10/18 こども説教 マタイ25:14-30
『どんな主人なのかを、
すっかり誤解していたから』
ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり……。 (マタイ25:24-25)
どうぞ聴いてください。
主イエスが弟子たちに大切なことを教えようとして、たとえ話で語り出しています。たとえ話を読むコツを覚えていますね。何が何をたとえているのかを頭に収めながら読むのです。では、旅に出ようとしてしもべたちに自分の財産を預けた主人は、だれのこと? 神さまですね。このしもべたちは、特には私たち人間です。だれもがこの主人から、主人のものである財産を預かっています。「よろしく頼みますよ」と預けられました。3人のしもべたちがそれぞれ5タラント、2タラント、1タラントずつ預けられました。やがて帰ってきた主人が「わずかなもの。わずかなもの」(21,23節)と仰るので、「なんだ。少しなのか」と早合点してしまいそうになります。本当は、3人ともとても沢山の財産を預けられたのです。5タラントは、普通の人がだいたい100年働いて稼ぐだけの労働賃金。2タラントは40年分、1タラントでさえ6000日の、つまり20年分の労働賃金です。一番少なく預けられた人でさえ、あまりにたくさんすぎる財産。ね、ビックリです。
ほかのしもべたちは預けられた多くの財産を使って、それぞれ忠実に真面目に働いて誉められました。「良い忠実なしもべよ、よくやった。一緒に喜んでくれ」(21,23節)と。けれど1タラント預けられたしもべは、その財産を土の中に隠しておいて、後でひどく叱られ、とうとう追い出されてしまいます。かわいそうですね。どうしてこんなかわいそうなことになってしまったのか、あのしもべはどうして主人の財産を土の中に隠したのか。その理由こそが、この箇所で一番大切です。主人がそのしもべを、「悪い、なまけもののしもべよ」と叱りました。ここも早合点してしまいやすい所です。よく読むと、怠け者だったから失敗した、わけではないことが分かります。悪いしもべの言い分によく耳を澄ませましょう。24-25節「一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』」。これで、すっかり分かりました。どうして、このかわいそうなしもべが失敗してしまったのか。主人のもとにずっといたくせに、どんなご主人さまなのかを全然知らなかったのです。「まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることをよく知っていました。そこで、意地悪で残酷で冷たくて、思いやりも親切心もないひどい主人から何をされるか分からないと思ったら、もう恐ろしくて恐ろしくて」ですって。すっかり勘違いしていました。なんてかわいそうな、愚かなしもべでしょうか。ああ、可愛そうだ可愛そうだ。ここでようやく、「他の忠実な良いしもべたち」の、どこがどう良かったのかも、はっきりと分かります。「良い忠実なしもべよ、よくやった。うれしい、一緒に喜ぼう」。何が、どう嬉しいのか。5タラント儲けたとか、2タラント儲けたから、だから誉められたのではありません。じゃあ仮に5タラント儲けたいと願いながら1タラントしか利益が無かったとしたら。儲けるどころか、たまたま大雨浸水被害で店舗が水浸し、商品もダメになって90000000兆円の大赤字だったら、主人はどんな顔で、なんと仰るか? もちろん、「良い忠実なしもべよ、よくやった。うれしい、一緒に喜ぼう」。大金持ちのご主人にとって、それら100000億万円だとか、2000000000兆円だかの利益などハシタ金であり、儲けても損しても痛くも痒くもない。というか儲けた損したとか、役に立つとか、あまり役に立たないなどとケチ臭いことを考えている主人じゃないのです。隠れたことを見極め、人の心の奥底を見通す主人です。主人の喜びは儲けや損の大小と何の関係もなかったのです。分かりますか? どんな心で主人の財産を使うのか、どういう心で主人に仕えて働くのか、それを見て喜んだり悲しんだりなさっています。こんなに沢山を委ねて信頼してくださったのかと喜び、主人に感謝して、精一杯に働いたのかどうか。ポイントは、その一点です。また、莫大な資金や土地建物などの財産が主人の目には『わずか』と見えるなら、次に預けようと申し出られた多くの財産(21,23節)は何? 天国への門のカギであり、主人の子にしていただくことであり、子としての祝福と幸いです。それをあずけて、「人間を獲る漁師」に加えてくださることです。恵みの中へ1人、2人と捕まえた。そしたら、「良い忠実なしもべよ、よくやった。うれしい、一緒に喜ぼう」。しもべの粗末な姿や行いや不親切さや主人への不忠実を見て、5、6人とあみの外へと逃げていったら主人は悲しむでしょう。いいえ、それでも精一杯でなお失敗して20人30人とそのしもべのいたらなさ、ふつつかさから網の外へ逃げていってもなお、主人は悲しい顔をするだけで厳しくは叱らないかも。いいえ、ご主人さま、申し訳ありません。「良い忠実なしもべよ」と喜んでいただきたくて精一杯に働いていますが、たびたび大失敗を繰り返して主人の財産を減らしています、このぼく自身は。
皆が皆、この主人から、主人のものである沢山の財産を預けられているといいましたよ。じゃあ、あなたは、ご主人が帰ってくるとき、大丈夫ですか。どんな主人なのかを、ちゃんと教えていただいて、よくよく覚えていますか? どんな主人なのかをちゃんと覚えているか、いないのかが、決定的な分かれ道です。ちゃんと覚えていさえすれば、それだけで救われます。間違った嘘を教える人もいるらしいです。誰かが、あなたの耳元で、「恐ろしいわよ! 知ってる。あのご主人さまって、まかない所から刈り、散らさない所から集める、意地悪で残酷で冷たくて、親切心のないひどい主人なんだから」とウソ情報を伝えてきても、決して騙されてはいけません。やさしいやさしい、とても親切なご主人さまだって、あなたも! よくよく知ってるでしょ(ヨナ4:2,出34:8参照)。そしたら安心して、楽~ゥな気持ちで、主人から預かったたくさんの財産を使って、精一杯に働いてもいいのです。
◎とりなしの祈り
イエス・キリストの父なる神さま、だからこそ確かに私たちの本当の父になってくださり、主イエスをとおして私たちをあなたの本当の子供たちとして迎え入れ、養い、支え、守りとおしてくださる神さま。心から感謝をいたします。あなたを信じる信仰をますます私たちに与えてください。あなたの御心を思い、あなたの御言葉にますます聴き従って生きる私たちとならせてください。
神さま。国と国のケンカを戦争というそうです。国と国も、大人同士も、夫婦も親子も、子供同士でも、外国の人とも誰とでも、ケンカをしないでいさせてください。シリアで恐ろしい戦争が起こっています。神さま、どうか助けてください。あなたの力強い御手を今こそ差し伸べてください。シリア、チュニジア、ソマリアだけではなく、アフリカのあちこちで、今なお戦争や内乱やきびしい争いの火種がくすぶりつづけています! 恐ろしい戦場から命懸けで逃げてきた人たちが新しい土地で暖かく迎え入れられ、家族の平和をもう一度取り戻すことができますように。世界中のみんなが、そのかわいそうな人々を迎え入れ、助ける、心やさしさを持つことができますように。私たちの国も、彼らのための手助けを後回しにしないで、自分たちのことと同じだけ大切に真剣に、何をすべきか何ができるかと立ち止まって、よくよく考えることができますように。私たちの国の中でも、大人も子供も、強い豊かなものが弱い貧しいものをいじめたり、のけものにしたり、便利にただ利用されたり、困らせたり苦しめたりしませんように。沖縄の人々もそうです。福島から避難して遠くの土地で暮らす人々もそうです。原子力発電所事故がまだまだ全然収束していないのに、そこで仕方なしに暮らす大人や子供たちもそうです。あちこちの原発の町で暮らす人々も、そこで使い捨てのようにされて働く労働者たちもそうです。日本で邪魔者扱いされ、片隅へ片隅へと押しのけられながら心細く暮らす外国人たちとその家族もそうです。職業訓練生、研修生と呼ばれて、この国で安く働かされている外国人たちも。なんということでしょうか。ですから神さま。まず、この私たちに勇気と優しい心を与えてください。戦争やケンカをはじめようとする人たちに、気に入らない都合の悪い誰かを踏みつぶそうとする人たちに、この私たちも、大きな声で「やめて」と言うことができますように。困っている人や、貧乏な人や、心や体を弱らせている人たちや、心細く暮らす人たちに、相手が日本人でも外国の人たちでも、同じ真心をもって手を差し伸べる私たちにならせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン。
付録/詩 126篇を読み味わう
「主の恵みを実感し、味わい、感謝し、
だからこそ! なお願い求め、待ち望む」
詩 126篇 都もうでの歌
126:1 主がシオンの繁栄を回復されたとき、
われらは夢みる者のようであった。
2 その時われらの口は笑いで満たされ、
われらの舌は喜びの声で満たされた。
その時「主は彼らのために大いなる事をなされた」と
言った者が、もろもろの国民の中にあった。
3 主はわれらのために大いなる事をなされたので、
われらは喜んだ。
4 主よ、どうか、われらの繁栄を、
ネゲブの川のように回復してください。
5 涙をもって種まく者は、
喜びの声をもって刈り取る。
6 種を携え、涙を流して出て行く者は、
束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。
1-3節と4-6節という2つの部分から、この祈りは成り立っている。
1-3節は「すでに成し遂げられた救い=回復」を受け取って、その喜びと感謝をしみじみと味わっている。それなのに4-6節では、「主よ、救ってください。回復してください」と苦境の中で待ち望んでいる。表面的には、また理屈としても、矛盾するしチグハグだ。どういうことだろうか。受け取ったはずの回復はどこへ消えてしまったのか。回復は偽りだったのか、まさか。立ち止まって、よくよく熟慮しなければならない点である。私が信頼を寄せる注解者(カルヴァン「詩篇注解」該当箇所)は、「たぶん、バビロン捕囚からの帰還直後に書かれただろう」と推測し、1節を「主がシオンの民を連れ帰られたとき」と思い切って翻訳した。この推測に同意したい。
「回復(=救済)された」(1節)。しかもなお、「回復してください」(4節)。バビロン捕囚からの帰還は驚くべき大きな恵みの御業だった。十二分な恵みである。しかもなお、故郷に帰り着いてから、なお何十年も彼らは悩みと辛さの中で苦闘しつづける。なぜなら、都も家々も城壁も神殿さえ徹底して打ち壊された瓦礫の中であり、そこから再建作業が始まってゆくからだ。「故郷に連れ帰っていただいたことは確かに大きな十分な恵みだったが、なお、すっかり完全に回復されたわけではない」。旧約聖書の民は、神さまの大きな恵みの御業を2度体験した。エジプト脱出と、バビロン捕囚からの帰還と。奴隷にされていた国エジプトからようやく導き出されるまでが大変だった。けれど、その後の荒野の40年の旅も、カナンの地に住み着くまでも、その後も、悩みと辛さの中での苦闘はなおつづく。教会の歩みも、私たちそれぞれの信仰の生涯もまったく同様ですね。段階的な恵みであり、折々の救いであり、その恵みと救いの全体を十二分に味わい尽くすのは、死の川波を乗り越えて永遠の御国に辿り着いてからである。しかもなお、差し出され受け取ってきたそれぞれの「段階的な恵み」「折々の救い」は本当であり、大きな十二分の恵みだった。神さまご自身の御業への驚きが積み重ねられてきた。だからこそなお苦境がつづくとしても、神の民は、慰められ、希望を与えられながら、心強く忍耐することができる。恵みと救いを受け取り、味わい、感謝を魂に刻んだ者たちは、その感謝を土台として、さらに忍耐し、神さまに信頼を寄せ、聴き従い、願い求め、救いと恵みを受け取りつづけて、必ずきっと御国へと辿りつく。
1節「夢見る者のよう」;私たち人間には邪さがあり、鈍さや愚かさのために、なかなか神の恵みを受け取れない。しかもなお神さまの卓越した大きな恵みが、そのような私たちをさえ圧倒する。「ひとりびとりは、神の比ぶべくもない恩愛を把握するには程遠く、これを考えるだけでも、われわれは驚愕の念で食い尽くされるのである。まるでそれは夢であって、すでに起こったことではないかのごとく」(カルヴァン、前掲書)。差し出された恵み、自分自身のための神の大きな御業に圧倒され、深く驚いている。驚きの連続であり、だからこそ、その信仰者は神に信頼を寄せ、感謝し、聴き従い、願い求めつつ生きる者とされていく。「あなたや私が」ではなく! 神さまご自身こそが、それを成し遂げてくださる(ヨシュア記24:14-27,ヨハネ14:14,同21:15-19,ローマ手紙8:1-11,同12:1-2,ピリピ手紙1:6,マタイ19:23-26参照)。
2節「口は笑いで、舌は喜びで」;5-6節の、涙と痛みの中で「回復させてください。救ってください」という願いと共に、これが祈りであり、神を讃美する現実である。讃美歌の本質と生命は、音楽であることを豊かに高く超え出て、ここにある。音楽でもある。しかも、それらの心は、圧倒的に断固として「祈り」である。
2-3節「もろもろの民の中に」;神をよく知らない、まだはっきりと神を信じてはいないはずの異邦人たちの中にさえ、「主の大いなる御業を認め、讚美して誉めたたえ、目を凝らす者たち」が起こされる。すでに神さまを信じて生きてきた私たちのためにも、憐れみをもって、神さまが同じことをしてくださるだろう。「遠い国からくる異邦人が。すべての異邦人が。すべての民が。あなたの大いなる名と、強い手と、伸べた腕とについて聞き及ぶからです」(列王記上8:41-43)、「この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに」(使徒2:38-40,「もろもろの民」イザヤ60:3)。
5-6節;「涙をもって種まく者は~」。彼らにとっても、この私共にとっても、これは「過ぎ去った過去のこと」であり、同時に確かに、「現在」「未来のこと」でもある。「完全な回復はいまだに彼らの肉眼には明らかでないとしても、しかも長い待望から生ずる悩みを和らげる。さらに現在においては、種は涙によって湿っているとしても、刈入れは喜ばしいであろうと確言する」「現下の悲しみに歓喜が続くようになるために、神の約束された結果を生き生きと見据えることを学ぼうではないか。神は信仰者たちの目から涙を拭い取られるだけでなく、量るべからざる歓喜をもって、彼らの心を飽き足らせられるであろうという預言が、すべての信仰者に関わりのあることを、われらは知るのである」(カルヴァン、前掲書)。
「種をまく人」「刈入れをし、収穫の束を携え帰ってくる人」と語りだされた途端、聖書66巻全体を貫く連続して一貫したメッセージ(創世記2:4-18,詩1:1-3,同126:5-6,イザヤ61:3,マルコ4:26-29,ルカ13:6-9,マタイ13:1-23,ヨハネ12:23-26,同15:1-17,ローマ手紙11:17-24,同12:4-5,コリント手紙(1)3:6-9,同6:14-15,同(2)9:8-11)と、私たちは直面させられている。つまり、神ご自身こそが「種まく人」であり、だからこそ「土を耕し守る人」であることと。ただ種をまいて、蒔きっぱなしに放置なさる神ならば、涙は不要であろう。喜びの叫びも、そこには無い。実を結ばせたいという熱情があり、切なる願いがあって種をまいたなら、その方は土地を耕し守らざるを得ない。種をまき、土地を耕し守るお方の労苦と切なる願いと涙がもしなければ、この世界は草一本生えない、不毛の、荒涼とした荒地でありつづけたはずだった。けれど農夫である神さまご自身の涙があり、労苦と忍耐があり、それゆえついに喜びの叫びがある。これが聖書全体の主題である。その上で、私たちは「種をまかれる土地」とされ、やがて同時に、「種をまき、土地を耕し守る人々」ともされた。
神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。
「彼は貧しい人たちに散らして与えた。その義は永遠に続くであろう」
と書いてあるとおりである。種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである。(コリント手紙(2)9:8-11)
「貧しい人たちに散らして種とパンとを与えた彼」「涙をもって種をまく人」とは何者か? 第一に決定的には、救い主イエス・キリストである。私たちこそが「散らして与えられた貧しい人たち」であり、「種をまかれた土地」であり、例外なく、どの土地も皆が! 「道ばた」「土の薄い石地」「いばらの土地」だった(マタイ13:1-23参照)。しかも涙と切なる願いをもって種をまいてくださったお独りの方が、ただ種をまいただけでなく、目を凝らし心を砕いて世話をしつづけ、水や肥料を与え、雑草をむしり、着々と「良い肥えた土地」へと至らせてくださる。それゆえに、私たちもまたなおまだまだ「道ばた」「土の薄い石地」「いばらの土地」であり、たびたび荒地へと逆戻りさえするとしてもなお! 私たち自身も同時に「種まく人たち」とされた。福音の種を。慈しみと憐れみとゆるしの種を。感謝の種を。それは実を結ぶ。良い実を結ばないはずはない。とすると、やがて着々と結ぶはずの「義の実」の中身は「義の~」と言いながらも、「慈しみと憐れみとゆるしの実。感謝の実」である他はない。それ以外には、これらの土地からはどんな収穫もありえない。神さまご自身こそが! 成し遂げてくださる。ならば、「この私のためにもぜひ」と願い、成し遂げていただこうではないか。
ああ、本当に。神は私共にあらゆる恵みを豊かに与え、私共を常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたである。「彼イエス・キリストは貧しい私共に散らして与えた。その義は永遠に続くであろう」と書いてあるとおりに。種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの『慈しみと憐れみとゆるしの実。感謝の実』を増して下さる。こうして、私共はすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至る。私共も、ついに神さまへの感謝と従順に至らせていただける。以上。 (2015,10,18 婦人会例会 金田)