12-16   日本キリスト教会 上田教会
『夫婦であること。離婚問題』   

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

19:3 さてパリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして言った、「何かの理由で、夫がその妻を出すのは、さしつかえないでしょうか」。4 イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、5 そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。6 彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。7 彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか」。8 イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。       (マタイ福音書 19:3-8)


 今日は結婚問題の全体像と、また律法と福音についてお話しします。結婚問題については、創世記2章とこの二箇所がもっとも大切です。まずマタイ福音書19:3-8。パリサイ人たちが近づいてきて、主イエスを試みようとして話しかけてきました。「何かの理由で、夫がその妻と離婚してもいいでしょうか。あるいは、何か不都合がありますか」。主イエスは創世記2章を引用して、こう答えました。「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか。つまり、離縁状さえ出せば離婚しても構わないという意味でしょう。ね?」。イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった」。要点は、互いに相反する二重の真実です;「結婚は、なにしろ神さまがその2人を結び合わせてくださった。だから離婚してはいけない。それは罪を犯すことになる。けれどその罪深さも許される。なぜなら、あなたも私も誰もが皆あまりに心がかたくなで頑固なので」。以上です。心が痛みます。例えば一人の伝道者が妻と離婚した場合、その教会を辞職しなければなりませんか。いいえ、必ずしもそうではありません。それは辞職の理由づけには出来ません。聖書のどこにもそんなことは一言も書いてありません。もし、その伝道者がその教会を去らねばならなかったのだとしたら、伝道者とその群れの人々との互いの信頼関係が崩れ去ったからです。伝道者だけではなく、長老・執事など何かの役職についている者たちだけではなく、洗礼を受けている私たちすべてのクリスチャンにとって 聴いて信じてきた信仰の内容と現実の普段の自分自身の暮らしぶりとは、大いに関係があります。もし何の関係もないなら、その信仰は虚しく、ただ口先だけの中身のない信仰です。そうであるなら、その伝道者やその一人のクリスチャンの口から出る美しく格調高い言葉や態度を、いったい誰が信頼できるでしょう。できるはずがありません。また例えば教会員の子供たちや他の人々が、皆に祝福されて教会で結婚式をあげたとします。しばらくして離婚してしまった場合、その彼らのほとんどはその教会から遠ざかります。結婚生活に失敗してしまった自分自身を恥じるからですし、神さまにも世間様にもおテントウさまにも顔向けできないと感じるからです。それは、信仰の道理を十分には伝えられなかったせいですし、おもには教育をする教会と伝道者の責任です。まったく申し訳ないことです。それで、遅ればせながら、こういうことを語りつづけています。結婚生活に失敗して離婚してしまったから恥ずかしいし顔向けできないと、どこに書いてあるんですか。聖書には一言も書いてありません。けれど私たち人間の頭の中には書いてあり、世間でそう習い覚えてきたらしいのです。ぼくは実は、結婚に一度失敗してやがて再婚した、バツイチの離婚経験者です。自慢することではないが隠すことでもない。公けの場でもすでに白状していますし(日本FEBC、ラジオ番組『愚直な道。マルコ福音書』第2回,第25回参照)、妻にも息子たちも打ち明けてあります。それに対しても聖書自身は、神さまの同じ一つの御心を語ります;「結婚は、なにしろ神さまがその2人を結び合わせてくださった。だから離婚してはいけない。それは罪を犯すことになる。けれどその罪深さも許される。なぜなら、あなたも私も誰もが皆あまりに心がかたくなで頑固なので」。これだけは初めにはっきりと断言しておきます。結婚に失敗して別れてしまった元夫も元妻も、その子供たちもクリスチャンであろうがそうでなくたって、世間様にも神さまに対しても、どこの誰に対してもそれを恥じる必要はまったくありません。本当ですよ。だって誰もが皆、心があまりに頑固なので。その大失敗をもゆるされている私たちです。自慢することではないが、恥ずかしがったり、取り繕って隠すことでもない。ぼくは、そう思います。
 では質問。クリスチャンという人種は誠実で純粋なんですか。あなた自身は? この私は? 右の頬を打たれたら、さあどうぞどうぞと左の頬を(マタイ5:39)ニコニコして差し出す? そんなクリスチャン、ぼくは1人も見たことがありません。「正しい人は1人もいない。誠実で純粋で素敵な人も1人もいない」って聖書にははっきり書いてあったじゃないですか。「神おひとりのほかに誠実で純粋で素敵な人間などどこにもいない」って救い主ご自身もはっきりと仰っていたじゃないですか(ローマ手紙3:9-,マルコ福音書10:17,創世記8:21,申命記7:6-,9:4-7参照)。騙されてはいけません。聖書をそっちのけにして、好き勝手なたわごとを並べ立ててはいけません。人に見せようとして、格調高く美しく感動的にご立派そうに祈ってはいけません。そうでなければ、あの律法学者やパリサイ派の人たちのように、私たちも偽善者と呼ばれて、人一倍きびしい裁きを受けるでしょう。うわべを白く塗り固めた虚しい墓穴に成り下がってしまうでしょう(マタイ223:1-参照)。誰1人の例外もなく、私たちは決して聖人君子ではありません。しかもなお、ここがとても難しいところですが「いいんだ、いいんだ。罪深くて弱くて身勝手なあなただけれど、そのままで愛している。だから、死ぬまでず~っと罪深くて弱くて身勝手なままでいいんだからね」というわけでもない。しかも神からの律法は神の御心であり、福音そのものでもあります。なぜなら、もし私たちが「神を愛し、隣人を自分自身のように愛し、尊ぶこと」ができるようになるなら、そのように生きて死ぬこともできるならば、それにまさる幸いと祝福はないからです。けれどなお、その律法の要求はあまりに高くて、もし本気で聴くなら、誰独りもそれを守れないはずで、律法こそが私たちの罪深さを逃れようもなく突きつけました (10:17-31,ルカ18:9-14,ヨハネ手紙(1)1:8-10)『クリスチャン、キリストの教会。罪人の集団にすぎない』;それを、よくよく分かっている必要があります。罪をゆるされた罪人として私たちは生きるのですし、ゆるされた後でもなお罪深いままです。けれどどうしたわけか、2種類の両極端の、とんでもない誤解がキリストの福音を歪ませつづけています。1つは、「いいんだいいんだ罪深いままで」と罪の中になお留まりつづけようとする誤解。もう1つは、素敵な理想像を教会とクリスチャンに無理矢理にあてはめようとする誤解。しかも両方共が、聖書と神さまご自身をそっちのけにしています。
  もう1つのこと。クリスチャンと、クリスチャンではない夫や妻、子供たちとの関わりについても話しましょう。自分の息子や娘がクリスチャンではない相手と結婚すると言い出すとき、何と答えることができるでしょう? 「ダメ」と答える。あるいは、「いいよいいよ、あなたの好きにしなさい」と。申命記7章と、コリント手紙(1)7:12-16とが、互いに相反する正反対の真理を私たちに告げています。1つの真理は、「それはかなり危ない。その結婚相手に引っ張られて、息子や娘の心もあり方も神さまから離れ、神さまを忘れ果てて、神さまと何の関わりもない人間として生きることになる、かも知れない。危ない罠が待ち構えている」と。これが申命記7章の警告。もう1つの正反対の真理は、「いいやチャンスだ。それによって、神さまの恵みと祝福とがその連れ合いや子供たちにまで及ぶ、かも知れない」。コリント手紙(1)7:12を開きましょう。12-14節までと、15-16節と大きく2つの部分から成り立っています。まず14節まで;そのほかの人々に言う。これを言うのは、主ではなく、わたしである。ある兄弟に不信者の妻があり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。また、ある婦人の夫が不信者であり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。なぜなら、不信者の夫は妻によってきよめられており、また、不信者の妻も夫によってきよめられているからである。もしそうでなければ、あなたがたの子は汚れていることになるが、実際はきよいではないか」。『清められている。きよい』。新共同訳では『聖なる者』と表記していました;「きよい。きよめられている」。あるいは聖なる日とか、聖なる場所、聖なる人、聖なる書物、聖なる道具など。神さま以外の人間や時や場所や道具について『聖なる~』と言い表すとき、それ自体が清らかで汚れがなくて純粋でなどという意味はそこに含まれません。ただ、神さまのものとされて、神さまの御用のために用いられる、という意味です。またクリスチャンが『聖なる者。聖徒たち』などとも呼ばれますが、同じことで、聖人君子みたいな、天使みたいななどとは決して思い浮かべてはいけません。そんな人は1人もいません(ローマ手紙3:9-参照)。ここでは、少し広く、『神さまの恵みの領域に据え置かれている』という意味で聖なる者と語られます。もし仮に、あなたの連れ合いも子供たちも孫も神さまに見向きもしなくたって、「礼拝にいっしょに行ってみない?」と誘っても、プイと横を向くばかりだとしても、なおその人々は神さまの恵みとゆるしの領域にすでに据え置かれている。どうして? なぜなら、そこに信者である1人の人がいるので。神さまを信じて生きる1人のあなたが その人たちの傍らで暮らしているので、だからと。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)。牢獄の看守が聞いた約束を私たちも聞きました。私たちも信じています。これが、私たちの責任であり、私たちのための祝福であり、たしかな希望でありつづけます。けれども15-16節。直ちにつづけて、まったく裏腹な真実が語られます。「しかし、もし不信者の方が離れて行くのなら、離れるままにしておくがよい。兄弟も姉妹も、こうした場合には、束縛されてはいない。神は、あなたがたを平和に暮させるために、召されたのである。なぜなら、妻よ、あなたが夫を救いうるかどうか、どうしてわかるか。また、夫よ、あなたも妻を救いうるかどうか、どうしてわかるか」。妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。どんな気持ちがしますか。あなたには、これが薄情なように、冷淡に突き放しているように聞こえますか? どうして分かるのか、分かるはずがない。その通り。互いに、あまりに頑固な心を抱えている私たちです。だから、どうしてもダメなとき、どうしても心を通わせることができなくなって、ただただ嘆いたり悲しんだり、相手を傷つけたり傷つけられたりするばかりとなるとき、あなたは心安く手離すことがゆるされています。本当ですよ。そのことも、ちゃんと覚えていてください。ですから、この箇所とマタイ福音書19章とはまるで双子の兄弟のようです。私たち人間のあまりに頑固な心と性根を見据えて、同じ1つのゆるしが語られています。このコリント手紙(1)7章の12-14節までだけじゃなく、15-16節も合わせて語られて、それでようやく、かろうじて律法と福音のバランスが保たれています。福音書で、「心がかたくなで、あまりに頑固なので」と語られたのとまったく同じに(創世記8:24参照)

罪をゆるす神さまです。根深く抱え持った頑固な心も性分も、日毎にゆるされつづけて生きるほかない私たちです。しかもなお、罪のゆるしは罪からの解放です。「いいよいいいよ。どうでもいいよ」と放ったらかしにされることではありません。また正反対に、ただうわべばかりを取り繕いつづけて後から「偽善者よ」ときびしく叱られることでもありません。1日また1日と、古い罪の自分と死に別れて、身勝手さも了見の狭さもズルさも臆病さも葬り去っていただいて、神さまに向かって、神さまの御前で新しい生命に生きる私たちです。「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである(コリント手紙(2)5:18-21していただいたように、私たちもします。多く愛されてきたので、私たちも多く愛したいと願っています。ゆるしがたいところをなおゆるされ続けてきましたから、だから私たちもゆるします。罪の責任を問うことなく、罪の責任を問うことなくと、朝も昼も晩も口ずさみながら。神さまにも人様に対しても申し訳なく思い、たびたび心に痛みを覚えながら。喜んだり悲しんだりもしながら。祈りましょう。


(*)コリント手紙(1)7章の「これを言うのは主ではなく私である」(12節)は大問題発言であり、同時に、聖書の読み方の根源をはっきりと示唆する。むしろ、この7章全体をとおして主の弟子パウロは、「語っているのは主なのか、あるいは私の個人的な考えに過ぎないのか」と揺らぎ続け、判断を迷いつづける。だから混乱しながら、「私ではなく、主が命令している」「そうではなく私が私の個人的な意見を言っているに過ぎない」「私としては~」「主の命令を受けているのではなく、主の信任を受けている者として(私の)意見を述べよう」(6,10,12,17,25-26,29,40)などと。ほとんど破綻しかけながら、神様によって用いられた報告者パウロは揺らぎ続け、迷いつづけます。生身の人間の口と脳ミソを用いながらも、それをピョンと飛び越えて『聖書は神の言葉である』という実質は、このとおりです。語っているその時点では、当の本人には、それが神の御心を適切に言い表しているのか、あるいは、ただ自分の個人的意見を好き勝手に述べているのかがはっきりとは分からない。けれど、後から、後の時代の他の信仰者からはよく分かる。「教会会議で聖書正典を選んだ」とは、そういう状況です。「パウロの口と脳ミソを用いて、けれども神ご自身が判断し、神ご自身が語った」と当時の教会会議メンバーは判断しました。神の霊が、それを教会会議メンバーにさせたのです。「これを言うのは主ではなく私である」(12節)とその時のパウロ自身は慎みながら、自分の分際を弁えながら怖れながら、判断しました。けれど、その、極めて人間的な判断を遥かに、軽々と飛び越えて、神ご自身が神の御心を語っています。ビックリです。

     もう一つ、「もし情欲を自制できないなら、じゃあ仕方ないから結婚してもいい」とか、「私のように独身でいるほうが、本当は好ましい」などと語るとき、彼はいつも遠慮がちに慎み深く語らざるを得ない。なぜか? 聖書をよくよく熟読し、聖書自身から教えられてきた信仰者だからです。まるで創世記2章の後半部分を一度も読んだことのない者のように、「結婚なんて」などと偉そうに軽々しく語れるはずがない。彼の個人的な洞察や判断よりも、創世記 2:15-25「神が結び合わせてくださったものを、人は引き離してはならない」に示された神の御心のほうが千倍も万倍も真実であると、彼自身がよくよく知っているからです。その決定的な真実さを痛感しながら、だからこそパウロは別の相反する視点を、慎みながら、恐る恐る、小声で 述べます。それでもなお、大問題発言の連続であるコリント手紙(1) 7章もまた、神の御心をあらわし、神の言葉そのものであるとして、『聖書正典』の中に選ばれました。神ご自身が選びました。マタイ福音書19章と同じく、互いに相反する二つの真理をもって、このように神さまが私たちに語りかけます。この、コリント手紙(1)7章の12-14節と15-16節も、まったく同様です。     (金田聖治)