2015年10月12日月曜日

10/11こども説教「主人と、その家のしもべたち」マタイ24:45-51

 10/11 ◎こども版 マタイ福音書 24:45-51                   
 『主人と、その家のしもべたち』

24:45 主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。46 主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。47 よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。48 もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、49 その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、50 その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、51 彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。            
(マタイ福音書 45-51

()「家のしもべたちだけを残して、その家の主人が出かけていった。しもべたちの中に『皆のためのお世話係』を立てて。やがてその主人が帰ってくる」というたとえ話です。何のために、こういうたとえ話を主イエスが語っているのか。この24章の最初のほうから眺めていくと、分かりやすいです。主イエスに弟子たちは質問をしていました;「あなたがまた帰ってこられるとき、世の終わりにはどういうことが起こるでしょうか?」(24:3)と。45節からのたとえ話の直前に、「人の子(=主イエスご自身のこと)が思いがけないときに来る」(44)と仰り、すぐにまた、「家の主人は思いがけないときに帰ってくる」(50)と。つまり、「やがて帰ってくる家の主人」は主イエスのことだったんですね。
 (**)とくには、コロサイ手紙3:18-4:1。「あなたがたにも天に主人がいますことが分かっているでしょ」と。他にも、コリント手紙(1)4:1-2,マタイ20:25-28など。けれど気に入らなかったし不都合なので、長い長い間、読み飛ばし、読まなかったことにし続けました。


  創世記1章の後半部分を読んだとき、ほとんどの人間たちは、大人も子供もみな大喜びに喜びました。とくに「魚も鳥も獣も、すべての生き物を治めさせよう。地を従わせよ。すべて、あなたがたにあげちゃう。治めよ、治めよ、従わせよ」ってところ。わあい、やったア。これで私たちがこの世界全部の王様で、支配者だ。思い通りに何でも好きなようにしていいんだってさあ。実は、人間は聖書を読む前からそう思っていました。自分たちこそが王様だって。他の者たちよりほんの少し賢くて、少し強くて大きな者こそが他の、自分たちより小さくて弱い者たちを言いなりに従わせ、支配し、好きなようにしていいんだと。でも大間違いでした。聖書はもちろん創世記1章の1ページとちょっとだけじゃなく、2000ページちかくあって「違うよ、違うよ。大間違いだよ」とあちこちにはっきりと書いてありましたけれど(**)、気に入った素敵なところをもう読んでしまったので、他のところは読みませんでした。長い長い時間が過ぎて、その間、私たち人間はずいぶん悪いことをしつづけました。好き勝手にふるまい、他の者たちを言いなりに従わせ、好きなように思い通りにしつづけました。けれど、「治めよ。従わせよ」という本当の意味は、いま読んだところに書いてありました。誰が読んでもよく分かるように、はっきりと書いてありました。
  地球がまるごと全部入るくらいの、大きな大きな一軒の家がありました。その家のご主人さまは神さまです。その大きな家には、全部の人間と、全部の鳥と魚と動物と昆虫とぜんぶの生き物が住んでいます。みんなの世話をする係が必要だったので、神さまが私たち人間を、みんなの『お世話係』にしました。朝昼晩と、3時のおやつと、時間通りに皆に食べ物をちゃんと公平に配ること。誰かがズルして独り占めしたり、ほかの誰かの食べ物を奪い取ったりしないように気を配って、誰も困ったり嫌な思いをしたり悲しんだりしないように気を配って。誰かが悪いことをしたり、ケンカをしたり誰かをいじめるとき、「悪いことだから止めなさいね」と注意したりさせるために。とても大きな家なので、お世話係はたくさんいます。中にはご主人のいいつけを守って、みんなの世話をちゃんとする良いお世話係もいるし、意地悪で自分勝手で乱暴でわがままで狡い、とても悪いお世話係もいるらしいです。
 本当はね、最初はみ~んな、良いお世話係でした。でも、あるお世話係たちはだんだん悪くなっていきました。どうしてでしょう? ご主人さまのことを忘れてしまったからです。主人なんか、この家に最初からいなかったし、自分たちこそがこの家の主人だとうっかり思い込んでしまった世話係たちもいます。ずっと昔にはいたらしいけど、主人はもう二度とこの家に帰ってこない。だから自分たちで好き勝手に、したいようにしていいんだと、ズルして食べ物を独り占めしたり、ほかの誰かの食べ物を奪い取ったり、誰かを困らせたり嫌な思いをさせたり悲しませたりしても、心は少しも痛くなりませんでした。困りましたね。では質問。神さまによって立てられた『お世話係』は誰だ? この家にいる全員です。大人も子供も年寄りも皆。この家だけじゃなく、世界中の人間たち皆です。家の主人はもうすぐ帰ってくるのか、もうしばらく帰ってこないのか、よく分かりません。じゃあ、どうしたらいいでしょう? よく考えましょう。だって、あなたも私も、天のご主人さまから立てていただいた「お世話係」の一人なんですから。



 とりなしの祈り

  イエス・キリストの父なる神さま、だからこそ確かに私たちの本当の父になってくださり、主イエスをとおして私たちをあなたの本当の子供たちとして迎え入れ、養い、支え、守りとおしてくださる神さま。心から感謝をいたします。あなたを信じる信仰をますます私たちに与えてください。あなたの御心を思い、あなたの御言葉にますます聴き従って生きる私たちとならせてください。
  神さま。国と国のケンカを戦争というそうです。国と国も、大人同士も、夫婦も親子も、子供同士でも、外国の人とも誰とでも、ケンカをしないでいさせてください。「他の人からやっつけられないように、先に自分から相手をやっつけるんだ。誰かからいじめられないように、自分から誰かをいじめたり、そのいじめの仲間入りをしちゃおう」という私たち自身の言い訳や、なま狡い考えを乗り越えさせてください。自分たちさえよければそれでいいんだという自分勝手な理屈を、私たちにも自分の心の中から払い除けさせてください。シリアで恐ろしい戦争が起こっています。神さま、どうか助けてください。あなたの力強い御手を今こそ差し伸べてください。シリア、チュニジア、ソマリアだけではなく、アフリカのあちこちで、今なお戦争や内乱やきびしい争いの火種がくすぶりつづけています 恐ろしい戦場から命懸けで逃げてきた人たちが新しい土地で暖かく迎え入れられ、家族の平和をもう一度取り戻すことができますように。世界中のみんなが、そのかわいそうな人々を迎え入れ、助ける、心やさしさを持つことができますように。私たちの国も、彼らのための手助けを後回しにしないで、自分たちのことと同じだけ大切に真剣に、何をすべきか何ができるかと立ち止まって、よくよく考えることができますように。私たちの国の中でも、大人も子供も、強い豊かなものが弱い貧しいものをいじめたり、のけものにしたり、困らせたり苦しめたりしませんように。ですから神さま。まず、この私たちに勇気と優しい心を与えてください。戦争やケンカをはじめようとする人たちに、私たちも、大きな声で「やめて」と言うことができますように。やめて、やめて、やめてと何度でも何度でもずっと諦めないで、その人たちに、そして自分自身の心にも立ち向かう勇気と辛抱強さを与えてください。困っている人や、貧乏な人や、心や体を弱らせている人たちや、心細く暮らす人たちに、相手が日本人でも外国の人たちでも、同じ真心をもって手を差し伸べる私たちにならせてください。
 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン。